和暦
西暦

事       項
天文
13
1544
1
9月11日、岐阜県池田郡片山に生まれ、のち大野郡大御堂(現揖斐郡大野町公郷)で育てられる。父竹中重元(重道ともいう)、母杉山久左衛門女(『寛永諸家系図伝』『美濃国諸家系図』『竹中家譜』)
【異説】天文3年9月11日生まれともするが間違い(『竹中系図』『美濃国諸家系図』)
14
1545
2
父重元、大御堂より兵を率いて不破郡岩手城の岩手弾正信久を攻め、岩手領を押領する(『竹中家古由書』『岐阜県史』
【異説】永禄1年のこととも
15
1546
3
父重元、菩提山城を築き、ここに住す。岩手四郡のほか福田、長松、栗原一帯六千石を領す(『竹中家旧記』『竹中家古由書』『岐阜県史』)
弘治

1556
13
安八郡西保城主不破光次、菩提山城に来襲、不在だった父に代わり半兵衛は弟久作とともに撃退する(『竹中家譜』)
【異説】永禄2年秋(『竹中家旧記』)
永禄

1558
15
【異説】父重元、兵を率いて不破郡岩手城の岩手弾正を攻め、敗戦。重元62歳。翌年菩提山城を築く(『寛政重修諸家譜』『竹中家旧記』『竹中家系図』『美濃明細記』)

1560
17
12月、浅井長政と争っていた近江観音寺城の六角義弼の求めに応じて、重元は江北に侵入する。(『竹中文書』『若宮文書』)
【異説】2月9日、父重元没す。62歳、とする説があるが間違い(『寛政重修諸家譜』)

1561
18
2月、重元、浅井方の佐和山城を攻めた六角氏の要請に応じ、再び近江湖北に侵入、浅井の背後を衝き大原口、苅安尾で戦う(『竹中文書』)
閏3月25日、六角義弼、重元に感状を贈る(『竹中家文書』)

1562
19
2月7日、父重元没す、64歳。岩手村禅幢寺に葬る。法名常善(『岐阜県史』)
【異説】永禄3年2月7日没するが間違い(『寛政重修諸家譜』)
【俗説】この頃、秀吉は鵜沼の大沢次郎右衛門を誘降し、その知恵を借りて栗原山に隠棲中の半兵衛を召し抱えようとして訪ね、三顧の礼を尽くして軍師として招くことに成功する。半兵衛は秀吉の築いた墨股の城に移り、家人に兵法軍学を教える(『真書太閤記』)

1563
20
【俗説】半兵衛、斎藤龍興に献策して十面埋伏の陣を布き、侵攻してきた織田信長勢を敗退させる(『絵本太閤記』)
【俗説】この頃、秀吉、偽の半兵衛の書簡を作り安藤伊賀守守就、氏家常陸介直元、稲葉伊予守良通ら西美濃三人衆といわれた斎藤家の重臣を調略して信長に内通させる(『真書太閤記』『堂洞軍記』)

1564
21
2月6日白昼、舅(妻の父)安藤伊賀守守就と計り、弟久作とともに士卒16人を率いて斎藤龍興の居城稲葉山城を乗っ取り、斎藤飛騨守ほか5名を討つ。龍興は逃れて稲葉郡黒村鵜飼城に入る。この頃、半兵衛は重虎と名乗る(『寛政重修諸家譜』『美濃国古領侍伝』『安藤伊賀守制札』『快川和尚の禅昌寺宛書簡』『竹中家譜』『美濃国雑事記』『武家事紀』『甫庵太閤記』『敬念寺文書』)
織田信長、半兵衛に美濃半国を与えることを条件に、稲葉山城を渡すよう求めるが半兵衛は断り、8月頃、半兵衛は斎藤龍興に稲葉山城を返し、自分は近江湖北の浅井長政に身を寄せ、隠棲する。菩提山城は従兄弟竹中重利に託す(『甫庵太閤記』『美濃国古領侍伝』)
浅井長政より草野郷内の内三千貫を与えられる(『東浅井郡志』)
【異説】稲葉山城の乗っ取りを永禄6年3月18日とも(『甫庵太閤記』『美濃国雑事記』)、また永禄6年2月8日とも(『竹中家旧記』『美濃国古領侍伝』)する説があるが間違い
【異説】半兵衛、栗原山に隠棲する(『絵本太閤記』)
7月29日、宝林寺に竹中重虎の名を用いて禁制状を出す(『敬念寺文書』)
【異説】8月15日、織田信長、美濃稲葉山城を攻め落とす。このとき秀吉配下にあった半兵衛は長良の道を教え、城攻めの奇策を進言して、奇襲によって城を落とし手柄を立てる。秀吉の「千なりひょうたん」の話はこのときのこと(『真書太閤記』)
10
1567
24
8月15日、織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とし、美濃を平定する。稲葉山城を降した信長は、もと斎藤家の重臣稲葉良通を遣わして半兵衛に出仕させようとしたが、半兵衛は病を口実にして出仕を断り、代わって弟久作を信長に仕えさせ、自分は近江浅井長政の家臣、堀次郎の重臣樋口三郎左衛門の長亭軒に身を寄せる(『武功夜話』『竹中旧記』)
11
1568
25
【俗説】9月、信長が観音寺城の佐々木を攻めたとき、半兵衛は秀吉陣にあって夜襲の奇策を勧め、佐々木の箕作城を落とす(竹中旧記』)
元亀1
1570
27
【俗説】正月、三好三人衆、美濃の残党らが将軍在所の本圀寺を襲ったとき、半兵衛が知略をもってこれを防いだ(『真書太閤記』)
4月、信長は越前の朝倉義景を攻め、浅井長政の裏切りにより金ヶ崎より撤退する。このとき竹中久作はその陣中に加わる(『竹中旧記』)
【俗説】秀吉配下にあって半兵衛も金ヶ崎城攻めに働く(『竹中旧記』)
5月、浅井勢は朝倉勢と合して美濃岩手、曽根あたりまで乱入したが、竹中久作は岩手城を守って出撃せず、信長より軽挙しなかったことを賞される(『東浅井郡志』『武功夜話』)
6月、信長は再度近江の浅井長政を攻めんとして、それに先立ち秀吉をして松尾山の樋口三郎左衛門方の長亭軒に隠棲中の半兵衛を誘降させる。半兵衛、秀吉に仕えることを承諾し、松尾山を下りる。さらに秀吉と計り堀次郎の調略に成功する(『武功夜話』『竹中旧記』『杉山家文書』『浅井三代記』『豊鑑』『島記録』)
半兵衛はこの手柄により信長から守光の太刀、国光の短刀、甲冑、黄金五十枚などを与えられる(『竹中旧記』)
この頃、半兵衛、重治の名を用いる(『杉山家文書』)
6月28日、姉川合戦に秀吉幕下にあって出陣、初めて野戦に臨む秀吉に作戦について献策する。弟久作も参陣し、浅井方の勇将遠藤喜左衛門を討ち取る(『武功夜話』『浅井三代記』『豊鑑』)
この後、秀吉は浅井方の属城横山城を預かって守る。半兵衛、秀吉に従って横山城を守る
12月、志賀の陣に秀吉出陣する。その留守の横山城を半兵衛と蜂須賀彦右衛門らが守る(『武功夜話』)
【異説】半兵衛も秀吉に従って志賀の陣に出陣する(『竹中旧記』)

1571
28
正月、秀吉が上洛し二条城の警護に当たっていて不在のとき、横山城を蜂須賀彦右衛門と守る
2月24日、浅井方の属城磯野丹波守員昌の守る佐和山城攻略を計り、半兵衛は前野将右衛門、蜂須賀彦右衛門とともに浜中口から攻める。磯野は城を開き高島郡に退去する(『武功夜話』『聰見記』『信長公記』『島記録』)
5月6日、半兵衛は秀吉不在の横山城にあって、朝妻、太尾の城を攻め箕浦奪還に出てきた浅井方の攻撃を防ぎ、横山城を守る(『武功夜話』『甫庵太閤記』『信長公記』『松下文書』『真書太閤記』)

1572
29
正月、秀吉が新年の祝詞言上に上洛中、朝井勢が再び横山城を攻めたが、半兵衛は留守兵を指揮してよく守り、出撃して傷ついた加藤光泰を助ける(『武功夜話』『聰見記』)
2月、半兵衛は木下小一郎、前野将右衛門、蜂須賀彦右衛門らと宮部善祥坊を攻め、調略する(『武功夜話』)
半兵衛は戦乱で困窮する百姓を助けることが急務だと説いて、地子銭免除などの策を進言する(『武功夜話』)
9月、信長は信忠を伴い虎御前山に出陣、秀吉に在番を命じた。半兵衛は木下小一郎、尾頭甚右衛門らと先発して虎御前山に至り、布陣して小谷城と対峙した(『武功夜話』『信長公記』)
天正1
1573
30
8月、信長は朝倉・浅井誅滅を期して出陣、小谷城の浅井を包囲しておいて先ず24日、越前の朝倉義景を討ち滅ぼし、近江に取って返して小谷城攻めに掛かった。秀吉陣にあった半兵衛は、信長の妹で浅井に嫁しているお市の方とその女子三人の救出を申し出、信長の許しを得て城からの脱出に成功させた。また城攻めについて周到な準備のうえ夜襲を行い、その作戦の指導をした(『武功夜話』)
この戦後、秀吉は小谷城を与えられた

1574
31
秀吉は今浜(長浜)に新しい城を築き、城下町の建設にとりかかる。半兵衛は町割りや行政組織を定めるなど町作りを考え、生活困窮者には年貢を免除する代わりに労役に出させるなど、施設について献策する(『武功夜話』)

1575
32
正月、秀吉長浜に移り、多くの家臣を新たに召し抱える。半兵衛は一千五十三石を受ける(『武功夜話』)
4月、長篠合戦に秀吉に従って出陣した半兵衛は、設楽原の戦場で布陣をめぐって谷大膳と対立したが、結局、半兵衛の説の正しかったことが事実で証明された(『武功夜話』『甫庵太閤記』『名将言行録』)

1576
33
信長、安土城建設にかかる。半兵衛は浅野弥兵衛、宮部善祥坊らと築城工事に当たり、蛇石といわれる巨石の運搬に奇策を出して成功させる(『武功夜話』)

1577
34
3月、秀吉は紀州雑賀攻めから石山本願寺包囲陣に回され、半兵衛と木下小一郎に天王寺砦を守備させる(『武功夜話』)
8月、上杉討伐の加賀の陣に秀吉軍は後備えとして出陣、作戦について大将柴田勝家と意見合わず無断で陣を撤し、長浜へ帰陣する。その軍議のとき半兵衛はすぐに播磨計略にあたるべきことを説き、帰陣を勧める(『武功夜話』)
9月5日、秀吉長浜に帰り信長より謹慎を命ぜられる。7日、半兵衛、木下小一郎、蜂須賀、前野らは播磨計略に向かう(『武功夜話』)
9月22日、半兵衛らは播磨から小寺官兵衛の子松寿丸を人質として連れ帰る。信長は播磨調略の進んだことで秀吉の無断撤退を許し、謹慎を解く(『武功夜話』)
10月19日、秀吉軍播磨に出陣、小寺官兵衛の姫路城に入る(『武功夜話』)
11月28日〜12月1日、半兵衛は小寺官兵衛を先導役として福原城を攻める(『武功夜話』『信長公記』『竹中旧記』)
12月、秀吉は上月城を落とし但馬を平定した報告に安土にでかけ、半兵衛と蜂須賀がその留守の竜野城を守る。この頃から半兵衛は病床に臥すようになる(『武功夜話』)

1578
35
正月、竹田城を守っていた木下小一郎が竜野に半兵衛を見舞う。
2月、別所宗治謀反の動きに、秀吉不在の竜野城で半兵衛らは軍議を開き、秀吉の帰陣を求める(『武功夜話』)
秀吉は三木城の別所宗治攻めを命じられ、半兵衛もその陣中にあって帷幄に参じ、但馬の諸将の調略に努め、山名豊国、八幡山城の明石景親らを誘降する(『武功夜話』)
5月、半兵衛戦況報告のため安土に向かい、5月24日安土に着き、信長に謁す。信長から秀吉に黄金百枚、半兵衛には銀子百枚を与えられる(『武功夜話』『聡見記』『信長記』『信長公記』)
6月、半兵衛播磨に帰陣、明石景親を介して宇喜多直家と忠家を調略する
10月、三木城攻囲陣にあった荒木村重が陣払いして伊丹に帰り、謀反して挙兵する。小寺官兵衛は村重を翻意させようとして伊丹城に出かけ、抑留されてしまう。信長は官兵衛を疑い、その子人質松寿丸を殺せと秀吉に命ずる。半兵衛は秀吉に説き、殺したことにして松寿丸を自分の岩手菩提山城にかくまう(『武功夜話』『竹中家旧記』『竹中旧記』『黒田家由書』)
11月初旬、秀吉上洛に半兵衛を伴い、半兵衛は京都で療養する(『武功夜話』)

1579
36
3月、半兵衛病を押して播磨三木陣に戻る。秀吉は城下に民家を求め、弟久作を付けて半兵衛を介護させる(『武功夜話』『豊鑑』)
6月9日、福知山に出陣していた前野将右衛門に宛てた手紙で半兵衛は出家の志のあったことを告げている。姫路書写山に在城したとき僧衣、経文等を求め、あらかじめ高野山に送っておいた(『武功夜話』『甫庵太閤記』)
6月13日、半兵衛三木陣中に死す。36歳。三木城外平井山中に葬る。法名水徹と号す(『寛政重修諸家譜』『寛永諸家系譜』『武功夜話』『織田軍記』『豊鑑』『竹中家譜』『竹中丹州府君碑』)
歴史読本十月号(第三十九巻第十九号)池内昭一