/// ひとくいんじぞう  ///  (05/03/12)

積善院準提堂の人喰い地蔵
聖護院境内にある塔頭寺院が準提堂。
元は椥の坊と称し熊野神社の西北に
あった寺院が大正時代に合わさり
今の積善院準提堂となり、不動堂には
智證大師作と伝わる不動明王立像を
安置します。

普段は地元の人が時おりお参りする、
町中の静かな寺院の佇まい。
ところが境内の片隅には「人喰い地蔵」
と、ぶっそうな呼び名で伝わる
お地蔵さんが祀られています。

それは”瀬をはやみ 岩にせかるる 
滝川の われても末にあはむとぞ思う”、
小倉百人一首のひとつですが、この歌の
詠み人を祀ります。

現代文に訳すると、「川の瀬の流れが
早いので、どんなに岩にせき止められ
分かれようと、下流ではまた出会う」
って意味合いですが、何を言いたいのか
と云えば、どんな訳ありで仲を裂かれ
ようとも、将来は必ず逢うことが出来る
と思う、と云う一途な恋の歌???
白峯神社の崇徳天皇碑
こんな歌を詠んでいるかと思えば、
「われ魔界に墜ち、天魔となって人の
世を呪わん。人の世の続く限り、人と
人を争わせ、その血みどろを、魔界
より喜ばん」、とものすごい怨念した
たる言葉を残した人物でもあります。

歴史の時間ですが、平安末期に保元の乱
(1156)がありました。
崇徳上皇と後白河天皇兄弟、藤原忠通、
頼長兄弟らが即位、関白の地位を
めぐって、子が親を討ち、兄が弟を…
それはもう地獄のような争いをくり
広げたのが保元の乱でした。

歴史は暗記科目と云われたりで、
もうすっかり忘れてしまったことかも
知れませんが、その登場人物。
崇徳上皇その人が読んだ歌、残した
言葉が先ほどの文面となります。
白峯神宮、崇徳天皇の絵馬
事の善し悪しは別として、崇徳上皇の
気性の激しさ、気迫が顕れている歌と
言葉です。

争いに敗れた崇徳上皇は讃岐へと流され、
無情、焦燥の中で五部の大乗経を写し、
父が眠る都へと送りますが、時の権力は
受取りを拒否し戻されます。

その時、崇徳上皇は自らの舌を喰い
ちぎり、滴る血で先の言葉をしたためた
と伝わります。
東山安井の崇徳天皇御廟
崇徳上皇が讃岐へと流された後、
都では天変地異が頻発し、公家衆、
民衆は崇徳上皇の祟りだと恐れ、
その怨霊を鎮めるために”崇徳院”と
諡号(しごう:生前の徳を称える
称号)を贈り、祀られたのが
「人喰い地蔵」でした。

しかし、元々は漢字の読みのまま
「すとくいんじぞう」だったと
云います。それが、崇徳院の怨念の
激しさ故にか人々は「ひとくいん
じぞう」、「人喰い地蔵」と呼び
習わしたと云います。

でも、でも、その恐ろしげな名である
にも係わらず、今では無病息災の
ご利益があるとかで、お参りする人も
多いのが「人喰い地蔵」です。
東山安井の崇徳天皇御廟
また、崇徳院を祀る社は白峯神宮、
最近は飛鳥井家の蹴鞠に因む球技の
神様として知られますが、
その創建は崇徳院を追慕された孝明
天皇の遺志を受け継いだ明治天皇に
よって、讃岐の白峰から神霊を移した
ことに始まります。

そして、安井金比羅宮の北側に崇徳
天皇御廟があります。ここは崇徳
上皇の寵愛を受けていた阿波内侍が
遺髪を受けて塚を築いた所、時おり
花街の女性が通り過ぎる町中にあり
ます。

おどろおどろしい伝説も生活の中に
溶け込んでいるのが京都。
やっぱり千年の都には、いろいろと
あります。

 上皇:譲位後の天皇に対する尊号。

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