/// 百丈山石峯寺と伊藤若沖 /// (03/02/27)
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石峯寺は”いしみねでら”とも読めますが、 ここ伏見の石峯寺は”せきほうじ”と読み ます。正徳三年(1713)と云うから江戸時代 中期の頃、即非(そくひ)の弟子である 黄檗宗の六世賜紫千呆(せんがい)禅師に よって創建された禅道場でした。即非は黄檗 禅院萬福寺の開祖である隠元禅師の高弟。 かつてはそれなりの堂宇を備える大寺で あったけれど、大正四年(1915)の失火に よって焼失し、今は薬師如来を祀る本堂と 庫裡などが残るに過ぎない小さな寺院と なっています。 その薬師如来は源満仲の念持仏と伝わり、 満仲は鎮守府将軍で源氏興隆の礎となった 人物、摂津多田庄、今の大阪府の出身で 多田満仲とも呼ばれた武将でした。 |
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伏見稲荷大社境内から南へ抜け、歯痛に ご利益があると云う「ぬりこべ地蔵}を 越えて山麓に向かうと石峯寺があります。 石段を登る奥には赤い竜宮造りの門が 見えてきます。くぐる門には即非の筆に なる「高着眼」(こうちゃくがん)の扁額が 睨みを利かします。 境内は先ほども触れたように本堂と庫裡 ぐらいしか見ることが出来ませんが、境内の 山道を少し登ると羅漢の石像群が目に飛び 込んできます。羅漢とは梵語の「アルハツト」、 その音色から中国で”阿羅漢”(あらかん)と 伝わり、略して羅漢と云われます。 供養されるべき人と云う意味合いがあり、 釈迦如来の在世当時の弟子達を指します。 このことから十六羅漢と表現することもあり、 その表情、形状、持ち物などに一定の決まり 事はなく自由に造られるのが特徴だったり します。石峯寺では五百羅漢と云う表現を 使っていますが、この「五百」とは数が多いと 云う意味合いのようです。 |
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石峯寺の羅漢像群は安永年間(1772〜1781)の 頃より天明元年(1781)までの、7年ほどの 間に造られたものだと伝わりますが、先ほどの 十六羅漢と云った、像そのものの仏像的意味 合いは余りなく、釈迦誕生から涅槃(入滅)に 至るまでの物語を語る像となっています。 石峯寺のこれら羅漢像は江戸時代の異色の 画家、伊藤若沖(じゃくちゅう)が下絵を描き、 石工たちに彫らせたものだと云い、羅漢像を 歩くにつれ、その表情、面白さを見るにつれ、 伊藤若沖と云う人物にますます興味が惹かれて しまいます。 |
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その伊藤若沖は1716年に京都の錦小路の青物 問屋に生まれたことで、自ら「平安錦街居士」 と称していたとも伝わります。 のちに黄檗禅に興味を抱く関係で、石峯寺 門前に住むようになり、名は汝鈞(じょきん)、 字(あざな)は景和(けいわ)、斗米庵、米斗翁 などの号も持ち、その造形感覚が溢れん ばかりの画風は興味深いです。 若沖は宗達・光琳派に属すると云われ、 花鳥、特に「鶏」の絵は、その独特の風雅が 数多く残ります。また野菜の絵も多く中には 野菜でもって涅槃の様子を書き表した絵も 残ります。 市井(しせい)の生活を嫌い、弟子を取らず、 そして生涯独身を貫き、清貧生活の中で悠々と 書画に親しんだ人物です。 斗米庵(とまいあん)の由来は、画家として 知られるようになってからも、米を一斗(14kg) 持っていくと絵を描いてくれたことから、 そう呼ばれるようになったようです。 なお、”とべいあん”と読む資料もあります。 |
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今では、若沖の絵は金閣寺の「松に鶴」 「竹と鶏」、御所の「花鳥魚貝図」、などは よく知られ、また、相国寺の承天閣美術館は 多くの若沖の絵画を有していて、一部は常設 展示されている筈ですので、機会があれば見て みて下さい。 その若沖はこの石峯寺に眠り、羅漢ぐらい しかこれと云った見所はなく、夏はヤブ蚊にも 悩まされる石峯寺ですが、伏見稲荷の参詣 ついでにでも立ち寄ってみて下さい。 「夕風に落葉の舞へば手を拍ちて をどり出づべき石羅漢はも われもまた落葉のうへに寝ころび 羅漢の群に入りぬべきかな」 祇園を愛した吉井 勇の石峯寺での文章です。 ついでに他に京都で羅漢で知られるのは嵯峨 鳥居本の愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)が あります。 |