/// 八坂の塔は法観寺 ///  (02/02/17)

 法観寺って何処…、京都の人に尋ねても、ひょっとすれば
直ぐには判らなかったりします。
でも、八坂の塔と云えば誰もが知る風景です。特に東大路通からの
石畳を歩き、徐々に五重塔が近づく光景、ゆるやかな坂道を登り
始めると仰ぐように見ることになる八坂の塔、その五重塔は私の
お気に入りの場所の一つであったりします。
夕映えの八坂の塔、上手に回ってのシルエットとなる八坂の塔は東山、
いや京都を代表する情景です。
この地はかつて渡来氏族の八坂氏が
住んだ地と云われ、その八坂の地名も
これによるようです。八坂の塔で
知られる法観寺ですが、その歴史は古く、
聖徳太子の創建と伝わります。
聖徳太子が如意輪観音の夢の中での
お告げによって、仏舎利三粒を納めた
塔を建て、法観寺と号したのがその
始まりと伝わります。

今は霊応山と号して臨済宗建仁寺派の
寺院で、八坂の塔と呼ばれる五重塔と
太子堂、薬師堂を残すのみで禅宗特有
の雰囲気はありません。

創建当初は延喜式七ケ寺の一つで
四天王寺式の大伽藍を構える壮大な
境内を持つ寺院であったそうです。
しかし、今に残る建物は後世の建築で、
太子堂、薬師堂は江戸時代の町人
寄進による建物で、町堂としての
性格を残していたりします。
五重塔は足利義教が永享12年(1440)
に再興した塔で高さは40m、6m四方
の本瓦葺の和様建築になっています。
初層から四層までに高欄がなく五層に
だけあると云う特徴があります。
高欄(こうらん)とは通路の端に設け
られた欄干のことです。

この後世の建築となる五重塔ですが、
それを受けている心礎は創建当初の
飛鳥時代のそのままであると云われ
ています。
初層内部に入れば見学できるように
配慮されているので見てみて下さい。

その初層内部には五大力尊、五大明王像
とも云いますが、古風な姿を今に伝える
仏像が安置されています。
初層から二層へは急な階段で登ることが
出来て、途中には鏡が設置されていたり
で、真柱(しんばしら)が塔を貫く
様子をつぶさに見ることが出来るように
配慮されています。

二層まで登ると、小さな窓から外界を
眺めることができ、高台にあるうえに
高さもあるので、西側に目をやると
京都市内の町並みを見ることができます。
戦乱の世ではこの八坂の塔は眺望の良さ
から、塔をめぐっての争奪戦が繰り
広げられたり、陣を示す戦旗がひるが
えったりだったとの歴史も伝わります。
今と違って平屋が建ち並ぶ京の町並みは、
それは展望が利いたと思います。

また、境内には光考天皇の外祖母で
藤原教子の墓と云われ、延喜式にも記述が
ある八坂の墓、木曽義仲の首塚もあります。
木曽義仲は平安末期に源氏再興をめざし、
1180年に以仁王の令旨をもって挙兵、
倶利加羅峠での合戦で平氏をうち破り
京へと上ります。
破竹の勢いで征夷大将軍となり「朝日将軍」
とも云われましたが、後白河法皇を諫め
ようとして衝突、範頼、義経の大軍に
滋賀県の大津市内で討たれます。
今ではその地に義仲寺がその歴史を伝えて
いますが、首は法観寺辺りに葬られたと
云います。
以前は東山区金園町の旅館前に首塚が建て
られて、供養も続けられていたのですが、
数年前に旅館の廃業と共に放置されることと
なった折りに、法観寺は八坂の塔の脇に
移されたものです。

他に八坂の塔にまつわる話題のひとつに
父を蘇らせ、葬列を戻させたと云う
「一条戻り橋」伝説で知られる三好浄蔵の
話があります。
何でも八坂の塔が傾いた時にその法力で、
その傾きを直したと云うものです。
朝日将軍、木曽義仲の首塚
もし、機会があったならば、法観寺を
訪ねて八坂の塔へも登ってみて下さい。
また茶室の聴鐸庵があり、訪れる人も
少ないので、抹茶でも頂きながら、
心静かなひとときを過ごせます。
また、秋の頃だと数本の綺麗に色づく
もみじがあります。
これ、派手さはないけれど、ちょっと、
私のお薦めの紅葉です。

ただ、こんな法観寺ですが、寺の人が
不在のことも多いようで、時として
閉門しているのが残念です。

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