/// 厭離庵  ///  (02/10/11)

厭離庵三門
厭離庵(えんりあん)、ちょっと
難しい読みです。「厭」には”あきる
こと”、”いとうこと”と云った意味
合いがあるようです。厭から離れる、
つまり飽きることがない、嫌になる
ことがないほどの庵と云ったところで
しょうか。その元となるところは仏教
用語である「欣求浄土・厭離穢土」
(ごんぐじょうど・えんりおど)に
あるようです。

厭離庵は今は臨済宗の尼寺ですが、
その歴史を遡ると京極中納言と云わ
れた藤原定家の山荘の跡になると云い
ます。定家は京極二条の本邸の他に
幾つかの別邸を持っていたらしく、
その一つは同志社近くに冷泉家として
伝わっています。嵯峨の小倉山近くに
構えたのが、今に続く厭離庵と云われ
ます。
定家塚
定家はその山荘で樹木を植え、季節の
花々を咲かせ、時には果実を宮中や
御所、あるいは友人に贈ると云う風流
気ままな生活を送っていたと云う記述が
残ります。

その山荘も藤原定家なき後には荒廃
してしまいますが、1772年と云うから、
江戸時代中期に冷泉家により修復され、
霊元法皇より厭離庵の寺号を賜り、
白隠禅師の高弟になる霊源禅師により
開山されます。その後も紆余曲折有りて
明治維新の頃には物乞い人が住み着き
荒れ放題であったと云いますが、山岡
鉄舟の娘である素心尼が住職されて
よりは尼寺となり今に伝わっています。
定家が洗筆に用いた柳の水
藤原定家と云えば、新古今和歌集の
中心的撰者でもあり、歌集「捨遺愚草」、
日記である「明月記」を記した人物ですが、
何と云っても小倉百人一首の撰者と云えば
誰もが思い出すところでしょうか。
最近はどうなんでしょうか、百人一首で
遊ぶことはないのでしょうかね。私が
小中学生の頃は友達同士でわりと遊んで
いた記憶があります。
あと蝉丸が印象的な「坊主めくり」でも
遊んでいたな〜〜。

話は逸れましたが、嵯峨中院にあった
宇都宮頼綱の山荘障子、山荘障子とは襖の
ことですが、その色紙の為に定家が頼綱
より依頼を受けて撰び抜いた作品が
小倉百人一首です。
宇都宮頼綱は定家の長男為家の妻の父で、
源実朝殺計画の疑いを受けたことで仏門に
入り、法然の弟子証空に師事して実信蓮生
と称した人物です。
冷泉為益の直筆書、(許可得て撮影)
ここで百人一首をひとつ。
「小倉山 峰のもみぢば 心あらば 
   いまひとたびの みゆき待たなむ」。
これは貞信公こと藤原忠平の歌ですが、
”小倉山の峰のもみじ葉よ、お前にもし
心があるならば、もう一度の帝(天皇)の
行幸(みゆき)があるまで散らずに待って
いておくれ”と云う意味のようです。

これから紅葉が綺麗な嵐山です。
「小倉山 峰のもみぢば 心あらば 
   いまひとたびの 旅人待たなむ」、
こんな歌に出来そうです。

さほど広くない境内には本堂、庭園、
そして大正時代に再建された桂離宮を模し
たと云われる四帖向切の「時雨亭」
(しぐれてい)の茶室、定家が洗筆に
用いた柳の水、藤原走家・為家父子の
お墓、石塔である定家塚が残されています。
元々の小倉山荘、時雨亭、中院山荘の
所在地については小倉山をめぐって諸説
あるようだけれど、今となってはどちら
でもよいような気がします。今に残る
厭離庵と云う空間でふとそれも空想して
みるのが良いのかも知れません。

ちなみに時雨亭跡と云われる場所は、
この厭離庵の他にひとつは小倉山中腹の
常寂光寺、そして二尊院の裏山にあります。

住宅街の奥まった所に厭離庵はあり、公開
されているかどうかは運次第ってところが
ありますが、紅葉の頃は公開されている
かも知れません。この厭離庵の紅葉も
見事です。苔むす小さな庭園に真っ赤な
紅葉がさらに彩りをくわえます。

二尊院の門の北側の道を東へ二、三分
ですが、住宅の奥まった所にあるので、
入り口の石碑を見落とすと行き過ぎて
しまいます。

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