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   12月13日(日) 黄金山学区<もちつき大会>

  あの「長江憂情」を出版された
  HP<あったか編集工房(堂垣内)> 

37th全国平和教育シンポジウム
9月26日(土)  女学院大学
記念講演:・・・・・・教育と平和
講師:黒瀬真一郎(女学院理事長)


過去を振り返ることは、将来に対する責任を負うことです。
広島を考えることは,未来に対して責任を担うことです。
(ヨハネ・パウロ二世、1981。2。25。平和公園)

議員さんの中にも、私学は勝手にやっているのだから、
助成金とかしなくていい、と言われる方がいる。
女学院が大切にしていること。<平和>
本校では、350名が原爆の犠牲になられている。

日本人は,アジアの一員であることを忘れていないか。
留学生の受け入れ。

横浜フェリス学園との交流、
平和公園を案内する生徒が、質問に答えられない自分に気がつく。
サウジアラビア大使を迎えるときに、イスラムを受け入れるのか、という意見が出た。
異文化の受け入れ。

被爆50年(1995)のとき、国際高校生サミット。
テーマ:平和、環境、飢餓
16カ国、250名
やるなら、英語でやろう。
司会に立候補した子、10段階の3だ。
数字にとらわれてはいけない。彼女は立派に責任を果たした。
その後、外語大に進学。自信をつけたのであろう。

大学では、2000年から(8・6平和学習プログラム)
関西学院大学とのジョイント・セミナー
2004年、関西学院大学生が、折り鶴に火を付けてしまったできごとをきっかけに。

日本女性会議広島大会
偶然にも、3人のパネリストが、みな女学院の出身者。

折り鶴の会・・・・・・河本一郎さん
こういう人が、女学院に在職していたこと。誇りに思う。





       

   広島の街を歩くんでがんす
   わしは、がんす頑次郎の弟子の
           ひさ じ ろう
     がんす久治郎でがんす

 咲き典>
  リンクのページ  9 オバマさんをヒロシマへ呼ぼう


栗原貞子さんを偲ぶ会
 05年7月2日(土) 15:00〜 メルパルク会館5階桜にて

 栗原貞子さんは、今年の3月に、92才で亡くなられました。
 偲ぶ会と出版記念と兼ねて、 [広島に文学館を市民の会]や栗原さんの親しい方が集いました。
 
 <うましめんかな>
 <原爆で死んだ幸子さん>
 <私は広島を証言する>
 <ヒロシマというとき>
 <何のために戦ったのか>


 「うましめんかな」のモデルとなった方もお話されました。
「こういう場に出るのは好きじゃないのですが、私が出ることで、少しでも栗原さんの心が皆さんに伝わればと思って、参加しました」
 
 森瀧春子さんは、ご自身の両親と栗原さんのつながりから、機関誌<広島の河>が再版されたらと語られる。
 丸屋さん(共立病院)・・・文学者としては御庄さん

 えっ、吉永小百合さんが! わたしの目の前を通られて・・・・・。栗原貞子さんの力ですね。10分もありませんでしたが、よくぞ参加されました。
「初めて栗原さんの前で<うましめんかな>を朗読させていただいたときは、ふるえました」と。丁度、平和資料館で詩の朗読をされるというのがあって、その足で来てくださったようです。一部の人しか知らされてなくて、退場されたあとも、当分余韻が残りました。場内から、ぜひ詩の朗読をとの要望がありましたが、事務所の方から事前にお断りがあったようです。まあ、直前に全身全霊で朗読されてきてますから。
 それにしても、わたしの50cm前を、黒服の吉永さんが通られたのです。オ〜ラが・・・・。毎日水泳を欠かさないと聞いたことがありますが、スタイルも抜群。
 欠席でしたが、秋葉市長や平岡敬元市長さんらからメッセージも。
 被爆者の山岡美智子さも話されました。
  


ヒバクシャの集い
  ・・・・
願いは一つ「原爆許すまじ」
7月5日(土) 午後 県民文化2階ホール

 この日、ヒロシマの心が一つになった。22の被爆者団体が実行委員会をつくり、力を合わせた。会場には500人が集まった。(私は、広島市被爆教職員の会の会員です。そんな歳かって?被爆2世ですよ)
 第1部は構成詩「ヒロシマから未来へ」・・・・合唱や原爆詩朗読、また緩急車雲助さんの語りなどが続く。ヒバクシャの方々は、あの日のことを思い出されたことだろう。
 第2部は、ヒバクシャ対話の集い。秋葉市長や、廿日市市長(被爆者)も参加して、意見表明。秋葉市長は、4年前の平和宣言を引用し、核兵器は戦争の世紀と言われる20世紀の<負の遺産>である。21世紀に、ヒロシマは世界中から核兵器を無くしたいと。
 それから、原爆訴訟団からも訴えが。また、ブッシュ大統領にヒロシマに来てもらい資料館を見てもらいたいとアピールも。
 


原爆ドームは楕円です。

 「原爆ドームって、楕円なんじゃね」  内部に入って、真下から見るとよくわかる。<右の写真→>
 3月31日(日)、広島市の許可を得て、私たちは原爆ドームの中に入った。高校生もいる。建物の内部には、ヘルメットを着用しないと入れない。
 事前に、高橋信雄先生の解説を聞く。 「爆風というより、衝撃波だと思ってください。鉄の板がぶつかる感じ。真ん中のドームのところは残りましたが、その回りの屋根はスレートぶきで、ぶち抜かれるんですね。それで、壁は残るんです」

 さらにお話は、爆心直下の人間はどうなるか、という点に移って「すぐそこの元安橋の上にいた人がどうなったか? 蒸発した。真っ黒焦げになった。・・・・よく、そう言われますよね。実際は、違うようです。橋のすぐそばに、レストハウスがあります。その地下で生き残った人がいるんです。その野村さんという方は、元安橋を渡って避難しています。そのとき、橋の上に倒れている人を確認しています。男女の区別はつかないが、手を痙攣させていた。つまり、即死ではないんです。原爆は、瞬間なんです。だから、表面だけが激しく焼けるんですね」 

 「それから、レストハウスの保存のこと。広島市は、今のところ取り壊しはしていない。ただしそれは、保存の予算措置をしているわけではないのです。ただ、取り壊しの予算をつけてないというだけなのです。前の市長の平岡氏は、地下部分だけ残せばいいと言っていた。こんな貴重なものを、壊してしまったらもう元にはもどらないのです」



<文学でたどる被爆地>
 2000.7.9.

案内者:村中好穂
    (ヒロシマ文学を読む会)
1.原民喜の詩碑(原爆ドーム横)
  1905年広島生まれ
「我ハ奇跡的ニ無傷ナリシモ コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタエヨトノ天ノ命ナランカ サハレ仕事ハ多カルベシ」
 1944年に妻を亡くし、生きる気力をなくした民喜が、被爆により生きてこのことを伝えねばと考えるようになる。1947年、「三田文学」6月号に『原子爆弾』を『夏の花』と改題して掲載。
 
この詩碑は、以前別の場所にあったが、子どもたちが石を投げて投球練習の的にするため、現在の場所に移設された。

2.縮景園・・・原民喜『夏の花』
3.第二陸軍病院跡・・・・大田洋子『屍の街』
4.斉美国民学校跡・・・・峠三吉『墓標』
5.福屋百貨店・・・・峠三吉『1950年8月6日』
6.旧被服支廠・・・・峠三吉『倉庫の記録』

 



  「戦争は人間のしわざです。・・・・過去をふりかえることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、 核戦争を拒否することです」・・・・1982年2月に、ヨハネ・パウロU世が平和公園で、日本語でスピーチしちゃったんよ。

 
平和公園からそんとにはなれとらん袋町小学校の、被爆者が壁に書いた伝言板(南の方)は、2002年4月12日にオープンする資料館の中に残された!<右の写真⇒> 袋町の字が見えるが、かなり読み取りにくい。
 北の方の伝言板は、建物ごと地下と一階部分が残された。



 <広島の街づくり>講座
   ・・・・@ [99/05/29 原爆資料館地下]
 参加者:約60名 
 『平和記念都市建設法は生きている』 
  石丸紀興(広大工学部教授)

 * あくまでも、松井メモです。

 1947(S22)年の頃の話である。広島市長であった浜井信三が、在京の学友に広島の悩みを次のように訴えている。
「お知恵を拝借したい。援けてほしい。広島市は復興したくても、金がなくて復興できないのだ。政府も思わしい補助をしてくれない。何か打つ手はないものか。市長をしていても意味がないから、私はやめようと思う・・・・」(朝日新聞社『原爆市長』)

と書くと、<平和都市方>は復興事業の財源確保のため、と考えられてはいけないので、広島市復興局編『大広島』第4号(1947.07.10.)からも、浜井市長の記述をあげておこう。

「・・・・広島市は、平和回復の記念都市となった訳であります。・・・・平和の人柱となられた、多くの市民諸君の犠牲を真に意義あらしめる為にも、又永遠の平和を記念するためにも、此処に、平和な、美しい、国際都市を造り上げることを、広島市再建の目標としたいと・・・・・・」

   広島平和記念都市建設法     昭和24(1949)年8月6日
     日本国憲法に基づく・・・・
                                                       (目 的)
 第1条 この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。 
                                                       以下、
  (計画及び事業) 第2条      (事業の援助) 第3条
  (特別の助成) 第4条        (報告) 第5条    
  (広島市長の義務) 第6条     (法律の適用) 第7条
 

                  

 <平和都市法>の公布前、GHQにお伺いをたてるための、英文の原稿(1949.5.2の日付)が残っている。 また、国の特別法であることから、その年の7月には、広島市と長崎市で「市民投票」が行われている。広島市での投票率は65.0%、賛成票率91.0%であった。ちなみに長崎では、73.5%と98.6%で、いずれも広島より高い結果となっている。

 法の公布後は、他都市への波及効果もあった。横須賀・呉・佐世保・舞鶴市などで、特別法が制定されている。


 <広島の街づくり>講座・・・・C [99/06/18 参加者:約35名]     『ヒロシマの文化を考える』〜文学館の建設など                         植木研介(広大文学部教授)    
 * あくまでも、松井メモです。

 今日は、「街づくり」というテーマだったのに、あまり触れられなくて・・・・と、申し訳なさそうな植木先生。まさに、文学部の講義をたった500円で聴講させてもらった気分。「文学というものは、そんな難しいものではなく、日々生きてる中から生まれてくるもの」と言われても、やっぱり難しいなあ。
  広島市としてのアイデンティティーをどうつくるのか。 例えば、県立美術館という建物があるが、その中に収容されるものは、ある一定のレベルを超えた、芸術作品と見なされたものでなければならない。 また、行政は平和公園をつくり、資料館をつくって、原爆ドームを残すことで、使命を終えたと思っているのだろうか。それで、レストハウス(大正呉服店)を取り壊すとか言い出したりする。市役所の地下だけを残して、資料館をつくりましたとかいう、そんな失敗を繰り返してもらっては困るのです。 私の個人的な思いですが、広大文理学部の校舎を、文学館にするとかね。

 ある日突然、市役所の前で「レストハウスの保存」のビラを配り初めて、みんなを驚かせた、植木先生。私の講義は、パフォーマンスと(^0^)。 原民喜の義弟である佐々木基一の次の文章を引用された。
 「もし原爆について語るなら、原爆に関する詩や小説について語るよりも、原爆そのものについてまず眼をひらいてはっきりとその正体を見きわめ、それに対して態度を決定する必要があるだろう。作品を云々するよりも、まず行動を起こすことが先決なのだ。原爆は文学の素材であるよりも前に、まず、現代に生きるわれわれがそれと実践的に対決しなければならぬ対象だろうと思う。原爆小説とか、原爆作家とかいう呼び名は、だから、ほとんどナンセンスとしか思えない。わたしは、広島の平和公園の片隅にある原民喜の詩碑が、観光名所になることのないように切に祈っている」

 結語として、

「ひろしまに文学館を、ひろしまに平和絵画館を、ひろしまに動員学徒を中心とした教育館を」


 <広島の街づくり>講座・・・・D [99/07/03 原爆資料館地下]                                    参加者:約35名 
  『ヒロシマの意味を考える』〜新しい世紀へ向けて  
                              舟橋喜恵(広大名誉教授)
 
* あくまでも、松井メモです。

 今回の「街づくり」講座が、5回シリーズの最終回。これまでの講座からの引用もされながら、最終回ということも意識されて(?)、話されました。
 中でも、「広島平和記念都市建設法」をめぐっては、特に教育への効果をとりあげて。・・・・・この法律の公布と同時に、旧軍用国有地から学校用地として無償譲与。その後も随時。(皆実高・県立工業は有名。私学では、安田・進徳。広島市では、白島・似島・宇品東・吉島小。さらに、江波・二葉・似島・幟町中。また、基町高校も。)
 広島市教委(1950.12.1.発足)は、建設法の理念は教育にあると、「平和への教育」を究極の目標とする声明を出す。<最近忘れてるんじゃないですか?>
 <原爆慰霊碑>に関連して、浜井市長の発言。
「この前にたつすべてのものに共通の祈りと誓いを刻みたい」
「この碑が現実に平和への努力につながらなければ、それはただの追想の石でしかな く、単に犠牲者を悲しむ一片の墓碑銘でしかなくなる」
「誰のせいでこうなったかの詮索ではなくて、こんなひどいことは人間の世界に再びあってはならぬという痛切な思いだけだった」
 おもしろかったのは、最後の質疑のところ。こんな質問(意見?)が出た。
「広島を構成するメンバーがかわってきている。広島じゃないところから移ってきた人が、随分増えている。そういう人も含めて、『街づくり』がなされていかないといけないのでは」
「僕は、舟橋先生が広島に来られたという、1975(S.50)年に生まれた。先生は、これだけの年数で、本当に良く広島のことを調べて、理解されたと感心している。僕の、広島に来ての第一印象は、『これで本当に平和記念都市なのか』だった」
 これに対して舟橋先生は、
「実は、私も同じような感想をもったんですよ。宇品に住んでました、ゴミを出す場所のことで市役所にお願いをしようと思ったら、それは行政が決めることだと言われました」「何か、サークルみたいなのに参加されてみてはどうでしょうか。自分の動きをつくってみてはどうですか」
「<平和教育の効果>みたいなことを聞かれることがありますが、これは目に見えてすぐに分かるというようなものではないので・・・・。けっこう、他府県に行ったときに感じたりするようです。例えば、大学に進学して、広島出身の学生はよその府県の者があまりに広島のことを知らないので、愕然とするのです。逆に、広島大学でも、多くの者が他府県出身者で、よく平和教育のことで議論になるようです。前にも、広島出身の学生が議論をしていて授業に遅れてきたことがありました。それが、感想文を書かすと『小中の平和教育の時間は寝てました』などと、ヌケヌケと書く子がですよ。何か、広島っていうことで、意識するものがあるんでしょうね。感想文を書かすと、たいてい書き出しに『僕は広島の出身で、平和教育も受けてきたが・
・・』と書くんですよね。それから、あるお母さんが『8月6日辺りは、息子が友達を連れて帰ってくるので』と断られたことがある。なんでも、広島の<8/6>を友達に見せるんだとかで」

 これからも、性根入れて、平和教育に取り組まなくちゃあと思いました。



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      花咲き山歳時記


   わしゃあ、三つの広島を旅する時の旅人ですけえ

 【軍都廣島】 【被爆都市広島】 【世界の中のヒロシマ】

 をのぞいてみちゃったらええよ。

 花咲き平和館別館 も建てとりますけえ。

   ときには、毛利元就なんかとも会いますけえ。

                              
 「広島」と名付けたのは・・・・・毛利輝元。
    1589年、広島城をつくりだしたときと言われとります。


 「凪」・・・・風が止まると書いて「なぎ」
   
夕方、海風から陸風に変わるときが凪
   瀬戸内の名物なんですか
   市民球場も蒸し暑いんでがんす
   ほいでもまあ、住みやすいところでがんすよ



  しかし、広島が1894年に日本の首都じゃったことは、
 だんだんわからんようになっとるでしょう。
  今の広島城あとに、大本営の土台だけのこっとりんさっての、
 日清戦争(1894)のときに、そこで国会が開かれて、指示が
でとったんじゃと。 天皇御自ら陣頭指揮に当たられる、ということで、
意識を高揚させる ということもあったみたいじゃゆうて、偉い先生が
ゆうとりんさった。
  それが、その堀の外で、RCCがある東側に、「貧乏人は麦を食え」
 とゆうちゃった、池田勇人さんの大きな銅像がたっとるんは知っとって
 でしょ。それが、おけつを大本営跡や護国神社がある方に向け
 とってじゃけえ、失礼なんじゃないかという声があるのは聞いたこと
 あるんでがんしょ。


  「戦争は人間のしわざです。・・・・過去をふりかえることは、
 将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、
 核戦争を拒否することです」・・・・1982年2月に、ヨハネ・
 パウロU世
が平和公園で、日本語でスピーチしちゃったんよ。


  プリンスホテルがたっとる元宇品は、千田さん(最初の県知事
 じゃろ)が宇品の干拓(1890頃)をして、橋かけて陸続きになりまし
 たが、前は島でした。
  そりゃあ、比治山も黄金山も昔は島でがんしたよ。何年か先には、
 似島も陸続きになると言われとりますよ。
  ところで、浜田省吾といやあじゃね、というイメージが強いんで
 がんすが、実はおやじさんが公務員で、いろんなところに住んどっ
 ちゃって、コンサートで「僕が住んでたところにプリンスホテルが
 建ってしまいました」とゆうとりんさったよ。
 


  ふりかけの袋を見てみんさい。どこで作られとりますか?
  田中食品の「旅行の友」は、けっこう知られとります。もう、70年以上の
 歴史があるんでがんす。瀬戸内海でとれる小イワシを干して味付けをして、
 粒状にするんでがんす。それから、広島湾でとれる青海苔(今は有明海から
 運んどりますが)や、ゴマとか混ぜてつくっとります。
  戦時中は、携帯に便利、栄養価も高いということで、戦地の兵隊さんに送ら
 れとりました。最盛期には、広島には10社以上のふりかけメーカーがあった
 んでがんす。今でも、全国の3割ぐらいのシェアーがあるそうでがんす。
  缶詰工場にも、学徒動員で学生さんも働きにいっとりんさったです。
  こういうところにも、兵站基地廣島の歴史を見られるんでがんす。

<糧秣支廠と被服支廠>展
 郷土資料館(南区宇品御幸)にて
  
 郷土資料館は、戦争中は糧秣支廠と呼ばれて、缶詰工場とかあったんですよね。現在、カルビーの工場にも使われてますね。西側は、すぐに京橋側の岸壁で広島湾と言った方がいいかも。
 兵站基地広島の歴史を垣間見ることができる、企画展です。来館者の中には、近くのお年寄りの方もたくさんおられて、昔自分がそこで働いていたと言われる方も。 

 糧秣廠(缶詰工場)玄関の写真がありました。現在の郷土資料館入り口。赤煉瓦の、立派な建物。他にも、貴重な写真が多数展示されています。それから、広島市教育委員会発行の「近代の『兵食』と宇品陸軍糧秣支廠」(500円)は、1冊持っておきたい。

 もう一方の被服支廠は、現在皆実高校や県立工業なども含む大変大きな軍用施設でした。今回展示はない兵器廠(現大学病院)とあわせて、旧国鉄宇品線沿いにありました。
 被服支廠で取り扱う物の一覧表があったのですが、枕や枕カバー(枕覆)、軍隊手帳、戦陣訓、防毒面など、興味深いものがありました。
 広島は缶詰工場やふりかけ工場が多かった。

 


  古都奈良の文化財が、日本で9番目の世界遺産に登録されとります。
  実は、9ある内の2つが広島にあるんでがんすよ。
  九つ全部知っとりますか?
   【文化遺産】・・・原爆ドームとその周辺・厳島神社・姫路城
       白川郷と五箇山合掌造り集落・古都京都の文化財
       法隆寺地域の仏教建造物・古都奈良の文化財

      日光が入って、10になりました。
   【自然遺産】・・・白神山地・屋久島
       知床が、2005年夏に3つめの自然遺産に。<全体では13番目です>

  そして、沖縄の文化財も世界遺産に<11番目>
  2004年8月、和歌山の熊野も!<12番目>
 2007年6月、石見銀山が!<14番目>



  君も、原爆ドームをつくってみませんか?
    HP<原爆ドームの作り方>

  1998年12月現在、世界では582件が登録されとります。 

  「原爆ドーム」と「宮島」は、1996年12月5日に同時に登録
 されたんですが、ドームの方は登録までに4年もかかっとりますよ。 
  歴史が浅いと言うことで、国が文化財に指定しとりませんでした。
 しかし、署名が165万も集まったんでがんすよ。それで、国や
 文化庁も動いたんでがんすよ。
   ドームは、世界の平和のシンボルと言ってもええんじゃない
 ですか。1915(T4)年に、
   
  
   続きをお楽しみに・・・・

  今日《98/12/06 (日)》は、このへんで終わりますけえ。

   このページは、当分の間ちょっとずつ進化していきますけえ、
  長い目で見てやってつかあさい。




  <広島市公式HP> も、のしときますけえ。

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