/// 伏見桃山辺り /// (04/01/31)
桃山の地名は廃城になった城跡、城周りに伏見の人々が数万本もの 桃の木を植えたことに由来します。これがしいては”桃山時代”と云う 歴史上の名詞ともなっていたりします。 伏見城の廃城は寛永二年(1625)のこと、廃城までに建物の多くは 社寺や二条城、淀城、福山城、高台寺などに移され、今でもその桃山風 建築を垣間見ることが出来ます。そうそう御香宮の神門も伏見城の遺構です。 |
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文禄三年(1594)、豊臣秀吉は指月の森に 伏見城を築城します。 その城は内部は勿論のこと瓦までもが金色 に輝いていたとも伝わりますが、 はっきりしたことは判っていないようです。 昭和38年には近鉄が遊園地となる伏見桃山 キャッスルランドとして天守閣を再建 しますが、その際は姫路城、名古屋城を モデルにしているようです。 今はそのキャッスルランドも閉園して しまって寂しい限りです。 秀吉亡き後、天下分け目の”関ヶ原の合戦” が始まり、伏見城では鳥居元忠以下、 千八百余名もの武将が戦死すると云う凄ま じい戦いの歴史が残ります。 破れた武将達によって血まみれになった廊下 の板材などは供養のため、源光庵、養源院、 正伝寺、宝泉院、 妙心寺天球院、宇治の 興聖寺に移され、今は”血天井”として、 その歴史を公開している寺院もあります。 |
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戦いに勝利した徳川家康は慶長八年(1603)、 勅使を伏見城に迎えて征夷大将軍を拝命する こととなります。 徳川幕府と聞くと江戸と云う観念があります が、政治権力の委任と云う意味では伏見城が その始まりの地であったようです。 そして、徳川幕府崩壊の発端となったのも この伏見の地からでした。 歴史の流れ、出来事は偶然でも面白いものです。 家康は伏見城の修復と共に戦乱で荒れた城下の 復興に力を入れ、伏見発展の礎が築かれて ゆきます。家康によって日本最初の銀座が設け られるのも伏見でした。両替町に設けられた 銀座は均一な銀貨の鋳造を行った施設、 その後は江戸に移され、銀座と云う地名に残る のはよく知られるところです。 |
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地名と云えばこの辺りには興味深い地名が 幾つも残ります。両替町は序の口、 奉行前町に東西の奉行町、かつての屋敷跡 なのでしょうか、羽柴長吉、毛利長門、 井伊掃部、松平筑前、金森出雲なんて云う 町名もあります。そして銀座と云う町名も 残ります。こうしてみてみると、町名も 無形の文化財でしょうか。 今は大手筋商店街に銀座跡碑が残りますが、 大手筋は城の正門である大手門に通じる道の 意味、大手筋商店街から東へ御香宮を越えて かつての伏見城はありました。 発展した伏見の町には幾つもの寺院が残り、 大手筋界隈にも源空寺、本教寺、大光寺 などが商店街に溶け込むように点在します。 源空寺は大手筋から常盤通を北へ直ぐの 所にあり、山門に立つと一風変わった様式 に興味がそそられます。二層からなる腰高の 山門はお寺にしては珍しい。一層目の屋根は 平瓦葺き、二層目は本瓦葺きと異なって いたり、二層目の外縁には欄干が設けられて いなかったりと不思議な建物です。 |
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欄干を付け忘れたのかと思いきや、資金が 足りなかったとのこと… この不思議な山門、やはり寺が建てたもの ではなく、伏見城の建物でした。 また、山門には伏見城の巽櫓(たつみやぐら) から徳川家光により移されたと云われる 大黒天像、そして六地蔵信仰になる 即一六躰地蔵尊、愛染明王像が祀られています。 ここ源空寺は宝海山と号する浄土宗の寺院、 そこには宗祖、法然上人こと圓光大師像を本尊 として祀り、法然上人二十五霊跡の十五番と しての信仰が篤いそうです。 本教寺は源空寺から大手筋を入った雑踏の 中にあり、山門をくぐった瞬間、これまた 桃山建築の粋、入母屋造で千鳥破風 (ちどりはふ)に唐破風の庇を持つ本堂に びっくりします。なんでも享保年間に 近衛関白家久の堀川御殿を移した建物だとか。 |
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それでは大光寺はどうなんだと、大手筋を 少し西の大光寺の山門に立つと、これまた 薬師堂は皇族であった華頂宮の旧御殿を移した 建物で、ここでも桃山風の豪華な建物を見る ことが出来ます。 この薬師堂の本尊は奈良三笠の薬師寺より 移したと伝わる薬師尊像、”手接(てつぎ)の 薬師”と云われ、耳の病に霊験あらたかだとか。 今、大手筋は大勢の買い物客で賑わい、お寺の 存在感は薄いのかも知れませんが、そこには 桃山時代を色濃く表現する建物が点在する 地域であったりもします。大手筋商店街は 京阪電車の伏見桃山駅、近鉄電車の 桃山御陵前駅から西につながる直ぐの所です。 機会があれば訪ねてみて下さい。 |