山形さんの証し(インタビュー:Luke)

Luke>どのようにして教会に行くようになったのですか?

Yama>教会へ通うようになったのは、結婚式を聖アンデレ教会で挙げたことがきっかけでした。その時のセミナーで司祭様より、

「愛とは、お互いの気持ちを思いやり共感すること、 結婚とは、永遠の愛を約束すること、その約束を実行するのが夫婦の形である」

という、お言葉があったのですが、これは、全て人類の関係についても、言えることではないかと思っております。
愛とは、語ること、誓うことではなく、実行することが大切なことなのだと知りました。

結婚がきっかけだったとはいえ、教会の門を思い切って叩いたことはこれからの人 生を豊かなものにすると信じています。そこまでに到達するのに、少し遠回りをしていたようですが・・・。

インターネットで、その門が身近になるということは、現代人の生活を考えると、時代に添った形だと思います。どんなにきっかけであっても、辿り着く場所が同じであれば、それでいいのでしょう。その扉を開いた世界中の人が、様々な交流を通して、心の発展をしていければいいと思います。

Luke>どのようにしてクリスチャンになったのですか?

Yama>どのようにクリスチャンになったかを考えると、物心がつく以前からだったのではないでしょうか。信者が身近にいたというわけではありません。

星の運行、極端な貧困、唐突な幸運、戦争など、人智の計り知れない万象の不可解事の応えを、聖書の言葉の中から、幼いながら拾い集めていたような気がします。

Luke> 幼いとき聖書を読んでいたのですか?

Yama>結論を急げば、キリスト教美術の存在理由を考えた場合、幼いときから聖書を読んでいたと言っても、あながち間違いではないかもしれません。かのビクトルユゴーのレトリックはまさに正しく、エミル・マールが証明したように、「中世では、人間が重要だと感じたことで、石に書き綴らなかったことはない」。つまり、イコンから大聖堂まで貴賎大小を問わず、すべての中世キリスト教美術は、ラテン語の読めない民衆の為の「聖書」だったというのが、私の体験に基づく認識です。
家庭にたまたま美術全書があったためでもありますが、美術の主題になっている「黄金伝説」や「聖書」には自然に親近していたと思います。

そして、大学在学中は、最も不可解な人間の心理への理解を求めて、古代ギリシア哲学から現代アメリカの精神分析学まで渉猟しておりました。

現在到達している認識は、絶対的な善などは存在せず、聖性の名の下にのみ、絶対的な肯定が存在しうるということです。

Luke> この意味をもうすこし詳しく教えて下さい。

Yama>「もっとも完全な組織とは、神の組織である」とニーチェは言い、王権神授説に礎を置いていた西欧社会における地上の「神の死」を、「神は死んだ」と断罪しました。組織を解体に向かわせるパースペクティブは、次に弁証法的統一を指向し、民族主義、国粋主義的ファシズム的統一を果たしたことは、歴史が証明しています。
封建主義、民族主義、国粋主義的ファシズムはそういう意味で(神)宗教に他なりません。

個人にとっての神(宗教)は、圧政、恐怖、病苦などの自己の存在を消滅させかねない心理によって、歴史が証明するように簡単に悪へ刷り替えられてしまいます。
ひとつの絶対者を奉じることを強要するのは、テロオルの論理と酷似します。
まず、絶対的な善が存在し得ないというのは、このような意味です。

少しファナティックな言辞を許していただけるなら、聖性とは自己の神を、消滅の危機に瀕してさえ、保持できる精神であり、換言すれば、殉教者の精神のことです。殉教者の精神は、その論理的円環がその精神内ですでに閉じられています。殉教者が彼の「自己の神」を否定することは、加害者の「自己の神」がいかなるものであってもありえません。これは、先に述べたように、加害者にとっての絶対的な善とは相容れないものであった場合、絶対的な善ではありえず、「自己の神」を肯定していると表現せざるをえません。

「自己の神」をテロオルの論理に刷り替えなければならない状況が起こった場合、また同様にテロオルの論理が「自己の神」を放棄することを強要した場合、いずれにしても、聖性を保持することを可能ならしめるのが、私にとってはクリスティアニズムの他にない、ということです。


Luke>ありがとうございました。