●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-01

2000/01/31-9872
二人がここにいる不思議 レイ・ブラッドベリ
伊藤典夫 訳
新潮文庫 2000年1月1日発行
毒毒度:3
“人生には一夜だけ、思い出に永遠に残るような夜があるにちがいない。”
“逃した人々は多い。たくさんの人々が逃し、二度とめぐりあっていない。なぜならそれは天気、光、月、時刻というすべての条件、夜の丘と暖かい草と列車と町と距離が、ふるえる指の上で絶妙のバランスをとった瞬間にあらわれる夜だからだ”(生涯に一度の夜)

宇宙の拡がりを無限に感じさせる短編集。文章はあるときは叙事詩であり、別の作品では抒情詩である。たったひとつの言葉に、いや、沈黙にも滂沱する。人生の痛み、薔薇の棘がある。暗闇で見知らぬものからのキスをうけるほどの恐怖がある。疾走しつづけるブラッドベリ。創作は終始一貫、つねに自ら猛烈に面白がるということだ。何年も放置していた『ブラッドベリがやってくる』と『ブラッドベリはどこへいく』を読んで以来すっかりファンになっている。近々『華氏451度』が再映画化されるとかで、御大自ら脚本をてがけているらしい。

2000/01/30-9873
林望 私譯 新海潮音
心に温めておいた43の英詩
林 望 駿台曜曜社 2000年1月12日 第1版第刷発行
毒毒度:1
“さて、見たり、累々たる墓また墓
 さて、花は見えず、ただ墓石ばかり
 さて、不吉なる黒衣の坊主どもは徘徊し
 さて、わが愉悦も愛欲もあはれ荊棘に縛められたり”(『愛の庭へ』ウイリアム・ブレイク)
“…ただ一つおれのことを、星を見上げて想え…(中略)
 しずかに、蒼白に、天来の黄金の光が
 太陽とともにわき起こるその時まで……”(『夏日払曉』ウイリアム・モリス)

地元でよく行く書店は百貨店S内にあるが、本に対する愛情が感じられない積み方をしているのがいつも気になる。この本も、平積みされた別な本の上に荷を解かれたままの風情で重ねられていた。ヴァレンタイン向けの企画コーナーでも作ろうとしている最中か、それとも何新聞かの書評で取り上げられたばかりなのか。さて、すっかりイギリス紀行のリンボウ先生として有名な著者が、今まで心のうちに温めていた43の英詩を「大和言の葉」で「詠い直し」たものである。古くは16世紀はじめのサー・トマス・ワイアットから、レノン&マッカートニーの名作『Yesterday』まで、ただ単に翻訳ではなく、日本のことばで、うたいなおそうという試みだ。おなじみシェイクスピア、ワーズワース、バイロン、キーツ、ロセッティ兄妹、イエーツ…。巻末に、すべての原詩と作者の紹介があり、原詩の本来持っている脚韻をも確認できる。駿台曜曜社というのははじめてお目にかかる出版社名だ。装丁は美しいが、多少ピンクだらけの色づかいが甘すぎる。シックに仕上げても売れないということにはならないはず。ヨーロッパではヴァレンタイン・ディに恋人同士が花や本のプレゼント交換をするとか。日本でも、かような美本のやりとりなんかが望ましいのに。1月の読書では、トータルで30冊目にあたり、おそらく私のこれまでの人生において新記録樹立と思われる。特にめでたくはない。長編に取り組んで全く読み終わらない日もあったが、通勤以外に電車に乗る機会をフルに生かし2冊読んだ日もあったということだ。1月のはじめはバッド・テイストなブック・サーフィンだったが、後半はなんだか毒も弱い。その極め付けがこの詩集。いや、恋はやっぱり人生の毒、必要不可欠でしょう。そういえばトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』で事件に大きくかかわっていたのがウィリアム・ブレイクの絵であったのを思い出した。恋の詩もちょっと異質なブレイクに毒毒1ポイント。

2000/01/29-9874
スポーツ・グラフィック・ナンバー
ベスト・セレクション II
スポーツ・グラフィック・ナンバー編 文藝春秋 1998年7月1日第1刷
 毒毒度:-3
“この年、スワローズが優勝するなどと予想した人は誰もいなかった”(昭和53年の熱狂)

雑誌Numberの創刊は1980年4月。時同じくマガジン・ハウスからは雑誌BRUTUS創刊。この2つほどコンセプトを変えずに生き続けている雑誌はないのではないか。Number創刊号には山際淳司の『江夏の21球』が掲載されていた。それまでスポーツとは無縁の山際淳司を成長させ、スポーツ・ノンフィクションという分野を成長させ、スポーツ・ライターという職業を世に認めさせたともいえる。創刊20周年の2年前に刊行された『ベスト・セレクションI』ではむろん『江夏の21球』が巻頭を飾っていた。ベースボール、プロレス、長島茂雄、ラグビー、マラソン、F1、サッカー、ゴルフ、ボクシング、オリンピック…というテーマをまんべんなく追っていた第1巻だったが、第2巻はベースボールの占める割合が多い。「ベースボールという奇跡」というカテゴリーで8編、ナンバー・スポーツノンフィクション新人賞第3回受賞作として1編が収録されている。私のHPで未だ語られていないベースボールにここいらでちょっと近づいてみよう。今、野球の気分になろうとしている私にとって、この本は充分なエナジイとなった。もちろん真神博によるスワローズ初優勝への軌跡(ちょうど1992年、14年振りのリーグ優勝を果たす年に掲載された)もいいのだが、海老沢泰久の『嫌われた男--ヴェテラン西本聖の場合』が素晴らしい。野球が好きでドラフト外でジャイアンツ入り、皆よりも多く練習したために選手全員に嫌われた男。野球が好きだから、先発、中継ぎ、敗戦処理、抑えと何にでも何度でも便利に利用された男。「勝たなければならないとは思っているが、誰かのために何かをしようなどとは誰も思っていない」ジャイアンツの中で浮いた存在だった西本が、中日へトレードされた最初の年、自分でも想像していなかった20勝投手となる痛快さ。「スタジアムでは何が起こっても不思議ではない」というキンセラ(映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作者)の言葉に大きく頷いてしまうのである。

2000/01/28-9875
ハートブレイク・カフェ ビリー・レッツ
松本剛史 訳
文春文庫 2000年1月10日第1刷
毒毒度:-5
“あたしはずっとそんなふうだったわ。旅に出て、道のつづくかぎりどこへでも行く。いつでもなにか新しいことがあって、ハイウェイの先やつぎの町や、つぎの山の向こうに待っているような気がした”

オクラホマ州のセコイアという小さな町。開店12周年なのに「ホンク&ホラー近日開店」という風変わりな名のカフェに集う人々の、1985年のクリスマスから翌年のクリスマスまでの物語。オーナーはヴェトナムで下半身不随となったケイニー。かつてロデオでならしたかれは車椅子生活をし、12年間一度も店の外に出たことがない。ウェイトレスは、ケイニーをわが子のように思っているが、実の愛娘には家出されている未亡人モリー・O。映画化するなら、迷わずベット・ミドラーに演ってもらいたい。家も定職も持たないインディアン女性ヴィーナが、脚を一本なくした犬を連れ、カフェの駐車場へ降り立つ。黄色いミニドレスと赤いカーボーイブーツ。カーホップとして半ば強引に就職してしまった彼女はなかなか腕がいい。おまけに、一歩も外に出なかったケイニーを馬で連れ出してしまったりする。ジュークボックスの音楽にのって、車椅子のケイニーとダンスを踊る。ケイニーははじめて女性を愛するようになる。ヴィーナだけではない。英語がほとんどわからないヴェトナム人ブーイもコックとして居着いてしまい、カフェは活気づいていく。このブーイには次から次へ悲しいこと辛いこと恐ろしいことが起こってくるにもかかわらず、いつも誠実で、信心深い。
癒しの物語とある。こんなに素敵な人たちはこの世に存在しないかもしれない、でも存在してほしい。そんな意味で、とてもよくできたファンタジーともいえるだろう。白人とインディアン、アメリカ人とヴェトナム人、ヴェトナム人と黒人、ヴェトナム人とインディアン。国籍、人種、宗教、性別を超えた愛の形がある。恋愛、友愛、慈愛、親子の愛。1年後のクリスマス、御披露目されたみどりごはまるで小さなイエスさまのように、カフェにいたすべての人に愛情を持って迎えられる。そもそも子供は社会全体から慈しまれる存在だということにも気づかされる。
処女長編『ビート・オブ・ハート』がベストセラーとなったとき、ビリー・レッツは56歳、現在は61歳という遅咲きの作家。前作は映画の撮影が開始され、さらに本作も映画化が決まり、レッツは息子と共同で脚本をてがけているとのこと、楽しみだ。

2000/01/27-9876
あの頃ぼくらはアホでした 東野圭吾 集英社文庫 1998年5月25日第1刷
毒毒度:1
“僕はバンザイの格好をさせられながら、受験なんかごうでもいいから、なんとか五体満足のままで卒業できたらいいなと思ったのだった”
“やっぱり神様なんかあてにならへん。僕は持っていた受験票をビリビリと破き、競馬場でスッたおっさんがやるようにバラまいた”

1970年代青春もの。ウワサの、悪趣味な真黄緑背表紙である。東野圭吾は1958年生まれ。いまをときめく東野圭吾、怪獣にはかなりうるさい少年時代、ワルの学校と名高い中学校、高校受験、文化祭の映画製作秘話、大学受験、浪人生活、アホな大学生活、就職活動までのすったもんだがつづられる。課題図書のみならず読書自体に興味がなかったというのは意外。初めて読み通したフィクションが小峰元『アルキメデスは手を汚さない』であったという。当時私も読んだ乱歩賞受賞作だ。小峰元は、その後プラトンとか歴史上の人物名をタイトルに入れたミステリを発表していたが、今はどうしているんだろう。本筋はさておいて、こういうのってすごく気になってしまう…。人気作家の楽屋探訪はひとまず果たしたが、肝心のミステリを手にとるのはいつになるやら。

2000/01/26-9877
ナイト・ボート ロバート・R・マキャモン
嶋田洋一 訳
角川ホラー文庫 1993年7月24日初版発行
毒毒度:2
“何かが外に出たがっていた”
“七年という年月のあいだにあらゆるものが変化し、その変化が彼をこの島へと連れてきたのだ。彼の心は昔の光景から目をそらした。荒れ狂う灰色の波、盛り上がる白い波頭、いきなり襲いかかってきた嵐、大西洋からチェサピーク湾に流れこむ雷雲。切れ切れの光景が彼を苦しめ、鈍くうずくような怒りをかき立て、人生の安寧や希望など、朽ちた絨毯のように一瞬で引き裂かれてしまうのだ”

マキャモン初期長編、1980年の作品。この『ナイト・ボート』は、日夜ハード・ロックが響きわたる安アパートの住人だった頃に書かれたとのこと。未だ売れていないマキャモンはカリブに旅したわけではなく、レゲエのレコードを聴きつつ創作のヒントを得たらしい。舞台はカリブ海の小さな島コキーナ。第二次世界大戦の名残りであるUボートが突然浮き上がってきた。浜に乗り上げたUボートが殺したかのように漁師の死体。Uボートのハッチを開けた流れ者も恐怖に目を見ひらいた無残な死体で発見される。島を守る使命感を抱く警察署長と、ボルティモアから来て7年になるホテル経営者ムーア(当然過去がある)が真相を知ろうすると、ヴードゥーの教祖に止められたり、女性海洋学者が飛行機で乗りつけたり、Uボートの唯一の生存者が貨物船に乗ってやってきたり、死体が死体ではなかったり…。海難事故で妻子を失ったとき既に心が死んでいたムーアは、見た目の生者。沈没した潜水艦内で朽ちかけた肉体を維持してきたUボート艦長コリンは、見た目の死者でありながら、生への飢餓はムーア以上にある。ラストはこの二人の激突で幕を閉じる。平和な小島に突然のパニックという展開は映画『ジョーズ』、死体による大量殺りくは『ナイト・オブ・リビング・デッド』というところか。全体的にまだ洗練されていない感あり。マキャモンやエルロイの厚物一気読みほど快感にうち震えるときはないが、今回ばかりは後半ダレた。

2000/01/25-9878
眼球奇譯 綾辻行人 集英社文庫 1999年9月25日第1刷
毒毒度:3
“独特の濃厚なタレで味付けされた肉や臓物を、そして私たちは食べた。文字どおり無我夢中になって、ひとかけらも残すことなく食べた。
ああああ、俺はいま人肉を喰っている人間の腸を喰っている肝臓を喰っている
 というその時の感激は、想像を遥かに超えて巨大なものだった。これまで食べたどんなイカモノ料理もまったく比較の対象にならない、とすら思えるほどに。

 恐ろしくも甘美な、まさに目眩くようなひとときであった。”(特別料理)

しっかし、集英社文庫の相変わらずのセンスのなさ。背がド紫はないでしょう、ねえ。同時に購入した東野圭吾は真黄緑だし、洋ものは怪しいピンク色だし、私が作家だったら絶対抗議するところ。他社の文庫と差別化するためにはこんな色しかなかったんだろうか…。ぶつぶつ。
さてと気をとりなおして綾辻行人である。今のところホラーでしかおつきあいのない作家。ちなみにはじめて読んだのは『殺人鬼』で、続いて『殺人鬼』パート2、比較的最近(2年以内)『暗闇の囁き』以上3冊のみ。この作品集もクライブ・バーカーに通じる、五臓六腑に悪影響。四肢切断、悪食…さまざまな恐怖に共通しているのは「由伊」という名の女性の存在。こうしてみると、一番怖いのは生身の人間だと、しみじみ思うのだが。

2000/01/25-9879
遺骨 アーロン・エルキンズ
青木久枝 訳
ミステリアス・プレス文庫 1994年4月30日初版発行
毒毒度:-2
“自分はここにいる人たちをよく知らないのではないか。いや、それどころか、まるで知らないのではないか。彼らとはときどき顔を合わせる仲だったが、彼らについて知っていると思い込んでいたことのどれだけが真実で、どれだけが彼らのあるべき姿と自分で勝手に想定し、それに沿ってこしらえ上げたものだったのか。”
“「頭のいい連中がおそろしく馬鹿な真似をする。しょっちゅうですよ、本当に」

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーもの7作目(邦訳では6作目)。2ヵ月に一度、安心できるシリーズものを手に取るのは悪くない。個性的な景勝地へと導いてくれるし、ウィットに富む会話が楽しめ、なによりも食欲や愛情を素直に表現できるオリヴァー夫妻が好ましい。出版の方が3冊くらい先行しているので当分楽しめる予定である。流血や腐乱死体が苦手な人にはおすすめ。ただし、時々は「べっとりもの」「ぬるぬる」「かさかさのカリカリ」という表現をされる生(なま)死体にも会わなければいけないが。ギデオンも「べっとりもの」は苦手。骨ほど彼を魅了するものはない、ただし骨は古ければ古いほど魅力的、そう、一万年ぐらい前のものが適当なのだ。学会等のイベントに夫婦揃って出かけた先で遺骨発見、その後新たな殺人発生…というパターンが多い。さて、今回の舞台はオレゴン州ベントにあるロッジ。前全米司法人類学協会会長ジャスパーは、10年前の退官記念パーティの帰途、バス事故で死亡。遺骨は10年の時を経て自然博物館に展示されることなった。悪趣味な話だが、ジャスパー本人が悪意そのものであったらしい。WAFA(司法人類学西部連盟)隔年会議の席上で、遺骨の展示が公表される。すると、展示会場から遺骨が盗まれ、さらには庭からおよそ10年前の他殺死体が発見される。バス事故での死体鑑定にミスがあったのか、庭の死体は誰なのか。ギデオンが頭蓋骨を元に復顔すると、思わぬ結果が出て、さらなる殺人が…。一連の事件の容疑者はどうやら、人でなしのジャスパー教授に大学院生活をさんざんなものにさせられた教え子たちの一人。復顔技術や、死亡推定時刻の割り出し方が今回のキーポイントとなる。結局今回も、学問する人間が神聖な存在たりえない事実を目のあたりにするのだ。ギデオンの友人でFBI捜査官ジョン・ロウの言葉通り「頭のいい連中がおそろしく馬鹿な真似をする」ということを。

2000/01/24-9880
自選恐怖小説集
夜叉の舌
赤江瀑 角川ホラー文庫 1996年4月10日初版発行
毒毒度:0
“金雀児(えにしだ)、木瓜、辛夷、野薔薇(のいばら)、桜、木蓮、桃、庭石菖(にわぜきしょう)、宝鐸草(ほうちゃくそう)、三葉躑躅(みつばつつじ)、花菱草、小手毬、山吹、踊子草、蓮華、菜種、山桜桃(ゆすらうめ)、菫、連翹(れんぎょう)……と数えあげたらきりもない花々が咲きみだれ、のどかな明るい陽溜りと、土の匂いと、草木の香と、蜜蜂の羽音も絶えない、陽炎がもえるにまかせた人気ない路地。”(春の寵児)

『野ざらし百鬼行』以降『花曝れ首』まで赤江瀑は読まなかった。角川ホラー文庫の中ではおそらく売れていない方に属するのではと推測しつつも、「自選」恐怖小説集という点に期待を抱いて購入。単行本で持っている(ということは既読のはず)『野ざらし百鬼行』から2編、『美神たちの黄泉』からも1編入っているが、題名を見ても過去に読んだ記憶がない。どうやら、当時から感性に触れてこなかった作品であるらしい。それではと1990年代の作品に期待したのだが、かつての華々しい毒がないのだ。京ことばで、あるいは芝居の科白のようにたたみかけるあの言葉の妖しさは何処へ行ってしまったのだろう。怖がっているのは主人公たちばかりというのは興醒めではないか。それともこちらが並みの毒にはなれっこになってしまったのか。路地に咲く色とりどりの花の向こうに立ち上る、一瞬の妖気を描いた『春の寵児』は好ましいのだが。

2000/01/22-9881
遥か南へ ロバート・R・マキャモン
二宮馨訳
文春文庫 2000年1月10日第1刷
毒毒度:-2
“スネーク・ハンドラー(蛇をつかむ者)、それが当時の彼らだった。ジャングルの穴のなかに手をつっこみ、どんな恐ろしいものがそこにとぐろを巻いて潜んでいようと、平気で引っぱり出してみせたのだ。そのころは気づいていなかった、世界そのものが一つの蛇穴であることに、そして蛇がひたすら大きく、卑しくなっていく一方であることに。騒がしい時代をやみくもに突進していく彼らには、蛇は穴のなかばかりでなく、アメリカン・ドリームのきれいに刈られた緑の芝生のなかにも潜んでいることがわからなかった。”
“重力と時間、こいつらは巨大な殺し屋なんだ、日の照りつける道に車を走らせながらダンはそう思った。汗を吸ったシャツの背はべっとりとシートに張りついている。重力が人を縮ませ、時が墓穴へ引っぱりこむのだ、スネーク・ハンドラーといえどもこういう恐ろしい敵を打ち負かすことはできない。”

ベトナム還りの42歳、枯葉剤の影響で白血病を患っているダンは不況のあおりで失業、車のローンの支払いを滞らせている。銀行へ嘆願に行くが話がこじれ、キレてしまったはずみの殺人…余命いくばくもない身を刑務所ではないところで有意義に生きたいという理由で、ダンの逃避行がはじまる。ダンを追う賞金稼ぎの一人フリントはフリーク・ショー出身者、見習い賞金稼ぎのペルヴィスは某有名歌手のそっくりさん、ダンの道連れになるアーデンは顔に痣のある美少女…物語は実はこの3人が主人公ともいえる。4人はもつれ合いながら、アーデンの目的地、万病を癒すという伝説のブライト・ガールの居住地へと南下していく。
あからさまなホラーはもう書かない宣言をしてからのマキャモン、『マイン』『少年時代』に続く長編。私はキングよりもマキャモン、クーンツよりもマキャモンなのだが、『ブルー・ワールド』以降読んでいない。週に一度の新刊漁りの網に今回かかったのがマキャモン、いや、網にかかったのは実は私の方だったか…。原題の『Gone South』とは、ベトナム帰還兵の間では「神経をやられてイカレちまった」という意味だし、ケイジャンの間では「死んじまった」という意味である。マキャモン作品でベトナム還りの主人公といえば『夜襲部隊』(新潮文庫『ナイト・ソウルズ』収録、文春文庫『ブルーワールド』に『ミミズ小隊』で収録)がある。深夜営業のダイナーを舞台にした短編だが、インパクトは強烈だった。ちなみに、ベトナム還りものホラーの傑作としては短編が『夜襲部隊』、長編はピーター・ストラウブの『ココ』(未読)というのが世間の評価らしい。
結末はいささか甘いかもしれないが、主人公たちのスクリーン上での大活劇を見せられているように、ラストめがけて一気に読ませる力はさすがマキャモン。クーンツの作品はぶっとび化物ホラーからなぜかまともな恋愛小説へと変化してしまったが、マキャモンの印象ははじめて短編を読んだときと変わらない気がする。映像が浮かぶ、ということは想像を絶してはいない怖さと言い換えることもできるだろう。マキャモンの長編ではいつも泣いてしまうのだが、それは怖いからではない。人間の魂が哀しいからだ。外見的そして内面的な異形の有する哀しみ、孤独、疎外感、狂気、人生で常に探し求められるどこか別の場所、希望と絶望、友情、愛と憎しみ、勇気と怯懦、苦悩する肉体と精神。これらすべてのこと、つまりは人間の魂にぐいぐいと触れてくるからだ。

2000/01/20-9882
都立桃耳高校
神様おねがい!篇
群ようこ 新潮文庫 2000年1月1日発行
 毒毒度:-2
“レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」もイントロはばっちりだったが、それでおしまい。グランド・ファンク・レイルロード、ドアーズ、ローリングストーンズの曲もイントロは完璧だが、あとはがくがくっとくるような出来だった。
(どこも大変だのう)
とにかくみんな、完成させるためには長い道のりが必要で、文化祭は目の前に迫ってきていることだけは間違いなかった。”

通勤電車で本を読みながらひっそり泣く私だが、今回は久々に笑いをこらえるのに苦労した。群ようこによる1970年の物語。文庫書き下ろしである。篇がついているということはシリーズだな。これは楽しみ。村上龍『69』は1969年の物語だが、こちらは1970年に桃耳高校という偏差値のあまり芳ばしくない都立へ入学した女の子の物語だ。志望校選びから受験、合格発表、入学式、担任の先生、目をつけた好みの異性、席替え、上級生のこと、クラブ活動、部室、親睦旅行、体育祭、文化祭…。ちょっと泣いたりたくさん笑ったり、平和だが平凡な1970年代という時の匂いがする。世間ではあれこれいろいろ事件はあったとしても…。私の高校時代はというと、やむなくすべり止めの私立に進学したが、高校生活は楽しかった。自己表現の一つに歌があるということを知ったのもこのときだ。2年では同好会の会長をつとめ、3年の文化祭もきっちりステージをこなして(陽水のコピーがメインだった、祭りのあとの常として落ち込みもしたが)、予定通り浪人した。ちなみに予備校生活も楽しかった。

2000/01/19-9883
特集・本の雑誌2
ブックガイド篇
本の雑誌編集部編 角川文庫 1995年1月25日初版発行
 毒毒度:-1
“SFの原点は未知なるものへの憧れでしょう。つまりね、SFは自分に未来があると夢みる人間が読むものなのかもしれない。今日よりも明日のほうが、何かいいことがあると信じているような、ね。”

1をとばしていきなり2を読むのは気がすすまないが、見出しから2の方が気に入ったので、群ようこの新刊と一緒に購入した。95年までの情報なので多少古いが「ホラー軍団の春」「スポーツ本は元気だ!」「時代小説は面白い!」「ハードボイルドの時代が来たぞ!」「頑張れ、SF!」等々…今気になるジャンルが網羅されているからだ。とめどなく新刊が出版されている今、新聞や雑誌の書評を上手に使うことも必要だと思う。モダンホラーベスト20の7位に、ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』が入っているのがちょっと嬉しい。座談会でマキャモンがあんまり誉められていないところもファンとしてはちょっと嬉しい。ところで、SFは最近読んでいない、ということは未来がないということなのかなあ。

2000/01/17-9884
プロ野球
新・監督列伝
近藤唯之 PHP文庫 1999年8月16日第1版第1刷
 毒毒度:-1
“プロ野球は1年間、135試合を消化する。10試合や20試合は一流選手だけがいれば勝てるのだ。だが4月から10月までの7か月間となると、選手の野球に対する考え方、姿勢みたいなものがきめ手となる。そして選手の意識を勝つ方向に持っていくのが指揮官なのだ。”(シロウトも納得する明快な理論派 広岡達朗)
“「君たちは全員、中学か高校時代から野球をやってきたはずだ。君たちは学生時代、毎晩にわたって酒を飲んでいたか。いまより激しくてつらい練習を何年もやってきたんだろう。それでも酒は飲まずにやってきた。ところがいまの君たちはどうなんだ。プロなのに学生時代より、つらくて長い練習をやっているのか。本当のことをいえばやっていないだろう。もう一度原点にもどろうや。酒を飲むなというのは、そういう意味なんだ。」”(広島初優勝の基礎を固めた“鳶職”監督 根本陸夫)

先月から中途半端にしていた本。たしか、朝はこれを読んでいて、帰りはコーンウェルの検死官シリーズを読み始めてしまったという経緯がある。本の名誉のために言っておくが、決して面白くないわけではない。『プロ野球 監督列伝』の著者による書き下ろし。1999年6月くらいまでの情報をもとにしている。川上哲治による巨人OBの名指揮官3人は、「理の森」「意の広岡」「情の藤田」とのことだが、この3人はもちろんのこと、6割0分9厘という最高勝率を残している鶴岡一人や、星野・野村らバリバリの現役組も含め21人が登場する。権藤博が選手時代「権藤、権藤、雨、権藤」といわれるほど起用され、入団後2年間で65勝を稼いで潰れていったエピソードは痛々しい。これを教訓に、先発・中継ぎ・抑えという投手分業のスタイルができたとのことだ。さて、スワローズ歴代の監督で誰が一番かといえば私は広岡達朗を選ぶ。もちろん90年代の最強チームはスワローズであり、野村監督の功績は賛えるとしても。なぜかというと、スワローズを29年の長き眠りから覚めさせたのが広岡だったからだ。魔術師と呼ばれた三原ですら奇跡を生めなかった、否、却って生温さを植え付けて去ったあの球団に、強い野球への意欲、強くなる意志というものを自覚させたのが広岡だと思うからだ。この広岡の下で優勝を経験した若松・現監督はしかし、昨シーズンを見た限り、意志の野球をしていない。未だカラーも出ていないのは何故だろう。果たして今シーズンの采配は?『新新・監督列伝』に載るような名物監督になれるだろうか。

2000/01/16-9885
屍蘭
新宿鮫シリーズ3
大沢在昌 光文社文庫 1999年8月20日初版第1刷発行
 毒毒度:2
“「あんたがあたしの男だってことと、マッポだってことは関係ない」”
“「あたしが信用しているマッポはひとりしかいない。でもそれは、そいつがあたしの男だってこととは、まったく別だ」”
“「あたしは『新宿鮫』を信じてる。あんたもあたしを信じろ」
 目に強い光があった。鮫島は静かにいった。
 「お前は、俺がどれだけお前を信じているか知ったら、驚くぞ」
 「驚かない。あたしはあんたを信じてる、から」
 晶はまっすぐ鮫島の目を見つめたまま、顔をよせてきた。鮫島はそっと晶の唇に自分の唇をあわせた”

「男の覚悟と女の感性が未来を作る」というようなキャッチが何かの雑誌にあったのだが、鮫島と晶というカップルは打算のないPUREな恋愛を展開している。一方、打算だらけの犯人グループ…というわけで、NHK版でのキャスティングが気になるところだ。鮫島-舘ひろしはちょっとハズレだと思うのだが、晶って誰が演じたの? 綾香は? ふみ枝は? 『毒猿』もそうだが、この題名も激しい。なんだか、人の心をざわつかせる響きがある。ちなみに、鮫島も晶も相変わらずフルネームがわからない、これも凄い。 

2000/01/15-9886
毒猿
新宿鮫シリーズ2
大沢在昌 光文社文庫 1998年8月20日初版第1刷発行
 毒毒度:3
“鮫島が「新宿鮫」とおそれられているのは、現場で若いやくざたちに厳しいからだけではない。自分は安全だと、のうのうとしている幹部たちにも、あきらめることなく襲いかかってくる、その牙の鋭さゆえでもあった。”
“刑事とロックシンガーという組みあわせは、それ自体が奇跡のようなものだった。その奇跡を生んだのは、この新宿という街なのだ。”

私にとっての新宿はターミナルにすぎない。午後4時15分発の高速バスで新宿を旅立つ。約2時間45分の旅。ハードボイルドを一冊道連れに。新宿鮫シリーズ第2作『毒猿』の完成度の高さは、シリーズ一という評判通り(まだ2冊しか読んでいないが)。鮫島が脇役かと思わせるほど、台湾の殺し屋、かれに心惹かれる女性、暗殺者を追う台湾の刑事3人のキャラクターがしっかり書き込まれている。私の大好きな映画『エイリアン2』を意識したという戦闘場面にも満足。それにしても毒猿という題名にも名前にもキャラクターにもインパクトあり。

2000/01/14-9887
不思議図書館 寺山修司 角川文庫クラシックス 1984年3月25日初版発行
 毒毒度:1
“好奇心の飛行船に乗って、書物の中の「不思議の国」を旅する私は、もはや女装した中年のアリスのようなものかも知れない。しかし、一冊の書物が一つの世界と同じ位に難解だと思っている学識諸氏を尻目に、ふらりふらりと気ままに漫遊することの愉しさ位は、読者とわかちあいたいものだ”

文庫は、よい本を長く残すための一つのありようである。寺山修司が亡くなったのは1983年、その翌年初版の本書が1997年に18刷を重ねていることはまっとうなことなのだが同時に、今の世の中ではとても「有難い」(ありがたい…もともとの意味で、あまり存在しないので貴重である)ことである。魔術師フーディーニから千夜一夜物語まで、フェチもあればサディズムの画集もある、ポオもいれば少女雑誌もある。不思議というジャンルのさまざまな事件が、足で集めた本の中から現われる。本と出会うところから、読書ははじまる。本を読むということは、別の世界との出会いであり、旅なのだ。はたから見れば中年男による「不思議の国のアリスのコスプレ」という気味の悪い状況も生まれるかもしれない。だが、臆することはない、好奇心に連れられて気ままな旅を続けるチャンスは誰にでも与えられている。

2000/01/13-9888
Director and Designer SCAN #3 
岡康道の仕事と周辺
岡康道 六耀社 1997年9月19日第1刷
毒毒度:4
“僕は、野球の最高峰はオーナーだと思うが、岡さんは、このCMを作ることでオーナーーになろうとしたのではないかと思う。自分でモルツ軍団を率いてゆきたいと。”
“僕たちも引退後に再びグランドに立てたのがうれしかった。一人一人コールがあって守備位置につく。歓声があがる。選手はやっぱり野球が好きなのだ。チームが、ユニフォームが、好きなのだ。それを、もう一度体験させてもらって、皆、やはり心からうれしかったのだろう”(サントリーモルツのCMに出演した高木豊の言葉)
“広告は「伝えたい」という正体をはっきりさせ、感情的になることでようやく受けいれられるチャンスが与えられる。感情には、多くの人が感情で応えるものだ。僕は、思ったまま、なるべく純粋に広告をつくり、それを見た人と感情的にただならぬ関係におちいりたいと願っている。
 甲子園は、未だ、遥かである”
“広告は、僕を幸福にした。
こんどは僕が、広告を幸福にする番だ”

私は仕事で受賞経験のない人間だ。一回だけつきあおうとしたが、賞の方から断わられた。ちょうど5年前の朝日広告賞に、カメラマンで参加させてもらった。はじめに写真ありき。実はコピーも書きたかったのに、ADに止められた。ADは取れるんじゃないかと言った。自信がないと、この世界では仕事が来ない。私は受賞の言葉を考えていた、しかし…。そんなわけだから、広告という塔の頂点で颯爽と風に吹かれている岡康道に嫉妬を感じるような場所に、私はいない。
「コネもなく電通へ。知識もなくCMプランナーへ。徹夜もせずクリエーター・オブ・ザ・イヤーへ。」腰巻にはこう書かれている。岡康道はオンナにもてる。たぶん一生もてるだろう。岡康道は男にももてる。1999年版のTCC年鑑を見る限り、秋山晶を別格として、岡康道はダントツに格好よい。クリエーター・オブ・ザ・イヤーに輝く一方、仲間と続けるタッチフットボールの日本選手権にて94、95年の最優秀選手にも選ばれている。岡康道。1956年生まれ、早稲田大学法律学科卒。中学時代は野球部でピッチャー。甲子園を目指すべく名門野球高校にて実技テストを受けたが、その場でレギュラー入りをあきらめ、硬式野球部のない都立高校へ進学。陸上部にてひたすらハイ・ジャンプに挑む。再び甲子園を目指すのは大学時代、アメフトをスポーツに選んでからだ。しかし、甲子園ボウルも夢に終わった。80年、内定していた商社を振って電通入社、営業としてスタートを切る。しかし彼方には甲子園が見えない。85年、クリエイティブ局へ異動。営業からプランナーという前例はない。2年間企画はボツ続きという時代もあった、しかし…。
96年TCC最高賞3賞独占(サントリー「ボス」、フジテレビジョン「フジテレビがいるよ」、JR東日本「東北大陸から。」)という前代未聞の快挙をやってのけたのちも岡康道の勢いは衰えない。最近では湯川専務を起用したセガのCF、「艦長!あなたは間違っている!」の長野新幹線などが有名。軽犯罪みたいなCMばかりといわれたこともあるらしいが、ハラハラドキドキさせてくれる。エーザイ「サクロン」(名前知りたい?じゃ結婚してくれる?)とか岸辺一徳、石田えり、中村賀津雄らが家族を演じるアップル・コンピュータ、サントリー「南アルプスの天然水」シリーズ、矢沢永吉が漂流するサントリー「ボス」などは誰の心にも残っているのではないか。タッチフットボールがあんまり楽しいのでサントリー「リザーブ友の会」(本木雅弘・チャラら出演)というCMを生んでしまい、モルツのCMでは野球への夢を実現した。電通を辞めた今では、タグ・ボートという会社を起こして、さらなる甲子園を目指し続けている。

2000/01/13-9889
白球残映 赤瀬川隼 文春文庫 1998年5月10日第1刷
 毒毒度:-5
“今泉はゲームが終わって潮が引くように眼のまえのものが消えてゆくいっときも、大好きだ。暮れゆく空と、静まりゆく大地と、自分が、大気にすっぽりと包まれている一体感。”
“今、このローカル球場では、すべてが自然である。だいだい色に染まり始めた空には、白球に代って鳥が飛んでいる。芝も土も、西日を受けてかすかにだいだい色を帯びてくる。春とはいえ日没近くの肌寒い風が首筋を掃く。そして、わずかな物音を残した静寂。ついさっきまで、二百数十球の白球の軌跡が、ベースボールという奇蹟を現出し続けていた空間、その空間の一部でもあり、その名残であるかのような静寂に包まれている。”(陽炎球場)
“「春名さん、野球と人生は似ているとよくいうでしょ」
 「ええ」
 「わたしはそのいいかたより、野球と人間は似ているというのが好きです」”(消えたエース)

何の変哲もない瓶に極上の酒が入っていたような驚きとでも言えばよいだろうか。赤瀬川隼という作家をいまごろになってはじめて読み、朝の通勤電車で涙する。特定のチームや特定の選手に妄執を抱くことのないまなざしが気に入った。映画『フィールドオブドリームス』のトウモロコシ畑が、オーヴァーラップしてくる。ベースボール好きなら、この季節に今すぐ読んだ方がいい。読み終わると、地方球場でのオープン戦を見にいきたくなるだろう。関西でオープン戦を見ようと思ったのは何年前だったか。その企てを、この春実行にうつしてみようかというエネルギーをくれる作品集だ。で、たまたまこの作品は直木賞受賞作である。蛇足ながら、赤瀬川隼が赤瀬川原平の実兄ということをはじめて知った。いいなあ、この兄弟。

2000/01/12/-9890
新宿鮫 大沢在昌 光文社文庫 1997年8月20日初版1刷発行
 毒毒度:2
“「あたり前になっていることが、俺は嫌いなんだ。あたり前になるとそれを利用する奴が現れる。まともな事業家のくせに、借金のとりたてや土地の引き渡し要求にやくざを使うような奴らだ。そういう奴らは、やくざより腹がたつ」”
“三年間の独歩行が、新宿署防犯課での記録的な重要犯罪犯検挙率を生んだ。そして、アゲられる側からは、音もなく近づき、不意に襲いかかってくる新宿署一匹狼刑事への恐怖をこめて、「新宿鮫」の渾名が鮫島につけられたのだった”

大沢在昌は洗練された大薮春彦ではないということが確認できた。安堵した。警察という組織の中にいながら、異邦人である鮫島(フルネームが最後までわからない、これは凄い)、虚無的になるのではなく、誠実な警察官であろうとする鮫島は、反抗的人間の理想型というところか。フジテレビ版では真田広之が演じたらしい〈眠らない街・新宿鮫 http://jmdb.club.or.jp/1993/dq002030.htm 〉のだが、体格が全然イメージに合わない。うーん誰に演らせればいいか? ちなみにフジテレビ版では、鮫島の下の名前は「崇」だそうである。奥田瑛二演じる木津が、鮫島をいたぶる場面が非常に怖かったとのこと。

2000/01/11/-9891
怖い絵 久世光彦 文春文庫 1997年2月10日第1刷
 毒毒度:3
“それらの絵の中に、執念深い亡霊のように、過ぎた日に私のまわりにいた人々が、巧妙な隠し絵になって見えつ隠れつするのである。その絵の前に立って耳を傾ければ、みんな私を許すと言っているようにも聴こえる。けれど、口ではそう言っても、彼らの目は私を許していない。怖いのは〈絵〉ではなくて、許してもらえない自分という人間である”

男は物語を欲望し、物語を生きる。久世光彦の美学は阿佐ヶ谷の家で父の書棚の本を読み漁った10歳までに形成されているようだ。『花迷宮』『聖なる春』『怖い絵』と間隔を置かずに読んでみると、同じイメージが出現する。たとえば尼寺からの読経の声を聞いて、読経は男声に限ると述べたり(『聖なる春』『怖い絵』)、町なかをさまよう狂女のイメージ(『花迷宮』『聖なる春』)江戸川乱歩の真珠郎の挿絵(『花迷宮』『怖い絵』)ギュスターヴ・ドレのサロメ(『花迷宮』『聖なる春』『怖い絵』)などだ。死ぬ間際の肖像画を描くキキという画学生も『聖なる春』と『怖い絵』に登場する。「私」が欲望を抱いた人。怖い絵とは、その人を思い出させる絵、その人は「私」を許してはくれない人。どこまでがフィクションであるかはわからない。「私」が語る、怖い絵の美術史であり、懺悔録である。

2000/01/10/-9892
表現者の肖像
海田悠写真展
写真:海田悠
マルチグラフィックス 2000年1月1日発行 
 毒毒度:-2
“この写真師、海田悠はどうやら肌のみならずややもすれば昔のサムライをまねて格好をつけている私の骨までうつし切ろうとしているようである --流政之(彫刻家)”
“ずいぶんと大きいクラシックなカメラなので驚きました。日頃おだやかな方ですが、撮影のときには、鋭い刃物を真綿でくるんだような秘めた感性をそっと光らせながら迫ってこられました --片岡仁左衛門(歌舞伎俳優)”

一昨日銀座和光ホールにて写真展を見、その場で買い求めた写真集。会場では53人の文化人のポートレイトがB-0サイズ(110×150cm)という巨大なプリントで迫りくる。覚悟はしていたが、創造する意志の強さに、怯懦な私はすっかり圧倒され、涙した。96歳にも、51歳にも、瞳には煌めきがある。男も女も魅力的だ。海田悠は路傍での盗み撮りはしない、正々堂々と被写体と向かい合いつつ、その人物の一瞬を盗み撮っている。クラシックな8×10での古典的な撮影手法でありながら、出力にエプソンのインクジェットプリンタを使うという試みも成功している。
(歌舞伎俳優)市川猿之助、市川團十郎、片岡仁左衛門、中村鴈次郎、中村富十郎
(能楽狂言方和泉流)野村萬      (シテ方観世流)観世榮夫
(人形浄瑠璃文楽座・人形遣い)吉田簑助
(花道家、花芸安達流主宰)安達瞳子  (茶道裏千家家元)千宗室
(洋画家)伊藤清水、奥谷博、織田廣喜、森田茂、吉井淳二、脇田和
(日本画家)大山忠作、奥田元宋、片岡球子、鈴木竹柏、高山辰雄、堀文子
(陶芸家)井上萬二、島岡達三、辻清明 (彫刻家)佐藤忠良、流政之、柳原義達
(漆芸家)高橋節郎  (美術家)横尾忠則  (書家)矢萩春恵
(指揮者)岩木宏之  (作曲家)團伊玖磨  (ピアニスト)中村紘子
(映画監督)市川昆、山田洋次     (俳優)島田正吾
(脚本家)ジェームス三木       (舞台美術家、画家)朝倉摂
(舞台美術家、エッセイスト)妹尾河童 (哲学者)梅原猛
(詩人)大岡信、白石かずこ、高橋睦郎、谷川俊太郎
(小説家)小川国夫、北杜夫、曾野綾子、宮本輝、安岡章太郎
(作家、天台寺住職、寂庵庵主)瀬戸内寂聴
(経営者、詩人、作家)辻井喬
(松山バレエ団プリマバレリーナ)森下洋子

2000/01/09/-9893
女検死官ジェシカ・コラン
ハートのクイーン(下)
ロバート・ウォーカー
瓜生千寿子訳
扶桑社ミステリー文庫 1999年11月30日第1刷
 毒毒度:0
“男は頭脳を、女は心を持っている--テニスン”

登場人物の男女に魅力を感じることができないままに読了。マティサックとの一騎討ちにもドキドキせず、ハート泥棒(死体から心臓を切り取って持ち去る)との最後の対決も「もたる」一方なので、今後このシリーズは読まないと誓う。10000冊のうちには、このような例もあるということだ。

2000/01/08/-9894
女検死官ジェシカ・コラン
ハートのクイーン(上)
ロバート・ウォーカー
瓜生千寿子訳
扶桑社ミステリー文庫 1999年11月30日第1刷
 毒毒度:0
“風も吹きあえずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、
 あはれと聞きし言の葉どとに忘れぬものから
 我が世の外なりゆくならひこそ
 亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ  --吉田兼好”
“間抜けな人間には--空が少しずつ、少しずつ落ちてくる --エドナ・セント・ビンセント・ミレイ”

コーンウェルのケイ・スカーペッタより若くて美人の、FBI所属の検死官ジェシカ・コランシリーズ第4作。暇つぶしのためだったら、おすすめする。前作『ハワイ暗黒殺人』を読んであれほど、自分と翻訳者との相性が悪いのではないかと疑問が生じていたシリーズであるが、哀しいかな、書店で思わず手にしてしまった。宿敵マティサックが「リベンジ!」してきて気が変になりかけているのを表には出せず、アルコールや薬物依存気味のジェシカ、ニューオリンズでの服装倒錯者の連続殺人解決に乗り出すが…。超能力を使って捜査するキム・デジナーという女性捜査官も新登場するが、なんだか女性たちの会話や心の描写に素直に入り込めない。フリーマントルの『屍泥棒』と同じくらい味気ないとだけ言っておく。

2000/01/07/-9895
異邦人 アルベール・カミュ
窪田啓作訳
新潮文庫20世紀の100冊 1954年9月30日発行
1999年12月20日104刷発行
 毒毒度:3
“陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。あのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。”
“独房が変えられた。その部屋で長く寝そべると、空が見える。そして空しか見えない。その空のおもてに、昼から夜へと移る色彩の凋落をながめることで、一日が過ぎてゆく”
“何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた”

ブック・サーフィンは趣味回顧ウィークへ突入。『異邦人』のほとんどを暗誦できる、といったら異常だろうか。それほど読み込んだということになるだろうか。ちなみに、マイルス・デイビスの『スケッチ・オブ・スペイン』をかけながら声に出して読むと、はまる。当時の趣味で、薄トレ(トレーシングペイパー)がかけてあるのでカバーだけは綺麗だが、中身は黄ばみ、おまけに珍しく書き込みがある…というわけで、新しく買い求めて読むことにした。『異邦人』は20世紀の100冊という企画ものの中で1951年の代表作とされている。本来のブックカバーに、企画のカバーを重ねて、書店に並んでいる。余談だが、1999の代表作としてハリスの『ハンニバル』もこの企画に入っていて、楽しみだ。
養老院におけるママンの死の知らせから、太陽の下での殺人までが第一部、法廷場面と、独房で死刑執行の夜明けを待つラストまでが第二部となっている。ムルソーの事件は「不条理」への反抗の物語だ。ムルソーは社会で生きる人間が方便でつく嘘を、つかなかった。かれを「異邦人」たらしめているのは、たとえば雇い主に意欲を見せることが出世へのプラスになると考えたり、女性には愛しているとか結婚したいとかいう方がことはスムーズに運ぶという意識がまったくない点だ。よりよい生活などというものは、何も意味のないことだと思っている。なぜなら、ひとはいずれ必ず死ぬからだ。人生が生きるに値しない、ということは誰でも知っているが、それをあからさまに肯定できないだけのことなのだ。弁護士に対しても、判事に対しても、ムルソーの態度は一貫している。自分は嘘をつくことはできない。殺人を犯したのは灼熱の太陽のせいだった、実際それ以外のなにものでもなかった。結局法廷で、母親の埋葬の際に涙を見せなかったということが取り沙汰され、まるで母親を埋葬したことに罪があるかのような理由で死刑を宣告されてしまう。『異邦人』の読後には、サルトルにより「異邦人の哲学的翻訳」と評された『シーシュポスの神話』を手にとってみることをおすすめする。

2000/01/06/-9896
行きつけの店 山口瞳 新潮文庫 2000年1月1日発行
毒毒度:-2
“由布院盆地は、いつでも霧っぽいのである。山気といったものが立ち籠めている。その山気と夜気と冷気とが、重く重く低く低く湿って梅の香をとじこめる。私が窓をあけたので、そいつらが、一遍に押し寄せてきたのだ。亀の井別荘の最大の御馳走がこれだった。”(由布院 亀の井別荘のボイルドビーフ)
“いつでも、私は、どうして河田さんがボウリング場の二階から、そんなに年月を経ないで、こんな立派な店を建てられたのか、それを訊いてみたいと思い果たせないでいる。いい気持ちで飲んでいるうちに、陶然となり、そんなことどうだっていいやという気分になってしまうのである”(金沢 つる幸の鰯の摘入れ)
“私は、近い将来、ふぐ源が電通を買い取ると思っている。あの頑固さなら、出来ないことは何もないはずだ”(築地 ふぐ源のふぐさし、ふぐちり、ふぐ雑炊)

飛行機が苦手なので、長崎のとら寿しまで夜行寝台で握りを食べに行く。時間的には、ニューヨークへ行くより遠いということになるらしい。酔狂としか言いようがないともいえる。しかし、そこには会話が止まるほど美味い鰺がある。食べ物と向き合い、ひたすら徹底的に描写するタイプの開高健とは異なり山口瞳は、店の持つ雰囲気を大事にする。主人の、お内儀の、従業員の人柄までが食の範疇だ。山口瞳にとって行きつけの店とは、働く人たちを含めた文化であり、学校であり、修業の場ということになる。

2000/01/05/-9897
聖なる春 久世光彦 新潮文庫 2000年1月1日発行
毒毒度:2
“誰も、こんな古臭い和風の風呂敷の中に、クリムトが隠れているなんて思いもしないだろう。ほんとうに美しいものや、びっくりするくらい醜いものは、みんなそんな風に、隠れているものなのだ。たとえば軒が傾き、壁が崩れた廃屋の中、破れた屋根から滴り落ちた雨水がつくった水辺に、世界でいちばん美しい瀕死の蝶が翅を休めていたり、--昔の詩人が歌ったように、満開の桜の樹の下に、非道の盗賊の腐りかけた屍体が埋まっていたりするかのように。”

登場人物はわずかだ。グスタフ・クリムト贋作者の私、画学生のキキ、美術商フランソワ、フランソワの飼猫フランソワーズ、キキの母親。私の回想の中の祖父、父、生きている母。私は蔵の中に住む。蔵は唯一空襲を逃れた財産。医療器具の代理店を営んでいた祖父、父は働きすぎて亡くなった。戦災による痣を顔に持つ私は、商売をやめ、母を親戚に預け、一人で蔵の生活を続けている。ときどき娘ほどにも年齢の違う画学生のキキが訪ねてきて、寝ることがある。キキの描く肖像画はその人物の死にゆく姿である。私はキキがこっそり眠っている私をスケッチしたことを知っている。シャンソンに歌われるようなモンパルナスの風景が浮かぶ。しかし実のところ蔵は本郷弥生坂近くにあるし、キャンティで食事をするようなフランソワの本名は亀治なのだ。荒俣宏『バッド・テイスト』で贋作についての考察を興味深く読んだが、まさにその通りの記述が主人公により語られる。“作り話が信じられ、私の絵が真物として売れるということは…贋作者として、この上ない名誉なのだろうか。それともまばゆい光彩に彩られた絶望なのだろうか”と。ギュスターヴ・ドレのサロメや、狂女や、乱歩作品を思わせる小道具(蔵は大道具か)など、久世美学に溢れた綺譚。

2000/01/04/-9898
ストロベリーフィールズ 萩尾望都 新書館 1976年11月5日初版発行
 毒毒度:2
“心のなかにひとつの歌が聞こえてくることがある
 ぼくが考えるのはどうしてたくさんのものを昨日においてきてしまったのだろうということ”
“夏がすぎると星がたくさん落ちてくる夜がある”

“どこかに星の泉があるのだろうか そこには失くしたものがみんなあるだろうか”

『トーマの心臓』のその後の物語『湖畔にて』を収録した萩尾望都ワールド。愛するマリエ(母)を交通事故で失ったエーリクが、マリエと片足を失った義父シドと暮らすボーデンの夏。美しい絵を見ながら声に出して読むと、書かれたものの奥深さに涙ぐんでしまうだろう。ちなみにそれ以前の物語(オスカーの子供時代)は小学館文庫の『訪問者』である。新書館シリーズは立原えりか、宇野亜喜良、という既存のスター作家の発表の場であると同時に、寺山修司の選考により若き詩人を多く輩出した。現在戯曲を書いている岸田理生も、そしてこの『ストロベリーフィールズ』で萩尾望都と対談している伊東杏里も、寺山修司に見い出されている。寺山修司は競馬好きのヘンなオッサンという印象が強いと思うが、陰では浪漫な時を過ごしてもいたのだ。

2000/01/04/-9899
トーマの心臓 萩尾望都 小学館文庫 1995年9月1日第1刷発行
 毒毒度:3
“ユリスモールへ さいごに これがぼくの愛 これがぼくの心臓の音 きみにはわかっているはず”
“--ぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていた-- なぜあの時キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのか--”

“それでもキリストはユダを愛していたのか--? ユダもまたキリストを愛していたのか”

“ぼくの翼じゃだめ? もしぼくに翼があるんならぼくの翼じゃだめ? ぼく片羽きみにあげる…両羽だっていいきみにあげるぼくはいらない そうして翼さえあったらきみは…きみはトーマと…トーマのところへ…”

コミックを果たして毒書に入れるか、もちろんYESだ。しかも萩尾望都であるならばなおのこと。何度も読み返しボロボロになってしまったものの代わりに、最近(といっても5年たつ)出た文庫版を新規購入して読む。少女漫画と侮るなかれ、ギムナジウムの少年たちの透明な愛と聞いて、なんだ同性愛ものと決めつめるなかれ。エロスの愛ではない、アガペの愛すら見える名作である。萩尾望都はヴァンパネラもの『ポーの一族』とこの作品にて少女たちの心をとらえた。まず絵が上手い。デッサンがしっかりしている。哲学的テーマ、主人公の魅力、ストーリイの奥行き、緻密なプロット、適確なネーム。萩尾望都はその後、光瀬龍と組んでSF的な展開を見せたり、野田秀樹により『半神』が舞台化されるなど、話題となった。森博嗣の愛犬トーマの名がこの『トーマの心臓』からとられたほど、森博嗣をもインスパイアしていると付け加えておこう。

2000/01/04/-9900
花曝れ首(はなされこうべ) 赤江瀑 講談社文庫 1981年8月15日第1刷発行
 毒毒度:4
“『…ここは浮世の行きどまり。苦界の憂さのつきる所や。あだし、はかない、化野(あだしの)と、ひとはいうけど、生ま身の命捨てる場所や。もうさっぱり執着払うて、思い切っておしまいやす』
 秋童の声は篠子と並んで、眼には見えぬが花染模様の振袖に少し幅広の金欄の男帯、髪を島田に結いあげて、紅白粉の匂いもほのかに、篠子のかたわらを歩いていた。
 嵯峨鳥居本、念仏寺の下を抜けるだらだらののぼりの狭い旧道筋であった”
“『おちとみやす』と、咽鳴り声は真ひるまの光のあわいにもえたつようで、色子裳裾のはためきと風をはらんだ紫布が、にわかに眼先に残るとみるまに、秋童は陽ざしに透けて見えなくなった”

アジプロ映画をめぐるミステリ『ホルンフェルスの断崖』、ジャワの影絵人形が死を運ぶ『影の風神』、不思議な千姫の笛とピラニアの棲む地下プール『熱帯雨林の客』といった現代ものよりも、鶴屋南北の死の真相を描いた『恋怨に候て』と表題作『花曝れ首』などの古典芸能、芸道ものを題材にした作品に冴えがある。引用した『花曝れ首』の舞台は化野。色子同士の刃傷沙汰があり、根がしゃれこうべを抱き込んでいると伝えられる血潮モミジの庭で、篠子は春之助と秋童と名のるふたりの魔と出逢うのだった…。年末の久世光彦・篠田節子・皆川博子ラインから、素晴しいけれども怪しいブックサーフィンに突入。赤江瀑作品に初めて出会ってから四半世紀のときがたった。耽美とか異端にひたすら魅入られていた時期。何読んでいるの?と問われて赤江瀑と応える。誰それ?この会話の結末には、誰も知らない作家を読んでいるという密かな快感があった。赤江瀑が『ニジンスキーの手』により第15回小説現代新人賞を受賞したのが1970年、しかしまだこのとき作家と私は出会っていない。はまったのは1974年から1977年にかけてだったか。1974年の第1回角川小説賞受賞作『オイディプスの刃』がATGにより映画化される、しかも主演は松田優作という発表に心踊らせたが遅々として進まぬままに主演交代のウワサを耳にし、結局完成したのかどうかも不明、という苦い思い出もある。今数えてみたら単行本6冊、文庫本3冊を所持している。文庫のうち2冊は、1980年代に入ってからの発行。しかし、今はどの本も書店では見当たらない。文庫はリストからはずされている。ホラー、幻想物語がこれほどまでにもてはやされている時代が来たというのに、赤江瀑は何処に隠されているのか。

2000/01/03/-9901
荒俣宏コレクションII
悪趣味の復権のために バッドテイスト
荒俣宏 集英社文庫 1998年1月25日第1刷
 毒毒度:4
“テイストとバッドテイストとは、たがいに角つきあわせる敵同士ではなく、補完しあう仲間なのである。バッドテイストを欠いたテイストは、精神を健康に保たせることができない”
“バッドテイストは精神の成長のために必要だが、テイストは向上のために要る”
“歯止めのない成長は肥満と放縦のみなもとになる”
“また、度を越した向上も、人間のいちばん豊かでナチュラルな部分を圧しつぶすことになりかねない”

どうしてお前は新年早々…と絶句されても仕方のない本だ。だって〜調べものしてたら止められなくなったんだもんとしか言い訳できません、はい。先月読んだマンディアルグの『城のなかのイギリス人』を一体最初にどこで目にしたのか気になって出所を探しているわけで、探しものの常として、とんでもない旅にでてしまったということだ。
荒俣宏。幻想文学・オカルト学・博物学の研究家にして小説家、稀代の寄書蒐集家。おそらく私の進むべき道は荒俣宏に近いのではないかと思うときもあるが気のせいならそれもよし。蛇足ながら、1996年に敢行されたイタリア仰天旅行の結果、同行の水木しげるからイタリアお化け紀行(同朋舎発行『ワールドミステリーツアー13』に収録)が生まれている。
さて、完璧な贋作を世に送りだしたフェイカーがいる。権威の元でめでたく「本物」と認められたとしよう。フェイカーとしては名誉なことだ。しかし、贋作が「本物」と認定されてしまったとき、作者自身のオリジナリティーは消滅する運命にある。そして堪りかねて贋作を告白したにせよ、贋作者でないアーティストは、商業的には無名のアーティストでしかない…という贋作者のジレンマが面白い。解剖図の話あたりからグロテスクの匂いがたちこめはじめるのだが、圧巻はウンダーカマー(驚異の部屋)をめぐるヨーロッパ妖異博物館ツアーとなる第3部。かたや奇物収集に魅了されたハプスブルグ家のウィーン、こなた好奇心満々のメディチ家にかかわり深いフィレンツェ…。オーストリアのアンブラス城のウンダーカマーの代表は、ほんとうにいた多毛人の肖像画。一方フィレンツェの蝋細工師は「死体解剖蝋人形」を製作していた。スッシーニ作〈解剖されたヴィーナス〉が凄い。篠田節子の『美神解体』に登場する解剖用の人形はこの〈解剖されたヴィーナス〉もしくは、ボローニャの蝋人形〈イヴ〉(本物の人骨を使っているという)をモデルにしていると思うのだが。さらに旅を続けていくと、パレルモのカプチン修道会にあるカタコンプへと行き当たる。地下納骨堂に安置されている〈世界で最も美しい死体〉ロザリア・ロンバルドこそかのデヴィッド・リンチが生んだローラ・パーマーの死体そのもの! この死体も、〈解剖されたヴィーナス〉も、ボローニャの蝋人形〈イヴ〉ももちろん、図版が数多く載っているので、ヨーロッパの美の下半身を堪能できるだろう。
バッドテイストの宿るところ。あからさまな表現、〈性器〉、〈死〉、無知なる模写、猟奇。バッドテイストはセックスに、〈動きまわる女〉に、〈老い〉に宿る。異国の美女に、〈未来〉に、〈加虐〉に、〈野生〉に宿る。バッドテイストは〈攻撃的な女〉に宿り、花の装飾に宿る。バッドテイストを毒書といいかえてもよいだろう、しかし歯止めのない毒書の果ては?

2000/01/01/-9902
もし僕らのことばがウィスキーであったなら 村上春樹 平凡社 1999年12月15日初版第1刷発行
毒毒度:-2
“僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。”
“僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある”

“いちばん最後にくるのは、人間なんだ。ここに住んで、ここに暮らしている俺たちが、このウィスキーの味を造っているんだよ。人々のパーソナリティーと暮らしぶりがこの味を作りあげている”

村上春樹・陽子夫妻がスコットランドとアイルランドを旅した。旅のテーマはウィスキー。スコットランドのアイラ島にて、名高いシングル・モルト・ウィスキーを心ゆくまで味わう。その後アイルランドを旅しながら、さまざまなパブでアイリッシュ・ウィスキーと「日常的ステートメント」を愉しむ。妻が写真を撮って、夫は帰国後、妻の写した写真を眺めながら文章を書いた。私がウィスキーの味がわかるほどの大人ではないことが残念だが、ウィスキー好きには堪らないであろう、あとあとからじわっときいてきそうな旅の本だ。
本をひとに贈るのは難しい。そのひとの趣味に合うという絶対の自信があってもすでに読んでしまっているかもと心配になるし、これは読んでいないだろうと思っても、気に入ってもらえるジャンルか、長く読んでもらえるかと悩みは尽きない。本に限らず贈り物というのがそうなのだが、お互いの生き方にかかわるものなので、本来無神経であってはいけないはずなのだ。この、ウィスキーの香りがする小さな本に逢ったのは書店ではなく、新年の挨拶に行った友人宅である。気に入ったと言ったら、持ち帰ってよいと言う。で、そのまま、私の本になった。なるほど、こういう本の贈り方もあるのだ。友人一家全員この本を気に入って、なんと一家で5冊購入したという。夫は本にならってとっておきのウィスキーを買い求め、「街角写真家」の妻に「君にも有名な物書きの夫が必要だね」と言ったそうな。なんだか短編のひとつでも書けるような気がする。
村上氏はたぶんいまごろ、アイラ島のボウモア蒸留所のマネージャー、ジムからもらったボウモア21年ものをやりながら、21世紀の始まりを祝っているのではないだろうか。「うまい酒は旅をしない」のなら、たぶんに、現地で味わったシングル・モルトとは味は異なるにしても、心のなかにはスコットランドの風景が広がっているはずだ。海からの強い風が、なだらかな緑の丘を駈け上る。過ぎ去っていく灰色の雲。黒い顔をした羊たち、カメラをじっと見つめる茶色の仔牛。家々の暖炉には泥炭(ピート)がくべられ、屋根には白い鴎がとまっている。上等なウィスキーとグラスをテェブルの上に載せ誰に邪魔されることなく静かにページをめくる…。

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