{物から名前が奪われた時、人はどのように物を見るのだろうか。座禅というのはことばを

拒否した世界を直感でつかもうとする試みともいえまいか。まさに、

その時 空華の世界が現れてくるといえましょう。ただ、下記の文章は小説です

ので 、空華の正しい意味が知りたい方は 目次の「空華の言葉の意味」のところを

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名前が消える時

「全くの空想なんだが僕は時々こういうことを考えるんだよ。今の科学で明らかにされている素粒子の奥にあるクォ−クという物資の極小の粒子ね。あれなんだがあの奥にも何かある気がするんだな。科学者のいうサブクォ−クなんていうものじゃなくて、ほとんど想像を絶するような大宇宙がこの極微小のクォ−クの中にしまい込まれていて、人間がもしもこの世界を見ようと思うならば、地球を破壊するような莫大なエネルギ−を必要とすることで結局は人間に認識不可能なんだな。だが、そういう世界が確実にあるということを僕はある数式によって証明できると思うんだ。

その数式は実に複雑でいてしかもある単純な美しさに輝いているんだ。僕は数学にも物理学にも素人的な興味と知識しかないから、こうした無鉄砲な空想を許してもらえると思っているわけだが。物質の究極の最小の単位に天文学が発見したような一千億の銀河系宇宙がしまい込まれ、そして太陽系や地球に似た惑星があり、その地上に今の我々のような人生があると想像したら。こんな奇想天外な空想は僕を楽しませてくれる。僕は弁護士で、あまりにもわずらわしい法律上のもめごとにかかわることが多いから、せめてこうした空想を僕に許してくれる暇を与えてくれた僕の才能に感謝しているのさ。僕は実に暇な弁護士だからね。暇であることは実に良いことだ。詩も小説も書ける。」

青星文彦はここまで言うとにたりと笑って口をとじた。そして目の前にいる黄色い三毛猫を白いハンカチでじゃらした。彼の哲学的会話は猫に対してなされたのだつた。

三毛猫の前に飲みかけの紅茶がある。窓の外では五月の雨がしずかな音をたてて降っている。

「バラが美しいなあ。おいミ−子。あの燃えるようなバラを見てみろ。」

ミ−子と言われた猫は青星の手にあるハンカチに両手を交互に出して、じゃれている。

青星文彦は一風 変わった弁護士である。法律事務所の看板をかかげているがその事務所に顔を出すことを避け、裁判とかかわりあうことをきらつている。そして、自宅で小説や詩を書いて過ごしている。彼はちょうど登校拒否の生徒のように本来の業務の法律関係の仕事にたずさわることがこわいのである。元来、彼は争いごとは嫌いであり、気も弱く、自己の主張を堂々と法廷で述べ立てるなどということは嫌悪の対象なのだ。

彼はいずれ 弁護士稼業をやめ 法律を中心におこる人間のドラマを小説にして文士としての道を歩もうと思っていた。その彼がある日、雨の降りかかる五月のバラを窓の外に見ながら、ミ−子と言われる三毛猫を相手に哲学的会話にふけっていた。極微の世界の中に大宇宙があるというイメ−ジは彼を満足させた。

窓の外のバラの花弁一枚にも数億の宇宙がしまい込まれているのだという空想は実に楽しかった。しかし、その次に彼の頭の中に飛び込んできた考えは奇妙なものであり、哲学から彼を美学にひきずりこんでいくようであつた。ミクロの世界にマクロの宇宙を見るという発想から確かに彼はまわりの物をちがった風に見ることができるようになった。

窓の外のバラの花も目の前の紅茶も以前とはちがった感しで燃えるような美しさに輝いていた。世の中の風物はすべて、ある神秘的な美を持っているのだが今までそれを忘れていたのだ。なぜ忘れてしまうのだろうか。庭のパラは美しいが、昔、聖書にうたわれた野のゆりのような深い感動を人にあたえることが少なくなったのではなかろうか。今までの自分がそうであったような気がする。

哲学的に物質のすばらしい深ざについて思索することにより初めて、昔の新鮮な目をとりもどすことができることを知ったわけだが、逆に言うと、そうした思索をしないとまわりの平凡な風景は興味をひかない醜さとうつり 美を喪失してしまうのだ。まわりをコンクリートジャングルに取り囲まれたこの小さな庭の中でバラは、かつての美を喪失してしまったのではなかろうかという疑間である。もしそうだとするならば昔も今もパラはバラであるはずなのに、なぜそのような具合になるのであろうかと青星弁護士は考えを進めた。バラが昔の花としての美を失なってしまったのは、そのバラという言葉の中に含まれている中途半端な科学性によって美を喪失してしまったのではなかろうか。つまり人がバラを見る時、真実のパラを見ないでパラという言葉でバラを見てしまう。

バラという言葉は人の脳の中である勝手なイメージをつくりあげて、そのイメージで庭のバラを見る。昔のようにバラのイメージがゆたかな時は、それでもバラの本当の美を見ることができたかもしれないが、今は言葉そのものが機能性とニヒリズムに汚され、バラという言葉も昔のイメージのゆたかさを失ない、ひからびた物質的なパラに堕落してしまっているoだからこそ現代人は忙しい日常生活の中に流され、きたなく冷たいそして貧困な言葉の汚れた海の中で道具としての物しか見ることができなくなってしまっている。そこでと青星文彦は思った。

ひからびた言棄を破壊し、新しい美のィメージを持った言棄に再生させる必要があるのではないか。それにはどうしたら良いか。バラという言葉を使うのをやめれば良い。バラという言葉を使わず庭のバラの花の美のイメージを頭に浮かべさすことのできるように、たくさんの言葉を使い詩的雰囲気でもって、バラを再構成するのである。青星は思った。私が今後、裁判や企業での法活動の中であらわす文書や会話の中で既成の名詞を破壊し、つまり花なら花という言葉を便わず、花を表現し、花のィメージを再構成するということをする。確かにこのようにすれば機能的に動いている社会においては反社会的行動と思われかねない。しかし、このことこそ現代文明に対する人間性の回復であると彼は考えたわけだ。そのように決心してから青星弁護士は、再び事務所にひんばんに顔を出すようにした。名詞を破壊して、新しい美を再創造しようという彼のドンキホーテにも似た野心は、実際生活の上で実験的におこなわれるべきだと考えたからである。人間の権利は徐々に向上している。日照権、嫌煙権。しかし、彼はここで名詞の破壊権という権利を主張しようと思い立ち、自分の独創性に内心、得意であった。もちろん、これは社会に受けいれにくい概念であることは彼にもわかっていた。しかし彼はあまりにも詩人であったがゆえに現実と創作の世界を混同するような精神状態に落ち入っていた。どうしても彼はこの名詞の破壊権を実生活の上で主張し、その社会の反応をためしたかったし、日本という機能化された文明に美しいショックを与え、日本ルネッサンスを夢みるようになっていた。

彼はその日本ルネッサンスの論客として、世間に登場する自分を心の中に描いた。彼は法律事務所で客を待った。この仕事は、客が来て実際に法律上の争いを持ちこんで、こなくては始まることはできない。彼は患者のこないやぶ医者のように法律事務所の机の上で、詩を書きながら過ごしていた。辞書をひろげ、名詞をノートに書きうつし、その名詞を破壊し、別の色々な言葉でその名詞を再構成する。そうした暇でなければ、できないような遊びに似た詩的作業を彼は何日も法律事務所の机の上でやっていた。何件かお客はあったが名詞の破壊権を主張できるような事件ではなかった。そうしたある晴れた日、一人の中年の男がたずねてきた。その中年の男は見おぽえのある顔である。

「いやあ、青星君。弁護士稼業はどうだね。忙しいかい?」

青星の大学時代の先輩である白石茂忠である。大手の電気会社の総務部長をしている。青星はこの先輩の顔を見た時、自分の名詞の破壊権を主張する初仕事をこの中年の男が持ってきたことを直感した。大学を卒業してから彼に会ったのはこれで二度自でしかない。以前、会ったのは青星が司法試験に合格して研修生として法律の勉強をしている時だった。その時も、白石の方からたずねて来て、ある種の法律問題を相談して帰っていったのだ。白石は以前より大分やせた感じがした。

「やせましたね。会社の方は忙しそうですね。」

青星は白石の忙しいかという挨拶には答えず自分の方からその質問を相手に投げかけた。

「うん。忙しくてね。総務部長ともなると貴任が重い上に労働は若い者の数倍やらなくちゃいけない立場だからね。」

白石が総務部長に出世したということは、最近、届いた彼の挨拶状で青星は知っている。青星は白石が何の用事でここをたずねてきたのか、はやく知りたい衝動でいっばいになった。

「今日は何か大事な用件でもあっていらしたのですか?」

「そう、君の弁護士としての力量を借りに来たのさ」

白石はちょっと皮肉な笑いを浮かべた。白石と青星は大学の柔道部で先輩、後輩の仲だったから、白石は青星の性格の概略をつかんでいる。こんなに気の弱い神経質なやつがよくも柔道部に入りそして又、弁護士になったものだと内心、思っているのではなかろうかと青星は疑っていた。青星は神経質な人間にありがちな被害妄想の気が少々あったが、理性でそれを打ち消すように努めていた。

「どんな事件ですか。」

「これは今まであまり例のない法律間題なので頭を悩ましているわげだが、つまり島田商事との契約文書に奇妙なことが書いてあってね。その契約文書でないとわが社のコンピュータ−導入に同意はできないというのだ。島田商事のコンビューター導入は五千方円程度の商談だから、わが社としてはけっても良いのだがやはりこの世界は商売。お客様は大事にしなければということで、よわっているわけよ。」

「どんな契約内客なんですか?」

「つまりね。契約の支章の中に詩が書かれているんだ。それが奇妙な詩でね」

青星はびっくりした。白分が名詞の破壊権として世に出ようとしていることをすでにやっている経営者がいるのだと思うとうれしくもあり、同時に白分をこされたというくやしさも手伝っていた。と同時に青星の頭の中に自分の短編を読んでそれをまねたのではないかという疑問がわいてきた。彼は小説家としてはまだ名が出ていないが、自費出版である大手の本屋の店頭に出してもらっている。この名詞の破壊権についてはすでに短編にして自費出版してある。この本を読まなければ契約書の中に詩を書くなどという非現実的な馬鹿げた行為を経営者が思いつき、実行するわけはないと思った。

「どんな詩ですか?」

白石は青星の裏ポケットに手をいれて封筒を出し、その中から一枚の紙切れを出した。

「見たまえ」

白石は厳しい目で青星を見つめた。青星は、心臓がドキドキして、ある種の興蓄が彼をおそっていた。契約書には法律的用語が長々とつづられたあと最後にこんな風な詩が書かれていた。

人間の脳をまねしたコンピューター

わが社が購入する花の機械

五千万円はするという

故障はないだろう

性能はいいだろう

ソフトなアイスクリームのように

とけてこそ商売繁盛

こんな風に書かれてあったので青星は読んで思わず、笑ってしまったo

「これが契約書ですか?」

彼は自分がやろうとしていたことを先にやられた腹だたしさと実際に詩句を法律用語のうずめられた契約書の中に見い出すと、妙なおかしさがわいてくるのだった。

「そうだ。全く気ちがいじみているだろ。何の意味かさっばりわからん。第一、最後のソフトはアイスクリームのようにとけてこそと書かれてあるのは無気味だ。これはどういう意味だ。島田商事の社長に問いあわせても、それはただの詩だからたいした意味はないというのだが。しかし契約書だからね。あとでこういう意味だったと言われては大変、困まるわけだ。このソフトはコンピューターのソフトをさしていると考えてみれば、案外ソフトの独創性を横流ししても良いという風にもとれる。もしそういう契約なら値段が変わって、今の五千方よりもずうっと高くしなければならんのだ。こういうあいまいな詩句を契約書の中にいれる経営者というのは狂人じみているのだが、相手は大切なお客。そう馬鹿にした態度もとれない。何か良い知恵はないものかと思っていたら、弁護士で趣味に小説や詩を自費出版している君のような男を思い浮かべたわけさ。青星君なら良い知恵を拝借できるかなと思ってね」

「私のような者を思い出していただいて、大変光栄です。ついでに言いますと、その契約書を書いた島田商事の社長はおそらく私の自費出版した小説を読んだのではないかと」

「ほお。君の小説と今度の契約書と何か関係でもあるというのかね」

「ええ、読んでいただければわかるのですが。題名は名詞の破壊権というのです」

「名詞の破壊権だって? 妙な題名の小説だね」

青星は、白石に小説の内客をこまかに説明した。

「ふうむ。なるほど。ありうることだ。あの島田商事の礼長は文学好きだということは前から聞いていた。全くありうることだ。しかし君も妙な小説を書いてくれるね。まさか島田社長のように君も弁護士の世界で、そんな馬鹿げた行動をおこそうというのではなかろうね。そうなると全くドンキホーテだよ。現実の実務の中にそんな夢みたいな話を持ちこんでくれば狂人と思われてもしかたあるまいね。そりゃ、言葉の美を復活させたいという気持はわからないではないが、それは詩や小説という立派な芸術のジャンルがあるのだから、その中でやればいいことよ」

「確かに、その通りです。でもそんな風に常識的にやっていては、日本ルネッサンスの旗手にはなれませんな」

「なんだい。その日本ルネッサンスというのは?」

「私が提案しているのですけどイタリアのルネッサンスのように、日本にもルネッサンス運動をおこし、芸術国としての日本を創造していこうというわけですよ」

「全く、途方もないことを考える男だね。君という男は」

「まあ、だまって、聞いてくだざいよ。先輩のように、なんでも常識で世の中を渡ろうという精神ではすぐれた文化なんて生まれないですよ。私も弁護士で法律を勉強し、実務も経験していますから、このひからびた魂のぬけがらのような世界、ただ機能性と法律条文の解釈のみが支配する世界、というものを知っています。知っているからこそ、この灰色の世界にバラの花を送りこんでやろうという野心を持っているわけです。確かにこうした事は、経済性を無視した詩人のたわごとのように思われるかもしれませんが。実生活の中にこうした美しい混乱を持ち込むことの中にこそ日本ルネッサンスの曙の誕生を告げる鐘の音が間こえるんですよ」

「君の話は、芸術論としてはおもしろいが、実務社会では自昼夢だな」

「そりゃ、百も承知です」

「まあ、君の夢は、夢としていいから、この島田商事の一件はどんな風に君だったら対応するかね」

「島田社長が詩がお好きなら、こちらでも詩を書いてあげれば良いじゃないですか?それが文化というものですよ」

「なるほど。商売の世界に詩か」

白石茂思は軽く笑った。

「じゃ、君の方で契約書をつくってくれんか?」

「よろしいですよ。私が島田社長の意向にあうように、美しい詩句のいりましった契約書をつくりましょう」

「いつ、できる?」

「明日、そちらに郵送しますよ。今晩、つくりますから」

白石茂忠は、安堵したような表情をして青星の法律事務所を出た。青星弁護士はそれから契約書づくりを始めた。彼にとってもこのような契約書づくりは初めてだった。島田社長がすでにつくった契約書に彼は日田電気を代表して法律的解釈の許せる詩句を書いた。

ソフトな乙女の肌は

月光のように輝いている

かく美しきものは

すべて太陽のものなり

太陽とは日輪の田園に咲く

ソフトな花

恋する山の上の農夫よ

わが恋の契約にサインせよ

日田電気と島田商事の契約書にふさわしいようにニつの会社を恋人どうしととらえ、コンピューターソフトについて著作権法違反をしてはならないということを言ったつもりだった。

青星はこの契約書を翌日、速達で日田電気の白石営業部長あてに送った。それから二週間ほどしたある雨模様の十月の午後、青星の事務所に白石から電話が入った。

「おお、青星君か。この問の契約書ありがとう。すぺてうまくいきそうだ。相手の島田社長も喜んでね。まあ、大事なお客だから私としても、大変うれしいよ。君にはいずれ、今回のお礼は充分にするつもりだ。ところでその島田社長なんだがね。あの契約青を大変喜んで、あの詩句を書いた人間を教えてくれというので君のことを言ったら、やはり君の自費出版した小説を読んでいるんだな。ぜひ君に会いたいから紹介してくれというのだ。どうだい。会ってやってくれないか。まあ、君の好きなその日本ルネッサンスとやらを、島田社長の前で一席ぶってやれば、彼、大変喜ぶだろう。どうだい。君も暇とは思わんがそのくらいの時間はあるだろう。」

青星は承諾した。その日の夕方、あるレストランで三人は会うことになった。島田社長は島田商事の二代目で坊っちゃん育ちという感じのする若い社長だった。青星は三十八だが島田社長はそれより五才ぐらい若い感じがした。色が自く太っていて、にこやかな笑顔とやさしい目が印象的だった。白石が青星と島田社長を紹介すると島田はうれしそうに微笑して言った。

「先生の小説、読ましていただきました。丸山書店の自費出版コーナーで先生の御本を発見しましてね。夢中で読みました。実におもしろい。先生は弁護士だそうですけど、あれだけお書きになれるなら小説家になった方が良いんしゃないかと思いますね。自費出版なんてお金がもったいないですよ。私が出版社を紹介しますから、ぜひ、本格的に出版なさってください」

青星は自分の小説が高く評価されたことが大変うれしかった。三人の話ははずんだ。青星が熱をおびて日本ルネッサンスの話をすると島田は傾聴していた。白石も島田社長という大切なお客がいるので青星と島田のドンキホーテ的夢物語に調子を合わせていた。

「いや、先生、今日は実にすばらしい話をうかがいました。どうです。私の会社の顧間弁護士をやっていただけませんか。報酬はもう最高級にはずみますが、いかがでしょう。その先生の名詞の破壊権というのはぜひ主張してみたらいかがです。私は社運をかけても応援しますよ」

こんな風に言う島田社長を白石はやはり二代目の坊っちゃんなどと心の中で思わないわけにいかなかった。三人とも酒に酔って、その足でキャバレーに行った。独身の青星は久しぶりに女の香をかいで、いい気分に酩酊した。

キャバレーで島田と青星は顧間弁護士としての報酬などの契約書を作成した。意気投合した二人のことだから、白石のような実務家から見ると法律文書というより、まるで散文詩のように思える契約書をつくって満足の笑いをたてていた。女達もおもしろがってその契約書をながめた。

法律の大きな庭にバラを咲かそう

月の光に照らされて、会社と弁護士の恋の物語

雨のように降る黄金の光にぬれて

二人はとわの契約を結ぶ

名詞の破壊を主張して

傷つき、神を見つめる二人の剣士の友情

文芸の波よ、来たれ

六法全書をすべて詩句に書きかえて

実務の中で芸術をささやこう

酔った二人も女達もそれを読んでおかしく笑ったが、白石はさっばりおもしろくなかった。こんなことで笑える彼らはどうかしているのではないかとひややかな気持でいたが、表面は軽い徴笑をたたえてウイスキーをゆっくり味わっていた。このように愉快に過ごした晩は青星文彦にとっても久しぶりのことだった。二人はこのようにして知りあい、それからというものは実に親しくつきあうようになった。島田社長は土曜日には青星弁護士を自宅に招待し、奥さんの手料理でもてなした。島田がヴァイオリンをひき、奥さんが歌をうたう。青星は詩を朗読する。こんな風にして二人のつきあいは芸術を媒介として深まっていった。会社の顧間弁護士としての仕事はほとんどが契約書の作成とか法律相談がおもだった。契約書も大部分はまじめな法律文害で書く場合がほとんどだった。しかし、たまに、わがままが許せる相手になると島田社長は例の詩句をいれるように青星に要求した。青星もすすんでそうしたい方だったから島田の要求は心よく引き受けた。しかし名詞の破壊という実験を実務的におこなうチャンスはなかなかおとずれなかった。青星は忍耐づよく待った。しかし青星よりも島田の方がしびれをきらし、ある商売で名詞の破壊権を主張するように青星に勧告した。

「青星さん。今度は不動産を大量に買おうと思うのだ。安く買って高く売る。いい商売だろ」

島田社長は信州の町にかなり広い士地を購入し、別荘地にして売りに出そうという計画を青星に言った。

「二億の資金で士地を買おうと思う。それで、あのあたりの土地は田川不動産が持っている。君はあそこに行って不動産売貰の契約をしてくれないか。あそこの田川の社長は私の学生時代の友人でよく知っている仲だ。あいつなら、名詞の破壊権なんていう途方もないことを埋解できる。一つやってみな。君にまかせるよ。」

青星は島田に言われたように契約書からは、ほど遠い散文詩を持って信州に行った。田川不動産の社長はその契約書を見て最初、怪訝な顔をしていたが急に笑い出した。

「島田君らしいよ。実におもしろい。まるで散文詩だな。まあ、あまり意味がよくわからんが実に美しい感じがするね。私も詩を書くから、このすぱらしざがよくわかるよ。弁護士さん。あなたの才能はすばらしいものですな。法律に詳しくしかもこんな詩が書けるとは、まあ私と島田君という仲の契約ですから。こうして文芸的な遊びも許されるでしょう。このくらいのことがなくちゃ、人生、おもしろくないですよな」

青星と田川との間で信州の広い土地を二億円の値段で売買が決まった。そうして、何ケ月がたち、この士地に別荘をたてるために島田が建設業者を決め、その業者が信州の土地を下検分したあと島田に妙な報告が入った。あの土地は、本当に島田商事のものなのですかという信州からの電話だ。二億円、田川不動産に支払ったあとだから、まず間違いはあるまいと思って電話の主に登記を確認するように言った。ところがその当日、同じ電話の相手からそんな登記などされていないし、あの土地は古川不動産のものになっているという話を開いた。島田社長は真っ青になり、田川に直接、電話をいれた。田川はひややかな調子で、そんな契約などしたおぽえはないという。度肝を抜かれた島田は少々、怒気を強めて、二億円ちゃんと君の所に振り込んだだろうと言った。

「それは別の不動産でしょう。確かにそういう契約ならした」と田川は言って別の小さな土地を教えた。まさかそんな小さな土地は五千万円にもならない。一億五千方円の損失だ。島田は電話を切ったあと青星を自宅に呼んだ。島田は田川に裏切られ、青星に対しても信じられないような感情になっていた。

「君は弁護士として、田川不動産ときちんとした契約をしてきたのか?」

島田は事情を説明し、いつにない厳しい調子で青星を問い詰めた。

「私は、ただあなたのおっしやったように名詞の破壊権を主張するということで契約害を散文詩でつづりましたけど。その時は田川さんも大変、喜んでおられ、絶対に信頼された形で契約が進められたと思ったのですが」

「馬鹿馬鹿しい。名詞の破壊権だって。君は正気かい。一億五千方円の損失なんだぞ。どうしてくれるんだ」

青星は、怒りのため震えている島田をただ唖然として眺めていた。

{了}

音風祐介