「福音は神の力です」 ローマの信徒への手紙 1章16,17節 藤井和弘牧師(2008年5月)
「わたしは福音を恥としない。福音は、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ローマの信徒への手紙 1章16,17節)
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)。これらはすべて、聖書が「福音」と呼んでいるものです。この福音は、私たちがそれにふさわしかったからではなく、全くもって神からの賜物として与えられるものです。そして、その賜物はすでに!私たちに与えられていると、聖書は語るのです。
けれども、聖書にはまた次のような言葉が出てきます。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)、「互いに平和に過ごしなさい」(1テサロニケ5:13)、「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」(マタイ5:16)。このように、聖書は「・・・である」という形で福音を語る一方で、「〜しなさい」という命令をそこに含んでいます。私たちは、このことをどのように考えたらよいのでしょうか。
私は、そこに福音についての聖書それ自身の深い洞察があるように思っています。つまり、聖書は現在のような形をとることで、神から恵みとして与えられた福音を少しも変質させることなく、純粋に福音として保持しながらこれを伝えようとしているということです。言い換えるなら、福音を福音として保持し手渡そうとしてきた教会の信仰の戦いが、聖書それ自身の中に現れているということです。
このことは同時に、福音を前にした人間についても聖書が深い洞察をもっているということでもあります。すなわち、福音を福音として聞くことのできない―そこでは福音が安っぽいものにされてしまったり、逆に、重いくびき(律法)に変えられてしまうような人間の本性ともいうべきものです。「〜しなさい」という聖書の言葉の前で、いかに私たちは自分の罪を理由にして「とても私にはできない」と口にしてきたでしょうか。その一方で、同じ聖書の言葉を、厳しく要求する戒律のようにして自分自身や他人に押しつけてきたでしょうか。そのところで御子の死をもって神がもたらしてくださった福音は、私たちの中に何も生み出さない安価なものとなるか、私たちに対する法外な義務に置き換えられてしまっていたのではないでしょうか。
けれども、福音は決して安っぽいものでも、法外な義務でもないことを聖書は告げています。そうではなく、「福音とは信じる者すべてに救いをもたらす神の力」です。それが、聖書が福音と呼び、守り続けてきたものです。キリストによって贖われた人生は、もはや私たちの罪が支配し何も生み出さないところではありません。また、私たちの前に目標としておかれているものでもありません。むしろ、罪人を神の子と呼んでくださるご自身の義を満たす神の力のもとにある人生のことです。信じる者の内に、神が初めから終わりまで責任をもってご自身の義を実現させてくださる人生のことです。この福音を、私たちもまた大切に保持していかなければなりません。
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