/// 小督局 (こごうのつぼね)  ///  (02/11/09)

渡月橋の北詰にある”琴きき橋跡”碑
 小督局は生没年未詳、桜待中納言藤原成範
(しげのり)の娘で宮廷一の美貌、琴の名手
とも云われた女性です。
余談ですが父の成範は桜が好きで屋敷内を
桜の木で埋め尽くしたことから桜待の中納言
と云われた人物です。
これからのお話は、時は平安時代のこと
なので男女の関係も自由な恋愛の形です。
結婚にしても現代の男女一対一と云う感覚で
みると頭が混乱して、人とのつながりも訳が
判らなくなります。ちょっとこのことを頭の
片隅に入れておいて下さい。

平家物語の巻六「小督」に彼女は登場します。
高倉天皇との悲恋物語と云うことになって
いますが、その背景には平家、特に平清盛の
横暴を指摘し諫める側面も見え隠れします。

この時代、権勢を握るには天皇家と親戚関係
になることが最も重要視された時代、この
平清盛もご多分に漏れず自分の孫を天皇に
して天皇の外祖父になることをもくろんだ
ところから話は始まります。
清盛の娘は建礼門院徳子、十七歳で高倉天皇
のもとへ入内(じゅだい)、つまり嫁入り
しています。この時、高倉天皇は十一歳、
これはもう政略結婚でしかなかった。
このことが悲劇、高倉天皇は清盛に反発する
ように身近な女性だった女童葵に心を寄せ
ます。
車折神社嵐山頓宮前の”琴きき橋”遺跡
しかし、身分の違いもあって葵は宮廷を離れ、
まもなく亡くなったとか。この出来事に
高倉天皇は鬱々とした日々を送ることになり
ますが、この姿を心配した徳子は天皇を
慰めるために小督局を差し向けます。落ち
込む夫に別の女性を紹介する妻…、
現代の感覚では計り知れない世界です。
小督には冷泉大納言隆房と云う恋人がいた
けれど、時の権力の上位にいた平家には
逆らえず、身を引くことになりますが、
恋心は理屈通りにいかないのはいつの世も
同じ、この先はご想像に任せるとして、高倉
天皇と隆房も清盛の婿と云う関係だったもの
だから、その出来事に対する清盛の憎しみは
小督に向けられます。

この事を知った小督は身を隠しますが、この
ことで高倉天皇はさらに精気を失うことに
なってしまいます。小督が嵯峨野辺りに隠れ
住んでいると知るや、北面の武士、源仲国に
探索を命じます。仲国は嵐山の亀山で聞き
覚えのある「想夫憐」の琴の音を聞きつけます。
平家物語では「峰の嵐か松風か、たぬねる人の
琴の音か、おぼつかなくは思えども、駒を
早めて行くほどに、片折戸したる内に琴を
ぞひき澄まされたる」と書き綴られています。
小督塚
仲国に諭され隠れるように宮中に戻った
小督は再び高倉天皇の寵愛を受けることになる
けれど、中宮徳子より先に天皇の子供を宿した
ことがさらに清盛の怒りを招く結果となり、
清盛は無理矢理に小督の髪を剃り出家させて
しまいます。悲痛な高倉天皇はさらに安徳
天皇に皇位を奪われるなどの心痛が重なった
為か、二十一歳でこの世を去ります。
高倉天皇が葬られたのは清閑寺に近い場所、
小督はその近くに庵を結んで生涯にわたり
天皇の菩提を弔い四十四歳でこの世を去ったと
云い、今に残る清閑寺の宝筺印塔、”比翼塚”
が小督の墓とも伝わります。

これが大まかな小督局の生涯で、今では小督に
まつわる遺跡が嵐山に幾つか残ります。
まず、渡月橋の北詰脇に”琴きき橋跡”の石碑
があり、少し上流の車折神社の嵐山頓宮前には
「琴きき橋」の遺物?、が残ります。何でも
琴の音を便りに仲国が捜し当てた小督の
草庵跡だとか。また、もう少し上流には路地の
奥まった所に経塚と云われる小督塚が残ります。
東山の清閑寺にある小督局供養塔(左)
最後に平家物語は多分に語り伝えの
部分も多い物語なので、史実とそぐわない
部分があります。小督が四十四歳で亡く
なった部分も、私が調べた範囲では
四十四歳が正しいと思えるけれど、直ぐに
高倉天皇の後を追ったと伝える版もあり
ます。小督の草庵は法輪寺と云う話も
あったり、常寂光寺には高倉天皇が小督に
贈ったと云われる「車琴」が残り、
清閑寺にも同じく小督の琴が残ります。
真実は遠くの彼方の話だけれど、それも
いいかってところです。

平家物語はその筋立てと、背景にある
清盛の人間像をも考えて読むと、また
違った読み方も出来るような気もします。
嵐山は平家物語のるつぼ、秋の一日、
紅葉の中を小督の話をちょっと頭に
おいて歩いてみて下さい。

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