/// 河合神社と鴨長明 /// (02/03/05)
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河合神社は鴨河合坐小社宅 (かものかわあいにいますおこそやけ) 神社と云うのが正しい名前。今は 下鴨神社の摂社となっていますが、 平安時代の延喜の制では名神大社に 列せられる名社です。 小社宅(おこそやけ)とは社戸(こそべ) のことで、世襲制をもって神に仕える 人々、その形態のことをさします。 下鴨神社の南側には広大な糺の森が 広がりますが、その南の端に河合神社は あります。 河合神社にはゆかりの鴨長明の方丈が 復元展示されています。 |
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鴨長明の歌に「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてやすむ」と あり、この瀬見の小川が今も河合神社の 東側を流れています。 復元された方丈は一丈四方の、約五畳半の 広さです。間口、奥行きともに一丈四方で あるところから「方丈」と云われます。 そう、鴨長明と云えば「方丈記」が有名 ですが、その方丈にあって書かれたのが 「方丈記」と云うことになります。 鴨長明は久寿二年(1155)、河合神社禰宜 長継の次男として泉の館に生まれます。 七歳の時には神職に就いたと云いますから、 神社との関わりはそれなりにあったようです。 |
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幼少の頃から歌道に秀でていたと云われ、 平家の福原遷都には随行しますが、 平家の儚い滅亡に京都へと戻ることと なります。 そして、ある日突然、宮中の職を辞して 洛北は大原の里に隠遁してしまいます。 平家の滅亡、朱雀門、大極殿の大火事、 大地震、目を覆いたくなる飢餓の惨状、 このような平安末期の世の無常に加えて 神社での処遇などに無情を感じたのか、 やはり、「枕草子」、「徒然草」と並び 評される随筆文学の傑作には、その 無常観が色濃く表れています。 文庫本でも薄ぺらな「方丈記」ですが、 文体は和漢混淆文の格調高い名文と 云われるようです。 |
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その執筆の場となった「方丈」ですが、 これは今で云うところのプレハブ構造で あったそうです。移動を考えていたようで、 現に大原から各地を転々とし、晩年は日野、 今の伏見区日野町に足跡を残していて、 山道を10分ほど登った山の中、全く隠遁と 云う言葉しか見つからないような場所に 鴨長明方丈石が残されていたりします。 河合神社の社殿は、その昔は二十一年目毎に 式年遷宮、つまり社殿も建て替えられていた そうです。このことが「方丈」と云う プレハブ構造の家屋を造るヒントになった のかも知れません。 「方丈」は、規模こそ違え式年遷宮の様式を 伝える下鴨神社の本殿と土台の構造は同じだ そうです。参考に今の河合神社の建物は延宝 七年(1679)年に遷宮されたものと云われて います。 糺の森(ただすのもり)の南の端で、少し 判りづらい所にる河合神社ですが、機会が あれば訪ねてみて下さい。 |