2.わたしについて
細い枝が幾重にも重なり、辺り−面は、たくさんの葉をすけてくる陽を受けて様々な色あいの緑をつくる。楡の葉の細長く緑がぎざぎざの形は、手前の枝でしか分らない。葉と葉、木と木が重なり、明るい緑の空気をつくる。
けれど、彼女には、緑の木々の匂いを感じることはできなかった。微かな風にさざめく枝の声も聞こえなかった。
床の冷たさに、彼女は、白分の膝を強く抱いた。
枝の切れ目に、遠くの方にある白い建物が見えた。大きな3階建ての屋敷だった。
入口ヘと続く白い道。よく手入れされているように見える芝生。
玄関の階段のところに誰か立っていた。白っぽい服をを着た婦人だった。それがそこに立ち、屋敷の右手の方を見ている。
彼女の見ている先、建物の前をゆるやかに曲がっていく道を、白いドレスを着た女の子。何かを胸のところに両手で抱いている。この距離では顔までははっきりと分らない。名前を呼ばれたのだろうか、その子が玄関の方へ向いたとき、彼女の後ろで長い髪がふわりとふくらんだ。長くてやわらかそうな金色の髪。陽の光のように明るい金色ではなく、夕陽を照らす湖面のような暗くて深い金色の髪。
そのとき、高いブザーの音が突然響いた。アレニアは、はっと顔を上げた。周囲の映像が滲んだように消えてゆく。部屋が暗くなる。
アレニアは、立ち上がり、振り向く。扉が開き、明かりが灯る。
「フィールド破ってすまない。緊急だから」
その男は、あまりに背が高かったため、少し身をかがめないと入口がくぐれなかった。
「別にいいのよ。プライベートだから。それより、何?」
そう言って、見下ろすコアの目に、彼女は、一瞬、視線を横のクリーム色の壁へ逸した。
しかし、それは一瞬で、すぐ、このサポーターを見上げる。コアは、そんな彼女の仕種に気づいたかどうか。
「すぐ出ろという命令だ。プラットホームはエイジィ」
「エイジィ? 動くようになったの? それに、特別言の選定と調整は?」
二人は並んで、その観測室を出た。
「その特別官が問題なんだ。情報が流れてるらしくて、選定が決まったと同時に向こうに知られた可能性がある。どっちが先に接触できるかってことだ」
「間に合うかな。彼らは既に向うにいる」
アレニアがつぶやく。
「オペレーターは特別官を通常の半分程度の年齢で覚醒させるらしい」
「なぜ」
「資料を見れば分る。少々不安だがね」
アレニアは、少しの間黙って歩き、そして、言った。
「特別官なんて、跳べればいいのよ」
「えーっ、コアさんって、ロボットなの?!」
あんまり意外だったから、大げさに驚いちゃう。おかげで、あたしの頭の左横で仕事してたアレニアが、耳たぶ引っぱって、「動かないで」って言う。ちょっぴりてれてるみたいに笑うコアのおじさんは、本当、人間にしか見えなかった。そりゃ、人間にしては大っきすぎるかな、て思うけど。
アレニアは、あたしの左の耳の奥に、小さい銀色のボタンみたいなのを押し込んだ。少しくすぐったいけど、聞こえ方は全然変らない。これは通信器で、これをつけてればさっきみたいな時間孔のなかでも話ができるんだとアレニアは言った。
「気分悪いの治った?」
「うん。もういい」
「しばらくしたらまたぶりかえすかもしれないから、覚悟しててね」
うわ、やだな。
「コア、とりあえず、あの倉庫へ行ってみましょう。もう引き払ってるだろうけど、何か手掛り残ってるかもしれない」
コアは、地面に下ろしてた大っきい白い箱を背負う。
「跳躍者と、さっきの感じからすると捜索者もいる。いつの間に揃えたんだろ」
アレニアの言ってること分んないな。自分と同じくらいの子のロからそういう言葉がでてくるとちょっとショックなのよね。タイムパトロールってみんなこんな感じなのかな。そういえば、特別調査官であるあたしも、こんな子供ですから―――わぁ。
コアのやっぱり大きい手があたしの頭の上に。
「もっとも、跳躍者は、彼女が時間孔のなかで跳ね飛ばしてくれたがね」
どういたしまして。
あれ。
あたしは、コアの横を離れて、低い木のそばへ行った。無意識に葉っぱの陰に隠れちゃう。だって、そこから見えたのは、ずっと遠くの下の方、郵便局のある角を洋美と一緒に歩いてるあたしだったから。
「うわぁ、へん」
朝のあたしだ。他の人たちの聞に混じって。これから何が起こるのか、まだ知らないあたし。とっても変な感じ。
アレニアの銀のペンダントは通信器だった。時間孔を使った移動は、そのペンダントを通して、時間管理局に指示を出して行うんだって。
あたしたちが脱出した時間から、ちょうど、今まであたしたちが過した分遅い時間の倉痺へ出たんだそうだ。どうして、逃げ出したすぐ後じゃだめなんだろ。
でも、余裕を持って、はとんど真夜中あたりとアレニアは指示を出した。
「歩きはじめのよちよちの赤ん坊がいると転移がうまくきまらないんだ」
ふん、コアのいじわる。あたし、赤ちゃんじゃないよ。
また時間孔。白い光の霧。めまいがおこるけど前ほどひどくない。
「時間移動については、シャルの群っていう難しい話をしなきゃいけないんだけど」
アレニアの声。
「でも、簡単に言えばね、ある一瞬の世界を考えるの。その世界がね、どこも時間的におかしなところがなくて、つまり、ここ場所の時間とすぐ隣での時間が大きくずれて食い違うなんていうことがなくて、そしたら、その一瞬の世界をシャルのシートって呼ぶわけ。普通、世界は、そんなシャルのシートがずっと過去から未来へ積み重なってる分厚い本みたいなものなのよ。だから、あるページに書いてある字が十ページ前の方へ行きたいって思ってみても、本当ならそんなの無理よね。でも、その本の真ん中に大っきな穴が空いてて、ページがゴムみたいに薄く引きのばせたら、その穴を通って別のページにもとのページ、重ねられるよね。その穴が時間孔なのよ」
ふ−ん。
「だけと、気をつけてね。ページはやっぱりもとのページなんだから。何かあればもとの場所に戻るしかないし、戻れなかったらちぎれちゃう。それに、結局、自分のしっぽはもとの場所っていうのが、カフのパラドックスのもとになるの」
「カフのパラドックスって?」
「わたしたちが、わざわざ夜中に倉庫にこなくちゃいけなくなる理由」
倉庫の前の駐車場が目の前に現れたとき、東の方の空がぼんやりと水色になってた。
「三時間ほどずれたね」
やだな、もう、あたし、一生懸命じっとしてたつもりなのに。あたしじゃなくて機械の方が悪いんじゃないの。
建物の中は暗かった。
「コア」
コアの背負った籍の上の方からやわらかい光が天井に当たって。間接解明って言うんだよね。部屋はぼんやりと明るい。
奥の部屋は、入口に鉄の扉の残骸が落ちてた。ぐにゃぐにゃになってて、乗っかるとぎしぎしと揺れる。
一瞬、薄暗くなって、コアが扉をひとまたぎして、今度は、部屋の隅から隅までが照らされる。
黒くこげちゃったソファ。折れた足が一本、右の奥に転がってて。木のテーブルは左の方で、ペしゃってつぶれてた。
「あのおじさん、だいじょうぶだったのかな」 .「あれ、目くらましだったし。それに、ザイツなら、本当にグレネードだったとしても、うまく助かってるでしょうね」
奥の扉があった。開け放たれてて。さっきは気づかなかった。
「用心して。アユミ、あたしの後ろに」
コアを先頭に、アレニア、あたしって続く。
小さい部屋だった。スチールの棚が壁にそって並んでて、奥に机がある。
「あぶない!」
大きな音がはじけた。振り返ったコアがあたしとアレニアにおおいかぶさる。暗闇が戻る。あたしにぶつかったアレニアの体は、次には、すばやく離れた。あたしはそのままおしりをついちゃう。
何なの、いったい。ひょっとして、今のピストル?
明かりがまた部屋を照らした。耳がさっきの音に、まだ、き−んと鳴っている。火薬のにおいがした。
アレニアとコアが部屋の真中に、辺りをうかがうように立っている。コアは小さな銃を構えてて。アレニアも手に何か握ってる。
「もう行ったわ」
アレニアのその言葉が合図みたいに、二人の緊張が解けるのが分った。
「あの跳躍者、戻れてたってわけね」
あたしも立ち上がる。手がほこりだらけになってる。
「カフの原則を完全に無視してる!」
コアがものすごく乱暴な声で言った。怒ってるの? コアの背中の箱に小さく患い穴が空いている。それ見て、あたし、ぞっとした。だって、あれ、もし、箱じゃなくて、誰かの体だったら。
「わたしが油断してた。これが彼らの手よ。局の絶対非干渉の原則をわたしたち白身に破らせる」
アレニアは、そう言って、手に持ってたのをポケットへ入れた。
「時間を正確に同期させて転移すべきだった」
えっ、正確にってi。
「あたしの―――せい?」
おそるおそる言ってみる。
「まさか」すぐ、コアのあの乱暴だけど明るい声が返ってきた。棚を調べながら。「それは、うぬぼれ、つてやつだよ」
うん。ありがとう。でも、考えちゃう。どうして、あたしを選んだんだろう。未来からの干渉を受けてもだいじょうぶな入って言ってた。でも、あたし、何か特別にいいところがあるって訳でもなくて、持ってる能力も、あたしを選んでからあたしに身に付けさせたんでしょ。それも、満足に使えてないし。
だいたい、干渉を受けてもいい入ってどういうんだろ。
「コア!」
アレニアが小さく叫んだ。すすけたガラスの窓の下の机。引き出しの一つが開いてて、その中をのぞいてる。
コアが来て、アレニアの横に立つと、両手を開いた引き出しのなかへ入れた。
そっと、そっと、ふちまでいっぱいに入ったコップの水こぼさないようにするみたいに、そっと、何かを持ち上げる。
それ、鈍い銀色の細長い棒だった。きらって光りた。金属だ。
「何かの信管か」
ちょっと考え込んでるみたいなアレニア。
「コア、この世界の初期の原子爆弾の信管、見たことある?」
原子爆弾?!
「この世界のとはちょっと違う気がするが、バーレルの科学革命の時代にこんなのがあった気がするな」
コアさんが、言った。
「バーレルね。昔のザイツの任地ね」 アレニアが振り向いた。
「ザイツたちは、広島や長崎の原爆の話をしたって言ったよね」
「う、うん」
でも、どうして。これが原爆の信管としてよ。ということは、あのおじさんたちは庫爆を持ってるってことだよね。て、持っててどうするの? そりゃ、どこかに落とす? でも、そんな。それじゃ、あのおじさんの言ってたこととさかさまじゃない。おじさんは、原爆が落ちないようにするには、ていう話をしてたんで 。
「問題は、本体がどこかってことだ」
引き出しの奥から何枚かの紙切れ取り出してたアレニアがそれ、戻す。
「追いかけなきゃ。同じ時間をね」
アレニアは、あたしに小さくて平たい板のようなものを三つ渡した。細長くした背いマッチ箱みたいなの。表面は白いプラスチックみたいだけど、重い。
「これね。両端持ってねじるの」
アレニアは、その板の一つ取って身振りで教える。コアが、アレニアの後ろで机の上に背中の箱を下ろして、あの、大っきい銃を組み立ててる。
「すると、三つ数える聞に爆発するから」
「爆弾なの?!」
それ持ってる右手が怖くなっちゃう。
「違う。爆弾じゃなくて、爆発すると時間孔へ放り出されるから」
時間孔へ?
「あなた、時間を跳べると言っても、正確には、時間孔のなかを自由に動けるってことだから。だから、まず、時間孔のなかに入る手段がいるわけ。これは、特別調査官であるあなたのための道具よ」
そう言われて少し緊張してくる。
いよいよ本当のやり合いが始まるんだ。さっさの跳躍者が撃ってきた銃。そう、ああいうピストルの弾もきっと当り前に飛んでくる。横目にコアのできあがった銃が見えた。
「だいじょうぶ。わたしのそばにいれば危ない事はない。アユミには、怪我させない」
アレニアが、青い瞳で笑ってみせてくれた。少し恐かったけど、あたしはうなずいて返した。
「アレニア、いつでもいいぞ」
アレニアが、銀色の小さなペンダントを握った。
「クロス、どうぞ」
あたしたちは、倉庫の裏に出た。あたしが気づくと、コアは、そこに立ってた男の人の後ろに回ってて、指をそろえて伸ばした右手が、その人の後頭部に振り下ろされてた。たぶん、裏口の見張りしてった人だと思うその人が気を失って倒れるのを、コアは支えて、倉庫の真の壁のそばに座るように寝かせちゃう。
その聞、アレニアが、すばやく、二人の横、すりぬける。ぼんやりと星明かりにうかんでるコンクリートの階段、裏口のアルミの扉、そのそばへ。階投の土に立って扉の横にそっと頭を押し付けて、内側の様子、さぐってるみたい。
時間は、夜の九時頃。また、逆戻りした。
アレニアたちのもともとの時間とあのザイツという名前のおじさんたちのもともとの時間を一致させなきゃいけないんだって。それを、「シャルシートを同じにする」とアレニアが言ってた。そうしないと、カフの原則を破ることになるんだって。
「時間移動によって起こる時空の一意性の破綻というのは、時間移動によって起こる困ったことだがそれは、次のことを守れば避けられる。つまり、上位の時間から下位の時間に情報を送らないこと。上位の時間はシャルのシートでの未来。下位の時間は過去。だから、昔のことは知っていいけど、これから起こることは知っててはいけない。これが、カフの法則だ。だから、我々は、さっき、あの跳躍者に撃たれちゃいけなかった。なぜなら、シャルシートで見れば、彼は未来で我々はそのとき過去の存在だったんだからね」
ここへ跳ぶ前のあの奥の部屋で、背中の荷物を机の上に下ろしながら、コアはそう説明してくれた。でも、「シャルシートで見れば」って、どうしておんなじ時にいたアレニアたちと、あたしたちを撃った人の間で過去、未来って考えるんだろ。どっちも、未来から過去に来てるんでしょ? なんで、今みたいに、細かく時間、合わせなきゃいけないんだろ。
「それは、カフのパラドックス、というのに通じるんだよ」
そのとき、コアは、そう答えてくれただけだった。
コアが、扉の所へ近寄る。あたしも、そっと音を立てないように、砂利の地面の上をアレニアの後ろへ。三つある階段の真中の段へ。
「目標にピタリ。一秒だってずれてないよ」
アレニアが振り向いて小声で言う。
よかった。―――ということは、三回目でよちよち歩きは脱出ってことかな。
アレニアの左手が、灰色したノブにかかる。鍵はかかってない。静かに扉が開く。
コアが最初にすべり込んだ。あんな大っきな人なのに、猫みたいに音もさせない。アレニア、そして―――。
うわっ、また、鼻の奥がひりひりする感じ。こんなとこでまた。ぶりかえしたのかな。
がまんできなくもないから、そっと足許に気を付けて、中へ入る。
アレニアが待ってて、あたしが入ると、横で、ゆっくりと、扉を閉めた。
暗闇。そして、静か。
ゃだな。頭の芯がツンとする感じ。頭痛まではいかないけど。でも、でも、まって。これ、ひょっとしたら―――。
あたし、アレニアの腕を掴んだ。
「ア―――」
名前を呼ばうとしたとき、明るくなる。まわりに、青白いぼうっと光る輪! わたしたち三人が囲まれてる。コアがすばやくあたしを後ろから抱く。コアの腕を感じた瞬間、周りの暗闇がなくなった。
あれ、ほんとに時間孔だったんだろうか。でも、頭の中がぐちゃぐちゃになる感覚はあった。青黒い光が目の裏側を流れていって、どうにも身動きができなかった。
そのうち、急に体が自由になった気がして、どっかに落っこちた。あたしをかばっててくれたコアが下敷になって、あたしは、そのコアの胸に墜落。落ちるというよりも、たたきつけられたっていう感じで。あたしの下で大っきな音がして、コアがクッションになってくれたあたしでさえ、ものすごいショックだったのに、そのコアは、あたしを離さなかった。
あたしは、きっちり閉じてた目を、おそるおそる開けてみた。
薄暗かった。もとの倉庫? ううん、違う。あそこほど真っ暗ってわけじゃない。透明な青い光が照らしてる壁と、金属の格子になってる天井が見えた。その格子とおして、さらにその上にも、同じように右の方に壁とその上に格子の天井、それが、いくつもいくつも続いてた。鏡を見てるのかと思ったけど、違う。すぐ上の壁にだけ扉みたいなのが見える。壁はふくらんでるように曲がってて、ここは、曲った通路なんだろうか。左側の方は、暗くて、そして―――、えっ? えっ? これ、星? たくさんの、色も大きさも場所もばらばらの光の点。
そこで、あたしは、はっとなった。コアの体の上に片手をついて、コアの両腕を自分の体ごと持ち上げ、振り返る。
「コア!」
でも、コアは、目を開けて、にって笑った。
「だいじょうぶ。アユミ、がそこから降りてくれれば、なお、だいじょうぶ」
「あっ、ごめん」
床になってる、やっぱり、金属の格子の上に転り下りる。
うわぁ。
床の下、五階か六階向うに、また、星の空。横の透明な壁もそこで一緒になってて。
やっぱり、これ、星だ。これが、薄明かりのもと。それに、さっき気づかなかったけど、この星空、動いてる。ゆっくりと、でも、目で見てわかるくらいに。手前から、向うの透明な方の壁に向って。
あれ? でも、なんで、下の方に星空が見えるんだろ。
そのとき、手前の壁の方から、ゆっくりと、星の動きに合わせて、大きな影が現れてきた。影といっても、丸みのある、縁が白っぽく光っていて―――、これって、もしかして―――。
「どこかの惑星の周りを回る人工衛星だな。軌道の高さから見て、宇宙ステーションといったところかな」
耳のそばで声がして、振り向くと、すぐ後ろにコアがいた。かがみ込んで、あ
たしの肩ごしに下見てた。
そう、ずっと下の影は、丸い惑星の縁の一部なんだ。でも、曲線っていうのがなんとなくわかる程度で、下の星空をもう半分くらい隠しちゃってるそれは、すごく大っきいんだろうな。それとも、ここが、下の惑星にすごく近いのかな。
えっ、宇宙ステーション?
確かに、この眺め、テレビや図鑑なんかで見るのと似てる。でも、なんだってこんな所なんかに。やっぱり、あれ、なんかの罠だったんだろうか。
立ち上がると手がざらざらしてる。ほこりだ。そういえば、お寺のなかみたいなにおいしてたけど、これ、かびのにおいかなぁ。壁も、染みみたいに見えたの、消えかけたなにかの模様だ。三角形みたいなのがかけちゃって六角になってたり、あとこれ何だろ、ぐにゃぐにゃという線の並んでるの。字だね、きっと。壁は、指で触ると、積もってたほこりが落ちて、なぞったとおりに跡がついた。
「一使われなくなって相当長いな」
ぽつりというコアの声。
「あるいは、ここの部分だけ、使われてないのかな。環境は、きちんとしてるからな」
そのとき、あたしは重大な事に気づいた。
「アレニアは?」
一緒に跳ばされたはずなのに。どこにもいない。
「多分、アユミは、時別調査官だから。跳ばされた場所がずれたんだな。そしておれは、アユミにくっついてたから―――」
そんなこと言ったって。そしたら、アレニアは、もろにザイツさんたちの狙った所へ行っちゃったってことじゃない。
あたしが、じっと、大きなコアの顔を見上げてると、ぬっと手が伸びて、あたしの頭をくしゃくしゃってする。
「だいじょうぶ。アレニアだからね」
そうなんだろうか。
でも、コアの太い声で頭なでられてそう言われると、そう思っちゃう。うん、ほんの少し、心配な気持ちが減る。ほんのちょっとだけど。
「そうだ。通信器!」
そう、それがあったじゃない。
「ねぇ、あたしの通信器ってどうやって使うの?」
これは名案って思って聞いたのに、コアはあんまりうれしそうな顔しない。
「ただ呼びかければいいんだ。自動だから」
言われたとおり、ちいさな声で二、三べん呼んでみる。何も聞こえない。仕方ないから、大きな声で。でも、だめ。
「やっぱり。おれのもだめなんだ」
そうなのかぁ。
「まさか―――」
あたしは、ガラスのように透き通った方の壁の向こうを見た。もう、横まで惑星の影が来てる。その向こうに太陽があるんだろう。まさか、アレニアは、この壁の向こうに―――。
「それはないさ。もし、もともとどっかの宇宙の真ん中に跳ぶようにしてあったなら、おれたち、ここにいないよ。連絡がとれないのは何かの妨害だ」
きっとそうだよね。コアが言うんだから、そうに違いない。
「それより、ちょっと探検をしてみよう。じっとしてても、アレニアには会えない」
「うん」
コアは、壁の模様を調べた。読めるんだろうか?
「とりあえず、あっちだ」
壁に向かって左の方に指を差す。
「明かりは点けないぞ。何が出てくるか分からないところで目立ちたくない」
コアは、近くに落ちてたあの銃を取りあげた。それ見て歩き始めたとき、そこの金属の格子に気がついた。一個所がひどくへこんでいる。コアがぶつかったところだ。
「コア、肩、だいじょうぶ? あたしも一緒にぶつかったから」
コアは、ずっと高いところで肩をすくめてみせる。
「なに、がんじょうにでさてるから。それより、眠くならないか?」
「別に」
そうか、あたしにしては、そろそろベッドに入ってる時間なんだ。でも、今はぜんぜん眠くない。
コアは、歩きながら、右の腰へ手をやった。取り出したのは、ペンケース半分にしたみたいな薄い四角い白い箱。その端を開いて、小さい黄色い丸いカプセルを一つつまみ出した。あたしに差し出す。
「これを飲んどけ」
「何、これ?」
星空が、あの大きな惑星にどんどんおおわれてるんで、薄明かりもずっと暗くなってる。そんなんでよく見えないけど、それ、黄色くて、楕円形してるそれ、かぜ薬のカプセルみたい。
「元気の出る薬さ。眠くならない」
「ふうん」
口の中に入れると、とっても甘かった。ごくって飲み込む。
でも、持って。元気が出て、眠くならないクスリ―――って、ひょっとして―――
「これ、ひょっとして、カクセイザイっていうやつ?」
「だいじょうぶ。アユミの時代のと違って、ちっとも危なくないよ。習慣性もでないし」
うわん、人間やめなきゃいけなくなっちゃうじゃないかぁ。
あたしとコアは、しばらく、星の見える暗い通路を進んだ。壁にある扉は、コアがうんとカを入れないと開かなかった。でも、開いたら開いたで、たいてい、ほこりがもわあっとわき出して。コアが小さなペンライトで照らすと、なかは、ゴミ箱みたいにいろんなものが散らばっていて、その上にシーツみたいに茶色い秒のようなほこりが厚く積もっている。
そのほこりをよけてみると、椅子の足がないのとか、ベッドらしき広い台とかが出てきて、きっと、もともと人の住む所だったんだ、ここら辺。
何階か階段を上がって、いつの間にか、透明な壁はなくなった。でも、足の下のずっと下には、まだ、ぼんやり光る惑星の反対側の縁と、また見え始めたたくさんの星があった。
ぜんぜん人のいる気配はなかった。だから、アレニアの手掛りも―――。
「ねえ」
T字路の分かれ道で両側の暗闇をすかして見ているコアに、聞いてみた。
「特別調査官ってどうやって作るの?」
コアは、ちらっとあたしの顔を見て、すぐに、また、右側の道の奥を見やった。
「基本的には遺伝子操作さ。アユミの御先祖様はみな分かるわけだからね。―――こっちだ」
あたしは、コアの後について、右へ曲がった。
「何世代も前、君の曾々々々々おばあちゃんおじいちゃんのそのまた曾々々々々々おばあちゃんおじいちゃんから、ゆっくりとね。過去への干渉にならない程度に。ちょうど君のところでそのカが出るようにって。気の長い話だ」
「カが出るのって、あたしみたいな子供じゃなきゃだめなの?」
「そんなことはない。むしろ、特別調査官というのは、普通、ちゃんと成人した人を選ぶんだ。アユミの場合は例外だな。ちょうど都合のいい人物がちょうど助けてほしいときにたまたま子供だったということだ」
ふうん。じゃあ―――。
「じゃあ、調査官は子供の方がいいのかなあ?」
ずっと上にあるコアの顔が振り返った。でも、どんな表情してるかは暗くてよく分んなかったけど。それに、また、すぐ前を向いちゃった。
「アレニアは特別なんだ」
聞きたいこと、分かっちゃったみたい。
「彼女は子供じゃないよ。少くとも、彼女はずっと長い間、今のままの姿をしている」
「えっ?」
「あまり局のなかでもその話をしたがる者は少いけどね。つまり、ずっとあの子供のような外見もままってことだ。まあ、ほぼ無限にあるパラレルワールドのなかにはそういう人種もいるのかもしれない」
成長しないの。子供のまんまなの、アレニアって。
アレニアの姿、思い浮べてみる。
薄水色のキュロットに同じ色のずっと左の方で前をとめる上着。銀色のペンダントを胸に下げて、そして、とても白い肌。真の空のような目。さらさらしてて暗い金色した短い髪。あたしより、ほんのちょっと背の低いアレニア。でも、そう。きつい顔をするとき、なんか表情が大人みたいだった。
「だがね―――」
コアが、もう一度振り向いた。
「これだけは確かだ。アレニアは優秀な調査官だし、いいやつだ。それに―――。いや、それは、そのうちきっとアユミが気づくことか―――」
「あたしが気づくこと?」
コアは、答えなかった。あたしたちは、いばらく黙って歩いていた。
あたりが明るくなってきた。しらっちゃけた壁の色がだんだんはっきりしてきて、あたしたちや格子の影がくっきりと、そして、目に見える速さで動いてく。下を見ると、あの星の縁からまぶしい光。繰ぞいに広がって。太陽だ。日の出だ。あたりの小さな星の光がどんどん消えていく。
そのとき、遠くから大きな音が響いてきた。壁や足もとが揺れる。一度大きく弾けるような音がして、まだ続く引きずるような音。何かが崩れる音だ。アレニア?!
「行くぞ!」
コアが走る。あたしも続く。
通路をつきあたって右へ。
また、爆発音。今度は近い。行き止まりの扉にコアが片手を掛ける。開かない。銃を持ってる手もいっしょに、今度は両手で。動いた。
扉の向うは、たちこめた煙が差し込む太陽の光にぼんやり白く光ってる。煙じゃない。
これ、ほこりだ。いや、破片かな。
そこ、今までの通路と違って、ずっと広くなっている。ただ、白い霧のような煙の間に、たてやななめに伸びる、鉄骨みたいなのが見える。そして、それが上にも下にもずっと続いてる。下からの太陽の光に照らされて。
すぐ頭の上で爆発。まわりが揺れて、耳をふさぎたくなるような音といっしょに、上から鉄骨の一部とが降ってくる。灰色の砂みたいなのも滝のように。
「アレニア!」
上を見たコアが叫んだ。なに、て上を見ようとしたあたしは、突き飛ばされて、もとの通路へ、そこへおしりをつく。あたしの横にコアの銃も転ってきた。コアは、破片の降る中へ。
「コア!」
けたたましい音がして、あたしのそばまで細かい破片がはじけてくる。手で頭をおおう。腕や体に小さいのが当る。それに、もうもうという灰色の粉。
おさまったかと思って顔を上げると、コアは、通路の出口ちょっといったところに立ってた。黒い髪も真っ白になって、服はあちこち破れてて、うっすら血がにじんでるところも。でも、その腕のなかにいるのは―――。
あたし、立ち上がって走る。
「ナイス・キャッチだった」
ほこりにこほこほいいながら、コアの腕に抱かれたアレニアがあたしにウインクしてみせた。
よかった、アレニア。
やっぱり、水色の服は、灰色のほこりかぶってて、上着の前が開いてなかの白いブラウスがのぞいてた。あの髪も、やっぱり、はこりがのってる。・石のはおから血がでてるみたい。でも、無事だった。どっかに跳ばされちゃったりしてなかった。
コアがアレニアを下ろす。あれ、そういえば
「コア、血?」
「ロボットだって、血ぐらい流すさ」
コアは、そう言って放り出してた銃を取りあげる。
「通信は遮断されてる。上に制御してる部屋がある。ザイツはそこ。跳躍者と目がいる。まず、目をつぶさなきゃ」
アレニアにコアがうなずく。
「まかしとけ。向うがコンビネーションならこっちも別れた方が得だ」
そのとき、コアがさっと駆け出すと銃を構えた。あんな大きな人がどうしてって感じなくらいすばやい動き。そして、同時に、あの大砲のような銃の先からまぶしい光。
銃の先に、一瞬見えたと思ったのは、あの黒服の男の人。と思った瞬間、うしろでかん高い音がした。あたしの横を何かがかすめて行った。体にアレニアの腕。とっさにヲレ二アが引っぱってくれてた。
振り返ると、ごつごつした壁に、確かに、ピストルの弾の跡みたいな小さなくぼみがあった。本当に撃たれた。
「コア、向うから上へ行って。あたしはアユミとこっちから行く」
コアはアレニアとちょっと目を合わせてそのまま走ってった。
「怖い?」
あたしを引っぱって、壁による。アレニアは、そう聞きながらも、あたりの様子うかがうの忘れない。
「うん、少し」
やだな。こんな場合なのに、コアからあんな話聞いたばかりだから、ちょっとアレニアを意識して、見つめてしまう。
そんなあたし気にせず、アレニアは水色の上着を脱いで渡す。真白いブラウスだけになっちゃう。
「相手はレーザー使ってないからこれの本来の能力発経でさないけど、防弾効果もあるはずだから」
でも、アレニアは? ううん。あたしが着た方がアレニアも安心できるんだ。
その上者は、あたしの体に合った。前のとめ方分からないからそのまま。
あたしとアレニアが駆け出す。上の方で光と低い、さっきの爆発音に較べればちょっと小さな音が降ってきた。コアだ。
「どこかに捜索者がいてあたしたちの場所、あの跳躍者に教えてる。その捜索者をなんとかしないと」
鉄の階段昇っていくと、横を斜めにのびてく金属の柱に音を立てて火花が散った。アレニアが、握ってる小さな―――多分、銃をその向うに向けると、そこにはもう誰もいなかった。代りに、上の右の方で閃光。
かまわず、あたしたちは昇り続ける。
煙がかなり晴れてきて、太陽の光があたりのつぶれたジャングルジムみたいな鉄の柱を照らす。光が下からくるっていうのも変だな。
突然、階段が上の方で吹き飛んだ。思わず体を縮める。
うわぁ!
「アユミ!」
何か背中に当った。階投、転がり落ちる。
アレニアが駆け下りてくる。
「だいじょうぶ?」
右腕と背中が痛い。でも、そんなのたいしたことない。
「だいじょうぶだよ」
あたしは立ち上がった。
でも、その階についてみたら、次の階へは上れない。階段が完全に壊れて落ちてしまってる。
向うへ回る。
床の格子があちこち破れてるうえに、でたらめにとび出してる鉄骨が邪魔。
駆け出そうとしたあたしをアレニアが止めた。
コアの閃光と爆発音がなくなってる。階段が壊れてったときの音を最後に、辺りは静かになってる。
あたしとアレニアは、いつどこから現れるか分からない跳躍者に、周りをうかがいながら、ゆっくりと格子になった金属の床の上を進んだ。
真直ぐ伸びる鉄骨と斜めになったのが一緒になってるところで、アレニアが立ち止まった。上の方を見る。
何かなって、あたしもアレニアの見てる先を見ると、上の階、格子と何本かの鉄骨の向うに、あのサングラスをかけた黒い男の人が立ってるのが見えた。
「捜索者だ」 アレニアがそうつぶやいたとき、その男の人のサングラスの向うの目と自分の目が合ってしまったような気がした。なんていうか、べたべたした、そんな目で見られたような。
見つかったの?
小さなアレニアが、片腕伸ばしてあたしを抱き寄せる。2本の鉄骨背にして、銃を持った右手を体に寄せ、辺りを見る。
そのとき、後ろで閃光。あの低い地震のような爆発音。コアだ。振り向くと、あの捜索者がいたところが吹き飛んでいる。黄色い炎。
前の方で、何かやわらかいのを踏みつぶしたような音。向きなおると、もう一人の黒い服の男が!
血が飛び散ってあたしの方に降ってきた。
体の真中が鉄骨につき刺ってて、しかも、首から上は金属の格子の上。鉄骨の下の方が出てる左の腰のあたりと上の方、右の肩、そして格子が埋ってる首。ぶりぶりっていやな音がして、どんどん赤い肉がもり上がってくる。まるで、やぶれちゃった赤い絵具のチューブみたい。したたる血が白い太陽の光にてらてら光る。
両腕がだらんと垂れ下がり、右手の銃は下を向いてた。血が吹き出してる金網の向うで、「お」って言うみたいに口が開いてて、サングラスしてない。そうかサングラス、あたしがとっちゃったんだ。そのサングラスのない目は真赤だった。瞳が赤いんじゃなくて、赤い石を埋めたみたいに、みんな真赤。
すっごく気持ち悪くて、声も出なかった。
「アユミ!」
すぐ上からコアの声。それで、我に返った。
アレニアがあたしの肩抱いてるのに気がついた。
「こいつはひどいな。跳んでるときに捜索者がやられて紡導を失ったんだな」
アレニアは、ブラウスの袖を裂いて、それであたしの顔の血をふいてくれた。
「声を掛けても返事もないんだもの」
「ごめん、でも、ちょっとびっくりしただけ。だいじょうぶ」
アレニア心配させるほどじゃない。ほんとにちょっとびっくりしただけなんだから。
「コア、階段がやられてて―――」
上ですごい音がした。でも、爆発じゃない。コアが銃の後ろで格子の床を破いてるんだ。できた破れ目を両手で引き上げると、あたしたちが通れるくらいの小さな穴になった。
そばの2本の鉄骨が重なってるところに足掛けて、まず、あたしから。そして、アレ
二アをコアの両腕が引き上げる。
「ザイツがいるのは、すぐそこ」
アレニアが向うを指した。
えっ、銃声!
向うの鉄骨が弾の当った高い音を立てる。コアがあたしとアレニアを押しのけ、銃を構える。振り返ってみると、金網の上にちょうどのっかってるみたいな黒服の男の人の顔がこっち向いていて、その下で、銃を持った右手があたしたちを狙ってる。
コアの銃が火を吹いて、男の人は、刺さってた鉄骨ごと消えた。あたりは、小さな炎だけ。
「もう一人いる! サイだ」
向き返ると、向うに二人の人。片方はザイツさんだ。
「ザイツ!」
ザイツさんはくるりと後ろ向いて壁にある扉へ走ってく。背の低い男の人が残る。
コアの銃が構えられた。
えっ!
目の前で光が爆発した。あたしは顔をおおう。
「コア!」
アレニアの叫び声。えっ、コア?!
目を開けると、ええっ! コアの両腕がない。体の前を血だらけにして、コアが側れてる。コアのひじから先がない!
「コア!」
あの小さい男の人も、向こうで側れてた。アレニアがやったの? でも、コア!
「おれにかまうな! はやくザイツを!」
ひざまづいてたアレニアが、かかえていたコアの頭をそっと下ろす。
「行くわよ、アユミ」
えっ、でも、コアが―――。
「おれは、だいじょうぶ。機械は死なない」
アレニアがあたしの腕を引っぱった。
コア、死なないでね。
あちこち破れた金網の上を走って、扉の前へたどりつく。アレニアが扉を横へ引き開ける。
部屋の中には箱の形をしたいくつもの機械が積み重ねられてて、その一つに、ザイツさんがかがみこんでた。
「ザイツ!」
あたしたちに気づくと、すぐ顔を上げ、部屋の奥の壁の一部へ飛び込んだ。壁がザイツさんを吸い込んだ。
あたしたちも部屋の中へ入る。
いくつかの箱の機械はランプがついてるから動いてるんだ。そして、壁。人の背の高さくらいの四角い粋が青白くぼおっと光ってる。倉庫からあたしたちをここへとばしたあの青白い光と同じ。
でも、そんなのじっと見てたの一瞬のことで、アレニアもあたしも、部屋に飛び込むと、サイツさんの後を追って、その青白い光の枠に入った。
また、あの光の急流。でも、今度はあわてない。とにかく、この流れの行きつく先に行かなきゃいけないんだから。
コンクリートの床。大きな銀色の扉。あの倉庫だ。螢光灯みたいな白い光が照る。でも―――。
少し離れてアレニアがいる。そして、そこに立ってるアレニアとおしりをついてるあたしを遠巻きにして五人の男の人たち。銃を向けて。そして、アレニアの向いてる先、男たちの後ろに、ザイツさん。
「残念だったね、アレニア」
ザイツの顔がにこりと笑うのが見えた。
「どうかしら。あなたは今極めて不利な立場にいるのよ。逃げ回るべきあなたがあたしの目の前にいて、しかも、ここには特別調査官もいる」
でも、ザイツの笑顔は変んない。
「あらかじめ言っておこう。時間孔を使った通信は今遮断されているし、それに時間孔の移動も局所的にブロックしてある。君の通信器もそこの特別調査官も役に立たない」
アレニアの表情はわからなかった。恐かったけど、ゆっくりと床の上を、目の前の男の人のピストル見ながら、アレニアのそばまではっていった。
「アレニア、あたしが時間を跳んで逃げる」
あたしは、アレニアにささやいた。でも、アレニアは答えた。
「だめよ。今、ザイツが言ったでしょ。移動をブロックしたって」
「でも―――」
「彼は、もともと特別調査局の技術官なの。どうやったかは分からないけど、はったりではないでしょうね」
ザイツって、特別調査局の人だったの?!
「香月歩。私たちに味方をしてくれれば―――。こんな結末で残念だ」
こんな結末って。
「あたしたち、殺すの?」
「そう。この状況では、二人ともだね。もっとも、君がアレニアから離れてくれれば別だ。君に今からでも助けてもらえれば」
なんですって!
「お祈りよ!」
「香月歩。君がもっとよく私の言うことを聞いてくれれば」
「聞きたくない!」
「アレニアは、特別調査局は君を死へ追いやろうとしてるんだよ」
えっ?
「人は死ぬ時が来れば死ぬのが当り前だわ」
アレニアが横で言った。とっても静かな声だった。
「決して死ぬことのない君に言われても説得力に欠けるね」
死。死ぬ―――。あたしが?
「あなたには分からないの?」
「分からんね。君らの考えてることは。君たちはただ単に私の理論を理解してくれないだけかと思ってたがそうでもないようだ」
そういえぼ、前に、ザイツはあたしに降りかかる運命がどうとか―――。
ううん。だめだ。あんな人のこと聞いちゃ。あの人、あたしをひどい目に会わせて、そう、コアが、そう、コアはどうしたろ。だいじょうぶかな。
えいくそ。
「アレニア、跳ぶよ」
「でも―――」
「やってみなきゃ分かんない」
アレニアは、ちょっとあたしを見て、うなずいた。
ポケットに右手を入れて、あの板、取り出す。
「香月歩。無駄だぞ―――」
ええい、うるさい。
あたしは、両手でそれをねじった。アレニアにぴたりとくっつき、手を握る。
l、2、3―――。
いつもの、あの白い光の時間孔だった。でも、確かに身動きできない。変にどっか進もうとすると、あの青黒い光の流れが。
でも、これを越えなきゃ。
あたしは、あっりったけのカをこめて、進もうとした。上の方へ。どうカをこめていいのかぜんぜん分かんなかったけど。でも、一生悪命に進もうとした。
あの急流が激しくなる。押し戻される。
しだいに、黒い光の前に白く輝くものが集まりだした。上の方へと念じるとそれがどんどん大きくなって。
頭痛がしてきた。いつものめまい。
白い光の塊りがみるみる大きくなって。そして、それがはじけた―――。
あれ、変だ。ここどこだろう。
ふわふわしてる。方向の感覚もない。ただ、遠くで大砲のような音が続いてる。
コアの銃? 青い色。空だ。雲が流れてく。この音、そうか、あたしの心臓の音なんだ。どっくん、どっくん、どっくん、どっくん―――。
たくさん並ぶ色とりどりの家々。赤い屋根の小さな家が真下にある。あれ、これ、あたしの家だ。中央公園の上からよく見てたから。赤トタンの屋根があって、二階の白いベランダがあって、庭のちょっとまだらな綜の芝生。でも、公園から見てるんじゃない。今、真上から見てる。
あたしの家の前の灰色の道路には、何台も車が停まってた。家を人がたくさん出入りしてる。
あれ、寒江のおじさんだ。おばさんもいる。今、家へ入ったの均くんじゃない。
向うには、東京のおじさん。それから、知らない人。そういえば、あそこの人とこっちの女の人、おばあちゃんのお葬式で会ったことある。
お葬式?
心臓の音がしてる。
家の中に入ってた。みんな並んで正座してる。奥に白いお仏壇。おばあちゃんのお葬式のときに見たのより少し小さいけど、花があって。
ここ居間だ。テーブルとか椅子とかテレビとかなくなってたから気づかなかったけど。
白いお骨の箱が置いてあって、そして、そこにあったのあたしの写真だった。あたしのお葬式だったんだ。
あたし、死んだの?
でも、あたし、ここにいるよ。
お仏壇のすぐ近くにお父さんがいた。泣いてた。お父さんが泣いてた。涙、ぽたぽた流して。
びっくりした。
お父さんが泣いてるの、初めて見た。
お父さん、そんなに泣かないでよ。
でも、あたしは声が出せなかった。あたしは自分がどこにいるのかもわからなかった。そして、お父さんは、ずっと泣いてた。
まわりがぼやけてきた。そこにいる人たちの顔が分からなくなって、人の形も見えなくなって、みんな灰色になった。心臓の音が近くなる。
あたし、死ぬんだ。
そのとき、気がついた。
ぼんやりと目を開く。まわりの様子がゆっくりと見えてくる。
「やっと気づいたね」
アレニアの声。アレニアが上から覗いてる。アレニアの膝の上に、あたし、頭をのせてた。ここは、アレニアが信管みたいなのをみつけたあの奥の部屋だった。でも、奥の机の上の窓は明るくて、そのすりガラスを通して部屋のなかに光が差してる。
「アユミのおかげで、なんとか抜けられたみたい。ここどうやって出るか考えないと」
アレニアは、あたしの頭をそっと床の上におろすと、立ち上がった。
そのとき、分かった。あのザイツのおじさんが言ってたこと。あたしに降りかかる運命って。
「あたし、死ぬんだね」
アレニアが振り返る。
そうだ。特別調査飴に選ばれたのって、別にあたしにいいところがあったからじゃなかったんだ。干渉受けてもだいじょうぶな人ってつまり―――。
「あたし、死ぬから選ばれたんでしょ」
知ってたんだ。あたし死ぬの知ってて、それで、何も言わないで、助けろって。
「アレニア、ひどいよ。だましたんだ。あたし、死ぬの知ってて、それで―――」
「だから、どうするって聞いたでしょ」
アレニアは、ぽつりってそれだけ言った。あの、大人びた顔で。
「ひどい、アレニア! 仕事が終わったら、そのまま、あたしが死んじゃうのはっとくつもりだったの? あたしの事なんか、最初っからどうでもよかったの? アレニアなんか、大っ嫌い!」
そのとき、ばたばたって人の足音。アレニア、身構える。あたしも立ち上がる。
扉が開いて、そして、たくさんの銃声が同時に鳴った。アレニアの周りで赤がはじけた。アレニアが身をねじる。
えっ!
アレニアの体があたしのところへ倒れてきた。血だ。白いブラウスがあちこち血で染まってる。
「アレニア」
アレニアは返事をしない。あたしが支える腕のなかで、アレニア、すり抜けてく。右手がアレニアのペンダントを引っかけ、そのまま鎖がひきちぎれる。
「アレニア!」
そんなのって、ないよ!
気が遠くなってきた。左の耳の奥が熟い。あたしは気絶した。