/// 三条大橋と高山彦九郎 /// (01/07/25)
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天正年間の擬宝珠 道中双六の上がりとなる三条大橋ですが、 この三条大橋がいつ頃架けられたのかは はっきりしていないようです。絵図により 室町時代の初期には橋らしきものがあった と思われていますが、三条大橋なのか別の 位置の橋なのか定かではないようです。 記録に橋として明確に登場するのは天正 十八年(1590)、増田長盛が豊臣秀吉の 命により大改造をおこなった時になります。 増田長盛と云う人物、何処かで聞いたよう な名前ですが、豊臣秀吉が設けた五奉行の 一人でした。 現在の三条大橋の欄干には十二の擬宝珠 (ぎぼし)がありますが、それには昭和の 物の他に天正年間の擬宝珠もあります。 その銘には「洛陽三条の橋は後代に至るも 往還の人を化度(けど)とせしむるもの他、 盤石の礎は地に入ること五尋(ごひろ)、 切石柱は六十三本也」とその規模が記され ています。化度とは衆生を教え導き救う こととあります。この天正年間の擬宝珠に 刻まれた文は、なかなか読めないけれど、 昭和の擬宝珠は普通に読めます。 祇園小唄が刻まれた擬宝珠もあったように 思います。![]()
東海道の終点、三条大橋の弥次喜多さん。 多くの人が通り過ぎる三条大橋ですが、 擬宝珠に目を止める人は少ないようです。 また、三条大橋の西詰め南側には「旅は 道づれ世は情け」、弥次喜多さんの銅像が 立っています。 他にこの三条大橋が架かる三条河原には 血生臭い歴史も残ります。豊臣秀次公一族 三十九人が処刑され、また天下の盗賊石川 五右衛門が釜ゆでにされたのもこの三条 河原。ちょっとこじつけの感はありますが、 五右衛門風呂は浮いている底板を踏み沈め て入りますが、これを知らずに下駄を 履いて入ったのは弥次、喜多さんでした。 反対の東詰、南側にはかなり大きな、 ひれ伏す武士の像があります。 その武士の名は林子平、蒲生君平と共に 寛政の三奇人と云われた高山彦九郎 その人です。小泉首相は変人と名乗って いますが、この奇人も傑出した人物の 意で使われます。![]()
尊皇の武士は皇居を遙拝 彦九郎は江戸時代は延享4年(1747)に 上野国新田郡細谷村、現在の群馬県 太田市細谷町に農民である高山 彦八正教の次男として生れたと伝わり ます。江戸時代中期の勤王思想家で、 その後の幕末の勤王の志士たちに 大きな影響を与えた人物と云われて います。 時は幕藩体制が揺るぎだした頃とは 云えまだまだ幕府の権力が強い時代に 尊皇を唱え幕府を批判します。 彦九郎は尊皇の旅と交遊の詳細な日記を 残しつつ全国を回りますが、ついには 幕府の締め付けのためか、久留米で 自刃してしまいます。銅像は彦九郎が 京都を出入りする度に皇居の方角を向き、 ひれ伏す姿を再現しています。京阪 三条駅の真上、市バスのバス停前でも あり、目にした方も多いのでは…。