●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-08

2000/08/30-9727
もう一度だけ新人賞の獲り方おしえます 久美沙織 徳間文庫 2000年7月15日初刷
  毒毒度:1
“あなたは、ご自分の文章を酒に譬えるとしたら、どんな酒だと思いますか? どんな酒を、いちばんいい酒だと思いますか?”
“「マジメ」な態度と「破天荒」な精神”

ごぶさたしてます、久美沙織さま。宛名にたずねあたりません、と賀状が帰ってきてしまってから何年になるでしょうか。長野県にお住まいとのこと。ご結婚されているようですが、もしかしてこの本にも出演されている波多野鷹氏とでしょうか? 貴女の初期の作品はまだ私の本棚にあります。脇役ながら私が出演させていただいたのはどの作品でしたか、今はもうタイトルを思い出せませんが。久々の久美節、懐かしく拝読させていただきました。小説は…書けないでしょうね私には。

2000/08/30-9728
ウンディネ 竹河 聖 ハルキ・ホラー文庫 2000年8月28日第一刷発行
  毒毒度:0
“あれが、楓雅の皮を着て来たのだ。” 

恋人・夏音(かのん)と伊豆へ小旅行へ出かけた優也。酔いざましにひとりででかけた海岸で、オパール色に光る不思議な物体を拾う。夏音もその美しさに魅せられ、彼女の部屋で飼いはじめた。所用で会えなかった翌週、訪ねると夏音が変わっていた。夜なのにサングラスをしている。別々の部屋に寝たが、真夜中に水槽を見つめていた。そしてこちらを振り返った彼女の眼はあの物体のように光り輝いていたのだ。やがて、夏音の失踪、妹楓雅(ふうが)の失踪、優也自身もバスルームでゲル状の水に襲われる。
姉妹の不思議な名前は、オーケストラ奏者の父親がつけたらしいのだが、必然性はないだろう。彼女はアパレルのプレス、彼は広告代理店勤務。二人とも両親は離婚している。だから何なの。それがどーしたの。全然怖くないし。一文で改行。245ページは実質100ページくらいだろうか。朝の通勤で読み切ってしまった。活字離れの世代に買わせる軽さ、ジャンルで本を出すとこういう感じになるのか。栗本薫を読んでみて、今後このシリーズを購入し続けるか検討したい。

2000/08/29-9729
える血
エロティックホラー
リチャード・マシスン、ロバート・R・マキャモン
ジェフ・ゲルブ他編
夏木健次・尾之上浩司 訳
祥伝社文庫 2000年2月20日初版第1刷発行
  毒毒度:2
“〈夜の一族〉にとって、孤独は宇宙からではなく、肉体から生まれるものだ。それは自らの骨の髄につまっているものであり、あるいは自らの血のなかに流れているものだ。彼女にとって、実存的孤独は単なる抽象概念ではない。それは彼女の生き方そのものだ。ものごごろついて以来、変わることのない歩みなのだ”(「跫音」ハーラン・エリソン) 

祥伝社発エロティックホラー。思ったよりもキワモノではない。美女の誘惑にのって、とんでもないことになったり(「変身」グレアム・マスタートン)、極めて男らしい願望を抱いてブードゥーに頼った男性が、とんでもないことになったり(「魔羅」マキャモン)、怖さよりもこうなったら笑うしかないか。
さて、余談。作家・脚本家のリチャード・マシスンの息子が脚本家・作家のリチャード・クリスチャン・マシスンで、クリスチャンの弟が脚本家のクリス・マシスンとのことで、ややこしいぞ。

2000/08/28-9730
綺霊 井上雅彦 ハルキ・ホラー文庫 2000年8月28日第一刷発行
  毒毒度:3
“今も凍りついたように動けぬ枕元に、重篤患者の見舞客のように集まり、重なり、さんざめく影たちの、その覗き込む顔という顔が、人の顔とは異なるからで、目もなく鼻もなく唇もなく、顔の土台の失われた、まるで干潟のわらつぼのごとき、歯だけの目立つ、顔じゅう歯茎めいた群れたちの犇めきあいが、まとわりついて離れない”(嘯) 

水屍人の水族館、蠢く蟻、這い回る海盤車、廃棄物を喰う老人たち、人狼。主に都市伝説をテーマにした悪夢のショートショート集。後半にファンタジー色が濃くなったのは少々違和感。
ちょっと廉価、ちょっと薄め、ウワサの新文庫創刊。全点書き下ろしホラーである。解説はない。今後どんな作家どんな作品が出るのかちょっと注目である。でもまあ平気で絶版にする書店のやることだから過度の期待は禁物、あなたが損をするから。

2000/08/27-9731
ナイン 井上ひさし 講談社文庫 1990年8月15日第1刷発行
  毒毒度:-2
“やはり老人の笑顔に惹かれたのだろうか。それよりも都心を走るバスそのものに、乗客を人なつかしい気持にさせるなにかがひそんでいるようである。古ぼけてがたがたの車体、ジョギングする人より心持ち速いかどうかといった程度のスピード、田舎家の土間のように黒ずんで消毒薬の匂いをぷんぷんさせている床、どこを見てもいわば隙だらけで、なんだかとてもなつかしいのだ。しかも乗客は少数で全員が心のどこかで「自分は妙に古ぼけたものに乗っているなあ」と苦笑している”(新宿まで) 

今風にいうと、ちょっといい話集。都バスの車中で、下町の食堂で、店先で、通りすがりの人たちのふれあいがあった時代の話だ。著者はスワローズファン。そして大先輩にあたる。どちらも偶然にすぎないが。しんみち通りや、外濠公園野球場、総武線沿線、永代橋から門前仲町、築地から有楽町など、私も生きたことのあるまちが、生き生きと描写されている。リズムがあって、美しい文章。久々『青葉繁れる』が読みたくなってしまった。

2000/08/26-9732
風のくわるてつと 松本隆 新潮文庫 1985年12月20日発行
  毒毒度:0
“ふと 生きてる夢に気付く めざめたとき 朝もやの碧のなかに 死をみつける
 ふと 全てが色褪せて見える 都市の余白に 水色のあくびを吐き出す 時間待ちです
 ふと 死の恐怖におどろく 闇だまりの 黝いつばさのなかに 愛を感じる” (めざめ)

2晩続けての泊まり仕事には耐えられず金曜の夜にうっかり帰宅してしまったので、土曜朝の通勤で読む本が無い。井上ひさしの『ナイン』を棚から選んだが、涙腺を刺激する内容だったのを思い出し、こちらも鞄に詰めた、いわば保険。単行本が出たのは昭和47年11月とのこと。19〜22歳当時、ミュージシャンだった松本隆の初期作品。はっぴいえんどというグループは全く知らず、1枚たりとてアルバムを聴いたこともない人間には、詞だけ読んでも何かしら違和感がある。「●●なんです」調の歌詞をただ読むことは、ただ恥ずかしいだけである。よって引用した詞は、作品群のなかでも異色なのであしからず。松本隆といえばやはり松田聖子とのヒット曲が印象的。私は「隠れ聖子」で、そののち「隠れ明菜」だったのだが、それはともかく。さて、Alphabet StadiumのM項では優れたレーシング・ドライヴァーをマタドールに例えているのだが、偶然、松本隆も『紺碧海岸』というF1小説でF1を闘牛になぞらえているらしい。入手しようとしたのだが現在品切れとのことだった。もしかしたらそのうち、文庫で出るかもと、はかない希望を抱くことにする。

2000/08/24-9733
夕陽が眼にしみる 象が空をI 沢木耕太郎 文春文庫 2000年1月10日第1刷
2000年1月30日第2刷
 毒毒度:1
“珍しく私は友人から餞別としてもらったカメラを持っていた。そして、心を震わせる風景に出会うたびにカメラを向けたものだった。インドのブッダガヤの菩提樹、イランのイスファハンの王のモスク、ポルトガルのサグレス岬の灯台…。しかし、それらの意味のある風景は、不思議なことに、もう体の中で甦りはしない。写真にも撮らず、手紙にも書かず、埋れるにまかせていたものだけが、不意にこのような甦り方をして、時を忘れさせまいとするらしいのだ”(体の中の風景)
“やはりヘミングウェイが情熱を傾けているのはシーンを切り取ることである。どれだけ鋭く、どれだけ鮮やかに切り取れるか。しかし、それは同時に状況の混沌を嫌い、情景から夾雑物を排することでもあったはずなのだ” (切り取る眼)

ほんとうに心に刻みこみたいと思ったら、カメラのファインダーごしに見ないことだ。シャッターがおりる瞬間というものは、心には映らない。ここ数年は、「シャッターは押すな」と自分に言い聞かせて歩きまわることにしている。私にとっての異国は人である。人をめぐる旅。エッセイを読むのは、人生の指針を求めているのではない。共感のようなものを得ようとするか、人それぞれの旅の仕方つまりは生き方の違いを再認識するかというところだろう。1981年3月、池袋の形成外科に入院中のこと、猛烈に活字に飢えた。小さな書棚に数冊の文庫を備えた個室。主にエッセイだったが、たちまち全部読んでしまい、空いている他の部屋に侵入。このときに五木寛之、田辺聖子、野坂昭如などを読んでいる。
さて、そろそろ面と向かって沢木耕太郎か。清潔感、誠実さ、真摯、聡明…というイメージを漂わせ、著作もまた、イメージを異にしない。女性に人気があるのも頷ける。酒に乱れることはなく、酒席で、泡を飛ばすような議論にいたることもないらしい。まるで近隣の町を散歩するように異国を歩き、異国を旅しながらもごく自然に本を読む。塩野七生、柴田錬三郎、吉行淳之介、ヘミングウェイの著作に関する文章にはやはり惹かれてしまう。冷静な観察者がそこにいる。

2000/08/22-9734
逢う 中島らも 講談社文庫 1999年8月15日第1刷発行
 毒毒度:2
“やっぱり何か淘汰されていくんでしょうね、たぶん。人には何か役割みたいなものがあって、その役割がない人は途中で死んじゃう。何か役割がある人は、どこかで気づいて、立ち直って、何かものをつくるとか、そういうことをするんだと思う” (山田詠美との対談 キック・バスタブ・セクハラ)

生かされている不思議。自分の役割。
しばらく小説から離れている。アルファ・ロメオをめぐるエッセイ、気概のある男に関する考察、自分史&野球ノンフィクション、そして対談集。時間を作って人と逢うことの重要性というのを今感じている。共通の目的があってもいいし、もちろんその人自身が目的でもいい。逢う。しかし、はじめがあれば終わりがある。終わりをみとめたくないばかりに饒舌になりすぎることは避けなければならない。

2000/08/21-9735
来年があるさ ドリス・カーンズ・グッドウィン
桜井 みどり 訳
ベースボール・マガジン社 2000年5月25日第1版第1刷発行
 毒毒度:-5
“私は父の評価に応えるべく、いくら疲れたり飽きたりしても、熱意を失わないように努力した。そうこうするうち、何に対しても興奮するのが習慣になり、個性になった。そればかりか、新しい経験はぜったい楽しいぞ、という期待感によって、喜びは倍増された”
“子供のころにこれほど不幸な運命をたどった父が、なぜ自己憐憫におぼれることも、世の中を恨むこともなく、まっとうに生きることができたのだろう。それどころか、ゆらぐことのない自信をもっているし、あふれるエネルギーと楽天的な思考を、周囲の人間に伝染させる驚くべき能力さえ備えている”
“スタジアムへ通じるトンネル状の通路を歩きながら、父は私に予告した。「いいかい、もうすぐ世界一きれいなものが見えてくるぞ」その言葉が終わるか終わらないかのうちに…ホントだ、見えてきた!
赤茶色のダイヤモアンドと、信じられないほどきれいなグリーンの芝生と、空席などひとつもなさそうな超満員のスタンド。”
“私はこの年の10月、初めて思い知った。ドジャース・ファンがうわごとのようにくりかえす単純なスローガンには、痛みと虚勢と祈りがこめられていることを。そのスローガンとは、「来年があるさ」”

通勤電車の中で読むわけにはいかない理由があった。泣けてくることは最初からわかっていたからだ。なんといっても、映画《フィールド・オヴ・ドリームス》、トウモロコシ畑が出てきただけで滂沱してしまった過去のある身だから。
困ったことに全然予期していない場面で泣いてしまう。「ロックヴィルセンター・ナイト」というイヴェントで町じゅうの人たちがバスに分乗してエベッツ・フィールドへ出かける。ふだん堅苦しい担任の先生が、ペダル・プッシャーをはいて髪をおろし、まるで別人だ。いつも見慣れたみんなが違って見える。もっともっと大きな世界に包まれたような幸福感。日常から非日常への旅立ち。
ドリス、貴女自身の素晴しい物語を語ってくれたことに感謝する。愛を込めて「デム・バムズ(ばかなやつら)」と呼ばれたブルックリン・ドジャースとロックヴィルセンターという小さな町と貴女と貴女のご両親、お姉さん方の。郊外に一戸建を持った、勤勉で誠実な父親と病弱だが読書好きの母親のいる中流家庭を。6才のとき父親から赤い表紙のスコアブックを贈られてから、筋金入りのベースボール・マニアに成長していく一人の少女の物語を。そして、1950年代のアメリカを。いつか、私の物語にも耳を傾けて欲しい。カンけりとだるまさんがころんだと団子割りとメンコの時代、三沢高-松山商の死闘、いつのまにか隣にいたスワローズ。背番号9(数字に意味はない、守備はライト、5番打者、公式戦打率なし)のユニフォームを着て、いさんで草野球の練習に出かけた小学校時代を。生まれてはじめての神宮球場を。スワローズであれ、自分の人生であれ幾度となく繰り返されてきた「来年があるさ」を。

2000/08/19-9736
再び男たちへ
フツウであることに満足できなくなった男のための63章
塩野七生 中公文庫 1994年3月10日第1刷
 毒毒度:2
“必衰は、盛者になりえた者のみが受けることのできる特権である。問題は、どういう生き方を選ぶことで盛者になるか、でしかない”
“「中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝利者でありつづけるだろう。反対に、圧勝することしか考えない者は、しばしば陥し穴にはまってしまうことになる」(フレンツェ史)”

潔さが心地よい。イタリア車の次はメリハリイタリア男に精通している塩野七生の本。『男たちへ』がフツーの男に宛てたラヴレターだとするとこの本が呼びかけている相手は主に指導者たる人間ということになる。そしてまた、男たちへの呼びかけを通じて、実際には女たちへも呼びかけているのだ。随所に引用されるイタリア・ルネサンスの思想家マキャヴェッリの言葉が痛快。

2000/08/18-9737
快楽のアルファ・ロメオ 山川健一 中公文庫 1998年6月18日発行
 毒毒度:2
“頑固であるということは、臆病であるということだ。そして頑固で臆病なものは、やがて悲しみの感情に浸されていく。ブルースもそうだし、ポルシェ911もそうだし、このぼくにしてもそうだ。時々ぼくは、それを耐え難いと感じる。ぼくがアルファ・ロメオという車にほんとうに出会ったのは、そんな時なのであった”
“この小林の文章を、こんなふうに悪戯すると叱られてしまうだろうか? 「自動車が今日も依然として重要な役をつとめているという事は、アルファ・ロメオの亡霊なくしては理解し難いことであろう。アルファ・ロメオのスポーツカーを誰でも運転する今日になってみれば、そのメカニズムが如何に自然なものであったかに気付くのである。それは自動車という生物の如く自然なメカニズムの、何の無理もない歌である。量産車からスポーツカーに至るまでの、あらゆる異質の車を平気で生産する日本の自動車メーカーの頭脳の方が、余程曲芸を演じていると言えるだろう」”

題名だけで選んだ。ちょっと気分はイタリアなのだ。内輪でアルファ・ロメオの話題なんか出たことだし。塩野七生を読もうとしていることだし。山川健一のバイクやロック小説はずいぶん前に読んでいる。出身地が私の住民票がある町だとは知らなかった、しかも県立C高校とは。
イタリアでは自動車はあくまでも独立した存在。自動車自身が走りたがっている、自動車としてどれだけ純粋かということが問われている。ということはつまり、人間自身が、どこまでいっても独立した人間だということだ。アルファ・ロメオと生きていくことを選択する、それは快楽とは何かを知ること、快楽と、その裏側にある尖った孤独の存在を知ること。
文庫化にあたって「星のパレードを先導する/156」の項目が追加されたらしいが、残念、書き出しに明らかなミス。1998年にモーターショーは開催されていない。なんで誰も気がつかなかったかなあ。興醒めしてしまう自分の偏狭さはアルファには似合わないか。前の会社の社用車は、アコード〜インテグラ〜アルファロメオ155ツインスパーク。最も、インテグラまでは転がしたことがあるけれども、155は完全に社長だけのクルマだった。結局それがたたったのか倒産、アルファに罪はないとはいえ、社員にとってはいまいましい赤いクルマでしかなかった。ちなみに、私に与えられていたのは赤いママチャリで、第1京浜をかっとぶ様を見て人はフェラーリと呼んだ(笑)。アルファ・ロメオに過去の感傷は似合わない。進化し続けるアルファ・ロメオ、乗ってみたい気はしている、145かスパイダーか。

2000/08/17-9738
悪魔メムノック(下) アン・ライス
柿沼瑛子 訳
扶桑社ミステリー文庫 1997年11月30日第1刷
 毒毒度:1
“わたしはすすり泣きながら、両手で神の首を抱え、拳を横木に押し当てて、神の喉に唇を近づけた。わたしの口は無意識のうちに抵抗もなく開くと、牙が肉に食いこむのを感じた。わたしは神が呻き声をあげるのを聞いた。それは長く尾を引き、宙に広がり、世界じゅうを満たすかに思えた。血がわたしの口のなかに流れこんできた”
“「それが地獄なんだな?」わたしはおそるおそる尋ねた。「それは…それは他者に自分が何をなしたかを…他者に課した苦しみを理解し、認識するための場所だと!」
「そうだ、そしてそれはなまやさしいものではない。わたしはそれを創り、正しい者と正しくない者、苦しんだ者と残虐行為をなした者たちの魂を再び完全なものにするべく支配している。そして、その地獄の唯一の教えは愛なのだ」”
“わたしは神の宗教の中心にある嘘を暴くためなら何でもする。神が宇宙の進化と共に大きくなるのを許した嘘を破壊しようとしているのだ”

わたしはヴァンパイア・レスタト。雪のニューヨークで、わたしはストーカーと“普通の男”におびやかされていた。ディヴィッドは語る、わたしたちの呪いについて。わたしたちの道徳的進歩は終わりを遂げたのに、われわれの知性はどんどん進歩している、神の想像すら超えて。ディヴィッドは指摘する、ストーカーも“普通の男”も空想の産物だと。わたしはそうやって絶えず自分を罰していなければ楽しみを得られないのだと。そうなのだ、仲間はわたしのことをやんちゃ王子と呼ぶ。わたしの計画を聞いたアルマンにはほとんど、ののしられた。どうしようもない、へそ曲がりのがんこ者で、生まれながらの破壊者なのだと。そうなのだ、メムノックと名乗る悪魔がわたしを訪ねてきて、一緒に天国と地獄を見ないかと持ちかけてきた、自分は悪魔と共に天国と地獄を見てこようと思うと語ったところで一体誰が本気にするだろうか? 天国から地獄へ、神の血を啜り、懐にヴェロニカのベールを持ち…ヴァンパイア・レスタトの冒険譚、ヴァンパイア・クロニクル最終章。…さようなら、愛する者よ。
悪魔と呼ばれたこともある。しかし、悪魔の翼をもう、私は持たない。地上に留まり続けるのか、あるいは地獄へ落ちるのか。そして、地獄とはいえ愛だというではないか。悪魔ですらやさしくヴァンパイアを守ってやれるというのに、私は。

2000/08/14-9739
悪魔メムノック(上) アン・ライス
柿沼瑛子 訳
扶桑社ミステリー文庫 1997年11月30日第1刷
 毒毒度:2
“デイヴィッドはただちにわたしに気がついた--うつむき加減の長い金髪の若者に。ブロンズ色の顔と手、いつもの濃い菫色のサングラスで目を覆い、髪は見られる程度にとかしつけ、濃紺のダブルのブルックスブラザーズのスーツに身を固めている”
“ウェイターが熱い飲み物をわたしたちの前に置いた。その湯気がひどく喜ばしいものに思えた。ピアノはサティをいっそう静かに奏でている。どうやら人生というものは生きるに値するものらしい。わたしのような価値なき怪物にとってですら”
“彼の目が変化していた。そこにはまぎれもない飢えが浮かんでいた。それは彼にけだるげな、さかりのついた牝犬の匂いを嗅ぎつけた牡犬のような表情を与えていた。わたしたちはみな、そのような獣(けだもの)じみた表情を浮かべる。だがわたしたちには獣ほどの価値もないのではないか? わたしたちの誰ひとりとして”

魅力的な〈犠牲者〉を追って、冬のニューヨークにいるヴァンパイア・レスタト。彼は自らも誰かにつけられているのに脅威を感じていた。200歳にもなるヴァンパイアを怯えさせつつ、邪悪ではない者など一体この世に存在するだろうか? そのストーカーは誠実さと意志を持っているように思えるのだ、心に眠れぬ魂と、飽くことを知らぬ自我の持ち主…それは一体?
ヴァンパイア・クロニクルの最終章、そして実に何冊ぶりかの翻訳ものである。そういえば昨年の盆にもご先祖様を偲んでヴァンパイアものだったか…。 

2000/08/14-9740
試練のルノリア
グイン・サーガ第74巻
栗本 薫 ハヤカワ文庫JA 2000年8月15日発行
 毒毒度:1
“これはまことにおどろくべき発見だった。私はずっと、自分は非常にひとに頼らない人間だと思っていたんだよ”
“…そう、私は幸せなどというものは私にはかかわりのないことばだと思っていた。幸せよりも成功とか、野望とか、そういうことばのほうがはるかに重大だと思っていた。…そう、だからベック、この反乱が、私の野望ゆえではないのだ、ということ--私が父アルシス王子の遺志をつぎ、アルシス王家に聖王家の王権をとりもどすべく、おのれの野望によってことをおこしたのではない、ということだけははっきりといえますよ”
“神たろうとする野望とは--全知全能であろうとする野望とは、どうせ破れるにきまっていても、それは死すべき運命であるひとのさだめへの挑戦であり、ひとであることを超えようとする野望だった。それをすて、そしてこの世の秩序に従ってゆけば--それは、幸せだろうとも。楽だろうとも。--そしてそれは、おのれもまた、ひとの子のひとりにしかすぎぬ、ということを、彼が認めた、ということにほかならぬ。--彼は、敗れるだろうな”

おお、ぼんやりしていたら月刊グイン・サーガが! アルド・ナリスの軍はランズベール城を捨てジェニュアへと本拠地を移した。もはや危機はパロにとどまらず、全中原の存亡がかかっている。しかしあれほどの妖しい陰謀家アルド・ナリスはすっかり情愛の人たることを暴露し、大導師アグリッパを探すべくヴァレリウスを旅だたせた今となっては、ただの幼子にすら等しい。命を救ってくれたグラチウスの要請で旅に出たヴァレリウスはルードの森で《ドールに追われる男》白魔道師イェライシャに遇う。イェライシャはヴァレリウスに埋め込まれていたヤンダル・ゾックの魔の胞子を取り除き、ナリスは敗れ去るだろうと告げる。愕然とするヴァレリウスだが、イェライシャの力を借りて、ついに大導師アグリッパの本拠地へ。その場所はナリスがあれほどまでに渇望していたノスフェラスの地であった…。

2000/08/13-9741
人獣細工 小林泰三 角川ホラー文庫 1999年12月10日初版発行
 毒毒度:2
“その傷痕の下にはわたしのものではない臓器が埋められている。傷痕を見ていると皮膚が透けて、臓器がゆっくりと蠢動し、じゅくじゅくと液体が染み出してくるのが見えてくる。わたしのものではない臓器。人間のものですらない臓器” (人獣細工)
“あなた方読者の中にはまだあの場所に足を踏み入れていない者たちがいるかもしれない。その人々は幸いだ。なぜなら、今後の人生で、必ず、そこに到達するから。あなた方読者の中にはすでにあの場所に迷い込んだ経験を持つ者たちがいるかもしれない。その人々は不幸だ。なぜなら、もうそこに行くことはできない上に、記憶にも残っていないから”(本)

第2回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞した著者の第2作品集。臓器移植、吸血鬼狩り、そして究極の本。死を招く本といえば、すぐさまラブクラフトの創案した禁断の古代書「ネクロノミコン」(アブドゥル・アルハザード)が思い浮かぶ。しかし、現代ではそれほど書物を好む人間が多くないので、呪いの伝達に音楽、そしてネットが使われるところが面白い。たしかに「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(ショーペンハウエル)といわれてきたことだし。関西弁の会話になじみがないのでどうも恐怖感が伝わってこなかった、もしかしてそれが狙い?まさかね。
「人獣細工」の主人公と父親の目に見えぬ確執。亡くなった父親の遺した資料を整理していくことで、自らのルーツを探り当ててしまう恐怖。少なくとも著者はどんな文字が読者の神経に障るかを理解している。十分神経に障ると同時に、自分の肉体も継ぎはぎであることを思い出した。もっとも病弱な主人公とは異なり私の方はすべて外科手術だが。全痲の体験はないので、すべての過程を記憶している。メスを入れられる感触、そして刻まれる音というのは忘れようがない。切開面に湧き出ているであろう血を拭われる感覚、そして針が通り、糸が皮膚を掠める瞬間、やがては痲酔が切れはじめたことを訴えなければいけないタイミングなどを…痛みは十分すぎる。本日も、速度の遅い台風のせいで、鎖骨が痛んでいるというのに。

2000/08/13-9742
フラワー・フェスティバル 萩尾望都 小学館文庫 2000年8月10日初版第1刷発行
 毒毒度:1
“あたしのリズム感を育てたのは るーちゃんのピアノだ あの音があたしを踊らせた あこがれがあたしを踊らせた”
“よく来たね、ぼくのスピリット”
“キス? もうねた? まだ? ばっかだなー ただでさえ移り気な女がねてもいない男との約束なんか守るか”

バレエもの、今度は長編。ロンドンのバレエ・スクールのサマーキャンプに参加する純和風の女の子みどりと、ステップブラザーの薫、美形のダンサーたちの恋模様。お得意のコメディ路線も随所に見られるが、複雑な人間関係、家族、人種差別までシリアスな問題提起を何気なく見せるのは萩尾ワールドならでは。“絵にすると一番難しいのは、文章で「彼はふと、この感じは前に感じたことがあると思った」というのを全部絵にすること”と語るけれども、実際にやってのけている。小学館文庫のこのシリーズは萩尾ワールドに魅せられた人たちの手による巻末のエッセイも魅力。この作品には、劇作家の倉田淳。話題の耽美派男優集団である劇団スタジオライフ主宰、過去に『トーマの心臓』『訪問者』を舞台化している。おや『11人いる!』の巻末エッセイは中島らも…わかるような気もする。

2000/08/12-9743
ローマへの道 萩尾望都 小学館文庫 2000年9月10日初版第1刷発行
 毒毒度:2
“なんだかこの頃はすんなりと人の言葉が心に届いて いろんなものを見直したり見つけたりしてる感じだ ぼくはいつ愛を覚えたんだろう?” (ローマへの道)
“なにもかもなくしても希望がなくても世界が不条理でも 舞台だけは美しかった あそこには幸福があった 舞台にだけは青い鳥が住んでた”(ブルーバード)
“あたしがオデット姫だったらロットバルトの魔法にかかったままのほうがいい!”(ロットバルト)

新聞の新刊広告に誘われて購入。全編バレエものであり、私にとっては初見。その昔対談で、少女の頃に憧れていたのは、松葉杖と、バレエと、まま母!と語っていたのを思い出す。松葉杖までは出てこないけれど主人公は怪我もするし、育ての親も亡くなる。優れたアーティストとアスリートに狂気はつきものと私は考えているが、自分の感性、肉体を信じて野心を抱き夢に近づいている最中、ふっと愛に気づいてしまう一瞬が人間らしくて実に愛おしい。
いつのまにか「愛」を使う事を知り
知らず知らず「恋」と遊ぶ人になる
だけど春の短さを誰も知らない
君の笑顔は悲しいくらい大人になった(井上陽水「いつのまにか少女は」)

2000/08/12-9744
ウルトラバロック 小野一郎 新潮社フォト・ミュゼ 1995年6月25日発行
 毒毒度:3
“バロックはある日突然に、怪物への自己変身をとげるのだ。モダンの内側で成長をとげながら、いつかそれは、モダンを内側から食い破ってあらわれる、未知の原理としてのその本質をあらわにするのである。それは、権力を愛するリバイアサンの怪物ではない。バロックは、人の世界の幻影にすぎない権力の意志を、純粋なコスミックの力に、変容させようとする”(中沢新一による序文「来るべきバロック」)
“本当に惚れたものを撮りたいという気持ちは、できれば私情をはさむことなくそのまま切り取って持ち帰りたいということなので、私にとっての撮影という行為は、お気に入りのマジョリカ陶器や金箔のマリア像を買ってくるというような物的な収集活動と同じ意味を持っています。”

バロックからウルトラバロックへ。異端の中の異端。ラテンアメリカに育った装飾過多の建造物たちの細密撮影集。隙間恐怖症にかかった建築の細胞とでもいおうか。おそらく、実物を見たら、何日も開いた口がふさがらないであろう。血を流すキリスト像もさることながら、一番度胆を抜かれたのは、町のあちこちに何気なく存在するらしい「血の涙を流す守護神」である。美しい少女の形をし、白いドレスを身にまとったその像は微笑みながらも、真っ赤な双眸から血の涙を流し続けるのだ。

2000/08/11-9745
獏の食べのこし 中島 らも 集英社文庫 1993年1月25日第1刷
 毒毒度:1
“僕がこれらの中毒ものにひかれるのは、その魂の欠落のありようをはっきりと手でなぞることができるからである。男が半身である女を求める、女が球の半分である男を求める、それと同じように中毒者たちはその欠落部を注射器による幻覚で埋めつくそうとする。そしてそこにはちょうどデスマスクのように、白い粉でできた哀しい鋳型がひとつできあがる。たぶん、そういった冷え冷えとした哀しみに僕は中毒しているのだろう”(哀しみの鋳型)
“恋におちることは、つまりいつかくる何年の何月かの何日に、自分が世界の半分を引きちぎられる苦痛にたたき込まれるという約束を与えられたことにほかならない” (失恋について)

この人の毒にも少々慣れてしまったか? ゲラゲラ、ドキドキ、ゾクゾクの数値が今回は低かったように思う。そうはいっても音楽と死と酒と恋。「JUNE」に連載されていた、ひさうちみきおの「パースペクティヴ・キッド」の話など、あまりにも懐かしすぎる。押し入れや閉じた空間が大好き。アンドレ・ブルトンの『シュールレアリスム宣言』を手にとってしまった少年時代(この話は別の著作だったが)。数あるホラー映画の中でゾンビものがきらいなこと。だいたいこの人に惹かれるのは、マイノリティぶりに似ている部分が多いからだと思いはじめている。

2000/08/10-9746
画商の罠 アローン・エルキンズ
秋津知子 訳
ミステリアス・プレス文庫 1995年3月31日初版発行
毒毒度:1
“わたしは、それが芸術作品か、あるいは完璧な出来ばえの模作かということは、その作品の美的価値とはまったく無関係だと主張しているんだ”
“むろん、どんな画家にも調子の悪いときというのはあり、バリョット美術館はその生きた証拠を示していた。ある意味では、その点にかけては、この美術館に匹敵するところはない。ここには、出来のよくないムリーリョ、出来のよくないステーン、出来のよくないティントレット、それに出来のよくないフラゴナールがあるが、こんなに揃った美術館はそう多くないだろう。おまけに出来のよくないヴェラスケスまであるのだから、これはもうユニークといえるかもしれない。そして、今度は、出来のよくないレジェまで仲間入りしそうな気配だ”
“凛として光あふれる秋の朝、パリはまさに世界一の豪華な都市だ。ここにはすべてが揃っている”

そうそう、この本があった。美術館学芸員クリス・ノーグレンのシリーズ第3作。同じ著者のスケルトン探偵シリーズと同様、世界旅行とグルメが、謎ときとともに愉しめる。さらに、展覧会開催の華やかなレセプションや、ひんやりとした美術館の空気を感じることもできる。問題は第2作を読んでいないこと。主義に反する行動にでるが、いたしかたあるまい。
休暇直前に、問題が生じた。わたしが勤めるシアトル美術館に、フランスの画商ヴァシィが、レンブラントを寄贈すると申し入れてきたのだ。恋人アン・グリーンとのバカンスを半分諦めたわたしは、ディジョンへと向かう。実は美術界でのヴァシィの評判は芳しくなく、しかも寄贈する絵画を事前に科学的検査にかけることは認めないという条件つきだ。ということは、レンブラントの権威と評されているわたしの鑑定に、すべて託されるわけだ。絵は素晴らしかった。わたしにはレンブラントの作品の中でも最高クラスに見えた。しかし本当にレンブラントの真作を見ているなどということがあろうか? 贋作か、偽物か。そしてわたしは、思いもよらぬ殺人事件に巻き込まれてしまうのだった。

2000/08/08-9747
ライク・ア・ローリングストーン 栗本 薫 文春文庫 1986年8月25日第1刷
 毒毒度:1
“いつか、どこかに、ぼくをまさに必要とし、ぼくがずっと求めつづけていたような、「真の仲間」がいるはずだった。それを見出し、ひとつになる一瞬こそ、ぼくの(いまのところの)人生にとって何ものにもかえがたい、かつて知らぬ輝かしい瞬間となるはずだった”
“そこにあるのは要するにただの「孤独」であり、救済を求める魂であり、そして結局何もせぬであろう「若さ」そのものでしかなかった”(ライク・ア・ローリングストーン)
“毒舌というのとは違う。そのくせ、必ず人の気にさわることを云う。どんなことをしてでも、どんな弱みをぐさりとついてでも自分の強みをたしかめ、優越をたしかめずにいられない、というところがあった。それでよく、誰かれなしに怒らせていたが、絶交するものはなかった。きっと、どこか、いたいたしい気がしたからだろう”(One Night ララバイに背を向けて)

ここ1週間ばかり書店には行っていない。飢えている。手近な文庫をつかんで、家を出た。ポピュラーソングのタイトルをからめた中編3編を収録している。不器用でいたいたしい、青春。主人公が「ぼく」と名乗る時点で、すでに1970年代の匂いがする。ネコというフーテンの少女は、河野典生のジャズ小説に出てくるタイプ(実際「ブルース・マーチ」という短編に出てきた)で、特に新しいキャラではない。ピュアであり残酷。どギツイ化粧、誰とでも寝るが、さんざん振り回されてている「ぼく」だけがネコと寝ていない。互いの心の尻尾をつかまえそこなって青春は終わる。
雨上がりの街は、濡れた獣の匂いがした。私は酷く飢えているが、それは決して、青春の中にいるからではない。

2000/08/07-9748
屍体狩り 小池寿子 白水uブックス 2000年7月10日初版発行
毒毒度:3
“だいたい、大腿骨が無性に好きなのだ。欲をいえば、腰骨から膝の関節にかけて微妙にカーヴし、さらに下って脹脛(ふくらはぎ)にほどよく筋肉がついているとよい。なにも屍体に限らずともよいのである。そんな脚をながめていれば、わくわくと数時間を過ごすことができる。つまりは、極私的レヴェルの興味と骨の脚線美へのなみなみならぬ偏愛に、私の屍体遍歴は支えられている”
“生活のすみずみから死の臭いを嗅ぎ出す所作は楽しいものではないが、けっして辛くはない。生の終着点である死をみつめることは、とりも直さず生を問うことであるからだ”

その昔、白水社文庫クセジュにはずいぶん世話になった…世にホラーという言葉が生まれる以前、『幻想の美学』にて怪奇と幻想体験をしている。新書版の小説は苦手だが、白水社のマンディアルグは読む。エッセイの小径というこのシリーズ、最新刊はどれも魅力的。『ポケット・フェティッシュ』(松浦理恵子)、『郊外へ』(堀江敏幸)、『樹の花にて--装幀家の余白』(菊地信義)、『森物語』(高田宏)、そして本書。死体とつきあっている人といえば、上野正彦(『死体は語る』『死体は生きている』)、解剖学の養老孟司、布施英利が思い浮かぶのだが、この著者はお初。生身の(!)死体というより、造形芸術における屍体研究をしている。美術手帖に、予定よりも長期にわたっての連載は好評だったらしい。西欧のトランジ(腐敗屍骸像)考にはじまり、死の舞踏、メメント・モリへと話は進む。語彙が豊かで、端麗。図版がもちろんモノクロで、扱いが小さいのはこの値段(950円)の本であるからして仕方のないこと。「キリストの花嫁」アレキサンドリアの聖女カタリーナの、切り落とされた頭部が、壮絶に美しい。
脳の中に蛆がわくと奇想が生じるとか。昔読んだ小説で、開頭手術をされたまま寝たきりの子供の頭に蝿を1匹放すという嫌〜な場面があったのを思い出した。居心地が悪い。

2000/08/06-9749
世にも短い物語
クレオパトラの夢 カサノバのためいき
森瑶子 朝日文芸文庫 1994年8月1日第1刷発行
 毒毒度:3
“そして夏が終わった。それは突然に終わってしまった。あまりの呆気なさに、奈津世は茫然としている。いきなり何かの刃物で切りつけられて、傷口がさっと開き、そこから血が噴き出してくる寸前のような気分。はっと息を吸い込んだまま止まってしまっている状態。”
“きみが好きだよ、と織田は温かく言った。さよならの別の言い方だった。”(秋)
“優しさと理解と、悲哀とで、由起子の胸が湿った。それにしても歳月が、男と女の間にある一番大事なものを、すりへらしてしまったのだ。歳月が。”(フルムーン)

何でそんなに怖い話ばかり読んでいるんですか? それはね、死ぬより最悪なことをいつも考えていなければいけないと思うからだよ。戦うために、スポーツするがごとく読むのさ。
夏の盛り。テラスから見えるのは針葉樹の森、塗料の剥げかけたテニスコートと、雑草の茂み。ありとあらゆる種類の蝉の声に囲まれている。甲羅を持つ虫たちの羽音、時折地上をかすめ去る鳥の影が、かろうじて時の流れを知らせてくれる。今日は、非日常の恐怖から、日常の恐怖へ旅をする。
森瑶子は逝ってしまった、と巻末のエッセイをしめくくった池田満寿夫もすでに亡くなった。私は森瑶子の魅力は短編にあり、と思っているひとりだが、これはまたずいぶん短い物語である。文庫約6ページが一話、クレオパトラの夢と名付けられた章に25編、カサノバのためいきの章に26編。少なくても51組以上の貴女と私がいる。物わかりのいい大人の関係が崩れていく瞬間をとらえる鮮やかさ、潔さ、残酷。その点では、レンデルであり、ハイスミスである。不倫相手との完璧な逢瀬の合間、男の結婚指輪にではなく、結婚指輪と指の間にわずかに付着した石鹸のカスに幻滅していく女(プラチナ)や、見合い相手にひとめ惚れした男が、女の髪のたった一本の白髪に胸を締め上げられる(三越百貨店)。台無しにするのはある時は男で、別のある時は女。妻は夫のさりげなさすぎる態度から浮気を知り、夫は妻の不倫を想像もせず、安泰の上にあぐらをかいている、悲哀。死ぬより悪いこと、それは諦めを抱いたまま生きて行かざるを得ないこと? 生きているふりをすること?

2000/08/04-9750
エデンの炎(下) ダン・シモンズ
嶋田洋一 訳
角川文庫 1998年7月25日初版発行
毒毒度:2
“言い争う気はない。おれは資本家…企業家だ。利益のために盗み、破壊するのが仕事だよ。おまえらの女王は百年前に海兵隊にやっつけられて、今はおれが何の役にも立たない養魚池をブルドーザーでつぶすわけだ。だとしたらどうする? その斧で、おれと友だちを切り刻むか?”
“あんたならあたしがまだ自分の小さな神話世界を卒業していないんだって言うかもしれないけど、子供のころの経験のおかげで…つまり、あたしは自分の感覚を信用してて、そのほかのものはあんまり重視しないんだよ。水中にいた何かが、今日あたしを殺そうとした。あれが何だったか、ぜひ聞いておきたいんだ”
“おまえは失敗するだろう、エレノア・ペリー。おまえの肉体は、それが起きる前に死んでいるだろう。だが勇気を失ってはならん。女の静かな夜の勇気がわれらの力を結びつけ、男の騒々しい昼の勇気と釣り合いを取るのだから。われらの勇気は闇を作る闇の源。”

伝承。炎の女神ペレには敵が多い。ハワイ人がペレに寄せる信仰に嫉妬し、蜥蜴男で霧男のパナ・エヴァ、ロノやクーという男の神々ほとんど全部がペレを憎んでいる。そして猪の形をしたカマプアアが数世紀の間、ペレを何度も襲っていた。闘いは必要だったがカマプアアがペレをレイプする度が過ぎたために世界のバランスが崩れている…。
リゾート地の異変に気づいた歴史学者エレノアと未亡人コーディは互いにこのリゾート地を訪れた本当の理由を語り合う。エレノアは叔母のハワイの伝承と謎に満ちた冒険譚を読み、自分には何かやらねばならない使命が感じられていることを。一方、コーディは、イリノイ州エルム・ヘイヴンでの地獄の夏と、片思いに終わった初恋(相手の近況もさりげなく語られている)、そして病魔に襲われた現状を乗り越える意志のあることを。実は彼女はこのリゾートをホスピスにできないかと考えていた。
リゾートの経営者トランボにとって最悪の日の到来。リゾート売却の契約は難航し、妻と愛人、さらに、新しい愛人の3人が鉢合わせ。ついに、日本人実業家のパーティから行方不明者が出てしまった。闇に蠢く背に鮫の口を持つ鮫男、人間の歯を持った黒い犬、そしてしゃべる大イノシシ…すべては古代ハワイの神話に登場する怪物だち。地下の幽霊王国、大事な人のウハネを元の肉体に戻す儀式は成功するのだろうか?
ややこしい現地の人名、名称はさておいて、楽しみ方がいろいろできる小説だ。挿入される手記(エレノアの親戚ロレーナ・ステュワートによる)は、青年時代のマーク・トウェインとの冒険をいきいきと綴っていて、こっちが主役か?と思ってしまうほど。常識的には、一人でリゾートを訪れたエレノアと現地の学芸員ポールによる恋がらみの冒険が予想されるが、あれよあれよという間に心地よい肩すかしをくらう。こういう組み合わせでくるかー、やるなあシモンズ。『サマー・オブ・ナイト』のコーディがいまや女性実業家で、ハーランが上院議員で、おまけにマイクが『夜の子供たち』のケイトと結婚してヘリの操縦士になってマウイに住んでいるとはね…コーディとマイクはまだ互いに気づいていないので、このメンツで別の物語が書かれてもおかしくはない。
それにしても本作と『サマー・オブ・ナイト』と『夜の子供たち』との関連について解説で一言もふれていないというのは一体どうしたこと。翻訳権を独占しておいて、さっさと絶版にする出版社にとっては、些末なことか。

2000/08/02-9751
エデンの炎(上) ダン・シモンズ
嶋田洋一 訳
角川文庫 1998年7月25日初版発行
毒毒度:2
“川というのは書物に似ています。川面の表情というのは--上流へ向かうときも、下流へ向かうときも--いわば最近発見されたばかりの、誰も知らない古代の言語で書かれた書物のようなものです。わたしはその言語を学んでいきました。危険な流木や暗礁、木の茂った岸辺といったものを。やがてそれらはその美しさゆえにではなく、安全な水路を見分けるための標識として記憶されるようになりました。奇跡の書物の秘密が明らかになるにつれ、その美しさも--静かな川の夜明けも、物音がぱたりと途絶えた黄昏も--まるで秘密だったからこそ美しかったのだとでもいうように、失われていってしまったのです。”
“吐き出された炎はしばらく空中を飛んで、みずからを生み出した炎の湖へとふたたび戻っていくのです。あたりには岩が熱を失って固まっていくときにひび割れる音や、目に見えない無数の亀裂から噴き出す蒸気の音や、溶岩の表面が膨張しては収縮する音が響きわたり……そのすべてに通奏して、まさにわたくしたちの足の下でたゆたい息づくこの炎の海、創造の湖から絶え間なく熱が押し寄せてくる音が聞こえつづけていました。”
“ミルは地下世界の王様で、パナ・エヴァは最悪の悪魔--蜥蝎人間です。クーは--ときどき犬の姿になります。ほかにもたくさん、悪い幽霊がいます”
“マウナペレに何かの怪物がいることを期待しているのさ。せめて斧を振り回す殺人鬼か何かがね。つまり、恐ろしいけど……外部のものが。正面から戦って…そう、戦える何かがいればいいと思う”

ハワイのリゾート地内で、ここ数ヵ月続いている連続失踪事件。また新たに3人がゴルフコースで行方不明になった。しかし経営者のバイロン・トランボはこの事実を隠蔽したまま、なんとか日本人との売買契約を済ませてしまおうとしていた。叔母の手記を携えた歴史学者の女性、土地っ子の学芸員、リゾート旅行の懸賞に当たった未亡人は、人の手首をくわえた犬を発見し、ホテルの保安部に通報する。なんとかもみ消そうとするホテル側。実は大量の血痕を部屋に残したまま、天文学者が行方不明になっているのだ。火山活動は危険なほど活発になり、トランボにとって不運なことには別居中の妻と、二人の愛人がこのリゾート地で衝突するはめに…。
お気に入りダン・シモンズなのだが、ちょっと引き気味だったのは、ハワイものが苦手だから(笑)。土着系吸血鬼がニガテ程度の問題ではあるのだが…。ところがところが! 『サマー・オブ・ナイト』の読者にとっては実に楽しい仕掛けがあって、途中からのりまくり状態。あの地獄の夏を乗り切った悪ガキどもの一人とまた、めぐりあえるのである(会話の中だけだが上院議員になった別の子もいる)。

2000/08/01-9752
ヴァンパイア奇譚
渇きの女王
トム・ホランド
奥村章子 訳
ハヤカワ文庫NV 1997年11月30日発行
毒毒度:1
“「良心を失うくらい、たいした犠牲ではないと思っていらっしゃるんですか?」
 「もちろんだとも」とワイルドは答えた。「愛の営みや快適な暮らしを奪われるよりはるかにいい。それに、美貌を失うよりましじゃないですか? 良心など、くだらないうぬぼれを助長するための言葉にすぎません。もちろん、邪悪な人間より善良な人間のほうがいいに決まっている。しかし、善良な人間より美しい人間のほうがはるかにすばらしい」”
“ルースヴェン卿はグラスの中のぶどう酒を見つめた。「あなたのいう美しさはたんなる幻想です。年をとらない顔など、仮面にすぎない。永遠の若さを保つ仮面の下に隠れている心は、悪と魔性の醜い塊と化して腐りかけているはずです。ぼくはミスタ・ストーカーのいうとおりだと思います。美しさは内から湧き出てくるもので、なにかと引き替えに手に入るものではないのです”
“「昔から、人間のいるところにはかならず吸血鬼がいたのだ」と、教授はいった。”
“<不可能なものをすべて消去すれば、いかに不合理に思えても、あとに残ったものが真実なのだと何度もいったではないか?>”

人間の住む処に必ず、吸血鬼は存在する。インド奥地カーリークシュートラに伝わる吸血鬼伝説を発端とし、舞台は世紀末のロンドンへ。前作『真紅の呪縛』では、バイロンをモデルとしたポリドリの『吸血鬼』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』誕生のエピソードが挿入されていたが、今回はブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』誕生にまつわる物語ともいえる。『吸血鬼ドラキュラ』をなぞり、手記や手紙で綴られ、欲張りなことに切り裂きジャックの謎も明かされるのだ。レズっぽい女吸血鬼の所業は『吸血鬼カーミラ』風だし、『ドリアン・グレイの肖像』を著したオスカー・ワイルドとルースヴェン卿の会話など、にやりとさせられるシーンも各種取りそろえてあるが、前作に比べ少々冗慢な感じがするのは、読む側の私に問題があるのか。悪にも善にも魅力が十分ではない。登場人物の一体誰に思い入れればよいのかとまどってしまう。もともとホームズ系の探偵はニガテなので、それではルースヴェン卿ことバイロンに組みするか、絶世の美女にして悪の根源にひざまづけばよいのか。この戸惑いは実は老舗『吸血鬼ドラキュラ』を最初に読んだときの思いと一致するのだ、偶然にも。 

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