ルカによる福音書15章11−32節           2009.6.28 香里園教会 「あの愛の物語」

主イエス・キリストはたくさんのたとえ話を人々に語られた。
福音書の中には、主イエス・キリストのたとえ話がいくつも収められている。
その中でももっとも有名なもののが、「放蕩息子のたとえ」であろう。
芥川龍之介という人がいた。
鋭い感性をもっていくつもの短編小説を発表した近代日本を代表する作家である。
彼はこのたとえ話を読んで、これは短編小説の極致だと絶賛したという。
不思議な魅力をたたえた力ある物語である。人間の真実を言い当てた昔話が、
繰り返し語られ聞かれ、時代を超えて語り継がれるように、
この主イエスのたとえ話も、人間の現実と神の真実を私たちに語りかけている。

ストーリーはごく簡単なものである。一人のある父親のもとに二人の息子がいた。
まずその弟の方が、自分の将来受け継ぐべき財産を先に分けてもらい、
自由を求めて家を出、遠い国に行ってしまう。
ところが、勝手放題の生活はやがて行き詰まる。そろそろ仕事を探して働こうと思っていた矢先、
運悪く飢饉がやってきて、 豚のえさで飢えをしのぐほかない状態、
いやそれさえもできないほどのどん底にまで落ちてしまう。
そこで彼はようやく目覚め、我に返って、父のもとに帰っていく決心をするのである。
だが今さら息子として家に戻れるはずもなく、せめて雇い人の一人にしてもらおうと、
あれこれわびる言葉を反芻しながら家路につく。
けれども、父はこの息子の帰りを、今日か明日かと待っていて、
ある日、息子の帰ってくる姿を遠くから見つけるや否や、
自分の方から走りよって迎え、家をあげて喜びの祝宴を催すのである。
ところが、その祝宴が始まった頃、ちょうど一日の仕事を終えて帰ってきた彼の兄は、
この父の振舞いを聞いてすっかり腹を立て、家に入ろうともしなかったというのである。

たいへん寛大な父親と、たいそうまじめそうな長男と
勝手気ままでついに落ちぶれて帰ってきた次男と、この三人が登場人物である。
しかしここに語られているのは、いわゆる親子関係、兄弟関係の教えではない。
神の前に生きる私たちの態度であり、私たちにかかわってくださる神の真実な姿である。
この弟の姿に、また兄息子の態度に、
ほかならぬ自分自身の姿が映し出されていることを見出すことのできる人は幸いである。

 この弟息子は、父の家にいることをつまらない、やりきれないと思っていた。
父のもとから離れれば、自由を手にいれることができると考えた。
ある程度のお金さえあれば、不自由なくやっていけると考えた。
いいかげんな人だと感じるかも知れない。しかし、私たち自身の考えていることは
それと較べてどうであろうか。

もちろん、私たちはのんびりとしたい放題のことをしているわけではない。
大人も子どもも毎日忙しく生活していることは事実であろう。
けれども、そこで神さまのことを思うことなく、別に神さまにお願いしたり、守っていただかなくても、
自分がしっかりしてさえいれば大丈夫ということになっているのではないか。

信仰を持って生きるということは、今日あまり評判のよいことではないかもしれない。
近年、カルト的宗教集団の引き起こす事件が続いたり、戦争とテロが頻発する中、
世界の複雑な諸問題がしばしば宗教と関連づけて評論されたりすることがその一因であろう。
一神教はどうも危険だなどという評論さえ聞こえる。
そんな不幸な状況もあって、現代日本人の間では、
自分はとくに宗教は持っていませんとか、これといった信仰はしていませんということが当たり前で、
まともなことであるかのような感覚がある。
一方、スピリチュアルなるものの流行がある。自分の力を越えたものへのあこがれであろうか。
しかしそこでは、心癒される気分を求めているのであって、
それ以上に自分自身の救いを求め、神を問うことはしないのである。
ともあれ、神さまから離れたところで、人間らしく自分らしく自由な生活があると思っているとすれば、
それはこの弟息子と同じ発想だといえよう。

一方、このたとえ話には兄の話がある。
兄の方は、家出することもなく、ずっと家にいて毎日こつこつと働いてきた。
ところが、放蕩の末に帰ってきた自分の弟が受け入れられない。
そして、あんな弟のために盛大な宴会まで開いて喜ぶ父の気持ちが理解できないのである。
後半のところで、兄は怒りを父にぶつけている。
たぶん彼は、日頃から律義者、親孝行な後継ぎ息子として通っていたことであろう。
けれども、このように日頃の不満を吐き出しているところからすると、
彼も父とともにいるこれまでの生活を喜んでいなかったし、感謝していなかったことがわかる。
放蕩息子の話ということで、ふつうまず思い浮かべるのは前半の息子のことである。
しかし、このたとえでは後半の兄のことも詳しく綴られている。
「二人の息子のたとえ」というべきかも知れない。
そして、この二人は世間的にはぐれた息子と律義者、劣等生と優等生ということになろうが、
両極端のようでいて、案外似ている。
それはいずれも、心の思いにおいて父のもとから離れており、
父のもとにある喜びを見出していなかったという点においてである。
兄もまたもう一人の放蕩息子であった。
私たちは、天の父のもとにいるということ、
神さまのもとにあり、神さまに生かされている喜びがあるか、
それを見失っていないであろうか。

 二人の放蕩息子の物語を読んでいるが、この物語の中心人物は、二人の息子たちではない。
主人公は何といっても、この二人の父である。父は喜んでいる。
「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言っている。
父の喜び、その喜びの中に父は息子たちを招きいれようとしている。
この父は、私たち人間を的外れで高ぶった生き方から引き戻し、
すこやかな喜びの中に回復させるために働いてくださる神さまご自身の姿である。
ここにあるのは神の愛の物語である。
この父は毎日待っていた。父は息子の姿を見つけるや否や走りよって行く。
父は、弟息子のわびる言葉を聞き終わらぬうちに、僕たちに祝宴の準備を命じている。
兄を呼びにいくよりも先に祝宴を始める。これはいくらなんでもやりすぎではないか。
正義、公平、教育の観点からしてもおかしい。
兄でなくとも、「お父さん!これはいったい何事です」と言いたくなるところである。
 だが、この非常識なまでの愛の振舞いは、よくできた父の物語ではなく、
私たち人間の思いを越えた神の愛の物語である。
主イエス・キリストは、この物語をなさることによって、
ご自分が何のためにこの世にこられたかということを語っておられる。
そして、ここで示される神の愛は、正義、公平、平等、正当な報いといった
人間の原則を吹き飛ばしてしまっている。
そういう世の原則からすれば、まったく不当なほどに、
主イエス・キリストの父なる神は私たちを愛された。
私たちが滅び行くのを見逃されなかった。
もし、神が本当に公平に、ただ神としての正義の原則を貫かれたら、私たちは立ってはいけなかった。
赦されて生きていくことはできなかったのである。
この父の振舞いに描かれている神の愛は、
父なる神が救い主イエス・キリストをこの世にお送りくださり、
救い主が自らそのいのちを十字架に捧げ、それによって私たちに示してくださった愛である。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。

  父は、死んだと同様であった下の息子が帰ってきたことで大喜びしているが、
後半をよく注意して見ると、もう一人の放蕩息子、すっかりふてくされている兄をも見捨ててはいない。
にぎやかに祝宴がはじまったとき、父は上機嫌で宴席に座っているわけではない。
父は外に出てきている。
そして中に入ろうともしない兄の傍らに立って語りかけている。
自分の弟のことを、弟とも呼ばない兄に対して、忍耐強く語りかけている。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(31〜32節)。

これは、すぐに自分の正しさを振りかざし、
狭く貧しい思いに捕らわれてしまう私たちへの語りかけである。
私の愛の中に生きよ、私があなたにいのちを与え、あなたとともにいるではないか。
一緒に私の喜びの中を歩もうではないか、と招いていてくださる。
 こうして日曜日ごとに行っている私たちの礼拝は、聖書のみ言葉を共に聴く中で、
神に愛されている自分自身を発見し、 神さまに生かされている喜びを、
そして本当の自分自身を取り戻すところである。