/// 平等院 /// (02/07/06)
寺院としての平等院は藤原頼通によって永承7年(1052)に 大日如来を安置したのが始まりと云われます。それ以前は左大臣で あった源融の別邸、次いで後陽成天皇の行宮、宇多・朱雀天皇の離宮、 そして藤原道長の別荘でした。平等院建立往時を想像してみると、 栄耀栄華を極めた藤原一門も内部での勢力争いなどもあり、権勢にも 陰りが見え始め、東国では兵乱も頻発し、もはや藤原氏では統治でき ない状況になりつつあった頃でしょうか。 |
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頼通は父の道長が建てた法成寺を模して 平等院を建立したと云います。法成寺は 極楽浄土をこの世に再現したようだと 「栄花物語」は伝えます。その法成寺は今の 御所の東側に法成寺址の碑が残るのみ、 かろうじて法成寺境内にあったと云う 東北院が真如堂近くに移され残るのみです。 その東北院は極楽浄土を再現した法成寺に 関わる寺院と云われても、今では想像だに 出来ない小さなお堂が残るのみ、謡曲 「東北」と云う伝承が残ることで辛うじて 廃寺を免れたのかと思ってしまいます。 話は少し横道に逸れましたが、法成寺など 藤原摂関時代を偲ぶ遺構が殆ど残らない 中にあって、平等院は貴重な建築と云え ます。 |
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平等院と云えば阿字池(あじいけ)に 浮かぶ鳳凰堂、十円玉の裏にも描かれます が、それは昭和26年に絵柄に選ばれたそう です。中堂は入母屋造り、楼閣は宝形造り、 両端の翼楼は切り妻造りになっています。 中堂の天主には鳳凰が翼を広げていますが、 翼楼も鳳凰堂自体が鳳凰をイメージ出来る ようにと設けられているそうです。 ちなみに現在載せられている鳳凰は レプリカで本物は鳳翔館で見ることが出来 ます。 その鳳凰堂(中堂)には阿弥陀如来座像が 安置されており、仏師定朝作と確証ある 唯一の仏様で丈六と云うから約2.8m、 上品上生印(じょうぼんじょうしょういん) を結び、蓮華八重座に座し、天人を配した 飛天光背を背負う姿は藤原時代の典型と 云われます。阿弥陀仏を取り囲む壁面には 雲中供養菩薩像が、雲に乗り楽器を持ち、 舞を踊り、合掌したりと極楽浄土の様を 再現しています。もうこれは言葉より 実際に見て貰うしかないかな〜〜。 |
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平等院境内を歩いてみると面白いことに 気付きます。境内には最勝院、浄土院と 云う寺院があるのですが、最勝院は天台宗、 浄土院は浄土宗の寺院だと云うのです。 では平等院はと云うと何処の宗派にも属さ ない単立寺院だと云います。 これは両宗派に平等なので平等院??、 なんて、ふと思ってしまいました。 この場合も両寺院は塔頭と云うのかな? これは、聞き忘れました。 浄土院の奥には桃山城の遺構と伝わる 養林庵書院が残ります。桃山城の建築物は 多くの寺院に移されているようで、中には 大原の宝泉院、鷹峯の源光庵、三十三間堂 近くの養源院、西賀茂の正伝寺、宇治の 興聖寺には血天井として残るものもあります。 最勝院は承応3年(1654)に東洞院六角 勝仙院(住心院)の僧が平等院に住庵を 設けたことに始まります。 役小角(えんのおづぬ )の像が祀られる ことからも天台修験宗であることが判ります。 |
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その最勝院の不動堂脇には源頼政の墓が あります。三位に叙せられた後に 後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう) を奉じて平家打倒の兵をあげますが、 宇治橋の合戦で兜をも捨てて奮戦しますが 敗れ、平等院で自害したと伝わります。 三位の位に叙せられると云う異例の出世を 遂げたことから「源三位頼政」とも呼ばれ ます。 平等院はフジが綺麗なことでも知られ ますが、そのフジ棚の横には観音堂があり、 その脇には扇の芝と云われる場所があり ます。謡曲「頼政」では頼政が自害した 場所と伝わります。謡曲「頼政」は京都 から奈良へと向かう途中の僧侶が宇治に 立ち寄った折りに一人の老人と出会い、 平等院へと案内されます。 |
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そして扇の芝を示して、頼政が自害した 場所であること、今日はその頼政の命日で あること、自分はその幽霊であることを語り 消えてしまいます。僧侶は読経をあげて 仮眠していると、夢の中に頼政が現れ平家 打倒の兵を挙げるも謀が敵に知られることと なり、無念の自害とあいなった… と語ると云う物語です。 頼政は文武両道に名を残しており、紫宸殿 での鵺(ぬえ)退治の話も知られるところ です。鵺とは頭は猿、手足は虎、身体は狸、 尾は蛇だと云う伝説上の海獣だとか。この あたりは能「鵺」に語られますが、また 別の機会に… 世界遺産にも登録された平等院です。往時の 末法思想の流行、極楽浄土を夢見た藤原氏、 そんな歴史をちょっと頭においての散歩も 楽しい所です。 |