●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-07

2000/07/31-9753
ふりむけば猫 井上洋介 架空社
小さな絵本美術館
1994年10月発行
毒毒度:-2
その美術館は諏訪湖のほとりに在る。場所は一言では説明できない。何年か前の4月のある日、桃見を兼ねてでかけた。小道をはさんで2棟に分かれている。気持ちのよい採光の部屋には小さなキッチンがあって、焼き立てのスコーンと紅茶を愉しんだ。絵本は非売品もあるけれど、もちろん気に入った本を買うことができる。鈴木コージの特大絵本の迫力に圧倒された私は小さな版画の絵本を買った。猫町にあるいろいろなお店やさんの前に佇む猫たちが愛らしい。さかなや、食堂、たばこや、時計や…はあるけれど、はくせいやってのは今ほとんど見当たらない。かさや、えさや、せんべいや、ふとんや…ひとつのまちに一軒はあるかも。たたみや、ふでや、たまごや…見ないよな。めたてや…そもそもなんだかわからなかったりして(ちなみにのこぎりなんか研いでくれるらしい)。というわけで、しばし、なごむ。

2000/07/29-9754
まどろみ消去 森 博嗣 講談社文庫 2000年7月15日第1刷発行
毒毒度:1
“眠っているときだけは、自分の時間だと思いましたわ。夢を見て、そして忘れて…。目覚めると、また仕事です。毎日、眠って夢を見るために働いているようでした” (虚空の黙祷者)

さて目覚めるとまた仕事。結構今回はへとへとである。こういう時には汗をかかない文章に限る? 犀川&西之園のシリーズに、特に思い入れはないにしても、出れば買う文庫、森博嗣の短編集。犀川&西之園シリーズの登場人物が出演する作品も2作収録している。相変わらず《綺麗》攻撃は受けたが、まあ、短編なので許す。著者と奥様のなれそめとしか思えない「やさしい恋人へ僕から」の文体には庄司薫なんか思い出してしまった。でも一応オチがある。解説は、著者憧れの萩尾望都。天にも昇る気持ちなのだろう、きっと。

2000/07/27-9755
真紅の呪縛 トム・ホランド
松下洋子 訳
ハヤカワ文庫NV 1997年9月30日発行
毒毒度:2
“目の前にいるのが誰か、疑いはなかった。黒い巻き毛が、この世のものとは思えぬ肌の青白さをくっきり引き立てている。顔の造作は繊細で、氷の彫刻を思わせた。雪花石膏(アラバスター)のような肌には色も暖かみもまったく見えないが、それでいて、顔はなにか内に燃える炎に照らされているようだ。”
“「わたしはあなたに知識を与える」彼は言った。「知識と永遠を。それがわたしの呪いだ」”
“私は揺りかごに近づいた。娘はやはり火の後光に囲まれているように思えた。わたしは屈み込んだ。その瞬間、すべての感情、感覚、思考は溶け去り、そこには歓喜がきらめくもやとなって立ち昇ってくるばかりだった。子供の血の豊かな味が、彗星の尾のように黄金をまき散らしながら、わたしの唇まで上がってくるようだった。”

ルースヴェン家の血を受け継ぐレベッカ。彼女は、バイロンの回想録を求めて、フェアファックス・ストリート13番地にある礼拝堂へと足を踏み入れる。そこで見たものは美しい姿のままのバイロンその人。ミソロンギで変わり果てた姿で死んだのではなかったか? さらに傍らの柩からはミイラのような女性の姿があらわれる。誰なのか? ギリシアへの旅、燃えるような恋、自らの不死の真相をバイロンは語りはじめるが、それはレベッカ自身の生死にかかわる重大な秘密でもあった…。
アン・ライスばりの華麗さと、キム・ニューマンばりの躍動感溢れる筆致で読ませる、シリーズ第1作。内容はインタビュー・ウィズ・バイロン! 美しいものはあくまで美しく、醜いものはとことん醜く(ポリドリがいい例だ)描かれている点もわかりやすい。ちなみに原題は『The Vampyre』のみ。邦題の付け方はかなりアン・ライスのシリーズを意識してのものと受け取られる。

2000/07/25-9756
ゲイルズバーグの春を愛す ジャック・フィニイ
福島正実 訳
ハヤカワ文庫FT 1980年11月30日発行
毒毒度:2あるいは-2
“ゲイルズバーグの過去が現在を撃退しているのである。街が私たちに抵抗しているのだ。なぜなら、過去というものは、そんなにやすやすと消滅しはしないものだからで、昨日の新聞とともに簡単に消えてしまうものではないからだ”(ゲイルズバーグの春を愛す)
“そしてそれは幸福な家だった--それ自身の魂と生命をもつ、きわめてまれな、すばらしい家の一つであり、人が住んでいることを意識していて、良い印象を与えようと全力を尽くしているといった種類の家であり、計画をたて、建築して、そこに住み、それに生命をふきこんだ、今ははや逝き、忘れ去られた人びとの喜怒哀楽と愛情から生まれた家なのだ” (クルーエット夫妻の家)

古き佳き時代の街の記憶が現在を撃退する表題作から、古道具屋で買った机の隠し抽斗を使い、80年前の女性と恋文のやりとりをする「愛の手紙」まで、10編の短編集。この街のどこかに、過去へ向かう入口がある。その時代のコインさえあれば実に都合よく二つの人生を生きられる男(コイン・コレクション)、犯罪者を過去へ逃がし続ける若き教授(時に境界なし)、作品を遺せなかった小説家の幽霊(おい、こっちを向け)など、犯罪がからんでも幽霊が出ても、幸せでいられる不思議。

2000/07/23-9757
恋は底ぢから 中島らも 集英社文庫 1992年7月25日第1刷
毒毒度:3
“もし誰をも愛していないとしたら、結局僕は「いない」のだ。闇の中で、「想い」だけが僕の姿を照らしてくれているような気がする。それ以外のときは僕は一個の闇であり、一個の不在でしかない”(恋づかれ)
“路地裏はやさしい。そのやさしい闇のどこかに、あの娘の住んでいる部屋が、ひっそりと抱きすくめられているような気がする。行き順はいまだによくわからないけれど…”(街の通りにしゃがみ込んで)
“キライだから商売になるのだ。きらってきらってきらい抜くから相手の性格や相貌が見えてくる。のぼせあがって、広告コピーを自己表現と勘ちがいしたりするのはプロのやることではない”(俺は広告が大っきらいだ)

ごめんな。僕の鎖骨は折れたままなので、抱きしめてあげることはできないんだよ。
「その日の天使」という項を読んで思い浮かんだフレーズである。どうかすると魂に触れてくる本だ。筋金入りのアウトサイダー。社会の中で、一応仕事したりお金かせいだりしているけれども、心はそこにあらず。人が好きで仕方ないにもかかわらず、あえて身をおく孤独。ホラーもホラ話も書いて、なぜかSFマガジンのブック・レビューに『バンド・オブ・ザ・ナイト』が載っている中島らも。今気になっているクリエーターである。
広告といえば、D通の社員がクライアントをコケにして懲戒解雇というニュース。大犯罪である。架空のCFで何億もガメた、しかも何年も発覚しなかったというのだ。確かに広告業界は、いかに上手くダマすか、気持ちよくダマされるかの世界である。私もはしの方にいて、なんだかんだ詐欺の片棒かついでいることになるかもしれない。しかしそれなりに、みんな汗して涙しているんだぞ。膨大な負け戦、だまし討ちの類いを乗り越えて、這い上がってきているのだ。むろん、お前は甘いといわれればそれまでだ。だからこの話はここで止めておく。せっかくの酒が不味くなった、ごめんな。

2000/07/22-9758
玩具修理者 小林泰三 角川ホラー文庫 1999年4月10日初版発行
毒毒度:4
“生きているのは明らかだったわ。玩具修理者はワープロの組み立てをしているところだった。畳の上を見るとワープロやマシンガンの部品に混ざって、内臓や、血管や、筋繊維や、脳の一部が残っていたわ。それが道雄のものか猫のものかは区別がつかなかったけど。玩具修理者はワープロにそれらの生体組織だったものを電子部品と一緒に組み込んでいたわ”
“生物と無生物なんて区別はないのよ。機械をどんどん精密に複雑にしていけばやがては生物に行きつくの。その間になんの境界もないわ”(「玩具修理者」)
“時間の流れは意識の流れだ。意識の流れをコントロールすれば、時間の流れもコントロールできる”
“事実、あれが人間の声だったはずはありません。それは聞くだけで、血が逆流し、息ができなくなり、爪で自分の顔の皮膚をはがしたくなるような音でした”(酔歩する男)

誰かが電話だと呼んでいる。起きなければいけない、起きなければ。しかし、起きようとすると、右肩先にはり付いているものが阻んでくるのがわかった。私の右肩を金属の触手がとらえている。鈎爪の先が覗いている。金属は私の肉体に埋め込まれていて、そいつは途方もなく強い力で、私を寝台へ引き戻した。
鎖骨を折って術後はじめての朝。右肩先のエイリアン…そいつとはそれから2週間ほど折り合っていかなければならなかった。あの違和感を、読後、思い出している。新手の『ペットセメタリー』かと思ったのだが、さらに状況は悪い。人間の身体と機械部品の合体…それが死せる者を呼び戻す。そもそも生物とはなんなのだ。シュレディンガーの猫も出て、やがて私は時間の罠にはまる。その先は死よりもさらに悪い。
第2回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作品。ラブクラフト名詞がちりばめられる他、手児奈という美女が登場することに注目した。解説では触れられていないが、千葉県は市川真間に手児奈霊堂がある。村の青年達に求愛されひとり悩んだ手児奈という女性が、真間の淵に身を投げたと伝えられている。手児奈の例もあるように伝承、幻想文学の古典、近代科学と哲学…ありとあらゆるもののがいったん分解され、新しい恐怖の形が組み上げられている。

2000/07/20-9759
愛をひっかけるための釘 中島らも 集英社文庫 1995年7月25日第1刷
毒毒度:3
“安定した永劫の「無」の中にあってはほんの一瞬の、おそらくは何かの手ちがいによって引き起こされた「有」の出現であろう。いわば、「不可能」と「不可能」との稀有な出会いが恋というものなのだ。”
“無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ”
“いいことのあった日に、一番好きな人と一緒に飲む。それ以外はお断りする。そうして少しだけ心ほころびるように飲む酒は、とても「うまい」。甘露の味がする”

新聞の連載で「明るい悩み相談室」というのをやっていて、毎回笑わかしてくれたものだが、恐怖を書かせても一流で、今回は花鳥風月とな。早い話がこの人は天才なのである。「人に出会いますと、それだけ哀しみが増しますから」と、こともあろうに山岸涼子ではじまるエッセイ集。なんとリリカルであることか。熱い感情をひた隠しにして、敢えて孤独を選ぶ人生。ぐっと魂をつかんでくる。5トン酒飲んでアル中と肝炎併発して、今では佳き日に、本当に好きなひととだけ「うまい」酒を飲んでいるらしい。ここ数ヵ月常に問いかけられている「人生は生きるに値するか」については、やはり、イエス。

2000/07/19-9760
七百年の薔薇(下) ルイス・ガネット
山田順子 訳
ハヤカワ文庫NV 1999年8月31日発行
毒毒度:1
“薔薇はこのシステムの一部であり、しかも、明らかに飢えている。全部でひとつの巨大な飢えたマシン。トランスは気づいた。だから怯えた。わたしはそれを感知し、わたしもまた怯えた。あの行方不明の若者たち。彼らが喰われたとすれば、彼らもまた感知したにちがいない。”
“彼は飢えている。彼は飽くことを知らない。七百年も生きていれば、そうなるのかもしれない。飢えが生命を支配し、なおかつ不死の身であれば、飢えがつのるばかりなのかもしれない。不道徳が飢えを生じせしめる。不道徳が無秩序な食欲を生じせしめる”

超能力者マルコムは飢えている。一族の秘密に近づきつつあるデュエインも、超能力者。そしてまた、トランスの子を身籠ったシーラも、自分ではそうと気づかない超能力者なのだ。スプーア一族の秘密。はるかな昔、トルコのスルタンとの狂恋が生んだ呪いとは…。薔薇と犬は一体どんな役割をになうのか。一体誰が「生きて在る者」となり得るのだろうか。登場人物は多くない。精神的な吸血鬼ものともいえる。全編、個人個人の日記や、口述カセットなどで編集されている点は、どうやら『吸血鬼ドラキュラ』を意識したものらしい。

2000/07/17-9761
七百年の薔薇(上) ルイス・ガネット
山田順子 訳
ハヤカワ文庫NV 1999年8月31日発行
毒毒度:1
“その薔薇の微妙に重なりあった花びらの中に全宇宙が閉じ込められているようだった”
“犬どもが動転している。薔薇たちが憤っている。いや、グリズリーたちよ、むしろ薔薇たちは不安がっているのだと思う。ふん、かまうものか! どうでもいい。私は飲んでいる。ウーゾ・エクストラ・フィーノを飲んでいる。まじりけなしの毒を消すために。明日という日に立ち向かうために。”

トランスという少年。何年も離れて暮らしていた父マルコムから手紙が来る。この家の男子は代々50歳までしか生きられないのだという。遠い昔、十字軍の時代に遡る忌まわしい出来事の呪いなのか。手紙にはじまり、日記、メモで成り立つゴシック・スリラーだ。薔薇という単語に魅かれて購入したが、作品自体は風変わりではあってもそれ以上ではない。サイキックにはあまり馴染みがないせいか。
作者の方がミステリアス。ハーヴァード大とマサチューセッツ工科大を出た後ドロップアウト、ウェイターをしながらこのデビュー作を書き上げたとのこと。

2000/07/16-9762
人体模型の夜 中島らも 集英社文庫 1995年11月25日第1刷
毒毒度:3
“石が動かず、虫の動くことは自然にして驚天のカラクリではあるが、もはや私は驚きに飽きた。いまは、動かぬ石の語るを聞きたい”(プロローグ)
“古今東西、時間軸を検証しても空間軸を踏査しても、そこに人間がいる限り楽園は顕現しない。なぜなら「楽園」とは、その存在を夢想した人間が、おのれの棲息範囲であるこの糞溜め=現実を裏返してみただけの反世界であるからだ”(セルフィネの血)
“孤独は清潔ですがすがしい。孤独は誰をも傷つけない。孤独は答えを要求しない。たくさんの人間との関係の中で感じる淋しさに比べれば、孤独はなんと暖かいことだろう”(はなびえ)

クーンツの口なおしである。タナトスに魅入られた人は優れたホラーを書くという期待通り。首屋敷に忍び込んだ少年が地下室で見た奇妙な人体模型…というプロローグに誘われて、眼や鼻、耳など人体の一部にまつわる戦慄の短編集。夜中だけの自転車専用道路を時速200キロで走り抜ける自転車「健脚行-- 43号線の怪」は、なんだか実際にありそうな怪談。地元の伝承ではないかと思うのだが如何。一方でアンリ・トロワイヤ「自転車の怪」を思い起こしてしまった。相似ではなくただ単に、自転車という乗り物があまりにもホラーになりにくい存在であるからにすぎないが。

2000/07/15-9763
デモン・シード[完全版] ディーン・クーンツ
公手成幸 訳
創元SF文庫 2000年7月14日初版
毒毒度:0
“わたしは彼女にまったくなんの害意もいだいていなかった。彼女に危害をくわえるつもりはなかった。そのときも、それからも、彼女に危害をくわえるつもりはなかった。これは真実だ。わたしは真実を尊ぶ。彼女に危害を加えるつもりはなかった”

ある日、自分の旧作を読んでたじたじとなったクーンツが、旧作のプロットだけを生かし、読者のためではなく自分のために書いた新作。人工知能と名乗っているストーカーの物語とでもいおうか。残念ながらオリジナルは絶版である。完全版と宣言されているものを読んで、作者にとっては不完全なその旧作に無性に会いたくなってしまった。もしかしてこの新作を映画化してミラ・ソルヴィーノに主演してもらいたいとクーンツは本気で思っているのではないだろうか。困ったものだ。

2000/07/14-9764
僕が踏んだ町と僕が踏まれた町 中島らも 集英社文庫 1997年8月25日第1刷
毒毒度:2
“僕たちのかなり悲惨な二十代と暗欝な七十年代がそのときすぐそばまで来ていたのだ。「♪夜明けは近い」というのは大嘘だった”
“僕は土地柄がどうだから楽園だなんて話は信じない。そこに好きな人たちがいるところ、守るべき人がいてくれるところ、戦う相手のいるところ。それが楽園なのだ”
“こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける”

Because the Night. …だが、その夜が果して存在するのか? 泣いたり笑ったり、せつなかったり。 若さを保つ秘訣は過去の愚行を繰り返すに限るという。とりあえず他人の恥ずかしい過去を読んだりすることはできるので、グイン・サーガ73巻のクライマックスに涙した5分後には、中島らもで笑いをこらえている。半端じゃないことが天才の条件かもしれない。私も愚かなことは数々したが、どうも中途半端でいけない。

2000/07/14-9765
地上最大の魔道師
グイン・サーガ第73巻
栗本 薫 ハヤカワ文庫JA 2000年7月15日発行
毒毒度:1
“人間だけが人間の弱点を知ることができる--わしが、ヤンダルを破ることができるのではないかと期待してるとしたらそこのところさ”
“ともかくかの麗人を生き長らえさせることだよ。最初はあの姫ときたら、いつなんどき思いもかけぬときにふっといのちをおえてしまうかと何をしていてもはらはらしたよ--とにかくあの者には、自殺願望があるからな! だがいまは少し違ってきたようだ。誰の手柄なのか知らんがな。だから、もしかしたら運命はかわるかもしれん”
“「こののちは、年も経験も遠く及びませぬながら、父リュイスにかわり、僕がアル・ジェニウスにお仕え申し上げます」そして少年は小さな剣をぬくと、それをくるりとまわして、懸命に剣の誓いをおこなった”

竜人と化したパロ聖騎士団が、美しいクリスタルを民衆の血で染める。ヴェレリウスをも究極の恐怖におとしめた暗黒の秘儀《魂返しの術》をいともたやすく使いこなすキタイのヤンダル・ゾックの正体は? ランズベール城にたてこもるアルド・ナリスの枕辺にも怪しい者の気配。一方、囚われのヴァレリウスの元にはなんと妖魔ユリウスが姿をあらわし、意外にも<闇の司祭>グラチウスが魔道師同盟の連合を申し出るのだ。その背景には《大導師》アグリッパがヤンダル・ゾックにくみしたという重大情報があった。ランズベール城を脱出するナリスだが、新たな罠が…。
どうしたグラチー、ヴァレリウスを助けるなんざーどーゆー風の吹き回しかい? 世界で一番食えない奴ヴァレリウスとユリウス、グラチウスのやりとりは結構笑わせてくれる。一転、城と共に最期を遂げたランズベール候リュイスの忘れ形見キースがナリスに剣の誓いをする場面には泣かされたりもする。ナリスの自殺願望は強烈な生への願望にとってかわった。100巻では決着つくまい。いよいよ栗本薫、200冊宣言!?

2000/07/13-9766
ラインダンス 井上陽水 新潮文庫 1982年12月25日発行
 毒毒度:2
“ああ、陽水さんがうらやましい。彼の若さが、誠実さが、烈しさが、優しさが、私を嫉妬に駆りたたせる”(色川武大「前座で一言」)
“二作目という事で いろんな事に慣れて 僕もスタッフのみんなも ほんのちょっぴり笑顔があった。
 でも相変らず僕は 曲を作る時は一人で 狭い部屋に居た 狭い部屋は僕にとって 宝石箱だった”(センチメンタル)
“今度はアメリカ 当地でしどろもどろの 英語を使う感激も ロンドンほどではなかった。
僕はひどく落胆し 曲も作らず毎日泣いていたので やはりレコーディング直前まで ホテルの一室に居た”(二色の独楽)
“まず、メロディができあがるでしょう。次に辞書を見るんです。このメロディに、いちばんピッタリする単語はないだろうかって。そうやって、だんだんつながるコトバを、さがしていくんですよ”
“歌っていうのは、最初は一人の恋人相手に歌う場合が多くて、それが二、三人に増えたりして、最終的には何千人、何万人の前で歌うことになる。これは最高にはまちがいないんですけれど、そんな感動をずっと続けていると、ある時、感動しなくなる。だから、最高のすぐ先は最悪という訳で本当は、自分一人でやって、いいなあというのが原点なんですが”

そうそう、これこれ。沢木耕太郎『バーボン・ストリート』収録のエッセイ「わからない」は、この本に寄稿されていたのだった。「前座で一言」という色川武大の文章にも、かぎりなく陽水らしさが出ている気がする。1982年当時の最新アルバム「ライオンとペリカン」までの全詩と、エッセイ、写真、インタビューが収められたもの。売れなかった時代、フォークブームでの浮上、ニューミュージックのスーパースターと呼ばれる時代、戸惑いながら歩いてゆく陽水が浮かび上がる。退屈とテレビと麻雀好き。
まず、詩が好きだった。メロディラインの美しさが好きだった。マイナーなコード展開が好きだった。キーが合うのでよく歌った。でも、当り前のことだが自分は陽水ではなかった。私の歌えない歌ばかりだった「二色の独楽」。立ち止まって陽水を見送った。あるいは、私が凄まじい勢いで走り出したのか。実に「9.5カラット」まで、アルバムを買わずに過ごす。大晦日、陽水は紅白歌合戦に出演する。丁度鎖骨の折れていた私は、こたつでテレビを見ていた。邂逅。マイ・ラストソングは「つめたい部屋の世界地図」か「枕詞」と思っている。

はるかなはるかな見知らぬ国へ
ひとりでゆくときは船の旅がいい
波間にゆられてきらめく海へ
誰かに似てるのは空の迷い雲
潮風に吹かれ 何も考えず 遠くを見るだけ

やさしさがこわれた 
海の色はたとえようもなくて悲しい
(「つめたい部屋の世界地図」)

浅き夢 淡き恋 遠き道 青き空
今日をかけめぐるも 立ち止まるも
青き、青き空の下の出来事
浅き夢 淡き恋 遠き道 青き空 
(「枕詞」)

2000/07/12-9767
ワールドミステリーツアー13
Vol.10 アメリカ篇
筆者/菊地秀行 他
企画・編集/三津田信三
発行/同朋舎
発売/角川書店
1999年11月10日第1刷発行
毒毒度:2
好事家たちによるミステリアスな紀行シリーズ。例をあげると《ロンドン篇》では仁賀克雄が切り裂きジャックの犯行現場を訪ねているし、《イアリア篇》にはわが憧れの地ボマルツォの紀行もある。フィレンツェ連続殺人を追う島村菜津が、公判で『羊たちの沈黙』の著者トマス・ハリスを目撃しているのも《イアリア篇》だ。その後ハリスが『ハンニバル』を著わしたのは周知の通り、しかもフィレンツェの事件を巧みに盛り込んで…。
カバー写真は憧れのサイモン・マースデン。実は、わがカルパチアの城の扉絵はちょっと狙っている。最も城の背景写真は霧ケ峰高原なのだが…。
さて《アメリカ篇》は、菊地秀行のラブクラフト紀行にはじまり、なぜか水野晴郎のポリス談義(確かに専門家ではあるがテーマは全然ミステリアスとは思えない)、実在の殺人鬼巡り、キングの故郷探訪(キング専門家、風間賢二による)、ハリウッドのホラー話などなど。アメリカ南部に幽霊話が似合うにしても(例えばルイジアナ…森と湖とワニ。バイユー地帯。スパニッシュ・モスの垂れ下がったプランテーションの建物)、どうも実在の殺人鬼の印象が強い。幽霊より人間の仕業の方がコワイという結論に達してしまう。来週はラブクラフト週間にしようか?

2000/07/11-9768
忍者からす 柴田錬三郎 新潮文庫 1997年12月1日発行
 毒毒度:2
“滅び行く者は、その生い立ちに於て、すでに、非運を背負うていなければならなかった”
“熊野権現は、人間を恐怖させたり、歓喜させたりする神技を発揮するために出現した神である”

柴田錬三郎といえば『眠狂四郎』シリーズ。一番好きなのは、風魔一族が登場する独歩行(上下巻)である。敵役が魅力的で、妖しさにかけては一番の作品。忍びの者というのは、公式記録に残らぬことになっており、想像力が秀でた者にはいかようにでも力を発揮できるのではないか。
さて、主人公「鴉」は熊野を護る忍者軍団、神鴉党の者。南北朝時代から江戸にかけて実に500年近くにもわたる代々の「鴉」の物語だ。初代「鴉」は、美女の誉れ高き於兔(おと)と天竺から渡来した船造師との間に生まれた男子。闇と見まごう黒い皮膚と、嘴を思わせるような鋭い口元を持つ異形。テンポよく、歴史上の意外な人物がさまざまにかかわり、美童、美女、美男が華やかに登場し、適度にやーらしく展開する。一休禅師、塚原卜伝、由比正雪も鴉ゆかりの人物なのだから、凄い小説である。

2000/07/10-9769
バーボン・ストリート 沢木耕太郎 新潮文庫 1989年5月25日発行
 毒毒度:1
“大事なことは風景が見えてきたらどうするかだ”
“確かにスピードをゆるめると、周囲のすべてが美しく、なつかしく見えることがある。耳元を通り過ぎる風の音が聞こえ、色までが見えてくる。しかし、その色を見ることは走ることにとっても決して無駄ではないはずなのだ。問題は、ひとたび風を見た人が、どうしたら再び走れるようになるかということなのだ”
“《私は突然走れることが、このうえなく幸運に思えてきた》”
“彼はひとりで走りはじめ、ひとりで勝ち、ひとりで敗れ、ひとりでスランプに陥り、ひとりでそれを乗り切ってきた。だからこそ、自信をもって《ランナーはいかなるコーチと比較しても、自分自身をいちばんよく知っている》と言い切れるのだ。”(風が見えたら)

沢木耕太郎34 歳の時のエッセイ。講談社エッセイ賞を受賞している。退屈とテレビとスポーツと本、そしてトウモロコシ畑からの贈り物。陽水の「ワカンナイ」誕生秘話、高倉健との贅沢な時間、植草甚一の本を拾った話、古本屋の親父…など。巧みに作られたノンフィクションなのか、限り無く自然なフィクションなのか。

2000/07/09-9770
ドラキュラ戦記 キム・ニューマン
梶元靖子 訳
創元推理文庫 1998年12月25日初版
毒毒度:5
“わたしは不死で、あなたはそうではない。でも明日の夕暮れを見ることができるのはあなたです”
“ヴァンパイアはわれわれの延長線上にあるだけのものだ。われわれにしても、誕生以来、無数の変化をとげてきた。ヴァンパイアは温血者(ウォーム)よりもその変化が大きかったにすぎない”
“わたしたちヴァンパイアは温血者(ウォーム)であった日々に重きをおきます。わたしたちが生者としての人生から、どれほどのものをもち越し、大切にしてきているか、あなたもご存じですわね。でもリヒトホーフェンの中にあるのはただ、肉体的接触も感情的接触も忌避しようとする、冷たさだけでした”
“ちくしょう、エドウィン・ウィンスロップはまだ死にはしないぞ。あのくそいまいましい操縦桿までたどりついて、薄汚いマラニークに帰投して、聖なるカトリオナと結婚して、おぞましいヴァンパイアになって、汚らわしいドイツにもどって、コートニーを連れ去った邪悪な蝙蝠を殺して、くたばりそこないのドラキュラ伯爵の頭蓋骨でつくった杯から皇帝(カイザー)の腐った血を飲んでやるのだ”
“憎悪がこみあげてきた。指向性のない、ありとあらゆるものに対する憎悪だった。戦争を憎むだけではあきたらない。ウィンスロップをはじめ、彼のような百万もの若者の生命を奪い去った機械の、部品ひとつひとつが憎かった。そしてまた、ボウルガードは自分自身をも憎まずにはいられなかった”

飢えるまで待てば600ページ超でも一気か。先月読んだ『ドラキュラ紀元』に続く大作。例によって歴史上の人物、小説や映画の主人公がほんの端役で通り過ぎるので要注意。とにかく面白さに目眩がしてくる。イギリスを追われたドラキュラ伯爵はドイツを掌握、第一次世界大戦に突入している。30代半ばだった諜報部員チャールズ・ボウルガードは64歳。首の傷を隠す古めかしい高いカラー。頭髪は白いが顔にしわがないのは、ヴァンパイア令嬢・ジュヌヴィエーヴの血が混じったからと言われる。最愛のジュヌヴィエーヴは現在アメリカでヴァンパイア・オレンジ(笑)を栽培中とか。
夜になると怪しい動きがあるマランボウ城を調査するべく最高のパイロット(むろん不死者である)が送り込まれた。真夜中までには必ず仕事を終えて帰還する男だったが、味方の頭上で撃墜され、その死体には血どころか体液ひとつ残っていない。相手は血まみれレッド・バロンことフォン・リヒトホーフェン。マランボウ城はヴァンパイア・パイロットの巣窟。第一戦闘航空団が空飛ぶ見世物(フライング・フリーク・ショウ)と呼ばれるゆえんは実は…? 処刑されゆく女スパイ、マタ・ハリの告白によれば、新生者(ニューボーン)の転化を促進すべく長生者(エルダー)の血が利用されたという。すべてを命じているのはドラキュラ、そしてレッド・バロンはその花形座員なのだ。ボウルガードが送り込んだ青年将校エドウィン・ウィンスロップ、血みどろになって再生するヴァンパイアのストリッパー(!)やヴァンパイアの回復力の限界を試し続けるマッド・サイエンティスト、祖国に牙をむくエドガー・ポオ(なんとレッド・バロンの自伝をゴーストライティングするらしい)など登場人物も新たに血の年代記が展開される。

2000/07/08-9771
マイ・ラスト・ソング
あなたは最後に何を聴きたいか
久世 光彦 文春文庫 1998年4月10日第1刷
毒毒度:2
“堕ちない方がいいに決まっている。青空そよ風の道だけをいつも歩いていられるなら、そんないいことはない。けれど、今朝も見る青空と、いつか見た青空と、どっちが悲しく美しいかと言えば、いつか見た青空なのだ。堕ちて見た青空なのだ。”
“この歌だけは泥水を飲んだことのない人には歌えないし、歌ってほしくないと思った”
“テープが終わると、私に向かって坐り直し、「歌わせていただきます」と嗄れた声で言って、それから天女のようにきれいに微笑った”

記憶を辿る旅は絵画(『怖い絵』)から歌へ。人生の最後に聴く歌、一曲に決めかねて思い出を辿る。なかにし礼という不良少年が辛くてしょうがないので書いた詞、これまた三木たかしという不良がこれまた辛いので歌ってみたがレコードは一枚も売れなかったその「さくらの唄」をドラマで流すために、久世は美空ひばりのところへ持ち込む。所属レコード会社に断わられ、大きなテープ・レコーダーを携えて、楽屋を訪ねる。凄惨さを漂わせたステージを観て誓う、何日通っても歌ってもらおうと。楽屋に三木たかしの歌声が流れる。ちょっと泣きすぎだ、微笑みながら人に話しかけるように歌えばいいのに…とそのときまさに思った通りの歌い方で美空ひばりが歌いはじめるのだ。双眸から涙を流しながら。テーマゆえに故人にまつわる話も多くて泣かされる。自分だったら何を聴きたいか…ひとつの曲にしぼるのは確かに難しい。候補はある。井上陽水のうただと言っておくことにする。

2000/07/06-9772
ボマルツォの怪物 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
澁澤龍彦 訳
河出文庫 1999年3月4日初版発行
毒毒度:4
“自然の力に助けられて、無秩序な世界に人間の手で創り上げられた幾つかの場所は、真に狂気の美ともいうべき性格にふさわしいものとなった。私の知る限り、ヨーロッパで、こうした性格に最もふさわしいと思われる場所は、ボマルツォの谷よりほかにはない”
“どこもかしこもラティウム風の雰囲気で、ここでは半獣神(サテュロス)に出遭っても不思議はないような感じなのである。さらに空っぽの墓は、あのローマ人をおびやかした暑い時刻の幽霊、正午の妖怪を思い出させる”
“もっぱら恐怖や感覚の混乱を醸成するために彫られたかに見える、あれらの彫像たちは、装飾というよりも、むしろもっと積極的な役割があったのではないだろうか。こっそりと残酷な行為を演ずるにはまことに打ってつけな、この秘密の場所は、もしかしたら、大きな声では言えないような或る目的にために”

年末以来凝っているマンディアルグの作品集。もちろんかねてから探していたエッセイ「ボマルツォの怪物」に魅かれて購入した。この怪物に出会ったのは1970年代前半。父親の取っていた「芸術新潮」に写真付きの紀行文が載っていたからである。鉄道の駅からも遥かなる、見捨てられた森に、怪奇な像の数々が存在すると。マンディアルグのエッセイについても記述があったのだが、出典を手にする機会なく何十年かが経過していたというわけだ。この森がどのような使用目的を持っていたか、それゆえ長きにわたって隠そうとされてきたというマンディアルグの考察に納得。なお芸術新潮では、ブリューゲルの絵画との酷似も記述されていて、ボマルツォの森に関する資料が今も少ないことを考えると貴重。マンディアルグが訪れてから約半世紀が経過した。この森の現状を知りたい。今でも、世界で一番訪れてみたい処である。

2000/07/04-9773
F2グランプリ 海老沢泰久 文春文庫 1983年12月25日発行
 毒毒度:1
“ここまできてあきらめなければならないのだろうか? こんなにすばらしい、輝かしい日が、生涯にそう何度も訪れるとは思えなかった。それが自分の力ではどうにもならないマシンのトラブルで消えてしまうのかと思うと、じつにやりきれなかった”

はじめて読んだとき駄作との評価を下した。直木賞候補なんて信じられなかったものだ。子供の頃から(否、子供の頃の方が)モータースポーツ通だった私の知っていることをあまりにも盛り込みすぎたため、と推測する。さて今回の再読で、名誉挽回なるか? 
舞台はデモン(!)の経営する鈴鹿サーキット、F2グランプリ。デモン・エンジンを供給された新進気鋭のドライバー中野英明とは中嶋悟以外の何者でもない。雨に強い。160cm、55kg。カート出身。7歳上の兄と出かけた最初のカートレースで優勝。しかも表彰式を見に行ったら自分の名前が呼ばれて驚いたというエピソード。練習中に鈴鹿で事故死した浮谷東次郎のエピソードも巧みに使われている。そういえば<日本一速い男>星野一義が、レース前に食事がノドを通らず、緊張のあまり走行中にじんましんさえ出るという話が雑誌に載っていた。これはそのまま、井本豊の症状にあてはまるし、強引な走りをするチャンピオン佐々木宏二は?とモデル探しにも拍車がかかる。
レーサー生沢徹(ちなみにスカG伝説を作った人物)の経歴もいろんな人物に応用されている。ヨーロッパF3で3本の指に入っていたが今は落ちぶれていて2年落ちのマシンを使っている原島三郎と、連戦連勝した過去を持ち今はプライベートチームを率いる藤巻健太郎と、スポンサーを見つける手腕だけは一流の吉本治とへ。ここで気がついた。自分のヒーローの長所であれ短所であれさまざまに利用されていることに我慢ならなかったのかもしれない。不思議なことに、嫌がらせかと思うほど(笑)、著者は私の好きなものばかり題材にしている。広岡達朗、日本のモータースポーツ、HONDAの挑戦。そして後年に井上陽水…(陽水についてはかなり海老沢の文体に合っている題材と思ったものだが)
全体に、ありきたりの表現が気になりはする。それと、いくらなんでも<長い髪が歩くたびにふさふさした>はないだろう。「だった」「のだ」「した」の連続は、著者の特徴といえばそうなのだが、私はあまり好まない。後半ほぼ100ページがレースシーンに当てられている。あら探しはせず、勢いで読もう。

2000/07/04-9774
宇宙叙事詩(下) 光瀬 龍・文 萩尾望都・画 ハヤカワ文庫JA 1995年10月15日発行
毒毒度:2
“すでに東の空には、水色の薄明がただよっていた。西の空には、まだ幾らかの星がまたたいて、夜の名残りをとどめていたが、今日はもうそこまで迫っていた。だが、その朝はなぜかさえずる鳥の声もなく、夜露を払って開く花一輪さえなかった。”

ここ3日ばかり東京は驟雨にみまわれている。空から落ちてくるものはまるで銀色の矢のように、ビルの窓硝子、車のボンネットを叩き、アスファルトへ突き刺さる。空は怒っているのかもしれぬ。「美しいものを滅ぼすことにかけてはわれわれ地球人は天才的なのだよ」とはレイ・ブラッドベリ作品の一節だが、自然、文明、星々をも自らの死の道連れにしようとする人類への警告かも知れぬ。

2000/07/03-9775
宇宙叙事詩(上) 光瀬 龍・文 萩尾望都・画 ハヤカワ文庫JA 1995年10月15日発行
毒毒度:2
“夢や冒険と引きかえに生命を棄ててもいいと思っている人間が、そのころはごまんといたものだよ。そういう連中によって、宇宙開発は進められていったのだ。それが、やがて完備した宇宙ステーションや、これ以上のものは求められないという完全装備の宇宙服、ぜったいに危険のない探検計画などが、いきいきした夢や情熱にとってかわり、コンピューターやマシーンや莫大な報酬が、探検や開発を促進させることになった。そのあげくに、あれほど繁栄を極めた数々の宇宙都市(シティ)は、砂に埋もれ、廃虚と化し、夢と冒険を伝える幾多の物語は、まぼろしの伝説と化していった”
“汝追憶の王よ
 時の重さを量りて 我に帰せしめよ”
“生も、死のひとつの象(かたち)。死もまた生のひとつの相(すがた)にすぎない。人の情も夢も、限りある生命なればこそ。その生命が永遠ときそいあって、何を得んとするか”

夢と冒険のついえた処。廃虚。かつての栄華は見る影もない。
1977年、光瀬龍の原作『百億の昼と千億の夜』をコミック化した萩尾望都の力量はいわずもがな。それぞれ書く人、描く人に徹した、1980年のジョイント企画が本書だ。昔『百億の昼と千億の夜』を手にしたとき、とっつきにくいという印象があった光瀬の文体も、まるで萩尾が流れ込んだかのように詩情溢れるものとなっているのに驚く。コンビネーションのなせる技か。

2000/07/02-9776
<超>読書法 小林 信彦 文春文庫 1999年5月10日第1刷
毒毒度:1
“この本はユーモラスかも知れませんが、いわゆる<パロディ>ではありません”
“パトリシア・ハイスミスが面白いのは、<サイコが出てくるふつうの小説>だから”
“<人生>が中につまっている小説を求める”

愉しみのための読書、自らの仕事のための読書、そして重苦しい現実に対抗するための読書。時々人様の楽屋をのぞいてみたくなる。で、この本だ。作家・小林信彦『本は寝ころんで』に続くブックガイド・エッセイ。別な本を探し当てついでに購入したのだが、繰っただけで当たりとわかる。ちなみにその書店にはマンディアルグ『ボマルツィオの怪物』文庫版もあり、ちょっとした発見に喜ぶ。さて、まず、権威を認めず<どんな本でも寝ころんで読む>といる姿勢が気に入った。残念ながら私の場合は鎖骨を折ってから、そして今も折れていることから、寝そべっても仰向けでも読むのは苦痛である。机に向かうイコール仕事をするなので、主に電車で読んでいる。<本を読める空間>をお金で買うためにかなり無理をしてでもグリーン車の定期で通勤したことも気に入った。本を収納するために部屋を借りる、うーんわかるわかる。阪神大震災、オオム真理教事件、住専問題等に揺れていた時代。当時青島都知事誕生を素直に喜んでいた著者だが、文庫本化にあたっては「全体に少し訂正を加えたにしても判断ミスをいじったりはしていない。そしてその判断ミスとは<青島元都知事>に関することだけだ」とあとがきで述べている。こんな人がすすめる本なら信じられるというものだ。

2000/07/01-9777
蒼き影のリリス 菊池 秀行 中公文庫 1998年8月18日発行
 毒毒度:2
“冷たい鋼が耳のつけ根に移動した。ひとつだけ気になった。血を出してもいいのだろうか”
“フローラの弔花--格別の味わいだろう。人間には効かぬが、我らと同じ血を引くものなら、覿面、悲哀の情に胸をふさがれる。たとえ、血の饗宴の最中といえども”
“てっぺんから闇に包まれた地上を見下ろすと、おれの神経は水晶のごとく澄み渡りはじめる。あるかなきかの風の強さと方位、軒下に張られた巣の上を渡る蜘蛛の足音、そよ風にゆれる草の葉の数--みなわかる”
“第六、第七頚椎の間から流れ込んでくる気は、いわば自然の情報だ。おれという人間を構成する夜の体組織が、それらを咀嚼、分類、統合し、廃棄する”

たしか5丁目あたりだと思うのだが、いまだに場所を説明できないバーがある。待ち合わせをするわけではないので名前を覚える必要がない、ショットを一杯だけ飲って出てしまう。ちょっとした人数で立ち寄っても勘定書きを手に醜く精算をした記憶はない。同行者はさりげなく「お父様は近頃お見えになりませんが」と声をかけられたりしていた。少なくとも親子2代は銀座で遊んでいないと本当の通とは言えまい。東麻布あたりに住み、子どもの頃から日常的に、銀座の百貨店や専門店でお買い物をしているのだ。
銀座というのはなかなか不思議な所である。輸入品を扱う小さいけれども洗練されたショップ、風変わりな民族料理店、倉庫の中みが知りたくなる画廊の数々。きらびやかな表通りにゴミバケツは存在しないけれども、ちょっと曲がると飲食店の裏口近くに残飯の山が築かれていて、カラスや猫を喜ばせている。信じられない所に突然一杯飲み屋がある。ビルの陰には垢で光った人体が襤褸や新聞紙にくるまって転がっていたりするものだ。ある意味で銀座は一番吸血鬼に向いている場所かもしれない。裏と表の顔。無関心。早朝、築地から有楽町へ足早に銀座を突っ切るこの私が、柩へ還る吸血鬼ではないと言い切れるだろうか。現実世界で詠に惑わされ時たま方向音痴の症状が出るのも、吸血鬼の証かもしれない。
この物語はトランシルヴァニア巡りの途中で耳にした物哀しいジプシー・ヴァイオリンの調べをもとに書かれたはずである。大沢在昌『銀座探偵局』に栗本薫『グイン・サーガ』のナリスが盲目となって出演しているような感じ…といえば雰囲気は伝わるだろうか。吸血鬼同士のせめぎ合いは、ナンシー・A・コリンズのソーニャ・ブルーのシリーズを思い起こさせた。

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