/// 岩倉と磐座(いわくら) ///  (00/07/24)

 岩倉は叡山電鉄の岩倉駅の北側に
広がります。宅地化が進んでいますが、
近郊農村と云う一面も残す地域です。

 左の写真は岩倉具視幽棲旧宅跡です。
明治の激動期に公武合体策をとり、
和宮降嫁に尽力する姿勢から過激な
分子につけ狙われ、孝明天皇の進言に
より、この地にちっ居と云う形で
落ち着き幽棲生活を送った屋敷です。

現在は屋敷と資料館が公開されています。
 岩倉具視旧邸から歩いて少しのところに
実相院があります。天台宗寺門派の門跡
寺院で、京都で岩倉と云えば、実相院と
云われる名刹です。御所より移築した本堂、
四脚門、伏見桃山城より移築した庫裡、
方丈書院、狩野派の障壁画など見るべき
ものは多い実相院です。

本堂には本尊の不動明王と歴代天皇の
位牌が安置されています。

 岩倉の地名は磐座(いわくら)に由来
するのではないかと思います。
磐座は「神の降臨する岩」の意味合いが
あり、古代信仰の形と云えます。
例えば奈良の大神(おおみわ)神社には
辺津磐座、中津磐座、奥津磐座と云う
磐座が存在し、神殿のないことはよく
知られているところです。
ここ岩倉の山住神社も神殿はなく、背後の
岩を神石として祀っています。

左上の写真は石座(いわくら)神社、この左の
写真が山住神社です。山住神社は明治までは
磐座大明神と云われていましたが、現在は
石座神社のお旅所となっています。

 この地に磐座が置かれたのは平安時代に
遡ります。桓武天皇が王城守護のために
四磐座を定め、悪鬼を退散させる霊験が
あるとされた「一切経」を、その磐座の
下に埋めたことに始まります。
四磐座とは北磐座として、この山住神社、
東磐座として観勝寺、南磐座として、
明王院不動寺、西磐座として金蔵寺です。

観勝寺は今はなく、応仁の乱で焼失したと
伝わります。明王院不動寺は不動明王が
北を向いているので、地元では「北向き
不動」として親しまれています。

松原麩屋町にありますが、小さなお堂
(左の写真)が残るのみで見過ごして
しまいそうです。上部の額には
「南岩倉」の文字も見て取れます。

不動明王が北を向いていると云うのも
王城を守ると云う意味があったのかなと
思えます。
西磐座として、桜で有名な勝持寺より
さらに山道を登ること40分の所にある
のが金蔵寺(左の写真)です。

見渡すところ磐座と思えるような岩は
残っていないようなのですが、寺伝に
よれば本堂の下に「一切経」が埋められて
いると伝わります。

四つの磐座、今も京都の町を守っている
のでしょうか…

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