/// 応仁の乱 /// (05/10/04)
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応仁の乱は室町時代中頃の応仁元年 (1467)に起こった内乱、11年の長きに渡り 争いが続き、京都の町は焦土と化したの でした。 応仁の乱は複雑怪奇、細川勝元と山名宗全 の権力争い、将軍、足利義政の後を継ぐ 義視(よしみ)と義尚(よしひさ)の継嗣 (けいし)争い、さらに斯波、畠山の 両管領家の相続争いなどが絡み合って勃発 した戦いでした。 何のために、誰の為に何が目的で戦った のか?、調べれば調べるほどによく判らぬ 応仁の乱です。 一説には東軍16万人、西軍が11万人もの 将兵が入れ替わり立ち替わり戦い、 細川勝元を頭とする東軍の陣地は犬馬場、 西蔵口、今の相国寺辺り、地名として 馬場と云う名が歴史を伝えます。 |
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一方の山名宗全を頭とする西軍の陣地は 今の五辻通大宮東の山名宗全邸跡辺り、 西陣と云う地名の興りであったりします。 西陣があるなら、東陣もあった筈で、 実際に往時はその辺りを東陣と呼ばれて いたこともあったようですが、その後の 歴史によって消えてゆきます。 西陣はその後、ご存じのように西陣織物が 発達する事によって、その名も後世に 留めてゆくことになります。 下剋上の時代、当時の室町幕府は江戸幕府 などとは異なり、全国を統一しているとは とても云える状況ではなかった。諸国では 守護大名の反乱や、豪族の争いが絶えず、 時の八代将軍、足利義政はふりかかる 難題を避けるかのように政治より芸術を 好み、酒好きで、享楽にふけっていたとも 伝わります。 |
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義政の夫人は日本一の悪女とも揶揄(やゆ) される日野富子、政治に関心のない義政に とって代わり、口を挟むどころか実権を 握っていたのかも知れません。 当時、将軍の夫人は日野家から迎えると 云う慣例から富子は義政の正室についた けれど、その時、義政の側室に今参局 (いままいりのつぼね)と云う女性がおり ました。義政はどちらかと云えば側室に うつつを抜かしていたようで、このことも 後の争乱の火種となります。 やがて富子は次期将軍となるべき男児を 産みますが、間もなく亡くなってしまい、 いずこからともなく「お今方が呪い殺した」 との噂、義政は琵琶湖の小島に今参局を 流しますが、往路、何者かに暗殺されます。 |
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子供を亡くし落胆する義政は、仏門に 入っていた弟の義視を還俗させて、次期 将軍に据えようと画策しますが、皮肉な ことに義視が元服式を終えた数日後に、 富子は男児、後の九代将軍となる義尚を 出産します。 ここまでが応仁の乱の背景でしょうか、 時を同じくして、細川勝元と山名宗全が 権力で争い、斯波、畠山の両管領家は 相続で争い合っている最中で、一方は富子、 義尚側に加担し、また一方は義視側に加担 する、当の義政は、あちら側に付いたり、 こちら側に付いたりのどっち付かず。 |
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陣地は洛中だけれど、大将の領地は他に ある。諸国の大名もあっちに付いたり、 こっちに付いたりで、みんなが出張、 この場合は出兵か、して来て戦いをくり 広げるもんだから、いつまで経っても 戦乱は収まらず、京都の町は焦土と化した のでした。 悪女、富子と云われる所以は、今参局の 暗殺は富子の企てと云う説があったり、 朝廷が設置した関所を幕府のものとし、 通行税を徴収、私服を肥やしたり、高利 貸しを商い、こともあろうか、戦費に 窮する両軍の大名達に貸し付けて高利を むさぼっていたと云われます。 みんな富子の為に戦をやっていた??? そんな応仁の乱も、大名達が飽きたのか、 借金で首が回らなくなったのか、馬鹿馬鹿 しさに気が付いたのか、義政が義尚に 将軍職を譲ったことで、何となくの雰囲気、 幕府によって「天下静謐(せいひつ)」の 祝宴が催され応仁の乱は終わったのでした。 |