一里塚
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家の近くにはこのようなものがあります。左に写っているのが男性のシンボル、右隅に写っている岩が女性のシンボルです。

暗くてよく見えないので書いてあることを記します。

太閤道一里塚

太閤豊臣秀吉は、朝鮮出兵にあたり、肥前国名護屋城を前進基地にして
天正二十年(文録元年)四月二十五日には、自ら名護屋城に来て指揮をとりました。
そして、大阪との連絡のため名護屋城大手門を起点にして、
一里(四キロメートル)ごとに早飛脚二名を駐在させ普通???間かかるところを六日間で連絡させました。
この地は、名護屋城の一の城戸にあたる所で第三番目の一里塚にあたります。
今から三百八十年前数万の戦国の将兵が佐志の坂を登り名護屋城を目前にして、一息ついた所といえます。
江戸時代は、唐津と名護屋を結ぶ名護屋街道となり、旅の安全を念ずる庚申塚が建てられました。
この塚は、男女のシンボルをその御神体としており、それを再現したものであります。


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最終更新日 : 2005/09/12