「遍在の神」 By Luke

聖書:詩篇139篇

(節は新共同訳表記です。新改訳では1節ずれます。)


	8  どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。
	  どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
	9  天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/
	  見よ、あなたはそこにいます。
	10 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
	11 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/
	  右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
	12 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
	  夜も光がわたしを照らし出す。」
	13 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/
	  闇も、光も、変わるところがない。
	
 前回6節で作者ダビデは、神が「前からも後ろからもわたしを囲」んでいる、と驚きを表していました。従って、神の前から離れ、逃れ、隠れることができるのだろうか、いや誰もできない、というのが今日の箇所の結論です。それをダビデは詩的に表現します。

 9節では、天と陰府(よみ)という死後人間が行く2つの場所が対比されています。人間はそのどちらかに行くのです。どちらも神の支配下にあります。どのような生き方をし、どのような死を迎えてもそれは神の手の中にあります。

 10節の曙の翼とは、夜明けと共に東の空から一瞬のうちに西の空に飛ぶ朝日のようなスピードで飛ぶことを述べています。イスラエルの西には地中海がありますので、海のかなたとは、西の果ての事です。現代なら、光速ロケットで宇宙の果てに行き着こうとも、という感じでしょうか。そうです。何十億光年の彼方の宇宙にも神はおられるのです!

 いつでもどこにでも神はおられます。これを遍在といいます。神は今、日本にはいるがアメリカにはいない、ということがあるとすれば、それは神ではありません。時間と空間を超越しているお方なのです。ですから、あなたのすべてを知っておられるのです。ただし遍在ということと、汎神論とは区別されなければなりません。正確を期すために辞書の定義をそのまま引用すると汎神論とは


     すべてのものに神が宿っているとしたり、一切万有の全体がすなわち神
    であるとしたり、総じて神と世界との本質的同一性を主張する立場。ウパ
    ニシャッドの思想・ストア哲学・スピノザの哲学など。汎神教。万有神論。
    パンセイズム。

 汎神論は神と万物を一体として見ますが、聖書の神は万物を創造された方です。

 さて、そのように遍在される神から隠れようなどと思うことが、すでに愚かなことです。12、13節では闇さえも神の目から私たちを隠すことはできないと述べます。前回も述べたように、もし神があなたの行いを(人の目からは隠れたところでの行いをも)見て、さばくお方ならば、それは恐ろしいことです。あなたは、いつか、神の前に申し開きをしなければなりません。聖書は、「すべての人が罪を犯した。」そして「人は死んだ後さばきを受けねばならない。」と教えています。しかし、この詩篇の作者には、そのような恐れは全く見られません! むしろ、「御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」すなわち、神は何処にいても私を正しい道、幸福な道、祝福の道へ導いていて下さる。そこから、それないように、しっかりと捕まえていて下さる。と、述べています。神が共にいて下さる確信、喜び、安心感、平安、感謝を表しているのがこの詩なのです。

 なぜでしょうか? それは作者ダビデが、神の赦し、救いを受けているからです!!

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