このページではベルセルクにおける数々の謎等を独自に考察しています。
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○蝕に対するガッツ歓喜の謎

 蝕の発生が予想されたときのガッツの感情はかなり複雑で、不安・恐怖・怒りなど色々な感情が入り混じっているが、その中で特筆すべきものが一つある。
 それは「蝕に対する歓喜」という感情。
 人の感情を感じ取れるバック自身も不思議に感じたらしいが、蝕の悲惨な光景からは及びもつかない異質な感情である。

 なぜ歓喜か?、何に対する歓喜なのだろうか?
 考えられることは4点ある。
 1つめは「生き延びることができたこと」
 2つめは「強大な敵に巡り合えること」
 3つめは「グリフィスに出会えること」
 4つめは「憎悪」(−どつぼサン提供−)
 5つめは「闇の獣の歓喜」

 第1点の「生き延びることができたこと」というのは、つまり自分自身の生への歓喜である。
 かつてグリフィスが
「自分の命を試している」「わざわざ自分の身を死の危険にさらして、逆にそこから命を拾おうとあがいている」
とガッツを評したように、ガッツのその生き方からして、絶望的な死線から生還できたことに多大な喜びを感じたとしても当然かもしれない。

 第2点の「強大な敵に巡り合えること」は一剣士としての願望と考えられる
 使徒達と殺り合う義務感のようなものを自らに課しているガッツではあるが、100人斬りや武者修行のように困難を乗り越えて自分を鍛えようとする感情があることは否定できない。こうした感情は剣士誰もが持つものらしく、ある意味救いがたい感情である。

 第3点の「グリフィスに出会えること」への歓喜は、愛憎の対象としてグリフィスを追っているガッツにとって幸運を感じずにいられなかったためと思われる。
 どれだけ使徒を倒せばグリフィスに辿り着けるかと悩んでいたことが「縛鎖の章 闇の獣」で語られているが、その具体的方法が見つからず彷徨っていた状態であったため、ひょんなことで蝕が再び発生することを幸運だと感じたのかも知れない。
 髑髏の騎士に「二兎追うものは一途をも得ず」と言われた後でも、グリフィスは拘泥を余儀なくさせる存在なのだ。

 第4点の「憎悪」に対する歓喜は「狂戦士」の本質にも迫る見解である。(どつぼサン提供)
 かつて、ガッツがエルフの鉱洞で一人になったとき次のように語っている。
「贖えねえなら・・・こいつで身を焼くしか・・敵を焼くしかねえんだ」
 これは「憎悪(恐怖)を逆に喜びに変えるしかない」という意味であり、「憎悪することを喜ぶ」又は「喜んで憎悪する」という二律違反の感情そのものが「狂った戦士」の本質なのだというものだ。
 私自身は今まで「憎悪に身を焼く」を「殺意で塗りつぶせ」と同義にしか考えていなかったため、そこまで考えたことは無かったが、確かにベルセルク=「狂戦士」という構図を見据えた解釈であり、大変興味深い。
 蝕の発生を喜ぶというよりも、憎悪の対象に対しての歓喜といえる。

 第5点の「闇の獣の歓喜」は、ガッツの深層心理というか潜在的感情であってガッツ自身の意思とは無縁だという解釈。
 (本編でたびたび登場しガッツに纏わりつく「闇の獣」はガッツの深層心理の投影と考えられる)
 つまり、敵・味方を問わず殺戮のみを欲する「闇の獣」にとって、蝕は喜ぶべき状況だということ。
 デビルマン黙示録でいうところの勇者アモンのようなものと考えれば良いのかもしれない。

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