/// 月読(つきよみ)神社 /// (02/11/29)
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月読神社は嵐山の南の松尾大社から 鈴虫寺(華厳寺)、苔寺(西芳寺)方面へ 山麓沿いを歩いて七、八分の所にあります。 境内はほったらかしと云う感じもあるので、 少し荒れた雰囲気です。 今では月読神社は松尾大社の境外摂社と なっていますが、その荒れた雰囲気とは 裏腹に、古式ゆかしく日本書紀にも記述 される神社で、その後には延喜式内社 ともなっている京都有数の古社です。 日本書紀には顕宗天皇三年(487)、 阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が 任那(みまな)へ遣わされた時に、 月読尊がよりつき、託宣を受けたことを 天皇に奏上して、山城国葛野郡歌荒田樔田 の地、今の桂川左岸に社を創建したと あります。これは現在の地とは異なり、 現在の地へは斎衡三年(856)に移された とあります。 |
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かつてその月読尊は長崎県は壱岐郡に 鎮座していたとか、壱岐に月神、対馬に 日神を祀る部族があり、亀ト(きぼく)と 云われる占いとも関係する伝承が残る そうです。この月読尊が京都にもたら される過程にあっては、嵐山から太秦に かけて勢力を誇った渡来人の秦氏の影響が あったとの話も伝わります。 月と太陽、やはりいずれの世界でも 信仰の対象とすることはあったようで、 エジプトのピラミッドも最近の発掘 調査、科学的検証において、やはり 太陽信仰との関係が裏付けられようと しているとの報道特集を最近見たような 気がします。こちらはお月さんですが、 壱岐では海上を司る神として祀られ、 それがひいては海の干満、つまり月との 関係に結びつくようです。 |
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信仰と月との関係などを書いていたら、 日も暮れて月が出そうなので、話は元に 戻すとして、月読神社では月読命(つき よみのみこと)を祀ります。伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)が黄泉の国から 逃げ帰り、橘の小門(おと)で禊ぎを した時に、左の目から生まれたのが 天照大神、そして右目から生まれたのが この月読命と伝えます。神話ではこの 後に生まれた素戔嗚尊と合わせ「三貴子」 と称するのだそうです。 いつも書いていますが、神話はいったい 何を誰に伝えようとしているのかと 思ってしまいますが、道を誤らずを前提と するならば、読み手が都合の良いように 解釈するのが正しい読み方でしょうか。 |
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月との関わりは人間生活の根元とも 云える農業とも結びつくことになるのは 当然の成りゆきで、旧暦である月齢との 関わりも大きく、農業を司る神へとも 変化してゆきます。また、月読神社境内 には神功皇后が新羅征伐の時に撫でて 心身の安泰を祈願したと云われる月延石 が伝わります。この伝えと合わせて 「月延」は「月ものが延びる」、それは 子を宿すと云う文字の解釈から安産石 との民間伝承が生まれています。かつては よく妊婦さんが月延石をまたいでいたそう です。さすがに今ではそのようなことも 薄れたのか、三つあるはずの月延石は私が 訪ねた時は、もう一つしか残っていな かったです。 松尾大社と鈴虫寺、苔寺との間を歩かれる なら、その途中の神社なので、足を止めて みて下さい。 |