今回の作品について




海月出づる時






 今度の作品は、まあ一言で言うと、前回の「雪のない冬の日」に引き続き、「かんから館近未来シリーズ(?)第2弾」です。というのも、前回作が、一部(かなり一部ですが)で好評だったので、味をしめて「柳の下のドジョウ」をねらったわけです。
 というのは、半分ウソですが、「まあ、そろそろ劇団のカラーというのも必要じゃないの?」というまっとうな意見もあったわけで、この辺をもうちょっと追究してみようかな?ということですな。

 とはいうものの、見かけの上ではかなり前回の作品とは趣を異にすると思います。
 なにせ、今度のは役者が女の子ばかりです。そして、その連中が、果たせるかな、ピーチクパーチク騒ぎます。かなり軽いです。
 だから、「これのどこが第2弾やねん!」とお怒りの方もいらっしゃることでしょう。
 でも、やっぱり第2弾なのだ、とあえて強弁するのです。

 だって、この作品の思いつきのきっかけは、かの「2・26事件」なのです。
 2・26というと、私も歴史の授業で習った段階では、「極右将校たちが起こしたクーデター未遂事件」ぐらいの印象しかありませんでした。だから、日本中が大パニックになって、戦々恐々とした日々が続いたのだろう、と勝手に思い込んでいました。
 でも、実際はかなり違っていたようです。2・26の日は大雪であったことは有名ですが、普通に学校も会社もやっていたそうです。確かに戒厳令は出ていたのですが、普通の市民たちは、はっきり言って何が起こったのかよくわかってなくて、市電の中から土嚢に積んだ機関銃を見て、「なんか大がかりな演習をしてるんだな」ぐらいにフツーに思ってたらしいのです。
 まあ、この2・26に限らず、我々は歴史的な事件を見る時、ついつい俯瞰的な視点を取りがちで、つまり、新聞の一面記事的な見方をしがちなのですが、同時代の人々は、どっちかというと三面記事的な世界に生きてるわけです。その意味で、60年安保の国会デモの真っ最中に、岸首相が「だけど、今日も後楽園は満員じゃないか!」と言ったことは、ある意味で非常に正しい。非常に正しいからこそ恐いところもあるわけなのですが、その辺に最近私は非常に興味があるのですよ。
 だから、そういう地べたにはいつくばるような三面記事の視点で、歴史的事件をとらえたらどんな風に見えるんだろう?という野次馬的関心から、この作品は書くことにしました。

 もう一つ。
 「歴史が判断する」という言葉があります。窮地に追い込まれた政治家がよく使う言葉ですが、確かにこれにも一理あると思うのです。
 誤解を恐れずに言えば、同時代の人間は、リアルタイムの出来事を正確に判断することはできないのです。あらゆる出来事や事件は、ひょっとしたら、その時点では「無意味」(良い意味でも、悪い意味でも)です。時の流れと歴史のみが、それに「意味」を与え、価値を判断するのです。まあ、平たく言えば、野球中継の評論家の「結果論」みたいなものですね。
 だから、右の人たちがよく言う「東京裁判史観」の不当性というのも、全くの暴論とは言えないんじゃないかな、と思っています。「後からなら何でも言えるじゃん」ってことですよね。

 でもねぇ、そうすると、こういう結論にもなりますよね。「我々は歴史に対して何もすることはできない」って。‥‥これって、ちょっと恐くて、かなり絶望的ですよ。
 まあ、今さら言うのも何だけど、私は左の人間です。だから、「反戦」とか「平和」とか好きなんですけど、こういう風に考えてみると、左の人がよく言う「歴史の教訓」とか「歴史に学ぶ」とかいう方法論は、本当に有効なんでしょうかね?
 だって、何度も言うように、戦争とかファシズムってのは、必ず三面記事的に地べたからズルズルとやってくるんです。これは日本でも、ナチスでも同じでした。それに対して、大上段に振りかぶって一面記事的に大声で反戦平和を唱えることが、どれだけ有効な反撃なんでしょうか?

 ということで、いっぺん、地べたにはいつくばって考えてみよう、てなことを考えてみたわけです。そこで何が見えてくるか?
 まあ、結論は急がないで、一度一緒にはいつくばって見て下され。




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