/// 二条城  ///  (04/02/19)

元離宮でもあった二条城
 二条城は昨年、築城400年を迎えました。
400年前と言えば1603年、そう関ヶ原の
合戦です。天下を取った徳川家康が
京都の守護と上洛の際の宿所として造営
したのが二条城の始まりでした。
天下泰平の始まり、戦国時代とは異なり
城郭とは云うものの勇壮な天守閣がある
訳じゃなく、戦闘を考慮した縄張りがある
訳でもなく屋敷の延長のような建築で、
二条新御所、二条新屋敷とも云われていた
ようです。

その後、徳川家光の時代に伏見城から
移したと云われた天守閣がそびえますが、
その天守は落雷で焼失、その後、天守閣
は再建されることもなかったのです。
時代が偉容を笠に着る必要性を生み出さ
なかったのでしょうね。
唐門
徳川幕府第一代将軍、徳川家康が造営
した二条城で徳川幕府の終焉を演じた
のが最後の将軍、十五代になる徳川慶喜
でした。失墜した幕府の威信回復のため
担ぎ出されたと云うのか、自ら買って
出たとも云える慶喜は公武合体を目指し
たと云います。しかし、それは旧態依然
としたそれまでの幕藩体制を引きずるもの
ではなく、ルイ・ナポレオンのフランス
第二共和国体制を手本にしたとも伝われ
ます。そう云えば今に残る慶喜の写真は
それらしきフランスの雰囲気が醸し出さ
れているような気がしないでもないです。
二の丸御殿の玄関、車寄
世の中は尊皇攘夷、公武合体、倒幕、佐幕
と主義主張が入り乱れ混沌とした世情、
暗殺、謀略が繰り返される中、慶喜は起死
回生の秘策に打って出ます。
慶応三年(1867)十月十四日、二条城
大広間に於いて大政奉還を奏上、ここに
名実共に政治権力としての徳川幕府は
終焉を迎える訳ですが、この日はまた
朝廷より倒幕の密勅が下された日であった
りもします。

平穏に政権の委譲を受けるかと思えば、
一方で倒幕の密勅を下すなど、そこには
権謀術数の側面が見え隠れします。
ただ現存する密勅には天皇の御名御璽
(ぎょめいぎょじ)がないなど捏造の
疑惑もとりざたされる出来事です。
天守閣跡から望む本丸
このことからも疑心暗鬼な駆け引きの
歴史が想像されるところです。

この大政奉還に関して建白書が山内容堂
名義で幕府に提出されますが、
その原義は坂本竜馬が京阪に向かう
夕顔丸の船中でまとめた「船中八策」で
あったと云います。そして、もし建白が
受け入れられなければ海援隊でもって
将軍を襲撃するとの書簡が残っており、
もし当日、大政奉還が奏上されなければ、
海援隊による慶喜暗殺事件が起こっていた
かも知れません。後日談として”よくぞ
大政奉還を決断したものだ”と竜馬は
徳川慶喜を讃え涙を浮かべたとも伝わり
ます。
こうして見るとやはり城郭
ちょっと余談ですが、坂本竜馬は若かりし
頃、その剣術の腕を買われて、道場破り
として恐れられていたとか。真偽のほどは
明らかではないけれど、後の新撰組の
近藤勇に頼まれて道場破りに加担したと
云う話が残っていたりします。

話はそれましたが、二条城は年号も
改まった明治元年(1868)朝廷によって
接収され、太政官代、今で云うところの
内閣が置かれます。後に陸軍省を経て
宮内省の管轄となり、二条離宮と呼ばれる
こととなります。時代は経て昭和14年
(1884)に離宮が廃止されると、京都市に
下賜される形で、今に至ります。

本丸御殿、二の丸御殿の建物とそれらを
取り囲むように桜の園、緑の園、梅林、
そして江戸時代初期の豪商、角倉了以の
屋敷から譲り受けたと伝わる清流園の
庭園があります。
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東大手門が今の入り口となっており、
堀川通に面した東大手門はシンボル的
存在感があって重要文化財にも指定され
ています。
順路に沿って進むと二の丸御殿の正門に
あたる唐門です。切妻造、檜皮葺で
唐破風のある優美な桃山風の四脚門で、
鍮石門(ちゅうせきもん)とも云われ、
雲に竜、竹に虎、牡丹に唐獅子などの
見事な彫刻を見ることが出来ます。

二の丸御殿は桃山時代の建物で、車寄、
遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、
廊下のような蘇鉄の間、黒書院、白書院
からなり、隣り合って江戸時代の台所、
御清所が建ち並びます。

車寄は入り口、かつての平安から室町
時代にかけての貴族の交通手段、牛車を
寄せる場所がその由来でしょうか。
遠侍は「遠侍の間」と「勅使の間」から
なり、遠侍の間は参内した大名の控え室、
虎の間とも云われ、虎と豹の襖絵が
睨んでいます。勅使の間は将軍が朝廷
よりの使者を迎える対面所です。
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続いて式台は「式台の間」と「老中の間」
があり、式台の間では参内した大名が
老中職と挨拶を交わす場所、奥には
老中の執務室、「老中の間」があり、
”鷹”、”柳と鷺”が描かれています。

続くは大広間、将軍が座した「一の間」は
武家風書院造の典型と云われ、大床
(床の間)、違棚、帳台構え(武者隠し)
があり、天井は二重折上格(おりあげこう)
天井になっています。そして、将軍と親藩、
譜代の大名との内輪の対面所である
「黒書院」、将軍の居間、寝室である白書院
へとつながっています。

激動の幕末維新と云う時代の舵取りを担った
徳川慶喜が何を思ってその目の前の大広間に
座したのか…
今、その座に座ることは出来ないけれど、
じっくり眺めて思いをめぐらせてみて下さい。

朝廷に移されて建物にある「紋」は、
ほとんど「菊の紋」に取り替えられましたが、
黒書院の一部の引き手金具に徳川幕府の
「葵の紋」が残っています。二の丸御殿内は
撮影禁止なので紹介できないことが残念
ですが、今回は特にハネイさんから拝借した
幕末の頃と思われる二条城の絵図面を公開
しています。

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