●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-09

2000/09/29-9714
ラブクラフトの遺産 ワインバーグ&グリーンバーグ編
夏来健次・尾之上浩司 訳
創元推理文庫 2000年8月25日初版
 毒毒度:2
“神以外のなにものに人間の運命を預けられようか。ましてや、神の住まわぬいにしえよりきたる、神のおよばぬところよりきたるあのような怪物に、なにを預けられようか。だが悲しいかな、わたしはすでにその運命と引き換えに成功の美酒を満喫してしまった”(シェークスピア奇譯…グレアム・マスタートン)
“小さな書庫のその一隅だけが、不自然に遠い距離感を持っているように見えるのだ。何時間かけても、いや、何日かけても、その距離を歩いていくことはできないのではないかという、なんとも不思議な感覚にとらえられた。しかも、その行程を敢行すれば、途中で悲惨な死にいたるのではないかという気さえした”(ラブクラフト邸探訪記…ゲイアン・ウィルスン)
“万物にはベールがかけられ、その実像がどんなものかを悟られぬように障壁が据えられているのだと、理解してくれ。邪魔しているベールの縁を探しあて、それをめくりあげて背後に隠されているものをのぞくため--ただのぞくために人生をついやしてきた、それがどんなものか、きみにはわかるまい。なにかがあるのはたしかだが、それに手がとどかない”(荒地…F・ポール・ウィルスン)

決してクトゥルーだけが「ラブクラフト的なもの」ではないとかねがね思っていたのだが、まさに「ラブクラフト的なもの」のアンソロジーが本書だ。病める想像力が語る。幻想し続けねばならぬ者の孤独に満ちた物語群。もちろん短編の持つ刃の鋭さがある。書き手の作品の多くが未訳であることは残念至極。

2000/09/27-9715
市場の朝ごはん 村松友視 小学館文庫 2000年10月1日初版第一刷発行
 毒毒度:-1
“ヤキトリ屋で下司っぽいネタを頼んだとき、バーでラム酒を注文したとき、古本屋で好色本を手に取ったときなどに、脇にいた人から向けられる眼差しがこれなのだ。おまえさんもロクでもないものが好きなんだねぇ…そんな秋波にも似た親近感というやつだ。悪場所友だちといえば大袈裟だが、そういう種類のエールの交換なのである。
(あんたも、ゲンゲ鍋なんて代物が好きなんだね…)
「弁慶」の客の目には、そんな色があらわれていた。そのとき、私の頭に《味方》という言葉が不意にひらめいたのだった。同じ味を好むから《味方》…”(哀切のほたるいか幻想)
“この本は、《市場の朝ごはん》が主役ではなく、それをたずねる旅の中にあらわれる、さまざまな人間の匂いが主役ということになるだろう”(あとがきのような終章)

勤め先は『中央卸売市場』にほど近い。酷く多忙なため人と会うには朝5時に待ち合わせて場外で朝飯食べながら…というのは半分冗談ではある。さて、この本には私が訪ねたことのある町、市場も登場する。金沢近江町市場、小樽、新潟、番外で築地。《文章の横這い》と著者は表現するが、話が横道にそれていく按配が心地よい。一関のジャズ喫茶ベイシーのマスターとの付き合いや、名古屋は千種区にあるというステーキとワインの店「尾乃道」の店主のこだわりなどなど。つまるところ、市場の朝ごはんそのものよりも、周辺の人々とのふれあいがなによりのごちそうとなるのだ。さて築地場外のおすすめをひとつ。住吉神社近く、鰹節店の斜め前あたり、建物自体が傾きかけているがひるんではいけない、営業中だ。天丼と天ぷらごはんのみのメニュー、どちらも1000エン也。親父が揚げて娘さんがご飯を盛ってくれる。漬物のひと皿はおかわりが出ることも。午前5時から午後2時。築地にお越しの節はお試しあれ。

2000/09/26-9716
こらっ 中島らも 集英社文庫 1994年2月25日第1刷
 毒毒度:2
“路地で絡まりあった町々は、そういった「立派でない人間」を抱きすくめてくれる柔らかい暗がりをたっぷりと吸い込んでいる。そうした路地裏の、人間の放つ悪臭、心地よい醗酵熱、諦めと安らぎ、ベニヤ板一枚むこうの死、そうしたもの全てが僕をその暗がりの中へと引き寄せるのだ”(駅前開発を叱る)
“僕は「自由」という言葉を尊んで、そのために勝ったり負けたりしながら生きてきた人間である。言っておくが、「自由」というのは決して美しい言葉ではない。自由を選べば人間は生きていく上では非常に不自由になる。(中略)自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。”(「教育憲兵」を叱る)
“ドラッグは、たぶん人間の進化にとって、大きなひとつの試練だろう。一時的な快感を、それよりももっと強い「生への欲求」という快楽が乗り越えてみせる、と僕は信じている” (勝新わるいか正しいか)

日常とかけはなれた1週間を過ごし、人と逢う。愉しい話をする筈だったのにぐちってしまい、あげく自己嫌悪。書店のない町と聞いていたのだが、新刊を扱っているらしい文房具屋と古本屋を見つける。北大が近いせいか古本屋の方はなかなかの充実ぶり。著者名あいうえお順で、棚に並ぶ。極めて探し易い。この本はちょっと叱られたくて買ってみた(残念ながらそれほど私のことは叱ってくれなかったが)。路地裏好きのこの人は、不思議なことに、とてもまっとうである。

2000/09/22-9717
不思議の果実 象が空をII 沢木耕太郎 文春文庫 2000年2月10日
 毒毒度:2
“音合わせのときに、鼻歌みたいに軽く流すのは嫌いなの。それはバンドの人たちに対して負けちゃうことだから。わたしがしゃんと立って、力を入れて、体を張って、ウワァーと歌うから、バンドの人も、あっ、この人そうとう恐いぞ、うっかり変な音は出せねぇぞと感じてついてきてくれるんだと思うんですよ”(秋のテープ)
“キャパの写真における意外な平明さは、単に技巧の有無によるものばかりではない。彼は本質的に写真家ではなくジャーナリストであったのだ。ジャーナリストとは「いま」という時代に深く爪痕を残すため、永遠を望まない人種のことである”(三枚の写真)
“「東京で一度お会いいただけますか」
 中村は微かに首をかしげて言った。
 「東京に帰ったら、もう人間のようなものでいられるかどうかわかりませんから…」
 私はオリンピックの最後の最後に、鳥肌が立つような言葉をひとつ聞くことができた”(夢見た空)

そして旅の終わりに沢木耕太郎である。またまた見事なはまり具合。北大近くの文房具屋兼本屋にて購入、ラジオからはサッカー予選日本対ブラジルが流れていた。地下鉄に乗って札幌駅に着くと、コンコースのテレビには市民が群がり寄っている。それなりに美しい風景。エアポートとという名の電車に乗って貪るように読む。前半は気になる表現者たちへのインタビュー。相手の内部の溢れ出ようとしている言葉の湖に、ひとつの水路をつなげる行為「会って訊くこと」。特に美空ひばりの章が濃い。ただし、エンディングでインタビューのカセットをブリキ缶に放り込むエピソードは余計なのではないか。センチメンタルすぎる。映画、キャパをはさんで、後半は世界陸上とロサンゼルス・オリンピック。ロサンゼルス大会をきっかけに、オリンピックは華美な金儲けの一大スペクタクルと化していくのだが、東ベルリン経由でロス入りという風変わりなアプローチをした沢木耕太郎は、カール・ルイスの演技を嫌悪し、メアリー・レットンの体操に、技という概念の否定を感じていく。スタジアムにいるとあらゆることが見える。同時に大事なときに多くのことを見逃している、テレビだったら間違い無く見られるようなことを。しかし、テレビはあまりに大事なことしか映さなすぎる…。読み終わると、夏が未練たらしくしがみついた東京だった。

2000/09/14-9718
チェーン・スモーキング 沢木耕太郎 新潮文庫 1996年4月1日発行
2000年5月10日八刷
 毒毒度:1
“この自分が、ジャーナリズムという、八十になっても現役でいられる世界に生きていることの幸せを思うべきか、それとも、四十にして「老いすぎた」と言われなければならない世界に生きられなかった、そのことの不幸せを思うべきか”(老いすぎて)
“歳を取るにつれて、行かれない土地というものがあることを知るようになる。そして、ある時、微かな悔恨とともに認めざるをえなくなるのだ。自分はあの土地にはついに行くことがないだろうということを。”(懐かしむには早すぎる)

旅立ちに沢木耕太郎である。なんと見事なはまり具合。国内外問わずいつも「空港で走る男」であるらしい。前日の深酒が理由だったりするのは、結構意外な感じ。読み終わると、雨の旭川空港に着いた。

2000/09/12-9719
肉食屋敷 小林泰三 角川ホラー文庫 2000年9月10日初版発行
 毒毒度:3
“わたしは粘つく人造馬の足を掴み、水平にすると、さっと骨刀を振り下ろした。人造馬の脚先は嫌な音を立てて、ちぎれ飛んだ。じゅるじゅると人造馬は嘶いた。苦痛は感じないはずだが、やはり自分の肉体の一部を傷つけられるのは不愉快なのかもしれない。切断面からは黄色い汁が流れている。臭いを嗅ぐとどうやら腐汁のようだ。熱のため、骨髄の腐敗が始まっている。修理にはかなりかかりそうだ”(ジャンク)
“幸不幸を決めるのはその人間の思いなしなのだ”(妻への三通の告白)

この世にしばし別れを告げて似たようなあの世へと向かうにあたってふさわしい選択?かどうか。これから10日程この部屋は更新できないのではないかと思われる。さて気色悪い描写はお手のものの小林泰三の最新文庫。著者が二足のわらじをはいているというのは、会社員と小説家ということではなく、ホラーとハードSF作家という意味であるらしい。ラブクラフトの『ダンウィッチの怪』のクライマックスを思わせる山の頂きの悪夢はそれだけでは終わらなかった…という表題作よりも、ゾンビものと西部劇の合体『ジャンク』が私は気に入った。ダン・シモンズの『はるか南へ』を彷彿とさせる。確かに人造馬の描写は神経に障るけれども、見事にハードボイルドしているではないか。愛もあるしね。

2000/09/10-9720
感謝知らずの男 萩尾望都 小学館文庫 2000年9月10日初版第1刷発行
 毒毒度:2
“ぼくは もっともっと わがままになりたい 五つのダダっ子のように 世話され 与えられ そして決して見返りは求めない 感謝知らずの男になりたい”(感謝知らずの男)
“この世界はなんだか死んだ人間たちの見ている夢のような…
 なぜだろう? ずっと小さい頃からそういう不安があるんだよ”
“夢だったと こりるそばからおまえは 見ていた夢をまた恋しがるんだ”(狂おしい月星)

『ローマへの道』で脇役だったレヴィの物語。自分の弱さを嫌悪し、人との関係へ怖れを抱く青年。巻末のエッセイは篠田節子。“萩尾望都はどこかの時代の、どこかの国の、ありえない風景の中で、ありえない少年群像を使い、少女たちの心情や深刻な問いに応えていった。”なるほどこうしてみると、いま活躍している女性の表現者、創作者に萩尾望都がいかに多くの影響を与えているかがわかる。
つくつくほうしが鳴いている。あぶらゼミの声は聞こえない。短かすぎる夏と生命は失われた。遠い記憶の抽き出しから。「きみはいつも美しい少年の姿(なり)をしている。でもわたしは知っている。どんなに美しく着飾った少女よりも、きみの心は美しい少女そのままだ」

2000/09/07-9721
彼らの流儀 沢木耕太郎 新潮文庫 1996年4月1日発行
1999年5月20日5刷
 毒毒度:1
“かつて、どこへ辿り着くのかもわからず、ただ必死にジャーナリズムの海を泳いでいるだけだった私も、彼と同じく、「胡桃の殻のように堅牢な人生」を生きている老人の前で、何度となく立ちすくみ、うなだれたことがあった。たとえば、ベルリン五輪に出場して五千と一万に健闘した村社講平。彼に見せてもらった日記には、現役引退後も、その日走った距離の総計が一日も欠かさず書き記されてあった。走行距離の一覧表一枚で生きてきた道筋が表現できる、その簡潔で、確かな人生に、私はほとんどうちのめされたといってよかった。”(胡桃のような)
“私は、何度も何度も取材のための旅を続けていくうちに、いつの間にか、満たされたもの、欠落していないものをそのまま素直に受け入れることができにくくなってしまったのかもしれなかった。”(星と虹)
“あのレンゲ畑でいったいいくつのボールをなくしたことだろう。だが、たぶん、レンゲ畑でなくしたものはボールだけではなかったのだ”(レンゲ畑の忘れ物)

朝日新聞の連載といえば天野祐吉の《CM天気図》と中島らもの《明るい悩み相談室》が記憶に残っている(CM天気図の方はまだ現役だ)。《それから》と、現在連載中の《あの人が読みたい》というのも好きだ。沢木耕太郎の《彼らの流儀》も朝日新聞に掲載されていたコラム。日本にはない、コラムらしいコラムをめざした。結果、コラムでも、エッセイでも、ノンフィクションでも、小説でもない、と同時にそれらすべてであるような味わいの文章となった。実は何面に載っていたか思い出せないでいる。ひとつふたつ読んだ記憶のあるような気がするが、ほとんど初見の感覚。ちょっと情けない。一体何処を彷徨っていたのか、今考えると、いいかげんな自分とはあまりにも違った生き方をしている沢木耕太郎を避けていたのかもしれない。

2000/09/06-9722
ワールド・ミステリー・ツアー13
Vol.13 空想篇
筆者/水木しげる 他
企画・編集/三津田信三
発行/同朋舎
発売/角川書店
2000年6月10日第1刷発行
 毒毒度:2
“精霊とか妖怪とかカミサマもそうだが、形はないけどいる存在なのだ。目には見えないけどいるのだ”
“《目には見えないから空想である》といった考えはおかしい。存在しているけど、不幸にして人間の目に見えない方々がたくさんいる。そういう方々は、すべて形になりたがっている、と私は思う。形になろうとして、絵描きなどの脳をノックするのだ。すなわち、インスピレーションである。だから「妖怪感度」ともいうべきものを常に磨いていないと、やはり感じにくい”(第1章 見果てぬ楽園を探し続けて--水木しげる)
“ホラー短編を書く行為は細い道をたどることに似ている。あるいは綱渡り。まず日常にはじまり、確固たる現実が徐々にゆらぎだす。最初から舞台が異世界で、どんな怪物が現れても不思議のない状況ならファンタジーになってしまう。作者はアトモスフィアを醸成することによって少しずつ読者の不信を解体していく。いわば読み手を袋小路にいざなうわけだ”(第12章 地図にない道を辿る--倉坂鬼一郎)

シリーズ完結。空想といえば、水木しげる大先生。マガジンだったかサンデーだったかのモンスター特集で水木しげる描くところのケアルにひかれて『宇宙船ビーグル号の冒険』を読んだ人間である。楽園病ともいうべき水木サンは今でも「探し方が悪かったのだ」と思い続けているらしい。他に、自らを神と呼ぶ菊地秀行男爵の「魔界都市新宿誕生秘話」や『屍体狩り』の著者・小池寿子が案内する「死ヨーロッパの死後の世界」などなど、読みごたえあり。巻末に13巻分の索引付き。

2000/09/05-9723
栗本 薫 ハルキ・ホラー文庫 2000年8月28日第一刷発行
 毒毒度:1
“ひとの顔が見ても見えなくなって、ないように見えたり、自分の顔がないような気になったりする、そういう精神病が流行しつつあるんだろうか”

大学でフランス文学を教える高取浩司は、ある日、ファミレスのウエイトレスの顔がないことに気がついた。悪夢の日々のはじまり。
相手の顔がのっぺらぼうに見えてしまうという発作に悩まされる高取が、やはりのっぺらぼうを目撃したというホモの男と知り合い、同志のような安堵感と親しみを感じたあげく「たった一人で化物どものなかにおいてゆかれるくらいなら、男に抱かれるくらいなんでもない」という一瞬の思いに茫然とする。後半は血なまぐさい殺人事件が起こるし、結末には救いがない。しかし、どうも「ぬっぺらぼう」か「のっぺらぼう」か、いずれにしてもこの響きにはユーモアさえ漂ってしまうのだ。

2000/09/04-9724
舌づけ
ホラーアンソロジー
菊池秀行・乃南アサ・小林泰三・
北川歩実・山崎洋子・山田正紀・
加門七海・赤江瀑
祥伝社文庫 1998年7月20日初版第1刷発行
 毒毒度:2
“現代の私たちは、もう、頚動脈から血をすすることはない”(「舌づけ」菊池秀行)

ちょっとクセになるかも、祥伝社ホラーアンソロジー。現代吸血鬼ものはいいとして、嫁姑の葛藤(「のっとり」山崎洋子)とか意地悪な付添婦(「口封じ」乃南アサ)の話はやっぱり後味が悪い。

2000/09/04-9725
グッバイ! タンデムシート 香咲弥須子 角川文庫 1988年2月10日初版発行
 毒毒度:1
“空はいつでも饒舌なのだ。雲におおわれていることもあったし、雨が降りつける日もあり、星や月が輝いていることもあるのだが、いずれにしても何か生き物のように活動しているように思えた。空気の香りも、刻々と変化する。以来、わたしは空を見て静かだと感じたことは一度もない”
“GSXをコントロールすることは、自分自身をコントロールするのと、まったく同じなのだった。感情の暴走を抑えること。泣きたい時は、思いきり泣くか、あういは泣かないか、どちらかはっきり決めること。怒りを自制すること。喜びをかみしめること。悲しさから逃げないこと。”
“うまくなってからがライダーではないのだ。ヨタヨタとでも、とにかく走り出さなければならない。走り出してみると、確かにそこには、あらゆるものがあった。その走りは、こつこつと良い走りを目指す一過程ではなくて、どの瞬間も、均等に重要で良きもの、なのだった。人生とは、少しずつ向上させていくものではなく、タイヤを地面に這わせ、転がしていくこと、その瞬間の連続が充実していればそれで充分なんじゃないだろうか”

箱根ターンパイクから伊豆スカイラインへ、何年ぶりかのドライビングを愉しむ。いくらカプチーノと同じエンジンとはいえ、しょせんワゴンRだから、たいした攻めはできないのだが。途中、何人かのライダーに会った。実に生き生きとコーナーを抜けていく。ちょっと羨ましい、私自身はモーターバイクには乗らないので。「あんたは畳の上では死ねないわよ」そうとも言える。
ひとことで言ってしまえば、ひとりの女性の成長物語だ。デイスコ大好き少女が、フリーライターとなり、タルガトップに乗る彼の影響で、走りながら空を見ることのできる喜びにめざめる。秋になって、オートバイのタンデムシートに乗り、やがては自ら免許を取って、武器を手に入れる…はじめてのソロ・ツーリングの思い出や、男友だちからの飲みの誘いをバイク・デートに変更し夜通し走って帰り着いたマンションで冷たいビールをひと口などなど、魔物にとりつかれてゆくさまが、いじらしい。

2000/09/02-9726
とってもシンドローム 久美沙織 集英社コバルト文庫 1982年1月15日第1刷発行
 毒毒度:-1
“柊子さんなんか、こんなに屈折してて、普通の人生歩もうっていうんだから”
“世界全体を憎んでんじゃないかと思うくらい、とがっているかと思えば、自分なんか忘れちゃうくらいつくすタイプになったりして”
“いつもいつもなんか動いてて、あのひとは、じっと、ポケっと、力を抜くことをしらなかった。沈黙しなければ、相手のことばをきちんときくことはできないのに、相手に何もいってもらえない空白が、耐えられなくて、喋りつづけて。同時通訳やるみたいに、入るものと出てゆくものがどんどん流れていって”

上智大学文学部哲学科にて「歌って踊れる」少女小説家だった久美沙織が男の子の一人称で書いた青春コメディ。ドタバタの中にシリアスが必ずある。アンビバレンツ人間と称していた通り、明るいようで結構屈折していたということがわかった。
そういえばずっと気になっていた私の名前の出演作は『宿なしミウ』だった。“オーバーオールの背中一面に、女子美の美少女がやったるやったるとひきうけてくれたMilletのアップリケもあることだからやはりあのミレーでありましょうな。ちなみにいつも店の奥にうだーとねそべったチャウチャウ犬はコローという、コロと呼んではならぬ、コローである。”げらげら(笑)なんだ、うちの犬の名前も出演していたのだった、しかもコローの方が出演シーンは多い。ちなみにうちの犬はもともとがドガで、あまりの呼びにくさにコローに変更されたのだった(爆)

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