私たちに必要な友

「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」  (コリントの信徒への手紙一14章26節)

 教会の集まりにおけるすべてのことは、「あなたがた」、すなわち教会を造り上げるためになされるべきです、とパウロは語ります。(14章においてパウロが「造り上げる」という言葉を7度も用いていることは注目です。)彼がコリントに建てた教会は、豊かな賜物を持ちながらも内側に争いを抱え、肉による交わりが相変わらず人々の間を支配していました。 そのところでパウロは、教会の交わりを「教会を造り上げる」(口語訳では「徳を建てる」)というところに立って考えるように呼びかけるのです。おそらくそのことの先に彼が見ていたのは、キリストの体である教会が、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4:13)ことだったのではないかと思われます。

 もし教会における交わりのすべてが、キリストの豊かさに向かって教会を造り上げるためのものであるならば、そのところで私たちは、自分が何者であるのかを思い出させてくれる友として互いに出会うことになります。それは何か特別に難しいことをしなければならないということではありません。すでに自分たちに与えられ、自分たちが聞いてきた福音を告げるということにほかなりません。そのとき私たちの交わりは、互いを神へと向かわせるすばらしい機会となるでしょう。私たちがもはや自分の義によって生きるものではなく、ただイエス・キリストにおける神の赦しと恵みによって生きる者であるという事実を思い出せてくれる者こそ、キリスト者が必要としている友だからです。

 私たちは、個人的な癒しがますます求められる時代に生きています。けれども、そこで差し出される「癒し」と呼ばれるものは、はたして真理に向かって人を造り上げていくものなのかどうか、今一度問うてみる必要があるように思います。キリスト者は、慰めの言葉が何ひとつ自分の中に無いことを知っています。しかし、キリスト者はまた、真の慰めがどこから来るのかを知らされています。驚くべきことは、そのような者たちを、互いに救いの喜ばしいおとずれを持ち運ぶ友とするために、神は教会へと召し集めておられるということです。

 私たちは、病床の兄弟姉妹を見舞った折、反対に自分が慰めや励ましを与えられたという経験を持っています。D.ボンヘッファー(1906〜45年)は、『共に生きる生活』の中で次のような意味深長な言葉を残しています。「彼(キリスト者)は、ただイエス・キリストのために、〔ほかの〕兄弟を必要とする。自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである。前者は不確かであり、後者は確かである」。

 キリスト者とは、この世のただ中にあって、自分の外から来る神の言葉によって生きることを決断した人のことです。しかし、神の言葉は、直接その人に降るのではありません。それを聞かせてくれる人を通して来るのです。そして、自分が神の恵みのもとにあることを新しく想い起こすのです。

そのところで私たちは互いに必要な友として存在しています。                   (牧師 藤井和弘)