/// 東丸神社から、ぬりこべ地蔵辺り  ///  (03/03/18)

 前回の石峯寺への散歩ついでの話に
なります。東丸(あずままろ)神社は
伏見稲荷神社の境内にあって、そして
南へ抜けて、ぬりこべ地蔵を経て10分も
せぬうちに石峯寺と云う位置関係に
なります。

東丸神社は明治16年(1883)、荷田春満
(かだのあずままろ)が正四位の追贈を
受けたのを記念して祀られた神社です。
それにしても「荷田春満」を
”かだのあずままろ”とは知らない限り、
まず読めない名前ですね。

この春満は稲荷神社の神官であった羽倉
主膳信詮の次男として寛文9年(1669)
に生まれますが、神職を継ぐことなく、
国学で名をあげた人物です。その国学
では、本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵
らと共に「国学の四大人(しうし)」と
云われます。
忠臣蔵で知られる吉良上野介も個人的に
古典の教授を受けていたと云われ、
また、その仇を討つ側の大石内蔵助の
一族の中にも、その教えを請う者がいた
とも伝わり、そのような関係から元禄
15年の赤穂浪士討ち入りにおいて、吉良
邸の見取り図を作ったのが、この春満と
伝わります。

今の東丸神社は春満にあやかろうと
学業達成祈願、入試合格祈願の参詣で
賑わうようです。
京都は学校教育と云う面では先駆的歴史
を有しますが、この春満も幕府に
「創学校啓」と云う著書を示し、学校の
開設を訴えますが、この願いはかなう
ことなく終わっています。

日本で京都が最初と云われる分野は
幾つかありますが、小学校も京都が最初
だそうです。明治2年(1869)年5月21日、
日本初の開校式が、上京第二十七番組
小学校こと柳池(りゅうち)小学校で
行われたのは、国が学制を定める3年も
前のことです。
当時の京都は番組(学区)と云う行政区
が設けられていたので、番組小学校と
云われていました。ただ、この話題に
関して公的文書には残らないけれど、
弥栄小学校がその何日か前に開校式を
行ったと云う話も伝わります。
この京都の学区制、学校の話はまた別の
機会に書きたいと思います。

話は戻って、東丸神社の南隣の建物が
羽倉家の屋敷であったとの記録が残る
ことから、荷田春満の旧邸と云われますが、
今の建物かどうかは定かではないそうです。

その荷田春満旧邸を南へ抜け、曲がり
くねった路地を歩むと、「ぬりこべ地蔵」
に出逢います。今はこの地にあるお地蔵
さんですが、元々は直違(すじかい)橋の
浄土宗摂取院の四方塗込めのお堂にあった
と伝わります。
このことから「ぬりこべ地蔵」と云われ
ますが、「塗込め」とは、その昔、貴族の
寝室では四方を土壁で塗り込んで、念持仏
を祀り、悪鬼を祓う風習があったそうで、
その意味合いです。
何もかも、歯痛も塗り込めて欲しいとの
歯痛平癒の祈願でしょうね。
今も全国各地から祈願やお礼の便りが
届くそうです。確かに歯痛ほど煩わしい
ものはないかな〜〜

さらに南へ歩むと、石峯寺門前に出ます。
そこを西へだらだらと下ると、「茶碗子の
水」に出ます。でも、その存在を知る人で
ないと、見過ごしてしまいそうです。
今は、小さな小屋と井戸らしきものは
見られますが、その井戸もカバーがして
あるので、それとは一見して判別出来ない
です。

伝わるところによると、ある茶人が下僕に
いつものように宇治川の水を汲んでくる
ように頼んだはいいけれど、その下僕は
帰り道に、石峯寺門前で、汲んできた水を
こぼしてしまったと云います。
その時下僕は、偶然に見つけた井戸水を
素知らぬ顔で持ち帰ります。

何も知らぬ茶人であったけれど、点てた
茶の違いに気付き下僕を問い詰めたそうです。
てっきり叱られるものと思い込んでいた
下僕であったけれど、茶人は大そうその
水を気に入り、以後その下僕は宇治までの
水汲みの苦労がなくったと云う話が伝わり
ます。

ついの昔までは近郊の農家が野菜を洗う
姿もあったそうです。
見たところ管理は行き届いているよう
だけれど、今ではどうなんでしょうね、
もう住宅街の真ん中だし…
この茶碗子の水で珈琲でも点てれば旨いかな。
珈琲は点てるとは言わないか…

Produce By 京の住人 戻る