/// 土蜘蛛塚が残る東向観音寺 /// (06/04/28)
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平安時代中頃のお話です。 源 頼光(みなもとのよりみつ)なる武芸に 秀でた武将がおりました。 ある時、頼光は悪病にとりつかれ、病床に 伏したままうなされたと云います。 ある夜のこと、頼光の枕元に法師が現れ、 縄で頼光を縛ろうとする。病にある頼光と はいえ、腕に自信のあった頼光は、枕元に あった名刀で法師を一刀両断に斬りつけます。 法師の姿は消え失せていたけれど、辺り一面 には赤い血が点々としていたと云います。 頼光は家来の四天王の渡辺綱、卜部季武 (うらべのすえたけ)、坂田金時、 碓井貞光らに探索を命じたそうです。 |
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続く血痕をたどると、北野天満宮の北側 辺りの塚まで続いており、四天王は塚を 掘り返したところ、土の中から人の背丈も あろうかという黒い蜘蛛(くも)がうごめ いていたとか。 四人がかりでこの土蜘蛛を退治し、 加茂川に晒したところ、頼光にとりついて いた悪病も、みるみる快方に向かったと 伝わります。 これが頼光の土蜘蛛伝説ですが、”土蜘蛛” と云う言葉は大和朝廷以来の先住民、 土着民の蔑称として、記紀、風土記など には記されており、時の権力が手を焼いて いたことを示すものでしょうか。 それがいつしか、勝者の歴史、伝説として 残り、今に歌舞伎や謡曲の題材ともなって 伝わります。 |
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平家物語剣の巻には「北野のうしろに大なる 塚あり…」とあり、記述通りに明治に なっての開発で辺り一帯が整備された折、 土蜘蛛塚らしき遺物が見つかり、ある人が 塚を持ち帰ったそうです。すると家業が傾き、 さらに譲り受けた人も倒産したとかで、祟りと 恐れられ、大正時代に今の観音寺に移されます。 頼光には他に酒呑童子退治の伝説も残ります。 平安時代中期、大江山には酒呑童子がおって、 都から多数の美女をさらっていくと云うこと がありました。童子と云っても鬼のこと、 |
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今では京都府北部の大江町ではこの酒呑童子 の鬼を観光資源として活用していますが、 これら伝説が生まれる背景にも、何かが あったのでしょう。 豪族が住み着いていたのか、それとも山賊か…、 こちらも、頼光の退治によって、謡曲や 御伽草子に受け継がれています。 また、北区の上品蓮台寺にも頼光の土蜘蛛 退治にまつわる史跡が残ります。椋の大木の 下に「源頼光朝臣塚」としるされた石碑が 建っており、「蜘蛛塚」とも呼ばれています。 明治の初めに上品蓮台寺の塔頭宝泉寺にあった ものを移したものだそうです。 今に残る土蜘蛛塚は北野天満宮の表参道を 入った左側にある観音寺にあります。 観音寺は寺伝によると、桓武天皇の勅に より王城鎮護のために建立され、当初は 朝日寺と呼ばれていました。 |
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真言宗泉涌寺派に属し、朝日山と号する 寺院です。当初は東西両向きの二堂が あったものの西向きの堂宇は廃絶し、 東向きの本堂のみが残ります。 このことから東向観音寺とも呼ばれます。 本堂には菅原道真作とも伝わる十一面観音像 を安置し、この像は梅と松より作られている ので、二木観音とも云われます。 また、境内には白衣観音堂があり、子供を 抱いている珍しい観音様で、子授観音、 世継観音とも云われ善男善女の信仰を集めます。 本堂の南に話題の土蜘蛛塚があり、 並ぶように建つ忌明塔(いみあけとう)が 目に付きます。土蜘蛛塚は石灯篭の一部が それで、五輪石塔の前に安置されています。 忌明塔は高さ4mを越える巨大な石塔で、 明治の神仏分離までは、北野天満宮の伴氏社 (ともうじしゃ)にあって、道真公の母の 霊廟とされていました。その後、室町時代に 入り、北野の忌明塔と云われ父母の四十九日 を終えて忌明けの五十日目にこの塔に詣る 風習が生まれます。 いつか北野天満宮を訪れる機会があったなら、 観音寺へも足を向けて下さい。 そこには平安京の歴史が息づきます。 |