/// 千本釈迦堂  ///  (02/04/05)

 正式な寺名は大報恩寺(だいほう
おんじ)、貞応二年(1223)と云う
から鎌倉時代中期、求法義空上人が
釈迦念仏の道場として釈迦如来像、
十大弟子像を安置したのがその
始まりと伝わります。
本尊である釈迦如来像にちなんで
釈迦堂と云われますが、嵯峨の釈迦堂
(清凉寺)と区別する意味で、
千本釈迦堂と呼ばれます。

その千本とは近くを南北に走る千本通を
指しますが、千本通は平安京の朱雀大路
に重なる通りで、いつの頃からか千本通
と呼び習わされます。その由来は定か
ではなく、大路の両側に立ち並んだ
千本の卒塔婆に由来するとか、千本の
桜とも、いや千本の松並木が連なって
いたからだとか、諸説あったりします。
朱雀大路の突き当たりには蓮台野(れん
だいの)と呼ばれた葬送の地があったと
され、卒塔婆説とも思えるけれど、
近くの引接寺の普賢像桜には室町時代に
多くの公家達が、この桜を一目見ようと
押し掛けたと云う話も残り、こちらも
まんざら捨てたものじゃなしの話ですが、
この千本とは多いことを形容する言葉の
ようです。

千本釈迦堂は「おかめ塚」の話が伝わる
お寺としても知られます。
義空上人が大報恩寺の本堂を建立するに
あたり、当時名大工として名声を馳せて
いた長井飛騨守高次を総棟梁として
選びます。
本堂脇の「おかめ像」

高次は数百という大工の頭として采配を
揮いますが、ある日のこと何を勘違い
したのか、本堂を支える親柱の四本の
内の一本を短く切り落としてしまいます。

途方に暮れる高次に妻の阿亀は「もはや
切ってしまったことは仕方ないじゃぁ
ないの、柱を短く揃え桝組(ますぐみ)
を入れて高さを合わせればどうでしょう」
と進言したのでした。
そのアイデアもあって今に見る端正な
本堂は完成しますが、阿亀は「女の知恵を
借りて完成させたと云われては主人の恥と
なる」と自害して果てます。

今の時代では何ともそぐわない話ですが、
封建時代と云う歴史の中での悲劇の
ひとつです。
端正な本堂と枝垂れ桜
この話は大工達に受け継がれ、江戸時代の
半ばには三条の大工、池永勘兵衛が本堂の
脇に「おかめ供養塔」を建立します。
この頃から京都では棟上げに際して
「おかめ御幣」を飾り祀ることが生まれ、
今でも偶に見ることが出来るようです。
このことから建築、造園関係の信仰も厚く、
そして阿亀さんは湯殿を建てて大工達に
入浴を勧めたと云う話もあり、銭湯関係者の
お参りも多いとか…

その本堂は応仁の乱、大永の乱、享保の
大火でもその戦禍、災難を免れ、市内の
寺院としては最も古い本堂となっています。
街中に溶け込んでちょっと判りにくい
千本釈迦堂ですが、上七軒の交差点から
北へ真っ直ぐ徒歩5分ぐらいです。
北野天満宮の北門からも東へ同じ距離
ぐらいです。

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