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クリスチャンなのに何故罪を犯すの?


> ところで、今わからないと言うか、人にうまく説明できないことがあるんです。
> 1つはクリスチャンはみんな罪の奴隷から解放されて御霊が内に住んでくださり
> 、コントロールされているはず
> なのに、相変わらず罪を(極端に言うと神さまを知らない人も犯さないような)
> 犯します。
> 「クリスチャンなのにどうして?」とノンクリスチャンに聞かれた時にどう答え
> たらいいのか。

> もう1つは「神さまに力をもらうとか、より頼むってどういう事?」と聞かれた
> 時。
> もちろん、クリスチャンになったからと言って、急激に変化する人ばかりではな
> いことはわかりますが、いづれもノンクリスチャンの質問です。
> 

クリスチャンなのに、どうして私は罪がやめられないのだろう、あの人はクリスチ
ャンなのにどうして・・・というような疑問は誰でも抱くものです。
それゆえ、クリスチャンにつまずく人もあり、失望して教会を去る人もありますね。

クリスチャンになると罪を犯さなくなるなんて、そんなことはありませんよね。
それでは、「どうせ罪人さ」と開き直って平気で罪を犯していいとも言えませんね。
むしろ多くの人は
罪を犯してしまう自分を責めながら、悶々としているのではないでしょうか。

信じたばかりの若い頃の私もそうでした。自分の救いの確信を失いかけていました。
そのとき、ある人は教えてくれたことは「あなたは何を根拠に自分の救いを確信す
るのですか。それは自分ではなく、聖書です。聖書にある神の約束です。」という
ことでした。つまり、クリスチャンになる(救われる)ということは、罪が無くな
ることではなく、罪を許していただくこと、十字架でイエス様が私たちの罪を負っ
てくださったので、神様からは罪のない者として見てくださること(これを義認と
いいます。)です。クリスチャンとは許された罪人にしかすぎない、ということで
すね。まずここまではいいですね。

それでは、クリスチャンになった後は当然罪を犯さない人間になる、と一般には期
待されるのですが、そうはいかないのが現実ですね。依然として罪の性質は残って
いるのです。それは一生涯無くなることはないでしょう。それは天国でのことです。
生きている間は、なお罪と戦っていかねばならないのです。

ヨハネ第1の手紙には、こう書いてあります。

	もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちの
	うちにありません。
	もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、
	その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
	もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。
	神のみことばは私たちのうちにありません。(1:8-10)

これはクリスチャンに宛てた手紙です。クリスチャンが自分には罪がないというな
ら偽り者です。高慢です。私たちは常に罪を告白しつつきよめられなければなりま
せん。(これは救いとは違います。「きよめ(聖化とも言う)」という救いの次の
ステップです。)
きよめられた生き方について、同じヨハネ第1の手紙ではこう言っています。

	神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、
	真理はその人のうちにありません。(2:04)

	神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが
	命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(3:23)

そのためには神さまの力、聖霊の助けが必要です。2つめの質問にあるように神さ
まにより頼む必要がある訳です。
コントロールされているはず、と言われましたが、神様は私たちの自由意志を尊重
される方です。ヨハネの黙示録にこんなみことばがあります。

	見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて
	戸をあけるなら、わたしは、彼にところにはいって、彼と共に食事をし
	彼もまたわたしとともに食事をする。(3:20)

神さまはけっして、私たちの意志を無視して、心の戸をこじあけて入って来るので
はありません。私たちが内側から開けなければならないのです。これは救いを受け
るときだけなく、日々の歩みにおいていつも必要なことです。御霊は確かに心に住
んでおられるのですが、それに従うか、それとも肉(罪の性質)に従うかは、常に
私たちの意志と決断にかかっているのです。しかしいったん御霊に従うならば、す
ばらしい実を結ぶことは、また多くの先輩たちが立証しています。

ローマ人への手紙
	このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に
	対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
	ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情
	欲に従ってはいけません。(6:11,12)

	もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御
	霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
	(8:13)

ガラテヤ人への手紙
	わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさ
	い。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
	(新共同訳 5:16)

神様により頼む、とは神様が必ず助けてくれることを信じること、そして助けよう
としているその神様の導きに従うことです。導きはどうしてわかるのか、というこ
とは、また大きなテーマですので別の機会にゆずることにします。とりあえずは、
聖書を良く読み、良く祈ることによってわかる、と理解してください。

罪にとらわれているクリスチャンを見ると悲しくなりますね。また、そんな現実を
前にしてノン・クリスチャンに対して弁解の余地がありません。
ただ、私たちはそんなクリスチャンのために祈る必要がありますね。
また、私たち自身も、「人につまずきを与えるものは、わざわいだ」と言われた、
イエス様のことばに、自戒しつつ、常に神さまに罪を告白し、きよめられながら
一歩一歩、イエス様に似た者へと変えられていきたいですね。
決して罪を犯さないのがクリスチャンではなく、罪と戦いながら、そのような歩み
をしているのがクリスチャンである、と理解して頂ければ良いでしょう。

答えになっているでしょうか。ちょっと心配ですが。
LICの礼拝メッセージの「御霊の法則」も参考にして下さい。