東儀祐二先生のおもいで

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いまだに、その功績を讃え、早世を惜しむ声がつきない東儀祐二先生。 先生にゆかりの皆さんはどんな感慨をお持ちなのでしょうか。 この機会に「祐二先生のおもいで」というテーマでご寄稿を戴きました。 数々のエピソードを、貴重なお写真なども交えながらご紹介します。
*お名前の五十音順でご紹介しています。所属などは取材当時のものです。


音楽には真摯に、演奏は誠心誠意

青砥 華 大阪芸術大学教授
青砥華

 私は相愛学園に26年間(子供の音楽教室幼稚科から高校音楽科、大学、そして卒業後オーケストラ要員、音楽教室講師として勤務を含めて)在籍していました。この私にとって相愛での年月は、そのまま東儀先生にご指導頂いた年月です。本当に私を、音楽家へと一から導き育てて頂きました。

 まず最初は、音楽教室の幼稚科への入室試験で審査を担当して頂きました。後に母から聞いた話ですが、試験の時、私の演奏がエンドレスになってしまい、東儀先生が「もう、いいよ」と優しく言って下さったそうです。その後東儀先生には、専らオーケストラを通してご指導頂きました。小学校4年のとき、初めてB組に参加しました(当時はまだA組、B組しかありませんでした)。先生の熱血指導振りは、例えば自分のパートが弾けていないと「出て行け!」とか「帰れ!」とか厳しいものでした。そのお陰(?)で、何はおいても先ずはオーケストラという生活がこの時スタートしました。 音楽教室時代は週1回、高校からは週2日でA、B、C級の練習と、夏には合宿。また演奏旅行も数多く経験しました。合宿や演奏旅行では練習以外の時間、厳しい先生から一転、私達、子供達、学生達と一緒に食事をし、いつも笑顔で接して下さいました。

 一方、先生ご自身、非常に熱心にオーケストラの指揮に取り組んでおられました。斎藤秀雄先生に指導を仰がれるのを拝見し、先生のその真摯な姿勢に感銘を受けたのを今でも覚えています。斎藤先生が、「演奏は誠心誠意を持って」とおっしゃいましたが、東儀先生はそれを身をもって示して下さいました。

 先生のご指導があって、今日まで様々なオーケストラで演奏してくることができました。今後は先生が示されたことを、私自身が次に続く人達に伝えていきたいと思います。私にとって、オーケストラ即ち東儀先生です。ここに改めて心より御礼申し上げます。
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わがまちの音楽文化の育ての親

岩谷悠子
岩谷悠子

 私は桐朋高校卒業後、ジュリアード音楽院に留学し、アメリカに12年住んだ後、結婚を機に帰国し、奈良県天理市に住むことになりました。このまちには天理教本部があり、いろいろな文化活動をしていましたが、そのなかの音楽研究会で東儀先生が指導されていました。私もそこで新米の先生となり、東儀先生のもとで教えさせて頂くことになりました。先生にお目にかかるのは初めてでしたが、とても優しい頼もしい紳士に思えました。でも、子供達は震え上がっていたようでした。

 運命というのは不思議なもので、私の父は東京交響楽団でチェロを弾いており、まだ少年時代の祐二先生のヴァイオリンを聴きに、東儀家に招待されたことがあったそうです。多忠昭さん他オーケストラのメンバー何人かでお邪魔したのですが、あまりにも立派なお屋敷だったので吃驚したとか。父は、天理で私が先生と親しくさせて頂けることになったのを大層喜び、「あの東儀さんという人は、本当に気立てが真直ぐな良い人だから、困ったことがあったら何でも相談するといいよ」と言っていました。

 先生は千里から天理までいつも車でレッスンに来られ、帰りは元弟子の先生お二人、五十嵐由紀子さんと岡本智妙子さんを送って行かれました。レッスンの後は皆で食事を戴きながら、生徒の指導法についていろいろ教えて頂けるのが楽しみでした。一生懸命教えてもイマイチ上手に弾いてくれない時など、使う教材もいろいろ変えることを教えて下さり、時には舐められて途方に暮れていると、鶴の声ならぬライオンのうなり声でカツを入れて下さって、途端に生徒がちゃんと弾きだして吃驚することがしばしば。あんな迫力ある教え方ができたらなあ、と思いつつ、いつも「先生、厳しく言ってやって下さい!」と御願いばかりでした。

 生徒達の指導のほか、私達との室内楽で何回か発表会に出て下さいました。いつもはヴィオラを担当されました。また、相愛のオーケストラを連れてきて下さったこともあります。曲目は確か、ヴィヴァルディの『春』で、綺麗に響いていたソロは、景山さんだったと思います。これが刺激になって、天理の弦楽教室にオーケストラが出来ました。この写真はその前身のアンサンブルのものですが、この中の何人かは国内外で活躍しています。

 お忙しい先生が昔の親友、元東京交響楽団のトランペット奏者だった天理教本部の梶本國彦先生の頼みを断りきれず、天理まで通って下さったお陰で今の天理の音楽文化が育ちました。日本中に、世界各地にヴァイオリンを抱えて飛び立った若者達が音楽を通じて幸せをつかんでいます。すべて先生のお陰です。

 あまりにも早過ぎた先生の退場ですが、今もきっと見ていて下さり、「まだまだ頑張りなさい!」とおっしゃるかも知れません。
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「音楽は、とっても楽しいんだよ!」

漆原啓子
漆原啓子

私が東儀先生に師事していた期間は、小学校5年から中学校1年までの3年間でした。それまでは別の先生に基礎を教わり、東儀先生には音楽的な部分を教えて頂きました。基礎をみっちり学んでいた私は、どちらかというと“真面目に弾くタイプ”でした。レッスンでも真面目すぎるくらいの演奏をする私の横で、東儀先生はいつも踊るように指揮をしながら、一緒に歌って下さいました。体全体を使い「音楽はとても楽しいよ」と身をもって教えて下さっていたのです。

 幸運なことに、基礎をきちんと教わったあと東儀先生に教えて頂いたことは、時期的にも良かったですし、だからこそ自分自身が、音楽を「楽しい」と思うことができたのだと思います。

 今でも、「たった3年間だったんだ」と思うくらいに先生に学んだ時期は濃く、そして充実していました。先生が亡くなった時のショックは計り知れませんが、あれからもう25年も過ぎたのですね…。「音楽が楽しい」ことを私に教えて下さったのは、東儀先生です。私の音楽を開花させて下さった東儀先生に、心から感謝しています。
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“弾くことの喜び”を頂いた日々

漆原朝子 東京芸術大学准教授
漆原朝子

 私は小さい頃、姉の見よう見まねで、感情にまかせて好きなようにヴァイオリンを弾いていました。基礎はそっちのけでしたが、東儀先生はその自由奔放さを排除なさらず、思うままに弾かせて下さいました。レッスンの際には、横で歌って踊りながら、音楽を全身で表現する喜びを教えて下さったのです。

 先生にみて頂いたのは、上京するまでの小学校2年から4年までの2年半ほどでしたが、毎回わくわくしながら、千里のお宅までレッスンに通っていました。

 もともと練習が嫌いで、弾くことだけは好きだった私でしたが、中学校入学前に音楽に興味がなくなり、練習もイヤで、とうとうヴァイオリンをやめたことがありました。中学校の管弦楽部に入部して、再び音楽を演奏する喜びを見出し、やはりヴァイオリニストになりたいと決心した時、「音楽とは楽しいものだった」と、東儀先生のもとで学んだ頃の感覚が蘇ってきたことを覚えています。

 その後もある時期、「お行儀良い音楽」「真面目で、頭で考えた演奏」と言われたことがありました。ちょうど暗中模索で過渡期だった頃ですが、そんな折もふと東儀先生のことを想い出しては、“弾くことの喜び”という自分の原点に戻ろうとしていました。

 長い年月が経ち、未熟ながら生徒さんを教えるようになった今、レッスンの際に、何かしら新しい発見と共に、希望を持って教えるようなレッスンができたら良いな、と思っています。ほんのわずかでも、東儀先生の“音楽を愛する気持ち”を、生徒さんと共有するという姿勢を持ち続けられたら、と願いをこめながら…。
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まさに、オーケストラの権化!

戎谷六雄(酒井陸雄)相愛大学教授
戎谷六雄

 来年で、もう25年ですか!!

 毎年、桜の花が咲く頃になると、東儀先生のことを思い出します。私にとって「東儀先生」とは、まさに「相愛オーケストラ」そのものです。相愛オーケストラ創立から、東儀先生はずーっと指導していらっしゃいました。そして育てていらっしゃいました。東儀先生のご指導は、熱血漢ぶりが溢れていました。本当に心を込めてご指導なさっていました。

 齋藤秀雄先生に東京や北軽井沢でお会いして帰る時、齋藤先生は必ず「東儀先生に宜しくね!」とおっしゃいました。それは儀礼的なことではなく、齋藤先生がいかに東儀先生に信頼を寄せていたかの現れだと感じました。

 ある時、飛行機の中で「たばこの臭いが嫌でたまらなくなった」というお話を東儀先生から聞きました。ヘビースモーカーの東儀先生は、そのときからたばこをやめられました。東儀先生の体調が、たばこの臭いを拒んだのでしょう。

 1987年3月22日に、千里フィル(当時は千里市民管弦楽団)の第10回の節目の定期演奏会の指揮をさせて頂きました。その時のプログラム、ハイドンの『軍隊』は、私が相愛オーケストラに初めて参加した時に、東儀先生が指揮された曲でした。先生を思いながら演奏したことを覚えています。

 もう一つ、私にとっての「東儀先生」は、父親のような存在でした(私事なんですが、相愛に来た年の4月に私の父は亡くなりました)。先生は私に、ある時は厳しく、ある時は優しく、一番必要な時に注意して下さいました。それは正に的を射たものでした。

 相愛大学では、先生からのご寄付で設立された「東儀奨学金」のオーディションが毎年行われ、選ばれた学生が毎年立派に巣立っていきます。本当に感謝の気持ちで一杯です。

 相愛オーケストラも大きくなって、技術的にも成長しました。先生が聴きにいらしたらビッグリなさることでしょう。全ては先生の熱血漢溢れるご努力の賜物です。改めて本当にありがとうございました。

 最後に「千里フィルハーモニア・大阪」がコミュニティ・オーケストラとして、東儀先生の心のこもった情熱的な音楽を受け継ぎ、音楽の素晴らしさを広めて下さることを願っています。
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円熟の極み、正統派の指導の幸せ

大谷玲子
相愛大学・兵庫県立西宮高等学校非常勤講師
大谷玲子

 私は小学校1年から6年までの間、東儀祐二先生のご薫陶を受け、小学校卒業の春に先生は昇天されました。まだお若かったとはいえ、最晩年の弟子ということになります。

 当時、先生は関西のヴァイオリン指導の大御所として、時代的背景が経済の成長期ということもあり、実にたくさんの生徒さんを教えていらっしゃいました。先輩の方々から先生のご指導の厳しさは伝えられていましたが、私達の頃には目標を与えて親も子も共に励ますという、厳しい中にも温かみのあるご指導でした。小学校1年の私に対しては「これがしっかり弾けたら、いずみ会に出してあげる」と、綺羅星のごとき先輩方の出演される子供達の夢の舞台“いずみ会演奏会”出演を目標に励まして頂きました。 『クライスラー:シシリアーノとリゴードン』、小学校2年でいずみ会初出演の私の曲目です。小学校6年のいずみ会のプログラムのラストに弾いた『メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲第1楽章』が、祐二先生のおられたいずみ会演奏会の、最後の演奏となった悲しい思い出にもつながっています。

 学生音楽コンクール出演を目標に置かれたときには、そのレッスンは声を荒げ、床を蹴られ、と激しいものでしたが、それは音楽に対する先生の真摯なお考えの顕われであり、単にヴァイオリン演奏技術ばかりでなく、音楽に向き合う心構えを教えて下さっていることは小学生の私にも分かっていました。それでいて受賞演奏会ではリハーサルから楽屋にいて下さり、一緒にカツサンドをほおばるという、楽しく親身で温かい先生でした。そして6年生の冬の1月、いずみ会の新年会で、黄疸で黄色くなられた先生にお目にかかったのが、私にとって最後の先生のお姿となりました。

 今から思えば、私は先生の最晩年、まさに円熟の極みのご指導を受けることができた幸せな生徒でした。先生のご指導は一言でいえば、けれんみのない正統派のものであったと思います。 その後、私は東京へ通うようになり、更に大学、ヨーロッパで数多くの著名な先生方のご指導を受けることができましたが、東儀先生に教えて頂いたことが今でも私の演奏の全ての基本になっており、それは世界のどこへいっても正統な演奏スタイルとして通じるものでした。また東儀先生門下の大先輩方といろんなところで一緒にお仕事をさせて頂く機会があり、いずみ会の仲間として温かく接して頂いております。
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子供の長所を見つけ、伸ばすエネルギー

岡田光樹  沖縄県立芸術大学准教授
岡田光樹

 街の教室でヴァイオリンを始めたわが子を、「より良い先生にみて頂きたい」との思いで紹介状も持たず、両親が私を伴ってお宅にうかがったのが東儀祐二先生との最初の出会いでした。何を弾いたのか記憶にはありませんが、じっと聴いていらした先生は「みてあげましょう」とおっしゃいました。

 レッスンが始まると、幼かった私には先生はたいそう大きく、怖い存在でした。レッスンは叱られてばかりで、弓の持ち方が悪いと「どこ持っとる!」、少しつっかえると「絶対止まるなッ!」といった具合。レッスンに向かう道、お宅の直前の角を曲がると、緊張で必ずお腹が痛くなったものでした。第2次ベビーブーム世代だったためか同世代の生徒さんも多く、また先生が室長をされていた相愛音楽教室にも入室を勧めて頂き、そこで出来た友人は今も交友が続いています。門下の会「いずみ会」にも入れて頂き、そこでの新年会は楽しみの一つでした。 いつだったか、澤和樹先生がご出席された際、ご夫妻で演奏をして下さったその時の、目を細めて満足された様子が印象的でした。その後の恩師となる澤先生との出会いも、実は東儀先生が用意して下さっていたのかと思うと、先生の敷かれた道が大きなものであったと改めて実感されます。

 私は生来のんびりした性格で、先生に「君を教えるのに、他の子の3倍(手間が)かかる」と言われ、お世辞にも出来た生徒ではなかったと思います。そんな弟子でも先生は見捨てることなくレッスンをして下さいました。

 その指導は厳しいことで有名でしたが、先生のすごさは怒るのではなく叱るということにあったと思います。これは愛情が無ければできません。今この文章を書きながら、昔通った相愛音楽教室時代の記録を繰ってみると、室長の東儀先生から保護者にあてらた文書が目に留まりました。子供とその親御さんへの、配慮と愛情にあふれた文章です。お忙しい中でも、そういう心配りをして下さっていたのです。ある時、私のことをご紹介下さる際、「技術はまだまだですが、音のきれいな子なんです」と言って頂いたことがありました。きれいな音というのは幼い私なりに大事にしていたことで、それを見つけ出し、認めて下さっていたことが、子供心にも大きな救いと励ましを与えて頂いたように感じました。 どんな子供にも良い部分がある、それを見つけて伸ばしてやる。それは教える立場になった今、大切にしていることのひとつです。

 小学校高学年になった頃から先生にあまり怒鳴られなくなり、だんだんと本格的なレッスンになっていきました。少し体調を崩されてレッスンがお休みになり、その間に私は中学生になりました。春が来て始業式から帰った時、先生の訃報を聞かされました。あれから四半世紀の今春、私も一児の父親となりました。いま、東儀先生とお話しできたらどんなアドバイスを頂けるのだろうか。きっと「死に物狂いでやれ!」と言われるでしょう。言葉にできない何かを伝えて下さった祐二先生、ありがとうございました。
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あの情熱!

尾高忠明 指揮者
尾高忠明

東儀祐二先生は素晴らしい教育者であり、素晴らしく正直で、素敵な方だった。齋藤秀雄先生から頼まれて、相愛学園の合宿のお手伝いにうかがったのは、僕がまだ、桐朋学園の大学生の時だった。比良山だった。厳しい教えをなさっていた。

 齋藤秀雄、東儀祐二の二巨頭!心から感動した。お二人は、厳しい中に、生徒に対する溢れんばかりの愛情をお持ちだった。齋藤先生がお亡くなりになった後も、僕は毎年相愛学園にお邪魔していた。

 ずっと続いた夏の大山での合宿。食事の時、僕はいつも東儀先生のそばに陣取った。だって、先生はいつも美味しい佃煮とか特別のおかずを持参なさっていたから。

 先生と僕はいつも相部屋だった。練習が終わって部屋に戻ると、先生はいつも先回りしてテレビの高校野球をご覧になっていた。一球一球に興奮なさり、意見を述べられていたのを、今でも思い出す。

 音楽に、教育に、グルメとして、はたまた野球観戦など、総てに迸るような情熱を傾けられた先生のお気持ちは、四半世紀を経た今も、たくさんの音楽家の中で、相愛学園の卒業生の中で、また、現在の相愛学園の中に脈々と受け継がれている。

 演奏会のご成功をお祈りしております。
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何より温かく大きな存在

景山誠治 東京音楽大学教授
景山誠治

 東儀祐二先生のお名前は、私がヴァイオリンを始める前の幼い頃から近しいものでした。先生は、私の叔母でヴァイオリンの師でもあった故吉永清子の恩師でした。 尊敬していた先生のことは、いつも家族の中で話にのぼっておりました。そんな私が初めて先生のレッスンを受けに母や叔母に連れられて行ったのは、小学校2年の時だったでしょうか、バスも運休するような大雪の中、数時間かけて千里のお宅までうかがったことを鮮明に覚えています。叔母の厳しいレッスンしか知らなかった私には、先生の優しいご指導は大変うれしいものでした。

 小学校6年のとき、コンクールの全国大会で東京に行った際など、控室でずっとそばについていて下さり、とても心丈夫でした。このように先生は、陰になり日向になって指導して下さる大きな存在でした。相愛の先生方のご家族で若狭の海に行かれた時、叔母と共にご一緒し、海で楽しく遊び、子供の一人のように先生に風呂に入れて頂いたことなど、心温まる思い出です。

 私が藝大に進むまで、相愛のCオケで祐二先生、幸先生に教えて頂いた様々なことは、私の音楽家として立つ上での基礎として根付いています。

 藝大卒業直前に叔母が亡くなり、年を経ずして先生が他界されたことは、私にとって大きな痛手でした。これから世の中に出ていこうとする矢先で、心の支えを失ったような寂しい思いでしたが、今は先生のもとで育ち、全国で活躍しているたくさんの仲間達や、孫弟子、ひ孫弟子がいます。先生は今も優しく見守って下さっていることでしょう。
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東儀さんありがとう

梶本國彦 天理教音楽研究会理事長
梶本國彦

 束儀さんと私の出会いは、昭和25年4月、東京藝術大学に入学した時に始まります。と言っても、弦楽専攻と管楽専攻ですから、一般教養やオケ等の時間に顔を合わせることはあっても、直接親しく話をするということもありませんでした。

 卒業して、彼は東フィルへ、私は東響へ。ですから今から考えると、挨拶するくらいで、同期生というだけの間柄だったのです。私が音楽生活をやめ、天理に帰って何年か経ったある日、彼が突然天理の我が家へ訪ねて来たのです。

 そんな彼との再会でしたが、そこは同級生。不思議なもので、まるで大親友であったかのように、暫し積もる話に花が咲いたのでした。やがて本論に入ると、それは相愛学園の管楽科講師に来ないかとの誘いだったのです。一大決心して天理に帰った私には、受ける訳にいきません。断ると共に厚かましくも、天理教音楽研究会のヴァイオリン教室の講師に来てくれないかと頼み込んだのです。丁度その頃、私は天理教にオーケストラを創るという宿題を貰っていたのです。が、教内学校の吹奏楽部などで管の環境はあったものの、弦の環境はゼロでした。どうしたものかと頭を悩めていたところだったので、渡りに舟と逆に訳を話し、まさにミイラ取りがミイラとなり、彼は快く引き受けてくれたのでした。

 以後、遠路を厭うことなく、小さな子供を集めた教室に毎週一度、3人のお弟子さんを連れて、共に厳しく、優しく根気よく指導して下さったのでした。勿論、私個人としても種々相談に乗ってもらい、本当の意味での同級生として付き合ってもらいました。

 お陰で教室からは、音楽学校に進む者、卒業して教室の講師になる者、コンクールで優勝する者、プロになる者、留学する者、外国で活躍する者等々多数に渡り、念願のオーケスラも出来、同会合唱団と共に各地でコンサートを持つまでに成長してきました。

 これひとえに、東儀さんの存在あってこその今日の姿と、改めて霊様に御礼申し上げる次第であります。
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今でもはっきり覚えているあの笑顔

加納千春 相愛音楽教室・相愛オーケストラ講師
加納千春

「あんたは、僕が何にも言わない方がうまく弾くなあ」私が先生から頂いた、初めてのお褒め(?)の言葉です。

 私が父の転勤で大阪に来て、東儀先生にお世話になることになったとき、楽器の持ち方、弓の持ち方、全て一からやり直さなければならず、その上楽譜もろくに読めませんでした。私は、先生が何をおっしゃっているか理解できず、ただひたすら怖くて目に涙。もう一言おっしゃれば「ひくっ、ひくっ」と泣き出し、楽器まで揺れてもう弾けなくなってしまう始末。そうなると先生もお手上げで、ものの10分も弾かないうちに「今日はもうだめ!!」ということで、姉のレッスンに代わってしまいました。

 基礎が少し直って、初めて頂いた曲『つりがね草変奏曲』が大体仕上がって、先生が何も言わずに伴奏をつけて下さった時、私におっしゃったのが「あんたは、僕が何にも言わない方が〜」でした。泣き虫の私に手を焼いていた先生が、思わずおっしゃった言葉だったのだと思います。

 初めての発表会の時、弾き終えて戻ってくると、あの“こわ〜い先生”が、それまでに見たこともない満面の笑顔で私を迎えて下さいました。その笑顔は今でもはっきり覚えています。それから後の発表会でも、先生はいつも舞台袖で、にこにこして立っていらっしゃいました。

 時を経て、私も今、子供達に音楽の楽しさを教えています。

 大学を卒業してからも、先生の生徒さんを下見させて頂いたり、自分の生徒を連れていって見て頂いたりして、先生が天に召されるまで、ずっとお世話になりっぱなしだったのです。

 自分が小さい時に使った教本や楽譜の書き込みを見ると、先生がそれはそれは丁寧に教えて下さっていたことがわかります。私も先生に教わったように、できるだけ丁寧に子供達に接しようと努めています。

 そして、生徒の発表会の時、精一杯演奏してきた生徒を満面の笑顔で迎え入れます。先生のように。
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どんなときも、優しいアドヴァイザー

久合田緑 京都市立芸術大学教授・相愛大学講師
久合田緑

東儀祐二先生没後25周年とお聞きして感無量です。澤和樹さん、小栗まち絵さん、前団長の遠藤芳邦さんと私の4人で、モーツァルト全曲演奏会を企画したのが7回忌の1991年でしたから、早や18年経った訳ですね。

 先生に「みどりちゃん、相愛に専任で来てくれるかい?」と招んで頂いて、私が相愛大学から辞令を頂いた1985年4月12日、その日に先生は天国に旅立ってしまわれました。

 先生に色々と教えて頂きながら大学の仕事を覚えて、いずれは先生をお助けできるようになれれば‥とお引き受けしたポストを、いきなり一人ぼっちで始めることになったあの時の、取り残されたような心細い思いを、昨日のことのように思い出します。

「相愛学園子供の音楽教室」に入室した小学校4年生のときに先生の門下生になってからというもの、その後、藝高、藝大、ジュリアード、インディアナ…と学ぶ場所は変わっても、いつも大阪に帰ったら東儀先生に聴いて頂いてアドヴァイスを頂きました。

 留学が終って大阪で演奏活動を始めてからも、コンサートの前には必ず相愛講堂で東儀先生に聴いて頂いて、アドヴァイスを頂いてからでないと安心して人前で演奏できませんでした。

 それだけでなく…早過ぎた結婚をした時も、離婚を決意した時も、相愛本町校舎裏の美々卯でおうどんを畷りながら「ふん、ふん…」と私の話を聴いて下さった東儀先生の優しいお顔が、今でも目の前に浮かびます。考えてみると、私はヴァイオリンだけでなく、人生の色々なことまで何でもかんでも先生にご相談していたように思います。

 東儀先生は、どちらかと言うと寡黙な方でお話し好きという感じの方ではなかったのに、甘えん坊のとんでもない生徒である私に対して、いつも嫌なお顔一つなさらずに時間を作って下さったのでした。先生亡き後、私が相愛にお勤めした8年の間、「今ここに東儀先生が居て下さったら、この事について何と仰るかなあ」と、いつもいつも思いながら仕事をしていたように思います。

 先生は、あまりにもお若くて逝ってしまわれました。今の私自身は、先生の亡くなられた時の年齢をとっくに越えてしまいました。

 私にとって、東儀先生の思い出は、語り尽くせないほど沢山あって、今なお新鮮です。
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先生の下さった点から全てがつながって

幸田さと子
幸田さと子

先生がお亡くなりになって、来年でもう25年も経つのですね。先生との一番の思い出を…と記憶をたどっていくと、あっという間にその頃の気持ちに引き戻されています。

 高校を受験する頃のことです。相愛音楽教室で一緒だった先輩や同級生達が音楽高校を目指すなか、「普通高校に行って音楽校に入るのは大学から、というのがこの子には向いている」という内容のことを、先生が母に言って下さったのです。まだ自分のことを自分で決めるには、モヤモヤとして心もとない頃でした。

 経験と深い洞察力と愛情に裏づけられたそのアドバイスに、40歳になった今、改めて感謝しています。昨年、子供を授かり出産しました。母親になって価値観が変わり、大切なものの順番がすっかり入れ替わってしまいました。今は1歳半になる娘の育児を優先した生活をしています。以前ほど弾く時間はありませんが、これまでプレッシャーを感じることの多かった仕事を、ただありがたいと思えるようになりました。その基盤を、高校3年間で培えたとさえ思っています(その高校で、娘のパパ(夫)と出会ったのですし…)。             .

 小さい頃から1日も休まず練習するという習慣のヴァイオリンを、高校受験の為に2〜3ケ月もお休みするという体験も、祐二先生が許して下さったものです。その時、先生が置いて下さったひとつの点が、今の点とつながったという感じがしています。これからもひとつひとつ繋がっていくのだと思います。いつも優しい笑顔でピアノ伴奏をつけて下さったこと、「次は何が弾きたい?」と問いかけて下さったこと、祐二先生の想いだからと、幸先生がポーランドのコンクールに連れて行って下さったこと…。大切にしまってあった思い出を一つひとつ取り出し、このところずっと心の中がじーんと温かくなっています。

 この機会を本当にありがとうございました。
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先生の存在によって生かされている

斎藤建寛 チェリスト
相愛大学教授・相愛音楽教室室長
斎藤建寛

 人との出会い、ご縁とは本当に大切なものだと思う。「この人がいて下さらなかったら、今の自分はなかったかも知れない」そう実感するほどの大きな出会いが、誰にもあるのではないだろうか。私にとって東儀先生との出会いはそのようなものであった。

 大学を卒業して2年目、とあるコンサートに出演した私の楽屋を先生は訪ねて下さった。「相愛大学の仕事を手伝ってほしい」という思いがけないお申し出に、どれほど驚いたことだろう。迷わずお気持ちを受け、先生と共に働かせて頂いた年月は心から光栄であり、思い出深い日々であった。お側にいながら時を重ねると、先生の飾りのない素朴さ、実直さ、音楽に対する無垢な姿勢がどんどん伝わってくる。関西の音楽界を育てたい、と一途な願いを抱いてられたそのご意志が、いかに純粋なものであったかということは、今日まで時が経つほどになお鮮明になっていく。

 まだまだこれからという時に先生は逝ってしまわれた。先生を惜しまれる多くの方々と泣いた。しかし時間が流れ、やがて悲しみにうなだれる頭を少しずつ上げてみると、生徒さんであった若いバイオリニストの方々が目覚ましい成長をとげ、国内外で素晴らしい活躍を展開している。先生の蒔かれた種が、それぞれの花を咲かせている。東儀祐二という一人の音楽家の成し遂げた偉業にただただ感動する。でもそればかりではない。先生の親しみのある笑顔は実に愛すべきものであった。音楽に対するまっすぐな姿勢の中に、計り知れない優しさが内包されていた。

 今も思い出される先生の肖像に語りかけられ、導かれている気がする。先生のご存在のお陰で今の私は生かされているのだとつくづく思う。
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東儀祐二先生との出会いと回想

酒井 諄 相愛大学名誉教授
 相愛学園の短期大学音楽科
酒井諄 酒井諄

(昭和28年(1953)、旧制女専から短大に移行、昭和33年から相愛大学音楽学部)に、昭和28年3月京都大学(旧制)文学部美学専攻を卒業したばかりの私は、助手として就任、仲芳樹教授(教務課長)のもとで教務係を担当することになった。そして昭和30年、今小路覚瑞学長と山田耕筰先生(石倉小三郎先生のあとを受けて就任された)を中心として、豪華な教授陣容をもって構想された「相愛短大音楽科拡充計画」に並行して、昭和30年9月の「相愛学園子供の音楽教室の開設という大事業(関西の楽壇、音楽教育界に大きな衝撃を与えた)に向けて、私は度々東京へ出張、山田耕筰先生や井口基成先生はじめ関係者と折衝を重ねていた。

 その頃(確か昭和30年2月だったと思う)、東京虎の門共済会館のロビーで、東儀祐二先生の「相愛学園へのご就任要請」に対するご回答を確認のため、御新婚間もない東儀祐二・幸ご夫妻とお目にかかった(東京藝大卒業のお二人は当時、東京フィルのメンバーだった)。そして祐二先生は、「自分は京都の出身でもあるし、今後はやはり関西での活動を考えたい」とのご決意で、相愛短大音楽科の専任講師として就任することを応諾され、昭和30年春の新学期から勤務を始められたのである。

 昭和30年秋の、「相愛学園子供の音楽教室」開設当初、作曲・指揮の大橋博先生(昭和51年逝去)、弦・指揮の東儀先生、音楽史の馬渕先生、音楽美学・評論の酒井という、ほぼ同世代の4人が、大阪「キタ」の飲み屋で掌を重ね合わせて、「これからの相愛音楽科と音楽教室を担っていこう」と誓い合ったのであった。

 子供の音楽教室では、東儀先生は、「弦・合奏副主任」として、早くも2年日頃から合奏指導にも大変な意欲を注がれた一厳格な齋藤秀雄先生(弦・合奏主任)は、「合奏を始めるにはまだ早すぎる。本格的なオーケストラ編成は、少なくとも数年先のこと」と見越しておられたようであるが。

 夏期の「オーケストラ合宿」も、音楽教室開設から4年後の昭和34年(1959)に始まった。第1回合宿の3ケ月ほど前、音楽教室生徒のご父兄と御縁のあった高野山・光明院(故加藤圭璋住職)へ、東儀先生と一緒に下見にうかがったことも忘れられない(後年、鳥取県大山麓に合宿場を移すまで、10年近くを光明院でお世話になった)。

 東儀先生の数々の想い出は尽きないが、もう一つだけつけ加えさせて戴く。

 昭和51年春から年末まで、遠山音楽財団の奨学金を戴いてドイツ(ミュンヘン)に留学していた私は、留学生仲間3人で歩いたスペイン旅行中、トレドからマドリッドへ帰着して3泊、いよいよ同地を発つ日の昼前、名残りを惜しんでもう一度出かけたトレド美術館の入口で、バッタリ出会ったのが、何と東儀先生であった。 東儀先生は、兄上が京都美専(現京都芸大)出身の洋画家、母方の大伯父が京都画壇の巨匠山口華楊氏とうかがっていたが、ご本人もなかなかの美術通だったのであろう。

 祐二先生!も少し長生きしてほしかった。
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永遠の師 東儀祐二先生

朔 望 九州大学藝術工学部非常勤講師
朔望

「原田く−ん!」。1975年7月3日、コペンハーゲン国際空港で、懐かしい東儀先生の声が聞こえるではありませんか。嬉しかった!!60億の人が住む地球という星の上で、そしてあの大勢の人達が行き交う国際空港のロビーで、本当に偶然、先生に出会う事ができたのですから…。先生は、ロン=ティボー国際コンクールの審査からの帰国途上に、デンマークに立ち寄られたとのこと。私は当時スウェーデンの南端にある大学都市ルンドに住んでいたのですが、この日はたまたま日本へ帰国する人を見送りに対岸のコペンハーゲンに来ていたのでした。

 今考えると、この時の出会いのように、きっと神様のお導きがあって、私は東儀先生の門を叩かせて戴いたのだと思うのです。

 それは高校3年生になった夏のことでした。私は音大に進みたいという一心から、東儀先生のもとを訪れました。相愛での先生のレッスンは(特にオーケストラの指導に於いては)結構厳しかったのですが、先生の温かいお人柄で学生達の人気は絶大。それにオーケストラの練習の時や、高野山の合宿などで垣間見ることができた幸先生との仲睦まじいご様子は、私達女子大生の理想とする夫婦像としていつも話題に挙がっていました。

 そのような大学生活を過ごしていた3年生の春、「もっと上手くなりたい。基礎からやり直したい」と思うようになり、「ボーイングからやり直したいのですが…」と先生に申し出て、毎週基礎から見直して頂きました。

 夏休み直前になり、「もう良いだろう、そろそろバッハの課題に取り掛からないと前期の試験に間に合わない」と心配される先生に、「いや、まだ大丈夫です。試験には間に合わせます」などと生意気なことを言って、納得できるまで練習に付き合って頂いたことが昨日のことのように思い出されます。そして今、生徒を教える立場に立ってみて、このとき先生に基礎から丁寧に教えて頂いたことが、本当に役立っていることを改めて実感しています。

 大学卒業の数ヶ月前になって、鷲見先生から薦めて頂いたウィーン留学の時も、親身になって色々相談に乗って下さいました。言葉も分からず不安いっぱいの留学でしたが、鷲見先生と東儀先生に背中を押して頂いて留学できたことは本当に幸せでした。

 後年、主人の留学でスウェーデンで生活した時も、すぐにルンド市交響楽団に入団する事ができました。そこまで育てていただいた先生に心から感謝しております。

私は今もヴァイオリンを教えながら、時々ふと先生にご相談している自分に気付きます。「こんな時、先生だったらどうされるだろうか…」と。そうすると自ずと答が浮かんでまいります。

 先生がお亡くなりになってから、もう25年が過ぎてしまいました。 今は時折、幸先生のお声をうかがってホッとします。幸先生とお話ししていると、いつもその向こうに祐二先生を感じることができるのです。幸先生、どうかお体を大切になさって下さい。そしてこれからも天国の祐二先生と共に私達を見守り、導いて頂きたいと思います。
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僕と祐二君のこと

嶋田英康 ヴィオリスト 元NHK交響楽団首席
嶋田英康 嶋田英康

僕が宮内省(現宮内庁)楽部に入った時、祐二君は1年上級生だった。その彼と雅楽と洋楽の習得のレッスンをはじめとして、戦争中の小金井にある防空監視訓練所での1週間の訓練(敵機を確認、機種・高度・速度を速やかに判断、爆音による機種の判別)を受けたこと、その後の1943・44年の宮城監視隊での2当直1休日の連続勤務、すべて祐二君と一緒だった。

 45年になると毎日、昼夜空襲があるようになり、監視台に登っている時間が多くなった。もう楽器に触れるだけの日々だった。皇居の豊明殿・紫宸殿も、焼け落ちるまで共に見守るという体験も味わった。3月9日夜には、浅草橋から深川にかけて大空襲があった。翌朝、監視隊員数人で握り飯を沢山持ち、非番で家に帰っていた隊員を探しに行ったが、見渡す限りの焼跡には誰も見当らなかった。4月13日夜の空襲は、豊島区方面に多数の焼夷弾や爆弾を落とした。翌朝、非番で帰途についたが、交通機関が全滅。歩いて帰ったが、目白駅近くの家まで4時間かかった。しかしすべて焼失、一面焼野原だけだった。その後、着のみ着のままの僕に祐二君が自分の下着をくれたこと。とても有難かった。 8月15日、天皇陛下の敗戦詔勅録音盤(いわゆる“玉音放送”されたレコード:編集部注)をめぐる皇居内の近衛兵の反乱により、剣付鉄砲で尻を突かれながら防空本部の一室に本部職員と一晩閉じ込められたこと。敗戦後、楽部の先輩山井清雄氏の子供の頃からの先生であった故小野アンナ先生が、個人的に時々楽部へ来られ、祐二君ほか2名のレッスンをしておられるのを見て、僕も習いたいと思った。後日アンナ先生に師事できるようになったが、祐二君はもう東京に居なかった。彼は入学準備のため、楽部を退官し京都に帰って居た。僕は1949年4月、楽師に仕官し、4月3日、橿原神宮へ出張の折、伏見の東儀宅に一泊し、一晩ゆっくりと積もる話をしたこと。祐二君が藝大に入ってから、時々アルバイトで一緒にヴァイオリンを弾いたこと等々。その後、彼は相愛女子短大で教育活動を始め、僕は2〜3回大阪公演の際、祐二君と旧交を温めた。1984年、千里市民管弦楽団演奏会(渡辺暁雄指揮)に出演させて戴いた。

 僕等の青春時代は満足に練習もできず、物資も無く苦しいばかりだった。楽譜は借りて自分で書き上げてから練習した。練習曲やモーツアルトの協奏曲3〜5番もメンコンもヴュータンもブルッフも…祐二君が亡くなって25年たった今も僕の中には、共に過ごした青春時代の鮮烈な想い出として心に刻まれている。

2009年8月11日
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祐二先生の奥深い教えを偲んで

 曽我部千恵子 相愛高校音楽科・相愛大学非常勤講師
曽我部千恵子

 私は小学校4年生の時に幸先生の門下に入り、その後、いずみ会、相愛の音楽教室、高校、大学と進み、ずっと祐二先生と幸先生のお二人にご指導頂いて参りました。祐二先生は幸先生のことを「ママ、ママ」とおっしゃって、とても大切に思っておられましたので、その幸先生の弟子として私も、いつも気にかけて頂いたように思います。優しくお声をかけて頂いたことを、今でもふと思い出すことがあります。

 演奏の機会を与えて下さったことも多く、特に’77年、祐二先生が大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮された協奏曲の夕べで、ブラームスの協奏曲を共演させて頂きましたことは身に余る光栄であり、いつまでも心に残る大切な思い出です。

 教えるということに関しても、大学卒業以後、様々な形でお手伝いをさせて頂き、ご指導を頂きました。コンクールに出場するような優秀なお弟子さんの補助的レッスンもさせて下さって(その中には、今回のゲストの葉加瀬太郎さんもいらっしゃいました)、基本的な指導法や、子供との関わり方など大切なことを沢山学ばせて頂きました。特に、生徒一人ひとりの将来を思って、才能の特性を考えて、大きな心で指導されるお姿や、成長した教え子の演奏会をはじめ、いろいろな場面に足を運ばれ、いつまでも見守って下さる優しさは、決して忘れることができません。

 今まで、しばしば、「あー、祐二先生がお元気でいらして下さったら‥・」と思うばかりでしたが、今後は、祐二先生の残して下さった大切なことを、われわれ教えを受けた者皆で、守り、発展させ、将来につなげてゆかねばと、この節目に改めて思いを深くしています。心よりの感謝を込めて。
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考えるのは、いつも、生徒にとっての最善

田渕洋子 京都市立音楽高等学校講師
田渕洋子

祐二先生と初めてお会いしたのは、30年ほど前のことです。現在活躍中の川井郁子さんが中学校2年生の時、祐二先生のレッスンを受けさせて頂くことになりました。的確なご指導に大変感激いたしましたのが、ついこの間のことのように思い出されます。その後、私が堀音(現京都市立音楽高校)に勤め始めた2年目に、祐二先生が体調を崩され、この度のコンサートのソリストであり、大活躍中の葉加瀬太郎君と村越伸子さんが、私のクラスに来ることになりました。先生が優秀な生徒さんを若輩の私に託して下さったことは、大変光栄で身の引き締まる思いでした。

 翌年、私は全日本学生音楽コンクールの審査員になり、その後、祐二先生、そして幸先生とは長くご一緒させて頂くこととなりました。両先生のヴァイオリニスト、教育者としての深いご経験に加え、常に生徒さんのことを考えていらっしゃるお姿に接し、多くのことを学ばせて頂きました。

 もっともっと長く、祐二先生にご指導を仰ぎたいと願っておりましたが、今は天国の先生に心より御礼を申し上げたいと存じます。
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宮内省楽部時代の祐二氏の思い出

東儀俊美 宮内庁楽部元首席楽長 日本芸術院会員
東儀俊美

[プロローグ]東儀祐二氏は、宮内省楽部(現在は宮内庁楽部)の楽生時代、私の先輩にあたります。彼が京都へ帰ってからのことは皆様それぞれに良くご存知のことと拝察しますので、私は皆様のあまり御存知の無い、彼が楽部にいた頃のことを少しお話しさせて戴こうと思います。 [一]昭和17年、私が宮内省楽部の楽生に入った時、1級上に二人の先輩がいました。それが東儀祐二氏と多忠昭氏(以下、当時の呼び名に従って君と呼ぶことをお許し下さい)でした。その当時は知らなかったのですが、後年になり系図を調べたら、祐二君の祖父である元三郎氏は、私の祖父東儀俊竜のすぐ下の弟で、彼の家の養子になったのだと判りました。と云うことは、彼と私とは従妹の子供どうLだったのです。 そのような関係とはお互いに知らなかったのですが、「なんとなく気が合う」と云うのでしょうか、私は勉強している彼の自習室に入り込んでは、彼の勉強の邪魔をしていました。父を早くに亡くし、長男だった私の心の何処かに年上の誰かを求める何かがあったのかも知れません。

 そんな或る日、例の如く彼の室に行くと彼はピアノの練習中でした(ついでながら、当時、楽部のピアノの教師は、ガエタノ・コメッリと云うプッチーニ最後の弟子とされるイタリア人で、ほとんど日本語の出来ない非常に厳格な先生でした)。祐二君は、ピアノの練習を中断すると私に、「1曲弾いてやるから大人しく聞いてろよ」と云って弾き始めました。それはソナチネアルバムの1番、クーラウのC-Durだったのですが、私には面白くも何ともなく、眠気が来てついウトウトしたようです。彼は烈火の如く怒って、私を部屋から追い出しました。これが彼を最初に怒らせた記憶です。戦争が激しくなるにつれて我々は、「皇居防衛」と云う美名に振り回されて明け暮れるようになり、音楽の勉強どころではない日々を送ることになります。 [二]戦争が終わり、暫くの虚脱状態を経て、再び音楽の日々が戻ってきました。上層部の誰の発案か分りませんが、復員してきた若手楽師と楽生のなかで、家を焼かれたとか家の無い者は、暫くの間楽部の自分の自習室で生活しても良いことになりました。 祐二君は下宿先が焼け、私は家族が疎開していたので家がなく、忠昭君も家が焼けて困っていました。

 今考えれば我々は、音楽を勉強するには最高の環境にあったと言えます。楽部の2階部分は殆ど全部の部屋が個室になっていて、楽生は1人1室を与えられており、授業も自習もその部屋を使っていました。そこへ寝具と最低の生活用品を持ち込んで泊まるのです。音楽の勉強には音がつきものですが、ここでは誰にも遠慮することなく、夜中でも早朝でも勉強したくなったらガンガン音を出せば良い、と云う環境でした。何処かの部屋で音がし始めると、不思議なことに何か落ち着かなくなり自分も音を出し始める。 何処かの部屋に何人かが集まって遊び始めると、いつの間にか皆集まってくる。「ベルリン・フィルの田園の2楽章のヴァイオリンは、全員のヴイブラートが合っているい誰かがこんなことを言い出して、皆で真剣になって何回も聞き比べたこと等、今では懐かしい想い出ですが、こんな時でも祐二君は、自分で決めた勉強のノルマが終わらなければ遊びの輪に入っては来ませんでした。 [エピローグコ こうして我々は楽生を卒業し、楽師になりました。 間もなく彼は退官して京都へ帰り、私との関係も一時途絶えましたが、私が京都へ出張の折には何回か伏見の彼を尋ねて旧交を温めていました。彼は藝大へ入り、私は楽部に在籍したまま東京フィルハーモニーの常エキストラをしていましたが、そこに彼が第2ヴァイオリンの主席奏者として入団して来ました。私の記憶では、その時、若くて小柄ながら、恐ろしくヴァイオリンの上手な美しい奥様も一緒だったと思います。2年ほどの年月が過ぎて、彼は故郷の京都へ大きな目的を抱いて帰っていきました。東フィル時代の彼は、私には急に貫禄がついて大きく見え、「祐二君」と云う感じではなかったような記憶があります。

 彼が教育者として大成して後も何回か会う機会がありましたが、その度に彼は日本の音楽教育、特に絃楽器について熱っぽく語っていました。56歳と云う若さであたら有能な教育者を失ったのは、日本の音楽界にとっても大きな損失だったと、残念に思っています。
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厳しさのなかにあふれる温かさ

西澤和江
西澤和江

 私が東儀先生のレッスンに通うようになったのは、最初、鷲見三郎先生のお薦めの言葉から、東儀先生の門下生の発表会を見にいったことがきっかけでした。

 それまで地元の金沢でレッスンを受けていた私は、東儀先生の門下生の発表会を聴いて、皆さんが凄く上手な方ばかりなのに大変驚き、溜息つくほどに衝撃的だったことを憶えています。

 その後、金沢から4時間以上かけて東儀先生のレッスンに通うようになりました。レッスンの時、先生はピアノの前にある椅子にお座りになり、私がレッスンが始まる前のご挨拶をすると、最初とても厳しい表情をなさっていましたが、一通りレッスンが終わった時には、それまでの厳しい表情が一変し、とてもにこやかな笑顔になられ、厳しいレッスンの後の先生の笑顔に子供ながらにホッとしていました。

 それは学生音楽コンクールを受けた時も同じで、演奏する前に舞台からお辞儀をした時の、先生のいつものレッスンのように厳しい表情が、演奏を終えた時には既に和やかな笑顔になっていらっしゃいました。鷲見先生と東儀先生に習い始めた頃、まだヴァイオリンの演奏技術について基礎からやり直しして劣等感が強かった私にとって、東儀先生のレッスンの厳しさの中にあった温かな一面にどれほど救われたことでしょう。

 先生の笑顔が、今でも懐かしく思い出されます。
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感激と、感謝と、びっくりと

西田妙子 元いずみ会会長
西田妙子

 数限りない東儀祐二先生の思い出を、この紙面を借りて皆様とお偲びできる幸を感謝する次第です。娘郁子は、小学校4年生の秋からお世話になりました。先生の厳しい中にも温かいご指導のもとコンクール等を乗り越え、高校進学時には既に「大学は海外へ」とのお話しがありました。でも、私共には夢物語と受け止めていました。そんなある日の一連の出来事。あれほどの驚きがあるでしょうか。今も脳裏に焼き付いております。

 高校卒業の日も近付いた昭和51年春のことです。当時、門下生の会(いずみ会)の会長をさせて頂いていた私を、祐二先生は、亡くなられた御母堂様の一年祭で催されたお茶会にお招き下さいました。会場の平安神宮のお茶室へ参り、係の方に案内されて正客の席に畏まって正座した時、わが目を疑いました○そのお役を務めてらしたのは、他ならぬ祐二先生でした。

 お茶会の後、「茶道の心得までお持ちとは]とびっくりしたままお庭を散策しているところへ、照れ隠しのようなお顔で「御苦労様」とお声をかけて下さったことは、終生忘れられない想い出となりました。そして、先生が続けられたお言葉に、更にびっくり。「留学先はドイツ。師事する先生はマルシュナー(フライブルクにある国立音大の教授)。オカアチャンがええかげんにOK言わないと、郁子チャンもヤル気無くなるで〜」「ハ〜、解りました」。先生と娘の間では計画が進んでいたようです。静かな平安神宮の庭園で、頭の中の整理がつかず驚いている間に全てが決まっていました。

 びっくり続きの日から数ヶ月経った6月の始め、娘はヴァイオリンを抱え、単身ドイツへと飛び立って行きました。それから3ケ月くらい経ったある日のこと、電話口には祐二先生のお声。「郁子チャン元気にしとったで!一緒にご飯食べて来た。マルシュナー先生にもお目にかかり、ちゃんと頼んで来たからな」。これもまたびっくり。ヨーロッパに御旅行された折にフライブルクへ立ち寄って、娘の様子を見て来て下さったのです。先生の深い思いやりに嬉しいやら有り難いやら、胸が一杯になり今でも思い出すと涙が出て参ります。その娘もドイツ生活33年目になり、一昨年、所属オーケストラでも永年勤続25年のひと区切りを越えたとか。感激と喜びと、感謝と、そしてびっくりの数々、先生本当に有り難うございました。
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いっしょに学びあう師弟の仲

西田郁子 シュトゥットガルト歌劇場管弦楽団
西田郁子

「先生、帰りました」「オッ!いっこちゃん帰ってきたがドイツでは肉ばっかり食べてるやろうから、美味しいお寿司、食べに連れて行ってあげよう!ドイツから帰国すると祐二先生はいつも、食べるのが大好きな私をこんな具合に迎えて下さいました。懐かしい想い出です。

 私は、小学校4年生の秋から、祐二先生の門下生となりました。先生のレッスンは厳しかったです。厳しいレッスンに加えて先生は、鷲見三郎先生、海野義雄先生など、来阪される先生方のレッスンを受けるチャンスを与えて下さいました。

 その経験が私の視野を広げることに役立ったのはもちろんですが、他の先生の指導を受けて来た弟子を通して、先生ご自身が指導者として研鑽を積まれていたのですね。先生の、音楽に向き合うこの真摯な姿勢が、演奏する時でも教える時でも如何に大切なことか…。後進の指導に携わる年代になって、改めてその重要性をひしひしと感じる今日この頃、祐二先生に教えていただいた私は、本当に幸せたったと思います。

 高校を卒業してドイツに留学することを決めた時、最後まで反対する母を説得して下さったのも祐二先生でした。そうして始まったドイツでの生活。渡独間もない1976年の夏には、妻先生と一緒に訪ねて来て下さり、Marschner教授にも会って下さいました。 あの時ほど、先生の温かさを感じたことはありませんでした。どんなに心強かったことか。

 以来33年余り。1982年からはシュトゥットガルト歌劇場オーケストラの一員として、また室内楽やソロで今日まで演奏活動を続けて来られたのも、祐二先生の厳しいご指導と、温かい励ましがあったからです。先生には、いくら感謝してもしきれません。 19糾年に大フィルと共演した時には、リハーサル会場を駆け回って写真を写して下さった先生。あれが先生に聴いて頂ける最後の演奏になるとは、その時には想像もできませんでした。でも、日本でオーケストラとの共演を聴いて頂くことができ、「少しは恩返しができたのかな」と思っています。先生、いかがでしょうか?

 先生の残された音楽教育の足跡は、これからも日本の、そして世界の音楽界で様々な形で実を結んでいくことだと思います。「オッ!皆、頑張っとるな!」。祐二先生の大きな声が今も聞こえてくるような気がします。
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匂いの記憶

葉加瀬太郎
葉加瀬太郎

 僕の場合、色々な記憶が「匂い」をキーにして、脳内にインプットされているらしい。毎年全国を巡るコンサートツアーでも、それぞれのホールの持つそれぞれの「匂い」が、また今年も此処に来たんだということを認識させてくれる。コンサート当日、駅や飛行場から会場へ。車を降り、楽屋に入って荷物を置く。楽器のケースを開け、僕はまず舞台の真ん中に立つ。目を閉じて深呼吸する。ホールの空気が僕の肺を満たし、前回のコンサートでの舞台の上のことから、その街の様々なことまで、つぶさに思い出させてくれる。本番前の僕にとって、とても大切な儀式である。

 そしてこれはまた、その場にいなくても、自分の記憶をたどってイメージの中で再現することもできる。これはもう特技といっていいだろう。美味いカレー屋などはその匂いを思い出せば、その店の雰囲気、店に到るまでの道程や、周辺の景色、一緒に食した仲間の顔も思い出すことができる。

 僕は一人でボーッとしながらよくこの遊びをしている。今は台風の雨で、じめじめとした東京の自宅でこの原稿を書きながら、心の中では、大好きなロンドンの爽やかな風が吹き渡る公園の芝生の香りを思い出している。

 そんな僕が、「匂い」の記憶の中で、今でも思い出すだけで当時の緊張感がよみがえり、ビクビクしてしまうのが、大阪千里、古江台の東儀先生宅のレッスン室だ。玄関を開けた時の匂いは、古い図書館のようでも診療所のようでもあった。奥の部屋から漂う先生の僅かな生活感と、沢山の楽譜や研究資料がそんな匂いをつくっていたんだろう。左側のドアを開ければもうレッスン室だ。レッスン室に入ると匂いはまた少し変化する。昨日先生が吸っていた煙草の匂いがそこに加わる。僕の緊張は一気に加速する。

 日曜日の午前10時、その日最初のレッスンだ。先生はまだ起きて来ない。こういう日は間違いなく機嫌が悪い。10分経っても先生は現れない。ソファの横のマガジンラックから手塚治虫の「火の鳥」を手に取るが、緊張のあまり集中できない。仕方なく、楽譜を眺めて土壇場の練習をと思うが、そんな心境では何も出来はしない。20分後、ギシギシと階段が乳む音がする。僕は慌てて楽器を手に取り、古めかしい譜面台の前に立つ。譜面の先にドアが開くのが見える。煙草と眼鏡を持った寝癖だらけの髪の祐二先生が入って来る。「おはようございます」。返事は無い。先生はピアノの前の椅子に直行する。「お願いします」。「ん」。これ以上考えられないという短い返事と共に、チューニングの重苦しいDのハーモニー。僕の緊張はこの時点で頂点に達する。しかし、始まってしまえば腹を括るしかない。どんなに叱られたって、このレッスンはしっかり弾き切ってやる。一時間耐えきればいいんだ。

 でも僕は知っている。頑張って一生懸命弾けば、最後に先生は必ず、少しだけ優しく笑ってくれる。              2009年8月10日 東京にて
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キラキラこぼれ落ちるあの頃の想い

原谷百代(旧姓神前)
原谷百代

遠い過去の年月のページを1枚ずつめくり返してみると、とてもここには書ききれないぐらい沢山 の思い出が、キラキラとこぼれ落ちてきます。

 私が初めて先生にお会いしたのは高校1年の時、小さい頃から続けてきたヴァイオリンで、中学の時には全日本学生音楽コンクールの西日本地区大会入賞はしたものの、その後伸び悩み、自分には才能が無いからヴァイオリンはやめようかな、と思っていた頃です。先生は私より12歳年上、まだお若くて、ぶっきらぼうだけれどとても温かい感じで、ある時、私がうまく弾けなくてモタモクしていると、同情するような顔で溜息をつきながら「難しいな−」と云って下さったのです。当時の私は劣等感の固まりのようになっていたので、この「難しいな−」と云う一言にどれだけ救われたことでしょう。「ここは先生だって難しいところなんだ」と思うと、急に気が楽になってみるみるやる気を取り戻し、その後何十年もヴァイオリンをやめずにいることになるのです。

 またある時、京都三条の十字屋のレッスン室に、京響で弾いてらした幸先生が立ち寄られたのですが、縦ロールの髪に長いまつげの栗色の日がフランス人形のように可愛くて、学生さんかなと思ったら先生と妙になれなれしくて、「なーんだ奥さんか−」と、びっくりしたものです。その後、東京の兎束先生の所へ連れて行って下さって藝大を受験することになり、先生の門下生では初めてだったらしく、合格した時はとても喜んで下さいました。

 藝大卒業後、相愛大学の助手(高校や音楽教室の講師も兼任)をさせて頂くことになり、学校に勤務の傍ら次々と演奏のチャンスにも恵まれました。NHK午後のリサイタル、夕べのリサイタル、関西ラジオの音楽番組等の録音、テレビ出演、オケとコンチェルトを共演した時のオケ合わせ、リサイタルの会場練習など、今思い返せばいつも先生が居て心配そうに見守って下さったな−と本当に有難く、お世話になりっぱなしで、たった2年で相愛を辞めて東京に来てしまったことを、今更ながら申し訳なく思っています。リサイタルを開く前には、私を梶本音楽事務所に連れて行って、「リサイタルを1回開けば、音楽人生は10年伸びるよ」と励まして下さいました。子供達が少し大きくなった頃から都立芸術高校の講師となり、長年勤めることになるのですが、同じ頃から友人と5人(今は3人)で年1回グループコンサートを開くようになりました。ある時は、デュオリサイタルのソナタを一度に3曲も、先生のお宅で何時間もレッスンして頂きましたね。グループコンサートは今も続けて25回以上を数え、桐朋のピアノ科を卒業した娘とのデュオリサイタルも時々開いています。

 それにしても、もし先生が生きてられたら、と今まで何度思ったことでしょう。一目で良いからお会いしたい、一度で良いから聴いてもらいたい、そんな思いがあふれてきて涙が止まりません。私はもっともっと自分の思いが伝わるような演奏がしたいのです。

 先生、天国からずっと見守っていて下さいね。
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昔は「ドキッ!」、今でも「ドキッ!」

福本俊夫
福本俊夫

 本当のことを申し上げますと、未だに「東儀先生」というお名前を耳にするだけで、ドキッとします。

 それは最初のレッスンのことです。昭和32年5月に伏見桃山のお宅に伺うと、そこは時代劇に出てくるような素晴らしいお宅で、広い土間には井戸もありました。僕はそのとき小学校3年生でしたが、それまでこんな立派なお宅は見たことも無かったので、本当にびっくりしたことを今でも覚えています。

 さてレッスンです。それまで通ったレッスンでは、いつも先生がチューニングして下さっていたので、この日も何気なしに楽器を東儀先生に渡してしまいました。そこで先生の一言、「なんだ、まだ調子も合わせられないのか」。頭のてっぺんから爪先まで電流が通り抜けました。それから後はもう足がガクガク震えて、その時に何を弾いたのか、先生がどんなことを仰ったのか解らずに、その日のレッスンは終わってしまいました。

 それから7年間、毎回レッスンの時は電流が流れっぱなしでした。それでも時々レッスンの後に、幸先生から励ましのお言葉を頂き、親子共々ほっとしたことを覚えています。その後、相愛の音楽教室にも通うようになり、またそこで電流が走ります。もちろんオケです。「ちょっと独りで弾いてみろ」。みなさんは楽しそうに弾いていらっしゃるけれど、僕はドキドキしながら、弾いていました。

 それから30数年後、「東儀先生に捧げるモーツアルト全曲演奏会」に出演させていただいた時、まさかと思ったのですが、やはり同じような精神状態になっていて、いつまでたっても成長しない自分を、情けなく思った次第です。
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教えはずっと心の支えに

福本とも子 ウィオリスト
福本とも子

祐二先生がお亡くなりになってもう25年…。先生の年齢を越えて生きている自分に、不思議な気がします‥・。

 東儀先生には兄と二人、大変お世話になりました。当時、私達は徳島に住んでいて、毎週、母に付き添われて夜行船でレッスンに通っていました。まだ本州との連絡橋が架かってない時代でしたので、台風で船が欠航してレッスンにうかがえない!なんて事態も、年に一度くらいはありました。

 厳しく怖いので有名な(!?)祐二先生ですが、私は兄妹の下ということもあり、甘やかされていて(?)あまり厳しく叱られた記憶はありません。曲が仕上がってくると、先生が伴奏のピアノを弾いて下さるのが嬉しくて、一生懸命に浚っていたように思います。

 幼稚園入園前から中学卒業まで、10年以上に渡って、みっちりと教えて頂きました。藝高に入学してからは、最初の1年間、幸先生のご実家に下宿させて頂き、慣れない大都会での生活を、温かくサポートして頂きました。本当に、先生ご一家には、いくら感謝してもしきれない思いです。

 東儀先生に教わったことは、高校、大学、またヴィオラに転向してオーケストラに入ってからも、ずっと私の心の支えでした。あちこちの仕事先で、東儀門下の方々に出会う事も多く、関西に東儀先生あり!で心強いです。今はフリーでヴィオラを弾いていますが、これからも東儀先生の門下生として恥ずかしくない演奏活動を続けていければ‥・と願っています。

 最後になりましたが、幸先生のご病気の1日も早いご快復をお祈りしております。
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「ベラボウ…」な、カミナリ・レッスン

藤原郁子 相愛音楽教室講師
藤原郁子

東儀先生のレッスンというと、決まって思い出すのが「ベラボウに…」という言葉です。これは先生のカミナリが落ちる寸前に発せられる言葉で、先生が不機嫌なお顔で片手を耳に当てながら「ベラボウに音程悪い!」などとおっしゃると、私は頭の中が真っ白になり音程を判断することなどできず、ついには「もうダメだっ!!」とよく怒鳴られてしまったものでした。

 私は小学校3年生が終わるころ東儀先生の門を叩き、基礎からやり直しをしました。その頃の私は先生のおっしゃることの半分も理解できなくて、先生のカミナリが落ちることもしばしば…。私にとって先生は、ただもう怖いだけの存在でした。

 今でも思い出すのは、阪堺電車に乗って通った帝塚山のお宅でのレッスンの一コマです。それは夏の暑い日で、扇風機はありましたが(まだ一般家庭にはクーラーなどない時代)ムンムンする暑さと先生のお怒りとで、お部屋の中はものすごい熱気。汗だくになって弾いていると、「Fisがベラボウに高い!」「なんじゃその半音は!ベラボウに狭くて気持ち悪い!!」などと、ご多分にもれず先生のカミナリが炸裂。思わず泣きそうになりましたが、ここで泣くともっと叱られるので必死に我慢。しかし目の前がだんだんぼやけてきて、ついに涙が…。私は、「こんなに顔中びしょびしょに汗をかいているのだから、きっと涙も汗に見えて、泣いたのはわからないかも知れない」と期待しましたが、しっかりバレて(当たり前です…)「また泣いているな!!」とさらに怒鳴られてしまいました。 今から思うと、そんな余計な事を考えていたから、先生のおっしゃることが満足にできなかったのだと思いますが…。

 子供時代、私は、「将来、ヴァイオリンの先生になることがあったら、短気ですぐ怒る先生でなく、優しい先生になろう」と考えていました。しかし、いざ自分が教える立場になってみて、あんなに不出来な生徒だった私を放り出さずに、妥協することなく教えて下さった先生は、短気どころでなく、実は非常に忍耐強い方だったのだと感じています。そして生徒を震え上がらせるほどの「怖い先生」でいるには、莫大なエネルギーが必要だということもわかりました。「親の心子知らず」状態の私でしたが、あんなに叱られても不思議とヴァイオリンをやめようとは思わなかったのは、怖さの裏にある先生の深い愛情と熱意のお陰だったのだ‥・と、つくづく思います。

 私が成長するにつれて先生のレッスン形態も変わり、ヴァイオリン以外のこともいろいろお話ししたり、冗談を言ったりできるようになりました。でも、今深い感謝と共にいちばん懐かしく思い出すのは、帝塚山のお宅と、お若いころの「ベラボウに」怖かった先生のお姿です。
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演奏だけにとどまらない幅広い指導

細谷勇旗 藝大フィルハーモニア楽員 昭和音楽大学付属音楽教室勤務
細谷勇旗

先生にヴァイオリンを習い始めましたのは、私が小学校1年生で、相愛学園子供の音楽教室に入室した時からだと思います。母に連れられて姫松の御住まいでのレッスンでしたが、子供なりにすごく熱心で厳しく感じました。レッスン室には緊張感があり疲れもしましたが、先生が休憩のとき召し上がる果物が運ばれてくると、ホッと一息つきました。

 先生はオーケストラの指揮・指導もされていましたので、先生のレッスンと並行して、子供オーケストラ(当時Cオケ)に私も参加させて頂き、そこでたくさんの良い先輩・仲間にも恵まれました。オーケストラ練習のとき、先ず鉛筆とケシゴムを用意することや小節の数え方を教えて下さいました。これは藝高でのオーケストラ授業で、すぐに役立ちました。

 演奏に関する指示の中では、先生は「指揮者を見て」とよくおっしゃいました。また休憩時間、先生が喫煙される場合、必ず携帯吸いがら入れを持参されていたのも、印象に残っています。それからオーケストラの練習が終わり、椅子や譜面台の後片付けが残っているのに、私が足早に階段を駆け降り帰ろうとすると、先生が「コラーッ!」と言って追い駆けて来られ、連れ戻されたこともありました。今考えてみますと、演奏以外の面も大事にされていた様に思われ、良い指導を受けたと感謝しております。

 その後、御自宅を千里山に移され、大阪梅新のレッスン所のどちらかで、高校入学までレッスンを受けました。上京してからは御挨拶にもうかがいませんでしたが、先生が藝大の集まりの関係で東京に来られ、お会いできる機会がありました。その時には、私にも以前同様に声をかけて下さり、飾られないいつものお姿の先生を拝見できました。

 現在、私は藝大フィルハーモニア楽員、並びに昭和音大付属音楽教室に勤務しており、オーケストラでは幸先生のお弟子さんと御一緒しています。

 また、音楽教室における指導では、小さい子供達との付き合い方を私は最初わかりませんでしたが、先生が私達に自然体で接して下さっていたのを覚えていたのか、今は慣れてきました。

 思い起こせば、先生に師事していた間、豊富な体験をさせて頂きました。相愛での兎束、篠崎、鷲見先生方のレッスンの受講、Cオケの大山での合宿、またいずみ会の演奏会、新年会等、楽しく、充実した思い出が、知らないうちに心の支えのひとつになってくれています。当時意識していなかった有り難さ、そして先生を通して得られた先輩、同門の方々を大切にして、これからも努力してまいりたいと思います。
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久しぶりの再会のときに

三木邦子 元相愛音楽教室専任講師
三木邦子

 まもなく25年にもなるのですね。自分がとっくに先生のお年を越してしまった今、なおさら早すぎたお別れを実感しています。 1986年に相愛音楽教室が新組織となり、室長となられた東儀先生の下で専任講師として勤めさせて頂いたのですが、たった4年とは思えない充実した毎日でした。当時はまだ本町に大学がありましたので、しょっちゅうお会いしてご相談することができ、私は非常に心強く思っていたのですが、先生は「そんなこと言われたってなあ〜‥・」と口を尖らせで憮然…ということがよくありました。

 当時は生徒数も多く、教室の獲得が一仕事でしたし、旧来の問題点を改善したり新しく高校生コースを作るときでしたので、教授との兼務は本当に大変だったと思います。決してご器用な方ではなかったので、部外との交渉などご苦労も多かったことでしょう。

 その頃ヘビースモーカーの先生に、「吸い過ぎですよ、健康に悪いから気をつけてください」と何度も申し上げてしまいました。「家ではママ(幸先生)に言われ、ここで君にまで言われたら…」とおっしゃっていた先生が、急にお吸いにならなくなったのでどうして?と不思議に思いましたら、「タバコの臭いがすると、孫を抱かせてもらえないんや」と、照れくさそうな笑顔でおっしゃっていました。でも、もしかしたらそのころから体調がお悪かったんじゃないかと思うと胸が痛みます。

 このたびの演奏会で、久しぶりに先生にお会いできる気がします。流れを汲む方々のご活躍に先生もきっと満足なさっていることでしょう。
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奇襲(?)レッスンに戸惑いながら

村越伸子
村越伸子

 レッスンという言葉を聞くと、つらく厳しい光景を目に浮かべる方が多いかもしれません。ですが「練習」は別として、今ゆっくりと東儀先生のレッスンを振り返ってみると、意外なほどつらかった記憶がないのです。

 初めて先生にお会いしてヴァイオリンを弾いた時のことです。

 曲目はプニャーニ/クライスラーの『前奏曲とアレグロ』。弾き終わった私に先生がおっしゃったのは、「クライスラーはどこの国の人?」でした。さて合格か不合格かとそればかり考え、緊張していた私はなんだかキョトンとした気分になったことを覚えています。

 それ以後のレッスンも、先生の奇襲攻撃は続きます。

 楽譜を指さして「これ、なんだ?」「……?」。今にして思えば、これは奇襲攻撃などではなく、楽譜をよく読むこと、楽譜にはないそれぞれの曲の背景を理解することの大切さを常に示して下さっていたのでした。

 レッスンの時、一緒によくピアノパートを弾いて下さったこと。とても楽しい思い出です。

 堀川高校音楽科(現在の京都市立音楽高校)に入学してからは、学校でレッスンを受けていましたが、ある日のこと、いつものように(?)近道をしようと閉まっている校門によじ登り、ふと下をみると東儀先生が…。先生はニンマリと「ぼくはやめとく。回り道していくわ」。

 思い出すときりがなさそうで、今回はこのくらいにしておきます。
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思い出を共有できるよろこび

渡辺 剛
渡辺剛

 朝早い時間に流れる特別な緊張感と、祐二先生の為だけに幸先生から出される珈琲の香りが今でも忘れられません。それから高校入学、そして堀川高校音楽科の学生としてのレッスンが1年間。そこまでが先生との貴重な時間でした。

 いつだったか急に、シゲティのレコードに針を落としてくれたんです。香りのキツいスプレーをシュッ、静電気を払って、パリパリって音のする古いLP盤を先生と二人で聴きました。ほんの短い時間でしたが、一緒にスピーカーの方を向いて同じ音を聞いて、同じように「シゲティっていいなあ」って感じてたような気がします。「これ聴くか、ええのを聴くかゴウ君」って言われて、僕は子供だったのでただじっと黙って、内心「ツヨシなんだけど…」、ちょっと怖くてうなずいただけでしたが、それが一番心に残る音楽体験だっ たと思います。夢の中ではこんなこともありました。 僕はレッスンをさぼるんです。ちゃんとレッスン部屋の前に立っているのに、急に踵を返して坂を駆け降り、一目散に逃げ出してしまうのです。ヴァイオリンケースを持って走るのはとても大変で、ちょっとうなされました。でも結局のところ休むなんてことはありませんでした。

 3歳の頃、初めてお会いした当時の東儀先生の年齢に僕も今さしかかろうとしています。

 音楽と人生と出会いと別れ。

 何があってもヴァイオリンを弾き続けることが唯一の接点であったと思います。こうして皆さんと東儀先生の思い出を共有できることにとても感謝しています。
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東儀祐二君との出会い

山井清雄(やまのいすみお)
山井清雄

〈プロフィール〉

大正11年(1922)生まれ。山井家は“楽家”(干数百年に渡って雅楽を代々伝えてきた家柄)であり、清雄氏も13歳で宮内省楽部に入り20歳で楽師となる。昭和19年徴兵、のち復員。戦後しばらくは楽部の仕事を続けるが、楽部をやめ、進駐軍相手の室内楽団などに参カロ。3歳から学んだヴァイオリンで生計を立てるようになる。その後、東京交響楽団の前身である東宝交響楽団に入り、指揮の近衛秀麿氏と共に第一流の交響楽団に成長させる一方、多くのヴァイオリン奏者を育て、戦後のクラシック音楽の普及に尽力する。


 東儀家も楽家であったため、男児の誰かが雅楽の道に進むのがならいで、次男であった祐二氏が宮内省楽部に入ることになりました。

 祐二氏は小学校5年から、東京の親戚で楽家でもあった芝家に下宿して小学校へ通いながら、芝家の人からヴァイオリンの手ほどきも受けたそうです。12歳から楽部に入り、18歳で卒業するまで雅楽と洋楽の研鑽を積みます。その間には山井氏のお宅において頂き、清雄氏の父、基清氏に雅楽を教えて頂いたこともありました。清雄氏によると、「祐二君は楽部で三管(笙、篳篥、笛)、舞、オーケストラで活躍していて、特に舞がうまかった」とか。

 また、「楽部では昼間に勉強が出来ないので、夜学に通うように言われて、私は府立四中に通っていました(当時は東京府:編集部注)。しかし、昼間学ぶ雅楽は、笛にしろ舞にしろ全て暗記ですから、夜になるともう何も頭に入らないのでやめてしまいました。 ところが祐二君は九段中学に通って、一生懸命勉強していましたから、それは感心でした」。

 終戦後、祐二氏が東宝交響楽団に入りたいと言ってきたときに、山井氏は、「音楽は楽隊では駄目。隊を組まなきゃ楽にならないようなのでは駄臥と言ってやめさせます。当時のオーケストラにはまだ技術的な問題があり、入団しても満足してはいけないという意味合いがあったのでした。

 なお戦後、祐二氏は楽部をやめて京都に帰り、しばらく進駐軍目当てのダンスホールで演奏していましたが、昭和24年、堀川高校音楽科に入学して、翌年、東京藝術大学に進み29年に卒業。同時に、東京フィルハーモニー交響楽団に入団し、第2ヴァイオリン首席を2年間勤めました。この頃には、関西に帰って教育者になる意志を固めていたそうです。

「祐二君は教育者になって本当に良かった。どうLであんなに早く亡くなってしまったのかな。でも多くの優秀な教え子を育てたことは素晴らしいことだ」と締め括られました。

(2009年7月19日、都内山井邸にてインタビュー)

*聞き手:森田玲子(千里フィルハーモ二ア・大阪コンサートミストレス 5歳から8歳まで山井清雄氏に師事)、家本秀彦(同副団長)
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