●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-06

2000/06/29-9778
ドリアン・グレイの肖像 オスカー・ワイルド
福田恆存 訳
新潮文庫 1962年4月30日発行 1967年12月5日7刷改版 1972年7月20日15刷
再再再 毒毒度:5
“善も悪も芸術家にとっては芸術の素材にすぎぬ”
“有用なものを造ることは、その製作者がそのものを讃美しないかぎりにおいてのみ赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に讃美するかぎりにおいてのみ赦される。すべて芸術はまったく無用である”
“きみは人間という人間がみんな好きなのだ。というのは、誰にたいしても無関心というわけだ”
“音楽が人間の心のなかに創りだすものは新たな世界ではなく、むしろ、もうひとつの混沌にすぎない。言葉! ただの言葉! その言葉の怖しさ! 明晰さ! なまなましさ! 残酷さ! 誰も言葉から逃げおおせるものはいない。”
“あなたは翼をあらゆることにお使いになる--飛ぶことにだけは使わないが”

キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』に、この『ドリアン・グレイの肖像』の作者オスカー・ワイルド、登場人物である画家バジル・ホールウォードが出演していたので、がまんできずに再再再…読。人生を変えはしないにしてもかなり影響を受けた一冊だ。薔薇やライラックやさんざしの香りとともに「影響はすべて不道徳なものだ」というヘンリー・ウォットン卿の台詞が、アトリエから聞こえてくるではないか。刺戟的な、逆説めいた台詞の数々が思い出され、ぞくぞくしてくる。ひたすら卿の台詞を追っていくという読み方もありだろう。ストーリー自体は単純。現実の人間ドリアン・グレイがまったく美貌を失わず、かれの悪行とともに肖像画の方が醜く、年老いて行く物語。書きようによっては耽美なホラーにもなりえた物語だが、自らの良心と刺し違えるという意外なほど倫理的な幕切れは、さすがに1回前の世紀末といったところか。

2000/06/28-9779
閉ざされた刻 T. J. マグレガー
古賀弥生 訳
創元推理文庫 2000年6月16日初版
毒毒度:1
“一瞬、彼の背後に陽射しの壁ができ、見ているだけで彼女は胸がときめいて、ホルモンに翻弄される思春期の小娘のような気がした〜(中略)〜じつは同年齢層のなかで二着になったのだ。四十五年間に撃たれたこともあれば殴られたこともあり、記憶喪失になって二十年分の記憶を失ったこともあれば、三年前の緊急手術のあいだに十二秒間死亡したこともある男にしては、悪くない記録だ”
“死というのは人間が持つ概念のうち、もっとも強力な唯一無二のものだ。死はみんなに訪れる。なのにどういうことが起きるのか、手がかりひとつない。いろんな宗教が死について説明しようとしてきたが、おれに言わせればみんな惨敗だ”
“この島の生活は普通ではない。そんじょそこらの生活とはわけが違う。世間並みではない。誰もがみな知り合いなのだ。嘘と真実、その中間のあらゆるものが口コミで飛び交い、どれが真実でどれが嘘なのか、わからなくなる”

当初、サイコものの一冊として出会い、約10年つきあってきた、同志のようなシリーズ。10作目にして、ついに完結。刑事と、被害者の恋人という立場で出会った二人、マイク・マクレアリと、クィン・セント=ジェイムズ。愛しあい、共同で探偵事務所を経営し、数々の試練を乗り越えてここまできた。二人は今まで、身近な人間を殺人事件によって失っている。たとえばクィンの恋人、マクレアリの恋人、マクレアリの友人、クィンの友人、マクレアリの妹…。今回の事件、タンゴ・キーで殺されたのは二人の友人であるルー。かつてマクレアリが記憶を失って殺人の嫌疑を受けた時、保釈保証人のルーには世話になった。ルーの家には幽霊が出るとの噂があり、死ぬ数ヵ月前から彼は確かに何かに取り憑かれていた。同居人の少年が容疑者として追われているが、島の生活の、近親相姦的ともいえる特異性をふまえると、複数の女の影が漂ってくる、しかも一人は幽霊かも…。クィンを襲う胸騒ぎ。マクレアリを永久に失ってしまうことになるのだろうか? タンゴ・キーといえば別シリーズの主人公アリーン刑事の住まいがある。なんと、アリーンは恋人(むろんキンケイドだ)と旅行中、アリーンの同僚刑事が留守番をひきうけているというオドロキの設定。みんなパソコンや携帯電話を使いこなし、容疑者の少年とサイバー会議室で話したりする点に歳月を感じる。アリーンシリーズのレギュラー達、フェレット&ビノ、アリーンのペット・スカンクのウルフまで登場して、2つのシリーズは融合。さらに心霊現象や霊能者というマグレガーのもう一つのテーマも合流し、なかば強引に最終章へと向かう。シリーズ前半の作品に比べて犯罪者側の心理が描きこまれていないのが少々不満。真犯人は意外な人物ではないし、幽霊を信じない者にとって展開は陳腐かも。今どうしてもこのシリーズを終わりにしたい理由がなにかあったのか。アリーンシリーズにクィンが登場することを願うしかない。
「死ぬまでにあと10000冊宣言」してからもうすぐ1年。どう計算しても年間250は無理、240ギリギリの予想。スプリントの連続でこなしていかなくてはいけない耐久レース? 本人が楽しければすべてよし。

2000/06/26-9780
レンデル傑作集2
熱病の木
ルース・レンデル
小尾芙佐 他訳
角川文庫 1988年12月10日初版発行
 毒毒度:4
“まっさきに自衛本能が働いた。それは愛よりも悲しみよりも、憎悪よりも後悔よりも強かった。”
(私からの贈り物 A Glowing Future)
“世の中には罪をおかして罰せられるよりもつらいことがある。そのひとつは、罪をおかしても罰せられないことだ”(女を脅した男 An Outside Interest)
“悪魔は空いている手に仕事をみつけてくれる、とミセス・ギブソンは口癖のように娘に言ってきた”
(悪魔の編み針 A Needle for the Devil)

正常と狂気は紙一重。殺人者も被害者も紙一重。出会いは恋のようにはじまってしまう。
表題作「熱病の木」はたしか悪女もののアンソロジーに収録されている。

2000/06/25-9781
レンデル傑作集3
女ともだち
ルース・レンデル
深町真理子 他訳
角川文庫 1988年5月25日初版発行
 毒毒度:4
“人間がそういうことをしてはいけない。だがやはり、そういうことをする人間がいるのだ” (誰がそんなことを People Don't Do Such Thing)
“いつも真実しか口にしない人間は他人の嘘を見破るのが苦手なのだ”(生きうつし The Double)

週に2回泊まり仕事だったので当然電車に乗る機会が少なく、毒書はかどらず。曇天を眺めながらレンデル再読の日曜日。人生の棘と生活の滓。たくさんの私とたくさんのあなたがいる。私たちのひとりもこの物語の結末のようにならないところが人生の不思議だ。もしかしたら気がついていないだけなのかも、あるいは気がついていない振りをしているだけなのかもしれないが。

2000/06/22-9782
ドラキュラ紀元 キム・ニューマン
梶元靖子訳
創元推理文庫 1995年6月30日初版
毒毒度:2
“シャンパンより強い酒があればいいのに。ゴダルミングのそばにいると、新生者(ニューボーン)の息が匂ってきそうな気がする。ヴァンパイアは悪臭を吐くというのは事実ではない。しかし空気中にはたしかに甘くかつ鋭い何かが漂っている。そしてゴダルミングの目の奥には、しばしば小さな血のしずくのような赤い点がちらつくのだ”
“「あなたはその年月をどうやって過ごしてきたのです?」
 ジュヌヴィエーヴは肩をすくめた。
 「忘れたわ。走って? 待って? 正しいことをしようとして? あなたはどう思いになる? わたしは善人かしら、悪人かしら」
 答えを求めているのではない。彼女はその感傷と苦々しさの混淆を楽しんでいるのだ。楽しむことで耐えてきたのあろう。彼女のひきずる年月は、おそらくジェイコブ・マーリーの鎖ほどにも重いに違いない”
“泡立った血が口に流れこみ、まぶたの裏で紫色の太陽が燃えた。暖かな心の交流など存在しない。食事よりも、麻薬よりも、愛よりもすばらしい何か。いまこの瞬間ほど、生命のほとばしりを感じたことはない--”
“「どっちが自然に反している? 生きることか、死ぬことか」
 「ほかの者よりも長く生きることです」”
“狂気は伝染病と同じよ。悪魔と同じく、いたるところに存在するわ。苦痛をやわらげられる手段はほとんどなく、わたしたちはそれとともに生きる術を、それを役立てる術を学ぶしかないのよ。”

もうへとへと。なんといっても登場人物300人! 巻末に登場人物事典なるものが付いているのだが、2人に1人は事典をひいてみないと、素性がわからぬありさま。毒書がリズムに乗ったのは半分ほど過ぎたあたりから。一応、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』の続編ということになっているが、ヴィクトリア女王と結婚したドラキュラ伯爵(現プリンス・コンソート)という破天荒な設定についていけるかが毒破のカギ。温血者(ウォーム)、不死者(アンデッド)、長生者(エルダー)と新生者(ニューボーン)、この新世界にもいろいろいろとランクが生じている点が面白い。主人公は血筋正しき美少女ヴァンパイア・ジュヌヴィエーヴと、女王陛下の諜報部員・ボウルガード(彼は温血者である)だが、切り裂きジャック事件と英国諜報部員もの、ありとあらゆる吸血鬼物語(小説以外に映画も)の登場人物、そして実在した政治家や作家が濶歩していることに注目。ジョナサン・ハーカーは転化した妻ミナに惨殺され、ヴァン・ヘルシング教授はさらし首(!)になっているし、ブラム・ストーカーは行方不明。ゴダルミング卿はヴァンパイア貴族。そして世間を騒がせている切り裂きジャックが誰なのか? マキャモンの『スティンガー』に登場したプリンス・コンラッド・ヴァルカンも近衛隊将校として復帰。新生者(ニューボーン)としてオスカー・ワイルドも登場するので、思わず『ドリアン・グレイの肖像』など読み返してみたくなる。シリーズで『ドラキュラ戦記』があるが、とてもすぐには毒破できそうにない。

2000/06/20-9783
血--吸血鬼にまつわる八つの物語-- 大原まり子 菊地秀行 小池真理子 佐藤亜紀 佐藤嗣麻子 篠田節子 手塚  眞 夢枕 貘 ハヤカワ文庫JA 2000年6月15日発行
毒毒度:1
“殺したら食べること。それが生きているものの贖い”(「13」大原まり子)

菊地秀行の吸血鬼物語を求めたのだが、カバーに傷みがあったため購入せず。代りといってはなんだが、最近出た国内吸血鬼ものアンソロジーである。純血種?の吸血鬼は少ない。吸血鬼に「まつわる」物語といわれるとおり、人間から何か血以外のものをも奪いとるという行為が物語の中心。初顔合わせの佐藤亜紀、佐藤嗣麻子、手塚眞とは、まあまあ相性がいいかも知れない。

2000/06/19-9784
林檎の礼拝堂 田窪恭治 集英社 1998年10月31日初版発行
 毒毒度:-3
“サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂は、誰もがいつかここを訪れた時、それぞれの心のなかにあるなつかしい世界と出会える、そんな場所”
“中から光を当てられた透明と磨りガラスだけの屋根の後陣に、中の木の梁の影がまるで十字架のように現れていた”

10年にわたる「田窪恭治 サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト」の記録がゴールデン・ウィークにテレビ放映された。本も出版されていることを知り、約1ヵ月後、やっと手にすることができた。新しい美術の表現方法を求めていた田窪はノルマンディーで、廃虚と化した礼拝堂と出会う。時は1987年12月。建物そのものの素朴な美しさ、素材の力強さ、窓を通して入る光の素晴らしさ。入口前に立つ樹齢500年を越える、いちいの大木。この礼拝堂を再生するために、田窪は妻と3人の息子を連れて、ファレーズ市始まって以来の日本人移住者となる。辞書を頼りの生活。資金作り、人間関係の形成、芸術的ではないが、ある意味でクリエイティヴな暮らし。プランは何度も練り直されていく。内部が外部と遮断されないよう、内部にいながらも光や風や樹木の揺れを感じるにはどうしたらよいだろうか。まず屋根にこだわる。古い瓦と、新しいガラス瓦を丹念に置く作業。透明なガラス、淡い色ガラスがタペストリのように織り込まれていく。1994年6月から屋根工事をはじめ、9月16日には一部を除きほぼ終了。支援者、村人、スタッフ総勢120人がパーティの後、陽もとっぷり暮れた礼拝堂へ向かう。礼拝堂の周囲は交通整理が必要なほどの混雑。空に満月。ライトアップされた瞬間、礼拝堂は両手を広げた聖母マリアのように月に向かって立ち上がっていった。この感動を糧として、作業は進められる。EUの関税の壁が立ち塞がったが、シラク大統領に免税措置を取ってもらい、内部壁画にとりかかる。白い壁をノミで削る、太く、細く、長く、短く、深く、浅く。すると何層にも塗った絵の具の色が顕われる。最終的に決定されたモチーフは林檎。ノルマンディーの優しい風に揺れる林檎の木々が描かれるのだ。

2000/06/19-9785
レンデル傑作集3
女ともだち
ルース・レンデル
酒匂真理子 他訳
角川文庫 1989年4月25日初版発行
 毒毒度:4
“今まで、生活らしい生活はしてこなかったのだから。生活は人を老け込ませる”
(「ダーク・ブルーの香り」風間英美子訳)

6/18父の日にちなんで(?)レンデル「父の日」が収録されている短編集を再読。心あたたまる話はひとつもないので要注意。毒があって刺があって後味が悪い。どう間違っても泣けない物語ばかりだ。人間関係の壊れ方は例えば国内作家でいうと森瑤子的とでもいえるだろうか。他者と時空を共有していて突然居心地が悪くなる瞬間の切り口。森瑤子作品でいうと、結婚指輪にこびりついた石鹸の名残りを見て、突然その男に嫌悪感を抱いてしまうというそんな感じ。レンデルをクリスティの後継者とは呼びたくない。緻密なプロットも大事だが、人間の内面こそがミステリィなのだという説に同意する。

2000/06/17-9786
聖母(マドンナ)の深き淵 柴田よしき 角川文庫 1998年3月25日初版発行
 毒毒度:3
“あたしの中にね、別の人の意志があるのよ。その意志はとても強くて、とても残酷で、総てを薙ぎ倒し、踏みつけ、乗り越えて進むの。あたしはその、憎しみに似た意志に引きずられて生きている。その人の遺した激しい感情が、今もあたしを捕らえて離さない”
“山内の頭の上から残ったジン・ライムを氷とライムの切れ端ごと注ぎながら、緑子は内心、せっかくのバーテンの仕事にケチをつけて気の毒したな、と考えていた。ジン・ライムなんて余りにももったいなさ過ぎる。自分が男なら、カウンターの上に乗って小便をかけてやるところだ”

夜は長い。遠くル・マンで眠らずに走り続ける男たちへ羨望の思い。
本日2冊目のRIKOシリーズ。未婚のまま一児の母となったRIKO、今は辰己署勤務だ。安藤明彦の妻は危篤状態だが、彼女が亡くなるときには安藤の心が連れ去られてしまうのではないかとの思いがある。自分は老いてどんどん醜くなる。安藤にとって子どもの母親でしかなくなるのは堪らない。そして今も、愛した麻里の感情がRIKOをとらえて離さない。
トランス・ジェンダーの女性から依頼された、失踪した親友の捜索。どうやら覚醒剤がらみらしい。廃工場からは主婦の惨殺死体が発見され、主婦売春の組織が浮かぶ。実は4年前に起きて未解決の乳児誘拐事件がすべての発端だった…。シリーズ第2作は、第3作にも登場する主要人物の輝かしい初舞台。伝説の元刑事・麻生龍太郎。美貌のインテリヤクザ、山内練。この一対には屈折した過去がある。山内は麻生が堕ちた地獄。しかも、RIKOは山内に犯されてしまう。彼女は愛する者を守りきれるのだろうか?闘いをはじめた以上、最後には勝たねばならない。

2000/06/17-9787
RIKO
--女神(ヴィーナス)の永遠--
柴田よしき 角川文庫 1997年10月25日初版発行
 毒毒度:2
“愛ならば対等。欲望なら平等。そうでないなら、それは欺瞞だ。
 あたしは今夜、あの人が欲しい”
“義久は拒絶しようと首を動かしたが、緑子が捕らえた唇の動きに麻痺させられたようになって、そのままそれを口に含んだ。緑子は唇でぴったりと義久の口を塞ぎ、義久が諦めて飲み込むまで、そのままじっとしていた”

真夜中過ぎにここを目ざして高速にのった途端、パソコンを積み忘れてきたことに気づいた。まあそれもよし。1日くらい離れて見るのも悪くない。そして今、夕暮れが近くなり、空が崩れ落ちてきた。キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』毒書中にもかかわらず、浮気の虫出現。先日読んだ『月神の浅き夢』のRIKOシリーズが気になってつい第1作から再読してしまう。本書は第15回横溝正史賞受賞作。選考委員の一人権田萬治は「あまりにも通俗的」と評したらしいが、高まる感情を隠さない描写には、不思議な力がある。事件の様相、主人公の性格と行動が生理的に合わないと感じるなら、読まないことだ。
主人公RIKOは新宿署の警部補。美少年輪姦ビデオの捜査をめぐり、本庁の人間たちと再会することになる。2年前不倫関係にあった安藤明彦。RIKOは精神を病んでいた彼の妻に刃物で襲われ負傷、所轄にとばされた。もうひとりは、RIKOを愛しながらも、彼女の昇進を安藤との不倫によって得たものと誤解したあげく、同僚と共にレイプした高須義久。心と体の傷を隠して、RIKOは今年下の巡査部長・鮎川慎二と交際している。慎二と肉体関係を持ちながらも、安らぎを得られるのは実は、バイセクシャルな麻里との生活。RIKOを淫乱と片付けることはできる。彼女は泣いている男に弱い(第3作でも、ゲイの元刑事=しかもRIKOの天敵と愛し合っている設定=と思わず寝てしまったりする)。一方で、自分を過去にレイプした相手・高須を再び体の中に受け入れながら、RIKOは思う。未来永劫、あたしの心はあなたを受け入れはしないと。高須への復讐は残酷だ。新宿の地下駐車場で、強引に迫った挙げ句、高須の体から搾りとったものを口うつしで本人に飲ませるのだから…。
捜査途中での慎二の死、ふってわいた同僚殺しの容疑、妊娠の発覚、痴漢の囮捜査の失敗と汚辱。事件に関わったと思われる少年の手紙は奇妙なことに歌詞だった。ヴィーナス・イン・ザ・カー、ヴィーナス・イン・ザ・フォース。彼女に名を訊ねられたら、もう逃れられない…。新宿という街に空から降ってきた翼のない天使の姿が明かされている。誰と生きるかよりも誰と死ぬかを選択するRIKO。明彦は彼女の死体を発見することになるのだろうか?

2000/06/14-9788
長谷川恒男 虚空の登攀者 佐瀬 稔 中公文庫 1998年5月18日発行
 毒毒度:2
“逃避が完璧に実行されたとき、あるいは命まで代償にする営為となったとき、それは逃避を超越して「生」そのものとなる。
“学校や職場で、これほど自分の力が信じられたことは生まれてこの方、なかった。あまりにも新鮮な体験であるがゆえに、ここで立ち止まったらすべてがうたかたと消えてしまうのではないか、と考える。”
“自分で石を遠くに投げ、それを拾いに走るようなものだ。ときにはそれが、向上よりむしろ、破滅への道程に近づくことがある。本来、人間が存在すべきではないところを往復する行為、ロッククライミング。”
“谷の裂け目、カリマバードの村の方から白い帯状の雲が上がってきて、目前のウルタルに巻きついていく。山に入って以来見たことのない形をした異様な雲。岩と氷と、そして落石と雪崩の飛び道具で武装した峻険の山に、巨大な竜がゆっくりゆっくりとからみつき、それを斧でスパッと削ったような周囲の岩山が黙然とみつめている”

文庫版が出た翌週、著者は亡くなっている。いちばんいい季節に旅立ってしまった。中公文庫はアルピニストに関する本が多い。先日読んだ山際淳司『山男の死に方』も『みんな山が大好きだった』と改題、この文庫におさめられている。その山際淳司の著作にはない痛ましさが、この本にはある。800万に至る昭和22年ベビーブーマーの中から、はいあがるということ、岩と氷に爪をたてて頭角を顕わすことの凄絶な生(せい)の記録。本当は人間が好きなのに、都会ではうまくつきあえない。自分の存在理由をみつけるために、つんのめるように山へ向かう。アルピニストの世界で中心をなしているのは、大学山学部OBによる山岳会。長谷川が山に向かう姿、より困難な目標を設定するという執拗な自己表現は、思い上がった若僧ととらえられることが多かった。エピソードを見る限り、エゴイスティックそのもの。強さと繊細さの同居。単独登攀者としての道。やがてエベレスト遠征隊に推薦されるが、頂上アタック隊員には選ばれなかった。このヒマラヤ・コンプレックスは最後まで長谷川の内にあったといわれる。ヨーロッパ三大北壁冬期単独登攀、南米アコンカグア南壁冬期単独登攀等、輝かしい記録を残しながらも、自分を完璧に表現したという満足感は抱いていない。どこか一つでもヒマラヤの頂に立っていたら、ヒマラヤの「サミッター(登頂者)」となっていたら、ウルタルで死を迎えることはなかったかもしれない。しかし、このウルタルまでが長谷川の生涯なのだ。崇拝者や身内による記録では、あるがままの長谷川を綴ることはできなかっただろう、と長谷川の妻は語っている。

2000/06/12-9789
月神(ダイアナ)の浅き夢 柴田よしき 角川文庫 2000年5月25日初版発行
 毒毒度:3
“おまえには犬の本能がある。事件の真実を知らなければ気が済まない。俺や安藤さんの過去の失態を暴き出しても、本ボシに辿り着かなければいられなし、それがおまえなんだ。緑子、向かい合って見ろよ……自分と向かい合え。鏡に向かって訊いてみるんだ。本当に辞めたいのかどうか”
“あたし……誰かとセックスするの好きなんだと思う。きっと。言葉よりも…欲しいと思う刹那のその人の目の方が、信じられる気がする”

日帰りで非日常(飛行機、関西、戸外でのスポーツ観戦)へと旅立ち、肉体的にはへとへとなのだが、スッキリした頭で毒書がすすむ。サイコ・ホラー、性愛小説、警察小説? 主人公は村上緑子(りこ)、上司との不倫、同僚によるレイプ、同性愛、未婚の母…凄まじいともいえる過去を持つ女性刑事。今は元不倫の相手・安藤明彦と正式な結婚に至ろうとしている。二人の間の子供、達彦は可愛い盛り。緑子は今、独身男性警察官ばかりを狙った猟奇殺人事件の捜査にかりだされつつ、このまま刑事を続けるか悩んでいる。母である幸福、妻となる幸福。一方で生来の狩人の本能が目覚めるときこそ、緑子の魅力が輝くことは、夫である安藤にも、元同僚・高須にもわかっているのだ。
会話に出てくるどんな人物であれ、何らか重要な役どころとなり、美しくも残酷なタペストリを織り成していることに注目。このRICOシリーズを和製エルロイとでも呼びたくなることがある。しかも、第3作で緑子は和製女ホプキンスであることがわかった。そして、美貌のインテリ極道・山内錬(れん)とのからみが『ハンニバル』を思わせるラスト…。

2000/06/08-9790
夜が終わる場所 グレイグ・ホールデン
近藤純夫 訳
扶桑社ミステリー文庫 2000年3月20日第1刷
 毒毒度:3
“思うに、人はみな人生の出来事を繰り返し再演し、その瞬間瞬間が過去と呼応して、過去を真似る。そうした時間や月日の積み重ねは、自分が気づかないうちに作りあげた型と共鳴しあっているのだ”
“子どもが消えて、戻ってこないという新たな現実に対処しなければならなかったということだ。生きながらの死”
“おれは知っていた。思い出したのではなかった。そんな単純なことではなかった。おれはずっと覚えていたのだ。そのイメージは27年間、頭のなかにあって、理解されるのではなく、名づけられるのを待っていたのだった。”

瞠目。これは、洗練されたエルロイなのか。小さな水源から生まれた流れは支流を作り、やがては一本の大河となり、海が見えはじめる。いつもヒーローになりえた男。この男のことが好きになりかけたとき、隠されていた真実が明らかになる。いじめられっ子だった「おれ」マックスと、子供の頃からタフだったバンクの出会い、29年の歳月。「おれ」がバンクの影響でロースクールを中退し警察官の道を歩み始めた頃の思い出。バンクの凛々しい制服姿。壊れてしまった二つの結婚。バンクの養女誘拐事件(過去)と奇妙に符合する、新たな少女誘拐事件(現在)。映画《タクシードライバー》を思い出させるクライマックス。現在の事件の捜査、過去の事件の捜査、そして事件として明るみにでなかった過去の出来事が語られる。自分の行動がひき起こした、つまり「おれ」がしなかったことに端を発するすべてのこと。輝ける少年の日々に知らなかった夜のこと。夜を知ってから最終コーナーを曲がって見えはじめた光りの尊さ、懐かしさ。「おれ」はいま、海が見えはじめた場所から、川の流れを水源めがけてたどりゆく。ひとつひとつの支流に名前をつけながら。

2000/06/05-9791
ティータイムのその前に 磯淵 猛 ちくま文庫 1998年4月23日第1刷発行
 毒毒度:-1
“あなたはわたしにおいしい紅茶ってどんなものか教えてくれた。それはけっして技術や演出ではなく、「ママ・オヤータ・アーダレイ」という気持ちが込めれれた、それが一番だということ。”

スリランカ、インド紅茶の輸入業、紅茶専門店ディンブラ店主によるおいしい紅茶の話。技術的なことももちろん書いてあるが、紅茶好きなら、気持ちが優しくなれるだろう。一番おいしい紅茶とは、高価な茶葉を使ったものではなく、シンハリ語でアイ・ラブ・ユーの気持ちが込められた紅茶。そして茶葉の鮮度が命。高価なブレンドものではなく、フレッシュな果物を使ったフルーツ・ティー、手鍋で入れたミルク・ティーにそそられる。すきとおったアイス・ティーの入れ方、ガムシロップならぬシュガー・シロップのレシピなど秘伝も。

2000/06/04-9792
東京在住猫
太田威重写真集
太田 威重 発行トレヴィル 発売リブロポート 1995年10月25日初版発行
 毒毒度:-2
“夕方になると、色々な店の前に猫のお客さんが待っていることがある。私はそんな光景が好きだ。そこは、猫にとって優しい店に違いないから。そして、私もつい買物をしてしまう。”

実家の書棚は、もともと階段で、改造してからは行き止まりになっている。以前、友人が猫の「ちびまる」くんを連れて遊びに来た。行き止まりでさかんに鳴いていると思ったら、雑誌をサーフボードにして、一番上から落ちてきた…。書店に行けない場合は、ここで見繕う。時々、立ち読み状態になることがある。本書も結局立ち読みしてしまった。大トリで登場する、歌舞伎座前の食料品店の看板猫「コロちゃん」の姿は最近ではもう見られないようだ。看板猫といえば以前新橋で、猫のホステスに店(居酒屋だったが)の前でキャッチされたことはある(笑)。

2000/06/03-9793
空が見ていた 山際 淳司 角川文庫 1985年6月10日初版発行
再再再 毒毒度:2
“「そのときの感触でわかるんです」
 高橋卓巳はいうのだ。
 「まるで自分が自分でないように、ポーンと放り出される。体が浮いていく。その感じは体が知っているんです。あとは何もしなくても跳べるだろうと思えるんです」” (空に近づくために)

情にさおさせば流される。泊まり仕事のあげく自爆。要軌道修正。書店に行けないので、たまたま持っていた山際本を再再再読。1982年からの4年間にNumber、週ベ他各誌掲載、その後加筆修正。第一部は2 輪モータースポーツ、棒高跳び、柔道、アメリカンフットボール、スキージャンプ、テニス。第二部はベースボールが題材。リズムがあって、内容的にも充実している。

2000/06/01-9794
スーパースター 海老沢 泰久 文春文庫 1986年4月25日第1刷
 毒毒度:2
“それは、きみ、彼はスーパースターなんだよ。誰も彼にやめろなんてことはいえない”(スーパースター)
“ただおれがボールを投げると誰もまともに打ち返すことができなかったから、面白がって野球をやってきたのだ。それだけのことだった。ほかには何もなかった。野球を愛していたことなんか一度もなかった。しかし、いまは愛していた。おれは涙が出そうだった。汗と一緒に、もう流れているかもしれなかった”
“おれは野球以外に何もできない”(もっとも愛するもの)

偶然にも「スーパースター」のモデル、某球団のイメージキャラクターN監督は健在である。この作品に描かれるまま、人間関係の機微に無頓着でチーム全体の掌握能力を全く欠いている。それでも彼は相変わらずスーパースターなのだ。著者は名作『監督』(1978年のスワローズ初優勝時監督・広岡達朗がモデル)でデビューし、直木賞候補作家となった。『F2グランプリ』というフィクションも候補となったが、こちらの方は子供のころからAUTO SPORT(専門誌オートスポーツ)を熟読していた私にとっては現実の模倣、冗漫という印象しかない。適正な評価かどうか、近々再読してみよう。第111回直木賞作品『帰郷』は未読。最近では(といっても5年もたつ)井上陽水の物語『満月 空に満月』が印象的だった。陽水の生き方に淡々とした文体が妙にしっくりきていたのだ。
『スーパースター』はデビュー後約4年の間に各誌掲載の短編7作を集めたもの。よく言われるところの明晰さいうのを超えた冷徹さすら感じさせる文体で、スポーツをとりまく人々の弱い部分が強調されている。同様の題材でなぜ赤瀬川隼作品のように大泣きに入れないかは、読む度に不思議であるが、これが持ち味なのだろう。それでも「もっとも愛するもの」でのゲームのシーン、妻を誘拐されて八百長を指示されたピッチャーの心理描写にはどうしてなかなかぐっとくるものがある。

2000/06/01-9795
遭難ドキュメント
山男たちの死に方
雪煙の彼方に何があるか
山際 淳司 ワニ文庫 1984年4月15日初版発行
 毒毒度:1
“もう一つの世界に向けて走ることは、あらゆる人間に可能である。芸術家は常にそれをしているし、スポーツマンのなかにも《自由》を追い求めている人はいる。ビジネスの世界においても、不可能ではない。意識を眠らせないことだ。常にパワフルに、己れをチューン・アップしておくことだ。慣例とやらに縛られないことだ。つまり、クリエイティブでありつづけることが肝心なのだ”
“人間には、その本性として失う危険のあるものを愛してしまう傾向がある”
“山に登るということは、死ぬということをもルールのなかに含めた凄絶なゲームなのである”

山男たちの死に方を書くことによって、われわれには日常の生き方を教えてくれたはずの本。KKベストセラーズから出たのが1983年、冒険家・植村直巳の遭難直後のこと。17年たった現在では、老朽化した地下鉄が惨事を起こすし、ビルの屋上からは歩行者めがけて自殺者が降ってくる。17歳の殺人者が何人も出現している。この本が書かれたときほど死ににくい時代ではなくなってしまった。日常的に、他者から死をもたらされることがあり得る、これほど不幸なことはない。
後半に紹介されるアラインゲンガー(単独登攀者)。孤独を愛し、自らの心の深淵を覗き込むために単独で次々と登攀し、最期には独りで死んで行くはずだった者…しかし中には皮肉なことに死が彼をとらえたのは彼がたまたまパートナーと組んだときいう例もある。山に死んだアルピニストたちの言葉だけが残される。何人ものアルピニストたちの死と彼らが遺した言葉が手際良くまとめられているが、アルピニストたちの魂に触れるためには、その言葉に、独りひとりの読者が直に触れることが今は重要なのかもしれない。参考文献としてあげられた本の中から何冊かは、今後手にとることになるだろう。

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