/// 西福寺とお精霊さん  ///  (02/08/08)

 東山区轆轤(ろくろ)町にあり、
俗に云われる六道の辻に建つお寺と
して知られます。弘法大師、空海が
鳥野辺の入り口に当たるこの地に
自作の土仏地蔵尊を祀る地蔵堂を
建てたのがその始まりと伝わります。

平安時代、この地から東側山麓には
鳥野辺(部)と呼ばれた風葬の地が
広がっていました。野辺送りをする
までの冥界の入り口が六道の辻と云う
ことになります。昔は六つの仏堂が
あったとも云います。近くには
六道珍皇寺、六波羅蜜寺もあり、
六には縁深い地のようです。

その結界のような地に建つのが西福寺
です。また西福寺は子育地蔵としても
知られます。嵯峨天皇の皇后となった
橘嘉智子姫(檀林皇后)が弘法大師に
深く帰依され、親王の病の平癒を
祈願したところ、無事成長されたとの
由来から子育て地蔵として呼ぶように
なったと伝わります。
この時期、六道詣りが行われます。
人々は六道さんと呼び習わしますが、
精霊迎えの行事です。京都では精霊の
ことをお精霊(おしょらいさん)と
云ったりしますが、迎え鐘を撞き、
迎え火、門火(かどび)を焚き、宗派に
よって多少異なりますが、13日には
お精霊さんをもてなすお迎え団子を供え、
お昼は小芋とインゲン豆の煮物、14日は
おはぎを供え、お昼は茄子のおひたし、
ゼンマイとサツマイモの煮物、15日は
おこわを供え、お昼はのっぺ汁
(葛ひきの野菜汁)に麩と湯葉の炊き
物にスイカ、けんずい、けんずいとは
おやつのこと、でもてなします。
そして16日、アラメを炊きます。
追い出しアラメとも云いますが、そして
帰るお精霊さんを送る火が五山の送り火
です。そうそう、毎月の八のつく日も
アラメを炊きます。
今ではこのような仕来りを厳格に守る
家は少なくなっているとは思いますが、
これが京都のお盆の風景です。
脱線ついでに江戸の頃までは鴨川の
河原で松明を放り投げる送り火も
残っていたそうです。今ではこの松明
投げは市内中心部には残りませんが、
市北部に残る花脊松上げ(15日)と云う
風習が、その歴史を伝えているのかも
知れません。

さて西福寺の続きですが、境内には
不動堂があり、末廣不動明王が祀られて
います。後白河法王の那智熊野への千日
修行満願を感謝して那智の不動尊を
勧請(かんじょう)したと伝わります。
室町時代以降になると熊野詣でを勧める
熊野比丘尼が多く住み着くようになり、
厄除けの八咫烏(やたがらす)の
熊野牛王印札を売っていたといいます。
この故事にちなむ「後白河法皇熊野那智
曼陀羅図」が六道詣りに合わせて公開
されます。他にもこの時には、おどろ
おどろしい六道十戒図、六道絵、
檀林皇后九相図、十王図なども公開され、
折をみて絵解き説法なども行われます。
西福寺を名乗ることになるのは、時代も
下った江戸時代になります。
天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦で敗れ
石田三成らと共に処刑された安国寺
恵瓊(えけい)、その首が三条大橋に
晒されたままになっていたのを悼んだ
毛利家の安芸守が、今の地に恵瓊の
菩提を弔うため堂宇を建立し、西福寺と
改称したことによります。今残る建物は
その頃のものだと云われています。

お精霊さんと共に普段の歴史も残る
西福寺のようです。六道の辻が冥府への
入り口ならば、その出口は嵯峨釈迦堂
藤ノ木町にある「生の六道」、そこには
石碑が残るそうです。
盆踊りも、五山送り火も仏教と密接に
関わりある行事、その送り火を見ると
夏の終盤を感じます。
子供の時はそろそろ宿題が気になる
頃でもありました…

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