●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-02

2000/02/28-9854
「禍いの荷を負う男」亭の殺人 マーサ・グライムズ
山本俊子 訳
文春文庫 1985年3月25日第1刷
毒毒度:2
“イギリスの旅館(イン)は、歴史と、追憶と、そしてロマンスの落ち合う場所に永遠に位置を占めている。”
“ここは典型的なイギリスのインであった。夏になるとクレマチスの長い蔓が壁にはびこり、ツルバラと競いあう。南に向いて丘の上に立っている長い建物は、気まぐれな波にさらわれでもしたように、一かたまりずつっつなぎ合わされたかたちになっている。藁ぶき屋根が衿のようにぴったりと窓にかぶさっていて、ダイヤモンド形に仕切ったその窓は、夏は緑に輝く野原の中に、冬は銀色のもやに包まれて、ロング・ピルトンの村を見下ろしている。”

北部イングランドのノーサンプトンにある小さな村ロング・ピドルトンのはずれ、パブ「ジャックとハンマー」亭で風変わりな他殺体が発見された。ところが殺人はそれが初めてではなく、前日にも別のパブ「禍いの荷を負う男」亭でビール樽に逆さまに押し込められた絞殺死体が発見されたばかり。この連続?殺人捜査のために、ロンドンから派遣されたのが、リチャード・ジュリー警部。独身でクリスマスに予定のない彼にとって、雪に埋もれた絵はがきのような村で過ごす最高のクリスマス休暇となるのだろうか?
マーサ・グライムズによる、警部リチャード・ジュリーのシリーズ第1作。過去に一冊だけ読んだのだが、情けないことに第何作だったのか不明。作者はアメリカ人だが、イギリスをこよなく愛し、何度も訪れてこのシリーズを書き始めたとのこと。奇妙な名前のパブ(ホントにイギリス人って変わっている)がいつも事件の舞台となる。詮索好きで図々しく、探偵気取りのアガサ(名前が!)の描写は凄まじい。義理の甥メルローズ・プラントは趣味がよく、生まれながらの本当の貴族なのだが、突然爵位を返上してしまった変わり者。怪しい小説家と秘書兼愛人、年の離れた夫婦(もちろん奥方は村じゅうの男に媚びを売っている)、16年前妻を殺された旅館の主人、バイセクシャルの骨董屋、まじないに凝る老女、話好きの牧師、インの主人に求婚されているヴィヴィアン、ヴィヴィアンのステップシスター(意地悪)等々、村の誰かの過去が殺人に深くかかわっているらしいのだが…。絵葉書のような村のクリスマスの風景描写にいちいちため息をつく。貴族が住むようなイギリスの村をじっくり味わっているうちは心やすまるが、人物が登場すると会話はがぜんウィットを通りこして、毒が生まれる。とってもイギリス的である。

2000/02/25-9855
暗黒のメルヘン 澁澤龍彦 編 河出文庫 1998年7月3日初版発行
毒毒度:3
“見渡せば、見まわせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果しなきに、両側つづきの躑躅の花、遠き方は前後を塞ぎて、日かげあかく咲込めたる空のいろの真蒼き下に、彳むはわれのみなり”(龍潭譚--泉鏡花)
“空が落ちてきます”(桜の森の満開の下--坂口安吾)

アンソロジストたることには憧れがある。アンソロジーを読むのは好きだ、消耗するにしても。ある個人が編んだ本を読むということは、個々の作家の世界を駆け足で一巡する目まぐるしさと同時に、編者自身の嗜好に触れる生々しさがある。
さて文学の批評家であるより贅沢な文学の美食家を自称する澁澤龍彦が選んだ《幻のファンタジー》16篇。収録作品は以下の通り:龍潭譚(泉鏡花)、桜の森の満開の下(坂口安吾)、山桜(石川淳)、押絵と旅する男(江戸川乱歩)、瓶詰の地獄(夢野久作)、白蟻(小栗虫太郎)、零人(大坪砂男)、猫の泉(日影丈吉)、深淵(埴谷雄高)、摩天楼(鳥尾俊雄)、詩人の生涯(安部公房)、仲間(三島由紀夫)、人魚紀聞(椿實)、マドンナの真珠()、恋人同士(倉橋由美子)、ウコンレオラ(山本修雄)
美しい花木の下の屍体幻想や、近親相姦、魔性の美女、果てしない螺旋階段…。戦慄はないかもしれないが恐怖はある。そして「白蟻」はまさしくキングいうところの不快感そのもの。
血は出ないが水の出る「猫の泉」が気に入った。
澁澤龍彦が安部公房作品としては寓意的すぎるという「詩人の生涯」にはジャケットが血を流すくだりで涙してしまった。昨年読んだ『屍鬼の血族』という国産吸血鬼譚(アンソロジストは東雅夫)にも収録されている作品がある。三島由紀夫の「仲間」。外套をまとった親子、煙草を愛し、鐘の音に敏感で、夜は眠らない。かれらが吸血鬼かというと、よくはわからない。そもそもお父さんは本当の父親なのか、第3の男は息子を気に入り、父親はその男を気に入っている。『夜明けのヴァンパイア』のレスタトとルイとクローディアのような疑似家族になる結末。カミングアウトの寓話との意見もあるらしいが。

2000/02/24-9856
偽りの名画 アーロン・エルキンズ
秋津知子 訳
ミステリアス・プレス文庫 1991年7月31日初版発行
毒毒度:1
“見識のある美術蒐集家は、ふつう、いくら原作が欲しくてたまらないからといって、<夜警>や<トレド風景>のコピーをわざわざ買い求めたりはしないものだ。真剣な蒐集家が模作に囲まれて過ごすのは、真剣な愛犬家が剥製にした自分のペットの死体に囲まれて過ごすようなものだ”
“わたしはいつも階下で足をとめ、ミケランジェロの若き日の作品である、媚びへつらうような、なんともひどいバッカス像を見るのが好きだ。というのも、これは傑出した者でさえ誤りを犯す証拠として、わたしの心をなぐさめてくれるからだ”

元旦に村上春樹本を呉れた友人から再び本を貰う。おなじみアーロン・エルキンズだが、スケルトン探偵ものではなく、サンフランシスコ郡美術館の学芸員クリス・ノーグレンを主人公とするシリーズ第1作。近々開催される予定の《掠奪絵画展》の準備にあたるべくベルリン入りしたクリスを待ち受けていた上司の言葉「出品作品の中に偽作がある」。保管されていた絵画を二人組が奪おうとするし、その際にクリスは怪我はするし、おまけに上司は謎の死を遂げる。犯人探し、そして贋作探しに乗り出すクリス。相棒?をつとめるのは、魅力的なアン・グリーン大尉、そしてちっともやり手に見えないハリー・グッチ少佐。私の大好きなハンドラーによるホーギーものを彷佛とさせる、巻き込まれ型探偵の典型的な例である。友人はスケルトン探偵ほどには…との意見だったが、読みはじめるとなかなかどうして面白い。血なまぐさくなくて軽妙、会話がお洒落で、事件に巻き込まれる主人公とともにちょっとした旅行気分(ベルリンとフィレンツェとベルヒテスガーデンとロンドンへも行ける!)が味わえる点は前シリーズに劣らず。芸術に関しては、そもそも謎が多い。芸術の模写は芸術か、贋作と真作はどこで定義する? 工房の製品のどこまでが画家の真作と言えるのだろう? ある絵のどこまでがルーベンスの筆になり、何平方ミリが弟子達の筆によるのか断定できるのか? 模写はそれなりに美しい、しかし芸術とは別個のものだ、過去に表現されたものの再現にすぎず、創造的とはいえない、もはや機械的作業、技巧にすぎないと、クリスがきっぱり言う場面には好感がもてる。贋作さがしの手ぎわも興味深い。食事もいちいち美味しそうだし、恋の行方も気になって、やはりどうしても今後読み続けてしまうことになりそうだ。

2000/02/23-9857
死の舞踏 スティーヴン・キング
安野 玲訳
福武文庫 1995年11月6日第1刷発行
毒毒度:2
“人がホラー小説を読んだりホラー映画を見たりしたがるのはなぜなのか……いったいどうして人は大枚はたいて気分が悪くなるようなことをしたがるのか”
“真実を語ることほど恐ろしいことはないのではないか? 何といっても、フィクションは嘘のかたましりだ”

例えばラブクラフトの売れ行きは芳ばしくない。要は想像力の問題だということだ。あなたはファンタジーのバーベルを上げることができるか。想像力の筋肉が十分発達しているだろうか。キングが、最初に本物のホラーの洗礼をうけたのはラジオだったと語る。レイ・ブラッドベリの『第三探検隊』の翻案をこっそり聞いて、その夜、ベッドでは寝られなかったと。つまりバーベルを上げる筋肉は、見た目非力な子供の方が発達していたりする。われわれの心の働きをくもらせ、ともすれば想像力を鈍らせる原因ともなっているのは、テレビと映画ではないだろうか。キングがこう述べてからさらに20年が経ち、この意見は誰にも気づかれずにひっそりと佇む古代の亡霊のようだが。
〈戦慄(テラー)〉、〈恐怖(ホラー)〉、そして〈不快感(リヴァルジョン)〉の違いは興味深い考察だ。例えば『猿の手』は実体の見えない〈戦慄(テラー)〉、次に正体はわからないが実体のある何ものかが呼び起こすのが<恐怖(ホラー)>、映画《エイリアン》で隊員の顔に張り付くフェイスハガーは<不快感(リヴァルジョン)>というわけだ。見えないもののほうがえてして想像力が刺激される。
文庫で800ページ、スティーヴン・キング初のノンフィクション。ホラー/ファンタジーというジャンルにおいて、1950年から1980年までに刊行された書籍および公開された映画・テレビ映画についての論考。巻末にキング推薦の映画約100本と書籍約100冊のリスト付。ちなみに100冊の書籍よりも、100本ビジュアルの方が私にはなじみの作品が多かった。今後はひき続きブラッドベリと、未読の表現者たちジャック・フィニイ、ラムジー・キャンベル、リチャード・マシスンにはまってみようと思っている。

2000/02/19-9858
薔薇の名前(下) ウンベルト・エーコ
河島 英昭 訳
東京創元社 1990年1月25日初版
毒毒度:5
“書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子にも似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする”
“文書館は一種の生き物であり、人間の精神では律しきれない力の巣窟であって、多数の精神によって編み出されてきた秘密の宝庫であり、それらを生み出した者たちや媒介した者たちの死を乗り越えて、生き延びてきた、まさに秘密の宝庫なのであった”
“なぜ、この書物だけが、それほどまでに大きな恐怖を、あなたに呼び覚ましたのか?”
“あなたは悪魔だ。そして悪魔みたいに暗闇のなかで生きている”

はじめに言葉ありき。上巻の途中から、ミステリイとして読むことをやめてから、がぜん面白くなった。もちろんミステリイとしてとるに足らないという意味ではなく。そしてまた、バスカヴィルのウィリアムが自分の苦手なホームズタイプだからといって、はなから対決を放棄したわけでもなく。ミステリイにこだわらず、好きな部分にイマジネーションを働かせて読んだ方が絶対に楽しいということだ、当然のことながら。ウィリアムが追っていた事件は一言で言えば僧院内部での権力争いであり、一冊の書物の秘密を守るがために何人もの命が失われた。注目すべきは、犯人が書物の内容を憎んでいたにもかかわらず、書物を焼いたり破棄したりはしなかった点だ。ウィリアムも言っている「あなたのような人物には書物を破り棄てることなどできるはずもないから」と。書物という存在に愛のない者の読み方が、その者に死をもたらしたのだ。終盤、真理を問い合う師弟の眼前で、僧院の屋根が焼け崩れる…書物だけでなく、書物を著した多くの精神が焼きつくされてしまう数ページに私は涙した。薔薇が示すのは、あの娘の名前だけではなかった。何年ものち、文書館の焼跡からアドソが見つけ、懸命に拾い集めた燃え残りの紙片たちこそ、散ってしまった薔薇の花びらではなかったか。この書物は、ただじっと読まれるべき時を待っていた。この書物に今触れるためには、10年という歳月が無駄ではなかったと感じている。たまたま私にはそうだったが、あなたにはそうではないかもしれない。その書物の名は『薔薇の名前』。

2000/02/16-9859
深夜球場 赤瀬川隼 文春文庫 1995年6月10日第1刷
毒毒度:-3
“数字は野球の墓場なんだ。…野球そのものは、何も作らないし、何も残さない。一瞬一瞬、すばらしいプレーや、まずいプレーや、面白いプレーが生まれては消えていく”(オールド・ルーキー)
“野球よ、おまえは、期待であり、いらだちであり、冒険であり、退屈であり、豊穰であり、貧困であり続けてきた。おまえは、高貴であり、野卑であり、愚直であり、狡猾であり、そして孤独であり続けてきた”(梶川一行の犯罪)

野球への愛をこんなふうに表現できることを尊敬する。迷いごとがあったら、赤瀬川隼の野球小説を読もう。で、今の私は『薔薇の名前』の下巻にとりかかって単に疲れているだけなのだが。時間的に多少余裕があるので、かえって進みが遅い。「暇がないから読書がはかどる」というのは言いえて妙。

2000/02/15-9860
薔薇の名前(上) ウンベルト・エーコ
河島 英昭 訳
東京創元社 1990年1月25日発行
毒毒度:3
“…あらゆる芸術のなかでも建築は、太古の人びとがコスモスと名づけた宇宙の秩序を最も果敢におのれのリズムのうちに取り入れて再創造することをめざすものであり、いわば、おのれの四肢の完璧な均衡の上に燦然と輝いて立ちあがる巨大な生き物にも似て、それが造られることをめざすものであったから。そしてアウグスティーヌスの言うごとくに、数と重さと大きさとにおいて万物を決定した、われらが創造者こそ、讃えられてあれ”
“滴り落ちてくる光の粒があたりに散乱するさまは、まさに光に象られた精神の原理<クラリタース(輝キ)>を思わせ、これこそはすべての美と知の源泉であって、この大広間が表す調和と精神と不可分のものであった”
“あの日の昼下がりに私の目に映った光景、それはまさに喜ばしい知の工房そのものであった”
“異端になるのは個々人であり、正統になるのも個々人である。問題は一つの運動体が提唱する信条ではなく、それが提起する希望なのだ。異端とはみな、排除という現実の旗印である”

喜ばしい知の工房そのものであった。ほぼ10年置きっぱなしの『薔薇の名前』の旅に出る。
書物の中に書物…『薔薇の名前』は僧院の文書館のごとき迷宮へと誘い込んでくれる。カタカナの名前を生理的に受けつけないと、まず読み通せない。厨房係サルヴァトーレはまだしも、アリナルド・ダ・グロッタフェッラータとかパチーフィコ・ダ・ティーヴォリに耐えられるか。フランチェスコ会とかベネディクト派とか諸々の分派について当時の事情を知らなければならないだろうか? 知っていればなおのこと面白い。聖書、『デカメロン』、アクィーノのトマス(トマス・アクィナス)、アリストテレス、ダンテ『神曲』、コーラン、建築学、シャーロック・ホームズ(当然のことながら)等々についてもある程度知識を持っていた方が楽しいであろう。クリスマスとかハロウィーンとかヴァレンタインとかお祭りの部分にしかキリスト教に興味のない私たち日本人は、異端がどんなに大層なことか判断できぬもどかしさはあるが、そもそも異端が異端であり得るのは正統が理解されていればこそ。オリジナルを知らなければパロディは真の意味を持たない(ちょっと違うか)。表と裏。神と悪魔。僧院には物も人も豊かにあったが、唯一神だけが不在だった。“アラユルモノノウチニ安ラギヲ求メタガ、ドコニモ見出セナカッタ。タダ片隅デ書物ト共ニイルトキヲ除イテハ”
真理の煌めきを薔薇のつぼみを例えたのは何の映画だったろう。『薔薇の名前』は女性の名前。アドソが憧れ、魔女として裁かれる女性の名前。登場人物一覧では、ただ、村の娘としか書かれていない、その名前。

2000/02/10-9861
グイン・サーガ第70巻
豹頭王の誕生
栗本薫 ハヤカワ文庫JA 2000年2月15日発行
毒毒度:2
“なんて、ふしぎなのだろう。なんと、ことばにつくせぬほど物語めいてひびくのだろう! ケイロニアの豹頭王グイン……とうとう、裸一貫でルードの森にあらわれた半人半獣の戦士が、世界最大の王国ケイロニアの王と呼ばれる身になったのだ…”
“ねえ、ヴァレリウス、もう、私たちは二度ともどれない二人だけの旅に出てしまったのだよ。私たちのうしろで道はくずれおち、決して戻ってゆく帰り道のない永遠の旅路に。”

おあと9861のうち確実なのはそのうち30冊が必ずこのシリーズだということだ。100巻をめざす未曾有の大河ファンタジー。久々にケイロニア、パロ、モンゴールの話題が揃った第70巻。シルヴィア姫を救出してケイロニアへと帰還したグインはついにケイロニア王となる。シルヴィアの腹違いの姉オクタヴィアとその娘マリニアもお披露目となり、幸せの絶頂ともいえるケイロニアだが、宰相ハゾスとローデス侯ロベルトはマリニアの耳が不自由なのではないかという思いを打ちあけ合う…。謀(はかりごと)の国パロ、謀(はかりごと)の人アルド・ナリス。実の従弟である国王へ反逆ののろしをあげるのか。決行は茶の月、ルアーの日。ゴーラの王イシュトヴァーンとモンゴール公女アムネリスの結婚はついに破たんへ。誰も信じることのできないイシュトヴァーンは夜叉となり、カメロンにさえあらぬ疑惑を抱きはじめている。ケイロニア、パロ、モンゴール、それぞれの国それぞれの人々の運命は?

2000/02/09-9862
愛死 ダン・シモンズ
嶋田洋一 訳
角川文庫 1994年12月25日初版発行
毒毒度:2
“夜のことを思い、それに続く夜のことを思うと、笑みが浮かんだ。母親が娘の唇を舐めると、開いた口から血が涌き上がる。わたしの血が。死の血が”(バンコクに死す)
“たとえあなたが死神でも、それだけの価値はある”(大いなる恋人)

毒読日記の10000冊にコミックは含まれるが雑誌は含まれない。雑誌『GQジャパン』掲載のP.コーンウェル『スカーペッタ「冬の食卓」』を読み、愛について考え、ちょっと微笑んだ。ひと息ついてふたたびダン・シモンズにとりかかろう。中編(ノヴェラ)5作を集めた風変わりな題名(Lovedeath=Liebenstod)はワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第二幕に由来しているそうだ。
交通事故死と家族の愛が語られる『真夜中のエントロピー・ベッド』。語り手である「わたし」がシカゴからイリノイ州エルムウッドに引っ越したとき12歳。その夏突然はじめて死を意識したと記している。土曜の無料映画上映会へと急ぎつつ、突然気がついてしまう、死からは逃れられないことに。おや、このシチュエーションは…そう『サマー・オブ・ナイト』の少年達と同じなのだ…イリノイ州、田舎町、無料上映会。そういえばブラッドベリもイリノイ州出身だ。イリノイ州出身の男子はみんな感受性豊かに育つのだろうか?
バンコクの吸血鬼譚『バンコクに死す』には全編濃密な愛と死がたちこめている。ネイティヴ・アメリカンの伝承にヒントを得た『歯のある女と寝た話』はダンス・ウィズ・ウルヴズへのシモンズ流反抗であるとか。長老が映画をコキおろす場面には、なるほど、本気を感じる。唯一のSF『フラッシュバック』は、近未来の麻薬問題がからむ愛と喪失。自分の戻りたい一瞬に戻れる麻薬(20分アンプルとか30分アンプルとかがある)で、私だったらどこに戻るだろう。作者自身による濃厚なあとがきによれば、作品集のラストを飾る『大いなる恋人』こそ、愛死そのものである。架空の詩人ジェームス・エドウィン・ルークと、最前線で書かれた実際の詩を巧みに組み合わせた作品。第一次世界大戦での戦士の死を執拗に描写し続ける一方、死の乙女との甘やかな逢瀬が語られる。乙女は死神であり詩神である。

2000/02/07-9863
サマー・オブ・ナイト(下) ダン・シモンズ
田中一江 訳
扶桑社ミステリー文庫 1994年12月30日第1刷
毒毒度:3
“この日を境に、すべては二度ともとにはもどらなかった”
“例によっていつ果てるともない日没は、切ないほどに美しいバランスをとって明と暗との境目に停滞する。太陽は西の地平線に赤い風船のように浮かんだまま、空全体が死にゆく昼の赤に染まるのだ”

デュエイン・マクブライド。小説家志望。IQ160以上。しかし1960年のイリノイの田舎町に天才という言葉は未だ存在しなかった。外見はサエないが聡明なこの少年は、他の子どもたちとは少し違う。母親は亡くなって久しい。家事をしなければいけないし、自転車だって持っていない。バイク・パトロールの面々とは親友同士とはいえなかったかもしれない…戦いの過程で、同志にはなりえたが。デュエインの父親は発明家兼農業家にしてアル中。強硬な無神論者の家系。ハーヴァード中退、イリノイ大で工学技術の学位を取得。飼っているコリーの名はヴィトゲンシュタイン(いいぞっ!)。デュエインの叔父アートは放浪の詩人。図書館にも劣らぬほどの蔵書を持っていて、オールド・セントラルの謎を解明しようとするデュエインに協力してくれていたが…。私がマクブライド家の3人に好感を持っていたにもかかわらず、何と上巻でそのうちの2人までも殺されてしまった。謎は遠くボルジア家まで遡り、生贄を必要とする呪いの鐘「ボルジアの鐘」にかかわることらしい。兵隊の正体は、はるか昔マイクの祖母に横恋慕していた故人とわかる。気に入っていた登場人物が殺されて、しかも蘇りようもなく火葬されてしまったので、どんどん読み進む。オールド・セントラルに巣くう魔との最終対決より恐ろしいのは、墓地でマイクとキャヴァノー神父が兵隊に襲われる場面だ。猛烈に気色悪いので要注意。とび散ったウジが体内へ入り込み、生きたまま腐っていく神父…。そしてキャヴァノー神父にマイクが襲われる場面にも注意。15センチもあるウジが溶けた口から出てくるなんて、まるで映画『ヒドゥン』(カイル・マクラクランとマイケル・ヌーリーのエイリアン刑事もの)ではないか(ちなみに私の大好きなこの映画は1987年製作、1988年のファンタスティック映画祭グランプリ作品。シモンズも絶対観ているはずだ)
ダン・シモンズは1948年生まれ。1980年初めころから短編を書きはじめたとのこと。処女長編『カーリーの歌』で世界幻想文学大賞、『殺戮のチェスゲーム』でブラム・ストーカー賞、SF『ハイペリオン』でのヒューゴー賞受賞。視覚的には映画《エイリアン》の影響を受けているのではないか。化物の巣はエイリアンの卵農場を思い出させるし、細かい歯を持つヤツメウナギ風の這いずりものは成体エイリアンの口腔内の口(あのよだれダラダラでせりだしてくるヤツ)をイメージさせるからだ。『夜の子供たち』でのバトルもエイリアンシリーズのクライマックスを彷彿とさせていたし…。だから面白くないわけではない、私にとっては「だから面白い」のだ。一方、イリノイの田舎町で土曜の夜の無料映画上映会にわくわくしていた少年時代、古きよき時代への郷愁や亡くしてしまった者への愛情表現はリリカルで好感がもてる。日常が描けなければ、読めるホラーにはならない。

2000/02/06-9864
サマー・オブ・ナイト(上) ダン・シモンズ
田中一江 訳
扶桑社ミステリー文庫 1994年12月30日第1刷
毒毒度:4
“デュエインは自分が図書館へ行こうとしている理由を知っていた。彼は、図書館で調べ物をして大きくなったのだ--他人のためではなく自分のために、幼いころから人並みはずれて優秀な頭にわき起こる無数の個人的な疑問の解答を見つけだしてきた。図書館は、だれにも詮索されることもない、自分自身の情報源だった。”
“デュエインはめったに無料映画会には顔を出さない--要するに、想像力をはたらかせる余地があるということでは、映画やテレビよりも本やラジオのほうが上だと思っているからだ。”

1960年の夏休み。イリノイ州エルムヘイヴンに威容を誇る小学校オールド・セントラルを舞台としたダン・シモンズ版「学校の怪談」大巨編。Yブックセンターにはシモンズの文庫が全作存在した、さすが。しかし『殺戮のチェスゲーム』は定価で購入するに堪えないボロだ、またもや先送り。
解説では、1994年当時未訳の『The Children of Night』がこの『サマー・オブ・ナイト』に登場するキャヴァノー神父の少年時代の物語かもとの予想がなされているが、今となってははずれ。『夜の子供たち』は神父となったマイク・オルークの物語だったからだ。30年後のマイクもいいが、11歳のマイクもなかなか魅力的。アイルランド人特有の繊細な面差しにブルーの瞳。落第するほど成績が悪いのは、仕事優先の生活をしているからだろう。教会でキャヴァノー神父の手伝いをし、新聞配達をし、祖母の面倒を見る。遊びの世界ではリーダー格だ。ゲイルとローレンス兄弟はフツーの家庭の子供、暗闇や地下室やクロゼットがちょっぴり怖い。ケヴィンはドイツ系、父親は働き者で、家にはエアコンもある中流家庭。ジム・ハーランは浮気な母親とふたり暮らし。マイクたちバイク・パトロールの仲間ではないが重要な役割のコーディ・クックが一番変わり者。彼女は貧しいが、行動力抜群、おそらくどんな男子よりも。物語はコーディ・クックの弟タビーが夏休み前日に学校で行方不明になることからはじまる。今日を限りに取り壊されるオールド・セントラルにはなにか邪悪なものが取り憑いているようだ。校長も老女教師も、用務員、悪徳治安判事も怪しい。家畜の死体運搬車にはもしかして人間の死体も積まれているのでは?どうやら昔この町で起こった大事件が関係しているようなのだが、関係者は口を閉ざしている。デュエイン・マクブライトという少年が調査を開始すると死体収容トラックに轢き殺されそうになる。兵隊の幽霊が出歩き、何かが床下に穴を掘っているし、穴からは墓場の匂いがする。先日読んだ『夜の子供たち』の約2倍のボリューム。ゾンビもいれば、這いずりものもいる。何か良からぬものが人や町を乗っ取ろうとしているのを一部の人たちが阻止しようとするという展開は、マキャモンの『スティンガー』を思い起こさせる。あるいは田舎町、少年、60年代ものホラーといえばキングの『IT』か。

2000/02/06-9865
11月のギムナジウム 萩尾望都 小学館文庫 1995年12月10日初版第1刷発行
毒毒度:3あるいは-3
“罪と秘密と愛が時を作ったとき そこになにを考え”(11月のギムナジウム)

昨日からダン・シモンズ『サマー・オブ・ナイト』を読んでいたが、夜となり、時間切れ。深夜読むにはダン・シモンズは怖すぎる。少年時代の物語といえば萩尾望都でしょう。というわけで、あの名作『トーマの心臓』の原型ともいえる初期の作品集を手にとる。ギムナジウムを舞台とした少年愛という愛の形はのちに、竹宮恵子の『風と木の詩』で熟した。萩尾望都作品の登場人物の容姿を借りた扇情的なコミックが専門誌を賑わせた時代もあったが、本家はあくまでも品があり、凛としている。ユーモアがある。人生の棘もある。時の流れを意のままに操るテクニック、オリジナルに充分感じられる抒情豊かな世界はブラッドベリの継承者と言い切ってよいだろう。

2000/02/04-9866
火星年代記 レイ・ブラッドベリ
小笠原豊樹 訳
ハヤカワ文庫NV 1976年3月15日発行
毒毒度:5あるいは-5
“「われわれは火星を損じはしないよ。」と隊長は言った。「火星は大きすぎるし、善良すぎる」
「そう思いますか? 大きい美しい物を損うということにかけては、わたしたち地球人は天才的なのですよ…」”(2000年4月 第三探検隊)

1月26日に82歳で亡くなったヴァン・ヴォークト氏を追悼しSF週間。ブラッドベリ『火星年代記』が本国で出版されたのは1950年4月、実に50年前のこと。1999年の1月の最初の火星探検隊着陸にはじまり、2026年10月に、ある一家が火星へ移住するまでをオムニバス形式で謳った作品。今は2000年2月、宇宙旅行はまだ本格化しておらず、宇宙飛行士という職業はまだまだ憧れでしかない。火星にはまだ誰も降り立ってはいない。そんな意味では、まだまだ未来の物語である不思議。このアメリカSFの古典的名作が色褪せず世界中で読まれ続けているということは、まだ地球も捨てたものじゃない。 

2000/02/03-9867
ウは宇宙船のウ 萩尾 望都
レイ・ブラッドベリ原作
小学館文庫 1997年9月1日初版第1刷発行
 毒毒度:3あるいは-3
たかがコミックと侮るなかれ。吸血鬼一族の万聖節(ハロウィーン)の集い『集会』では、異形の一族における異形(飛べもしなければ変身もできないフツーの)の少年の哀しみを描ききる。ブラッドベリの作品は数多く映像化されており、作家自身も脚本をてがけているが、かれの作品に響きわたる詩のような、音楽のような美しさを表現できる生身の人間は実在しないであろう。小説とコミックという表現方法の違いはあれ、萩尾望都は正統なブラッドベリ継承者だと言える。 

2000/02/03-9868
ウは宇宙船のウ レイ・ブラッドベリ
大西尹明 訳
創元SF文庫 1968年4月18日初版
毒毒度:7あるいは-7
“ぼくはこれから待つつもりだ。いままできみが待っていてもう待たなくてもいいようになったみたいに。ぼくはこれから待つつもりだ。”(「ウ」は宇宙船の略号さ)

原題名『R is for Rocket』。今を去ること52年前に訳された短編集がそのままこうして存在する不思議。実に43版が重ねられている。萩尾望都の作品集を通じて内容は知っていたので、読んだような気はしても、実はこのブラッドベリ自選集は未読。『霧笛』を読んでは怪物の運命にむせび、『いちご色の窓』が持つどんな宝石よりも美しい輝きに涙し、『長雨』の結末が夢でなければいいと真剣に祈りもした。物語は過去から未来へ、希望から絶望の果てへ、幸福の絶頂から不幸のどん底へ、あるいはその逆もまた。こうなると毒とか薬の範疇を超えている。
私のジャンルをほとんどカヴァーしてくれるという点で東京創元社の文庫にはお世話になっている。怪奇小説傑作集全5巻は何度もくりかえして読んでいるし、エラリイ・クイーンシリーズもしかり。ブラッドベリを含めてこうした上質な作品が廃刊されたり、想像するだに恐ろしいが焚書されるような時代が来たら、迷わず亡命をはかるであろう…火星に。 

2000/02/02-9869
夜の子供たち(下) ダン・シモンズ
布施由紀子 訳
角川文庫 1995年5月25日初版発行
毒毒度:4
“オオカミの遠吠え--空疎な大地に響き渡る孤独と恐怖に満ちた声--こそ、ルーマニアの心の歌なのだ。われわれは森の暗さに救いと再生を見いだす。山塞の中に立てこもり、岩壁を背にして敵に向かう。いつもそうしてきた。これからもそうしていくだろう。わたしは夜の子供たちを育て、率いてきたのだ”

吸血鬼ものには型やぶれの神父がつきもの。マキャモン『奴らは渇いている』のシルヴェーラ(元チンピラ)しかり、そしてこの作品のマイク・オルークしかり。30年前のマイクは『サマー・オブ・ナイト』で主人公の少年たちのうちの一人、その後青年となりヴェトナムで片脚を失い、帰国後神学校へとすすんだらしい。で、下巻ではケイトと愛を交してしまって、聖職者の看板を下ろそうとしている。ジョシュアは実はドラキュラの公位継承者であった。ルチアンとはぐれてからというもの二人は、公位継承儀式が執り行われそうな場所にあたりをつけてはサイドカーつきバイクで道なき道を走る。ふたたびまみえたときルチアンの姿はストリゴイの集団と共にあった。やはり敵なのか。密告により捕えられたケイトとマイクは別々の車でドラキュラ城へと連行されていく。ジョシュアの最初の犠牲者となるべく…。
ドラキュラ城でのラストは《エイリアン》と《エイリアン2》を合わせたようなアクションに徹する。敵が脚にしがみついてくるのは《エイリアン》だし、爆発を伴う子連れの大脱出といえば《エイリアン2》。《エイリアン》シリーズが母性と母性の闘いであったのに対し、こちらはケイトの母性とヴラド・ドラキュラの父性との闘いではあるけれども。そしてエピローグはルチアンにまつわる謎を明かにするドラキュラの語り。何と次の滞在先は日本らしい…。おそるべしダン・シモンズ。

2000/02/02-9870
夜の子供たち(上) ダン・シモンズ
布施由紀子 訳
角川文庫 1995年5月25日初版発行
毒毒度:4
“「子どものころに知ったんだ。ぼくは、誰かが…あるいは何かのグループが…全力を尽くしてそういう悪を根絶するべきだと悟った」オルークはまたにっこりした。「ぼくたちアイルランド系の人間はそんなふうに考えるんだよ。だから、警官や聖職者や、ギャングになる」”
「ギャングに?」
オルークは肩をすくめた。「悪者をやっつけられなかった場合は、仲間になってしまうのさ」”

さあ、思いきりはまってやるとの決意で臨むダン・シモンズ。第一候補ハヤカワ『殺戮のチェス・ゲーム』見つからず。第二候補扶桑社『サマー・オブ・ナイト』は定価での購入に堪えられないほどの汚れ本。というわけで角川『夜の子供たち』と『愛死』を購入。チャウシェスク政権崩壊直後の東ヨーロッパを舞台とした吸血鬼ミステリ&バイオホラー&アクション巨編。ドクター・ケイト・ニューマンは、ルーマニアでの短期支援ツアーに参加、重度の免疫不全の乳児ジョシュアを養子として連れ帰る。輸血を施すとジョシュアの体力は回復する。体内にあるレトロウィルスと胃壁の変異構造さえ解明できれば、癌やHIVの画期的治療法になるのでは…と防疫センターでの研究がすすめられる。元夫のトムも何かと手を貸してくれ、ジョシュアを囲んで幸福な時を感じるケイト。ところが、賊が押し入り、ベビーシッターとトムが殺され、ジョシュアはさらわれてしまう。防疫センターの同僚も襲われ、研究中の資料は破壊されてしまった。ジョシュアをさらったのはストリゴイ(吸血鬼)なのか。ジョシュアを探し求めてケイトはオーストリアからルーマニアへ潜入。同行してくれたのはマイク・オルーク神父だった。以前滞在中に通訳をしてくれたルチアンと喜びの再会も束の間、ルチアン自体謎めいた存在ということが発覚して…。

2000/02/01-9871
鬼会(おにえ) 赤江瀑 講談社文庫 1989年12月15日第1刷発行
毒毒度:3
“…遠い地底の深みに引きずり込まれるようなきりもない墜落感覚を僕に与え、落下速度が深まるにつれて、一つ、また一つと、途方もない闇の宙空に華麗な地底花が耀(かがよ)いひらいて、幻想の羽をひろげ、花びらをゆらめかせて、夢のような淡い燦爛たる光に染まり、彩色に燃え、あるいは流れ、あるいは浮かび、あるいはさまよい吹かれて走り、舞い……気がつくと、一瞬、深い暗黒の地底は百花に映えて、明媚に輝きさかっていたりもした”(鬼会)

そう、そのほうがいい。無理に謎解きを見せてくれない方がいい。魔は魔として留めておいて欲しい。音楽のように、ずいぶん自然ではないか。角川ホラー文庫の『自選恐怖小説集 夜叉の舌』にはがっかりもさせられたが、この『鬼会』という短編集はなかなか気に入った。当然廃刊なのだが、S駅コンコースに出店している古本屋の棚に、しんと、のっていて、新品同様。翌朝、遥か神奈川県方面で起きた人身事故の影響で通勤電車に閉じ込められるという状況下、一気に読む。大和の言の葉と、心をざわつかせる響きと字面を持つ漢字たちの融合に嬉々としながら。 

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