/// 大沢池と嵯峨菊  ///  (02/10/22)

 嵯峨野の北寄りに大覚寺はあります。嵯峨天皇の離宮であった
嵯峨院を貞観18年(876)に淳和天皇の皇后であった正子が寺院に
改めたのが大覚寺で、恒寂法親王を開祖とする真言宗大覚寺派の
大本山です。
鎌倉時代には亀山天皇や後宇多天皇が入寺されて院政を行ったので
嵯峨御所とも云われた寺院です。

大覚寺の話題は別の機会に譲るとして、今回は大覚寺の東に広がる
大沢池(おおさわのいけ)にまつわる話題です。

大沢池は大覚寺の東脇にあって、周囲は約1km、天神島、菊ケ島、
庭湖石を配した日本最古の林泉と云われます。
林泉とは林や泉をもって構成される庭園のこと。嵯峨天皇の頃、
平安時代に巨勢金岡(こさのかなおか)と云う庭師が中国の
洞庭湖を模して造営したものと云われます。
天神島、菊ケ島、庭湖石を配し、池の脇には名古曾(なこそ)の
滝を置く、まさしく日本の造園史の始まりの地のような大沢池です。
四季折々に趣ある大沢池
その周囲には田園風景が広がり嵯峨野
らしい景観を作っています。
現代風の建築物が見あたらないことから、
時代劇のロケによく使われます。

またも登場しますが百人一首、名古曾の
滝で思い出されるのは、大納言藤原公任
の歌でしょうか。
「滝の音は たえて久しく なりぬれど
    名こそ流れて なほ聞こえけれ」

”滝の音は絶えて聞けなくなってから、
長い間が経たけれど、その名高い評判
だけは世に流れて今も聞こえている”と
云った意味のようです。でも、絶えて
いる筈の名古曾の滝は今は水音が聞こえ
ているのは、歌にそぐわず妙な感覚です。
名古曾の滝跡、今は水音が…
嵯峨天皇、平安貴族達は大沢池ではよく
舟遊びを催されたとの記録も残りますが、
今では仲秋の名月に舟を浮かべての
「月見の夕」に往時を思い浮かべること
が出来ます。なんでも大沢池は日本三大
名月鑑賞池だそうです。
ではあとの二つはどこの池???

その嵯峨天皇が菊ケ島に自生していた
野菊に心を留めて持ち帰り、花瓶に投げ
入れたところ、その趣が「天、地、人」
の姿になったと云われ、「後世、花を
愛でる者は、これを範とすべし」と仰せ
られたとか。このことから大覚寺は活け
花発祥の地とも云われ、嵯峨御流と
云われる華道の盛んなところともなって
います。
七五三に仕立てる嵯峨菊
菊ケ島に自生していた嵯峨菊も今では
品種改良が加えられているようですが、
独特の花弁の形を持ちます。
嵯峨菊の仕立てには決まり事があるようで、
一鉢に三本を立て 草位は約2メートル 
花は先端が3輪、中程に5輪、下に7輪と
七五三に仕立てます。
この偶数にしないと云うのは、人生は
何事も割り切れないと云う仏教観から
きています。

この嵯峨菊と華道の嵯峨御流は密接な
関係がある訳ですが、先ほどの天神島、
菊ケ島、庭湖石を配すると云う二島一石
と云う形が嵯峨御流の基本形と云われ
ます。一木二草に宿った生命を愛でる心が
嵯峨御流の精神とも表現されるようです。

「やはり野におけレンゲ草」と云う言葉が
あったやに思いますが、華道と云われる
だけあって、「活け花」ではなく、
本当は「活け華」と書くのが的を得た感覚
かと思えます。同じ花だけれど、野にある
自然の花々と生けられた花々では、対象と
する美の感覚が異なるような気がします。
野にある花を摘んで花瓶に挿しただけなら、
まだ花に美があるけれど、華道のように
作品としての鑑賞となると別の美しさを
構成し感じなければならないような…
皇室ゆかりの寺院、十六花弁の菊の紋
その技巧の数だけ華道の流派があるって
ところでしょうか。
これ、宗教の宗派にも通じる人間の業の
面があるかな〜〜。
話は逸れそうなので、話を元に戻しま
しょう。

大沢池は一周して15分ほどでしょうか、
春は桜、秋は楓、そして松並木も美しい
です。護摩堂付近では鎌倉時代の薬師如来、
釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、観音
菩薩の年月を経た重量感ある五体の石仏に
足を止めてみて下さい。
秋の嵯峨野散歩の寄り道にお薦めの
大沢池です。なお、大覚寺で嵯峨菊の
展示が行われる時期は確認でき次第、
京都のニュースなどでお知らせします。

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