学科試験は、少林寺拳法拳士として身に付けておかなければならない教養、知識です。いつ、どんなときでも答えられるようにするのがベストです。記憶するだけでなく、日常生活・いざというときに役立てたいものです。 二段の試験には、最低これくらいのことは答えられるようにしましょう。 |
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少林寺拳法の沿革(再興の経緯) 少林寺拳法の起源は古代インドに起こったインド拳法です。今から一五〇〇年前、河南省嵩山少林寺に留まられた達磨によってインドから中国に伝えられました。 開祖による少林寺拳法の創始は、昭和三年(一九二八年)、開祖が中国に渡り特務機関員という仕事の特殊性で、インド拳法を源にする各派の達人より秘技を習得したことに始まります。 昭和二〇年(一九四五年)、満州で敗戦を迎え、その混乱の中で人間の赤裸々な行動を目にした開祖は、人づくりによる祖国復興を決意します。そうして翌年帰国します。 昭和二二年(一九四七年)香川県多度津町に日本正統北派少林寺拳法会を設立、昭和二六年(一九五一年)に金剛禅総本山少林寺を開創しました。その主行を中国で学んだ各種の拳技を三法二五系六百数重技に編成・整理し、少林寺拳法と名づけました。 昭和三八年(一九六三年)には、社団法人日本少林寺拳法連盟を設立し、「拳禅一如」の修練を通して青少年の育成に力を注いでいます。 少林寺拳法の創立と名称の由来について 無手格闘技術の肉体的動作は「円形運動」「直線運動」「曲線運動」の三種が基本となり、これらの運動を応用してつくった格技は、柔法系「倒す」「投げる」「ねじる」「圧す」「締める」「曲げる」、剛法系「突く」「打つ」「蹴る」「切る」の十種に尽きます。 中国で拳技を学んでいるうちにこのことに気がついた開祖は、帰国後様々な格闘技を研究され、まったく新しい観点から中国の拳技や把式の再編を思い立ちました。 護身術・保健体育・人格完成の心身一如の修行法の創設を志し、阿羅漢の拳を今日にそった形に組み替え、自らの体験と創意を加え、少林寺拳法を創始しました。 「少林寺拳法」と名乗ったのは、開祖の先師・文太宗老師が元嵩山少林寺の僧であり、開祖も義和門拳の允可を嵩山少林寺で受けたからです。 また、仏伝正統の行としての拳を修復し、祖師達磨の遺跡である少林寺の名を永く世に残すことを願い、日本に総本山少林寺を建立して拳禅一如の宗門の行を創始し、少林寺の行として再興したことを記念して名づけました。 武道とその在り方 高度な大量殺人兵器が開発されている現代において、無手の格闘技を習得するのは、人に勝つことのみを目的とするならば、まったく無意味です。勝ち負けは、歴史が示す通り殺し合いによって決められてきたのです。 真の武道を求めるものは、武の本義に徹し、武道の本質を知り、まず己に克つことを修め、己を知って人を知って、ダーマの分霊を持った自己を認識し、人間はなんのためにこの世に生を受けているのかを悟らねばなりません。 人間は、心の持ち方によって善にも悪にもなることを思えば、武道の在り方は人を倒し、殺す技術を修める道としてではなく、「己れを修め、己に克ち、人を生かして、己れも生きる」という済世利民の道でなければなりません。 法形の真義 一般に「型」と言われるものを、少林寺拳法では「法形」と呼称しています。 「形」は、もともと人の容貌や身体の意味があり、また古来より兵法における諸式作法を定めたものには「形」を用いるのが常でした。そこで、少林寺拳法では「型」ではなく「形」を用いています。そして単に「形」ではなく、ダーマを意味する「法」をつけて「法形」と称しています。 その真義は「法形」という呼称からわかるように、宇宙の心理・法則であるダーマの考えに則り、自己を修め、自己を確立し、社会の進歩と幸福に貢献するための「みち」です。霊肉一如、心形一致、自他共楽の妙境に至るための手段としての重要な存在意義をもって行じられるというものです。 少林寺拳法に用いる理法について ^経脉の理 人間の体には「経脉秘孔」と言われるものが存在していて、少林寺拳法ではこの「経絡秘孔」の内より七十八種三十八穴(女子三十七穴)を選んで、攻撃用に使い効果を上げています。 _鈎手の理 手を曲げて肘をわき腹に付け、半身の体勢になり五指を張った方法を「鈎手守法」と呼び、この「鈎手の理」で相手の腕を伸ばすことができれば、小さな力であっても相手を制することができます。 `梃子の理 抜技、逆技、投技などに、少しの力で重いものを持ち上げることのできる「梃子の理」を利用して技法を組成しています。 a車の理 例えば、同じ長さのものでもまっすぐに進めて力をつけるのと、車のように回して力をつけるのとでは、同じ寸法でも勢力に大きな差が出ます。このように回転力=「車の理」も、少林寺拳法では十分に利用しています。 bはずみの理 弓の弦のはずみによって、矢が勢いよく飛んでいったり、刃物でものを切るときに適当な間合いをとってはずみをつけて切ると切れやすいなど、はずみの特性も少林寺拳法では利用しています。 cその他 反射神経の活用、運動神経の逆用、心理学の諸原理などを利用して、巧妙に「技」「術」「略」を使い分けることができます。 拳の三要 ^「技」 身体手足を用いて行う、一定形の法則的動作。突方、蹴方、受方、投方などの基本動作。 _「術」 練磨された「技」の活用法。いつ、いかなる場合に用いれば大きな効果を上げることができるかという適切かつ有効な技の運用法。 `「略」 「技」と「術」を統御する「知略」。 以上「三要」をあわせ備えたものは、直接手を下さずに多くの人を感服させるとされています。しかし、まず基礎となる「技」を会得しなければ、いつまでたっても「格」=ゆきつくべき、正しいところ、に至ることはできません。 勘について 「勘」は五感ではなく、響きのない声を聞き、形のない心を感じるような、時間と空間を超越したある種の感覚で、人間の持つもっとも優れた感覚だと言えます。日常生活の中でも、何かを決断する場合、頼りになるのは「勘」です。少林寺拳法の修業においても「勘」を磨き養うことは重要です。 「勘」を鋭くするには、自ら多くの体験をして、体験を重ねて体得する以外にはありません。 日ごろから心がけることは、 @常に問題意識を高く鋭く持つこと。 A何事でも他の物事と関連させて考えること。 B考えるヒントになるような情報を豊富に蓄えていること。 C興味と関心を広く開いて見聞を広げ、多くの情報を蓄積しておくこと。 心・気・力の一致について 人間は「心身一体」の存在であり、肉体と心が一体となったときに初めて大きな働きをすることができます。 少林寺拳法に限らず、何事をなすにも必要なのは、「心力」「気力」「体力」の一致です。 攻防の動きを察知するのは「心」の働きであり、機をつかんで相手を制する気迫は「気」の働きであり、技によって相手を制するのは「体」の働きです。 俗に言う「火事場のばか力」は「心・気・力」の一致が見せる神秘力です。こうした力を体験すると、それ以降は常にこうした力を出せるように訓練することにより、自身と勇気が生じてきます。 防具着用の乱捕りについて 「乱捕り」とは、法形の運用法を学ぶための、限定あるいは自由な攻防を伴った修練方法です。法形を臨機応変に使いこなせるようにするのが目的です。 「武の用」として少林寺拳法を用いる場合は、相手との間合や技の連絡変化、虚実などを会得する必要があります。そのための応用練習として乱捕りの修練が必要になります。 防具着用の乱捕りは、実践的で修練には効果的ですが、そのやり方によっては弊害が多くなります。 それは精神面では、人間の闘争本能を悪い方に助長し、いつの間にか相手を倒すことや、相手に勝つことばかりにこだわるようになって、己に克つための修業ではなくなってしまうことです。 そして技術面においては、少しくらいの打撃なら受けずに当てさせて、それよりも強い攻撃をあたえるというものです。これでは実践で刃物を持った相手には通用しなくなります。 開祖は「人間がただ強さを誇るために人に戦いを挑み、試合に勝って世人の拍手喝采を得ようとするような根性を持っていては、共同社会を基調にして共存共栄を理想とする人間社会に必要な人として受け入れられるはずはない」と断言されました。 乱捕り中心の修練や、勝つことだけを目標とする乱捕りは、少林寺拳法の特徴の「自他共楽」の精神を完全に失わせるものであることを理解しなければなりません。 気勢と気合 気力が体に満ちて体勢に現れるのが「気勢」であり、声となって現れるのが「気合」です。 息を十分に丹田に吸い込み、気を鎮めて、力を丹田に入れると、ここに「心・気・力」の一致が得られ、全身に力が充満して、それが発現して「気勢」となり「気合」となります。 「気勢」は、本人の顔の表情、態度、体の構えなどからにじみ出る、目に見えない気の力であり、「気合」は体内に充満した気力が声となって外部に出たものです。したがって、充気によって自然に発するものでなければなりません。 発声は、自分自身の意気を励まし力を集中し、相手の気力をくじき、出ばなを制することにもなる有効なものです。 最終的には、精神と技術の修練によって「含気合」という、有声よりも大きな効果を上げる無声の気合でに達することが理想です。 |