/// 勧修寺 /// (01/05/28)
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勧修寺は亀甲山と号する真言宗山階派の 大本山です。その読みは「かじゅうじ」、 でも地名が「かんしゅうじ」と名乗ることも あり地元、京都では「かんしゅうじ」の方が 通じやすいです。 また一部には「かんじゅじ」と云われること もあります。 昌泰3年(900)、醍醐天皇が母である藤原 胤子(いんし)の菩提を弔うために胤子の 祖父にあたる宮道弥益の私邸を寺としたのが その始まりです。藤原氏庇護のもとで代々の 法皇、親王が入寺し門跡寺院として栄えます。 境内はのびやかです。平屋建てのこぢんまり した建物であること、塔として観音堂がある のですが、それも氷室池の畔の芝生の庭園に 建つので、空の広がりが感じ取れます。 |
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かつての勧修寺は広大な寺域を領し、伽藍も 壮麗であったと伝わります。その昔、この 辺り一帯は貴族の私邸、別宅が点在する いわば別荘地であったとか、ほど近い 醍醐寺は壮大な伽藍を今に伝えているし、 随心院も小野小町ゆかりの寺として名高いし、 官庁街でもある都とはまたひと味違った趣の 地であったに違いないです。 |
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氷室池も更に南へ広がっていたようです。 天明6年(1786)の「捨遺都名所図絵」 には”氷室池十五勝”の記述が見られ、 そこに描かれた「翆微滝」は今に枯れ滝と して残ります。 京都には氷室の地名が鷹峯の北、送り火の 船形山のさらに北に残りますが、この地名の 由来は「氷の室」と書くように、冬の間に 貯えておいた氷を夏場に取り出し、御所に 献納していたことによります。平安時代には 同じように、ここ勧修寺の氷室池でも毎年 一月二日に氷を切り出し、その氷の厚さに よってその年の五穀の豊凶を占うと共に 御所に氷を献納していたと伝わります。 時に文禄3年(1594)、豊臣秀吉の 伏見城築城の際に秀吉の怒りにふれ、寺領の 大半を没収され氷室池も新道建設の際に 大半が埋められてしまいますが、江戸時代に 徳川氏の帰依を受けて再興が図られ今に 伝わります。 |
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勧修寺の書院は江戸時代初期の典型的な 造りと云われます。襖には土佐光起の作と 伝わる、「竜田ノ紅葉図」、「近江八景図」が 描かれているとのことですが、残念ながら 非公開です。 この書院前の庭園には樹齢750年と云われる ハイビャクシンが地を這うように生えて いて、徳川光圀の寄進と伝わる灯篭、 俗に云う「勧修寺灯篭」を包み込むようです。 また、この灯篭は「雪見灯篭」、「水戸灯篭」 とも云われるようです。 他に八代将軍吉宗が寄進したと伝わる半月の 水盆があったりもします。 |
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春から夏にかけて氷室池では杜若、睡蓮、 蓮と次から次へと花を咲かせ、水辺の 涼しさを感じることが出来ます。 今は睡蓮の季節でしょうか、白いのが 日本固有種の睡蓮で「未草」(ひつじぐさ) と云われます。 未の時刻、午後2時頃に花を咲かせるから だとか、でも実際はかなりばらつきがあり 一定はしていないようです。 一般に睡蓮と云われるのは西洋睡蓮を中心 とした、外来種だとか、氷室池も大方は 西洋睡蓮です。 地下鉄東西線小野駅から西へ5分ほどの 勧修寺です。派手さはないですが、春の桜、 秋の紅葉でも知られる勧修寺です。 |