●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2000-10

2000/10/30-9688
マリアのうぬぼれ鏡 森茉莉著・早川暢子編 ちくま文庫 2000年9月6日第1刷発行
   毒毒度:1
“空の薄青にボッチチェリの海を見て恍惚とする。これは「贅沢貧乏」である。戦後贅沢貧乏をやってみて、今の私は「贅沢」より「贅沢貧乏」の方が好きになった。金を使ってやる贅沢には創造の歓びがない”(伊太利貴族の部屋の気分)
“だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である”(ほんものの贅沢)
“私は目的なしで、自分のために書いている。自分の文章を解って、面白がる人のためにも書いていることになるけれども、それは結果であって、又従であって、主に自分のためである”

子供のように世間知らず。猫科の動物と甘いお酒とチョコレエト好き。仏蘭西は好きだけれど、なんでも仏蘭西が最高なわけではない。麺麭(パン)と紅茶とビスケットだけは英国に限る。美味しいもの、お洒落れ、特に色にうるさく、色彩感覚に優れた人を、頭がよいとほめた。きれいな小説を書いた。漢字も仮名も、文句なく綺麗であった。

2000/10/29-9689
雨の日には車をみがいて 五木寛之 角川文庫 1990年9月25日初版発行
   毒毒度:1
“ソレックスのシングル・キャブの付いたツインカム・エンジンは、こちらの爪先の動きにまったく忠実に反応した。ウォーム・アンド・ローラー式の軽いスティアリングが、コーナーの狙った場所へぴたりとノーズを運んでゆく”(アルファロメオの月)
“秋になり、ぼくの2000CSの磨きぬかれた純白のボディに透明な青空が映って、やがて冬になった。〈イージーライダー〉の映画がヒットし、三島由紀夫という作家が死んだ。ぼくの1970年は、そんなふうにして終わったのだ”(バイエルンからきた貴婦人)
“ポルシェの加速には、時を追いこす感覚がある。”
“車の悪口を車内で大声で言ったりすれば、たちまち車は機嫌が悪くなる。売りに出そうか、などということは断じて車に聞かせてはいけない”(時をパスするもの)

えーい、ままよ。止められなくなった。雨は相変わらず降っている。休日もそろそろ終わりだというのに。時々自分はいつまでこうして休暇を過ごしていられるのだろうと思うことがある。この連作集は、一人の男性の成長物語と言っていいだろう。時代は1960年代の終わりから1980年代。シムカ1000、アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スパイダー、ボルボ122S・アマゾン、BMW2000CS、シトローエン2CV、ジャグヮーXJ6、メルツェデス・ベンツ3000SEL6・3、ポルシェ911S、サーブ96S。Bitter & Sweet…クルマと一緒になくしてきたものはなんだったのか。この人は、メルツェデスとぶ、ベンツとは言わない。尊敬を込めてジャグヮーと呼ぶ、ジャガーとは言わない。愉しんで書いた、だから君も楽しんでくれ、そんな感じに年上の男は黙ってキーを渡してくれるのだった。

2000/10/29-9690
雨の日のショート・ストッパーズ 山川健一 講談社文庫 1990年6月15日第1刷発行
   毒毒度:-1
“ありがとう。ぼく、いろんなこと我慢して、一流になるよ。なれないかもしれないけど、やるだけやってみる”(雨の日のショート・ストッパーズ)
“もちろん、われわれの毎日は、快楽のためにこそ費やされるべきだからである。快楽のないところには、あらゆる愛情や友情、そしてどのような価値ある仕事も存在し得ないのである”
(友達のオートバイ)

雨と海の匂いがする短編集。現実に雨は降っているし、心の中身も少々ウェットだ。約1ヵ月後、ホームページ開設1周年を迎えるにあたって、コンテンツも整理しなければと思っている。山際淳司スポーツノンフィクションといい、スポーツ関連の本といい、エルロイのエンサイクロペディアといい、とても今世紀中になんて、大それた考えすぎた。本の整理をはじめているのだが、何かをしなければならないときには必ず別の何かがしたくなるわけで、この場合は一番簡単なこと…つまりは、手に取った本を読み終えるという行動に出てしまう。さて、山川健一といえばポルシェを経てアルファ・ロメオ(残念ながらアルファはあんまり似合っていない気がするが)、そして『マッキントッシュ・ハイ』で知られる。今手にしている短編集をはじめ、この時代に書かれた音楽小説などは品切れもしくは絶版のようだ。別れた妻と暮らす息子とのひとときを描いた表題作には、ちょっとほろっとさせられる。主人公は大学野球で活躍したショート・ストッパー。二番を打っていた。プロ野球では通用しなかった。3年やってあきらめた。食前にさりげなくシェリー酒を飲むことができる洗練。もしかしたら彼がプロで通用しなかった要因はそこにあったかもしれない。息子がリトル・リーグに入ったことを妻から電話で聞いていた彼は、この日新品のグラブを贈る。そして息子のポジションは、かつての自分と同じ、ショートだった。健気に決意を語る息子の、まだ小さな手を握る彼。過去のショート・ストッパーと未来のショート・ストッパーの握手。この短編集といい、『クロアシカ・バーの悲劇』といい、それらが村上春樹作品のタイトルであっても違和感は、ない。
ちょっと珍しいところでは、主人公の不倫相手がヤクルト・スワローズファンという設定の「Stay With Me」がある。最後のセリフが効いている“スワローズは、また負けました”というのである。1980年代はそんな時代だった。

2000/10/27-9691
EQMM90年代ベストミステリー
夜汽車はバビロンへ
ジャネット・ハッチングズ編
深町真理子ほか 訳
扶桑社ミステリー文庫 2000年9月30日第1刷
  毒毒度:4
“今回こんなに遠くまでやってきたのは、魂の温度を計るため、決意の強さを試すため、いままた別の女と赤ん坊を救おうとすることで、過去を贖う自分がどこまで行けるのかを見るためだ”
“ヴェイルは若者の体をかわすとドアをあけて、その先にある、泣き叫び、すすり泣き、泣き濡れた、哀しい仄暗闇の世界へと入っていった”
(「名もなき墓」ジョージ・C・チェスブロ、雨沢泰 訳)

ヴェイル・ケンドリー。ドリーム・ペインティングという絵画のスタイルを創作した芸術家。コードネーム《大天使》。彼は死だ。もとCIA工作員。心と魂と誇り。彼は夢を見る、鮮明な夢を。夢は彼に苦悩をもたらす。そして夢は芸術のパワーを生む源でもある。降り注ぐ記憶、正義への道しるべ、謎を解く鍵。狂気との闘い。彼は悪魔をくいとめるため過激な暴力に身を任せる…日本ではあまり紹介が十分でない《小人探偵モンゴ》シリーズの脇キャラを主人公とした「名もなき墓」に、惚れた。

2000/10/26-9692
EQMM90年代ベストミステリー
双生児
ジャネット・ハッチングズ編
中村保男ほか 訳
扶桑社ミステリー文庫 2000年9月30日第1刷
  毒毒度:3
“その佇まい、その姿勢、そのポーズ--まさにミケランジェロのダヴィデだった。いや、それ以上だった。彼は私のダヴィデだった。私の理想だった。私がそれと気づかず、生まれてからずっと追い求めてきたものだった。私はそのとき眼で彼を呑み込み、そして彼に溺れたのだよ”(「ダヴィデを探して」ローレンス・ブロック、田口俊樹訳)
“わたしは絵の中に、走っているハーバートを見、ハーバートの飢餓感を見た。彼の、問いかける情熱と、答えをなんとか得ようとする気持ちを見た。わたしは、なぜ哲学者が常に挫折するのか、そして、それにもかかわらずなぜ哲学者が考えつづけるのかを見た” (「動いているハーバード」イアン・ランキン、高儀進 訳)
“ここにある本のすべてが人生の代用品ではなく、人生の設計図だった頃、彼はどんなふうだったのだろう?”(「ヒマラヤスギの野人」ダグ・アリン、田口俊樹訳)

あのマット・スカダーがアル中を克服し、魅惑的な女性とハネムーン中(!)のフィレンツェ。再会した老人はなぜあのとき恋人を切り刻むようなことをしでかしたのか? 人の心と生の不可思議。ぐいぐい引き込まれていく。会話、食事風景、美術品のひとつひとつに至るまで豊かな描写を惜しまない技の数々。「双生児」(ジョイス・キャロル・オーツ)の舞台コントラカールとは聞いたことがあるような…そう、アンソロジー『999』収録「コントラカールの廃虚」と同じ作者だった、雰囲気作りがうまい。ハードボイルドな「ヒマラヤスギの野人」(ダグ・アリン)や、現代版クリスマス・キャロルともいうべき「クリスマスの正義」(ウィリアム・バーンハート)など、粒揃い。一つだけ既読があった、「つぎはお前だ」(エド・ゴーマン)は祥伝社文庫『サイコ』に収録。

2000/10/24-9693
本取り虫 群ようこ ちくま文庫 1996年12月5日第1刷発行
  毒毒度:1
“私が一生のうちに読める本は、そのうちわずかだと思うけれど、本を読むのをやめられない。本の山は私の目の前にたちはだかっているが、これからも懲りずに一冊ずつ手にとって、目からうろこを落とし続けたいと思っている”
“梶井基次郎の本は私の傍らにあった。彼の書いた作品のなかに潜んでいる、不気味さとそれに相反するものとの対比の美しさが好きなのだ。耐乏生活を強いられている、どろどろとした鬱陶しさと、彼をとりまく美しい日常生活のもの。土の下の腐った屍体と、その養分を吸って咲きほこる美しい桜の花。子猫の前足を切り取って作るパフと、猫のかわいらしさ。不気味なものがあるからこそ、美しいものが際立ってくる。そして美しいものがあるからこそ、不気味さがユーモラスに思えてくるのだ”

本好きで、猫好き。観察眼。そのいさぎよさには頭が下がる。しっかりしなさいよ!、とばしっと叩いて目覚めさせてくれるようなところがある。

2000/10/24-9694
ヘヴィ・メタルの逆襲 伊藤政則 新潮文庫 1985年4月25日発行
   毒毒度:2
“ジェフ・バートンが選択したヘヴィ・メタルという言葉は、あくまでも総称としての呼び名にすぎない。(中略)音楽の精神論の解釈ではなく、ハード・ロックを単にヘヴィ・メタルと呼んだにすぎないという初歩的な部分をまず理解してほしい。もっと詳しく言えば、70年代のハード・ロックという言葉だけでは収容できなくなった音楽をヘヴィ・メタルという大きな傘で包んでしまおうという意図が介在していた”
“時代は信念ある者に勝利の鐘を送った。短命の流行を追い続ける者は美酒の味を知らない。 NWOBHMの勃発はその事実を再確認させてくれたのである”
“誰かが肩を叩いて起こそうとしているのさ。薄目を開けてみるとなんと天使が立っているじゃないか。でも、よく見てみると可愛い女の子なんだ。ところが、しばらくして、そいつはオーディションに来た男だと分かったんだが、一発で気に入ってしまった。小さなボロボロのアンプを抱えてきて、それを床の上に置き、ちょこんと座ってギターを弾いているんだ”
“天使のようだという解説は、彼の外見的な容貌を伝えたものではない。音楽に対する彼の姿勢、さらには、作り出す音楽を総称した言葉だった”(ランディ・ローズ)

HARD ROCK & HEAVY METAL(正式にはNHOBHM=ニュー・ウエイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)を好んで聞くようになったのは1986年頃。一般的にはかなり遅い。1980年代はじめはスポーツでアドレナリンをめぐらせていたのだが、後半は少々ダレ気味だったのだ。クラシック〜ポップス〜フォークソング〜歌謡曲〜ジャズを経て行き着いた処がここだった。外タレのライヴにはじめて行ったのは1989年8月12日である。会場は渋公、バンドはTNT(解散してしまったが)。ほぼ1月に1度はライヴへ行き、見たいものはほとんど見た。深夜のMTVでチェックし、きちんとサビも歌唱できるよう予習し、ライダースジャケットの下に着てゆくTシャツも、アーティストに失礼のないよう選んだものである。金曜にグレイトホワイトを見て、翌日の新幹線で大阪へ行き、X-JAPANを見たこともある(なぜ大阪かといえば、東京で見る勇気がなかったからだ)。ちなみに3日後には東京でシンデレラを見た。横浜でライヴのあと夜行バスで鈴鹿へ行き4輪の耐久を観たこともある。通勤にジューダス・プリーストTシャツを着ていて、駅のホームで前指をさされたこともあるし、潮干狩りにはグレイト・ホワイトを着用した。さて、酒井康(KOH-SAKAI)と伊藤政則(イトウセイソク、あるいはMASA ITO)は、私のHR&HMの師匠である。毎週、BAY FM78のPOWER ROCK TODAYという番組を聞いていた。エンディングにハガキを読まれたことがある。アリス・クーパーネタだったが、KOH先生は机叩いて大爆笑であった。音楽の話はつい長くなる、これくらいにしておこう。

2000/10/23-9695
彼らの夏、ぼくらの声 山際淳司 角川文庫 1997年2月25日初版発行
   毒毒度:1
“おそらく広岡さんはパ・リーグの野球なんてちょろいと思っていたと思う。レベルはセ・リーグのほうが高いと。ところがあるとき広岡さんがいった。パ・リーグの野球には憎しみがあるね、と。おそらく本気になって向かってくる凄みのようなものを感じたのでしょう”
“チームをたたかう集団に育てあげる仕事と、たたかう集団を鼓舞しながらペナントをつかみとる仕事とは別物だと思う”(オールド・ボーイズ・オブ・サマー)

今世紀最後の日本シリーズをONが闘っている。現在2勝1敗で、ホークスがリード。福岡ダイエーホークスを作り上げた故・根本陸夫を丹念に取材した「オールド・ボーイズ・オブ・サマー」が読みたくなった。
著者が亡くなる1年前の春、単行本で出版された。あとがきで、この夏は何を中心に見てやろうかという取材スケジュールが語られている。1994年といえば、サッカーのワールドカップアメリカ大会の年だ。私は何処にいたのだろう? サーカスを追う少年のように、スポーツの面白さにのめり込んでいく。ヒロイックな日々をおくるスポーツマンたちと共に真夏を駆け抜けていく…あの感覚。

2000/10/22-9696
悪魔の美術と物語 利倉 隆 美術出版社 1999年12月25日発行
  毒毒度:1
“悪魔は「悪」の起源を説明する過程で生まれてきた観念である”
“誰もが見たこともない地獄、計り知れない地獄の光景を飽くことなく余すところなく表現した画家たちの想像力の中に、私たちは人間の心の奥底に潜む恐怖を垣間見ることができる”
“善を意志して悪をなす時ほど、人間が恐るべき存在となることはない、それは歴史が証明している”

同じシリーズに『天使の美術と物語』がある。翼あるもの、天使と悪魔。ダンテ曰く「ルシフェルは今は醜いが、昔は美しかった」と。似た諺に「悪魔も若いころは美しかった」というのがあるそうな。惜しみの無いカラー図版の数々。さすがにこの出版社ならでは。トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』の鍵ともいえるウィリアム・ブレイク『大いなる赤い龍と太陽をまとう女』の図版があり、改めてブレイクの想像力の凄さにおののくこととなる。描かれた悪魔は時としてユーモラスに見えることがあるのだが、ブレイクのそれには軟弱さは微塵も無い。

2000/10/21-9697
言葉の標本函
天使から怪物まで
澁澤龍彦 編 河出文庫 2000年10月4日初版発行
  毒毒度:2
“空虚人(うつろびと)は石のなかにすんでいる。…(中略)…たとえば彼らは死んだ生きものの形骸を食べる。そうかと思うと、私たち人間が口にする言葉や、あらゆる内容空疎な話に酔っぱらったりする。…(略)…生きている人間はだれでも山のなかに、それぞれ自分の空虚人をもっていて、ちょうど剣が鞘のなかに、足が足跡のなかにはまりこむように、死んだら空虚人のなかにはまりこむのだともいう”(ルネ・ドーマル『類推の山』より「空虚人」)
“人間は天使でもなければ禽獣でもない。天使になろうとする者が禽獣になるのは、不幸なことである” (パスカル『パンセ』より「天使と禽獣と」)

澁澤コレクション、その3、古事記からコクトーまで118の断章。澁澤主宰の乱交パーティへようこそ。想像力の産物がうごめく庭園の数々へ。3冊目になると、傾向と対策(?)がわかってきて、面白い。プリニウス、ユイスマンス、ダンテ、ゴーティエ、ニーチェらは何度も登場する。編者による訳文は読みやすい。ニーチェのツァラトゥストラなんて今すぐ読みたくなるほど。そしてどうやら編者自身も天使にして怪物だったようだ。

2000/10/20-9698
万華鏡
ホラー・アンソロジー
高橋克彦・小池真理子・乃南アサ・山崎光夫・森真沙子・久美沙織・竹河聖 祥伝社 1996年9月20日初版第1刷発行
  毒毒度:2
“わたしは孤独だった。今も孤独であることには変わりない。だが、あのころの孤独は今と違って、もっと切羽詰まった、神経にさわるような、思わず声をあげてしまいたくなるような孤独だった”(夜顔…小池真理子)
“何百年も生き続けるものの寂しさを、わからないものたちなんか、いらない……?” (約束の指…久美沙織)

夏頃から探していたのだが、さすが、K造社書店、やっぱりちゃんとあった。掘り出してゆく感覚が気に入っている。さしずめ、本の狩人といったところか。いや、考古学者か? ゾッとするような孤独が、部屋の隅で膝を抱えている。

2000/10/19-9699
言葉の標本函
オブジェを求めて
澁澤龍彦 編 河出文庫 2000年9月4日初版発行
  毒毒度:2
“時間は無償だから、時間を自由にするものは、自分の好きなものを好きなものに変える” (「得体の知れぬもの」 ポール・ヴァレリー『エウパリノス』より)
“さかしまの円錐の 穴あけられた頂点から こぼれ落ちる 微細な砂粒
 黄金は徐々にすべり落ちて そのガラスの宇宙の凹面にあふれる
 喜びがあるのだ すり抜けて 勢い衰えて 落ちるその瞬間に
 人間さながら あわてふためき 渦巻く 神秘の砂を眺めることにも”
(「砂時計」 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂時計』より)

『夢のかたち』に続く、澁澤コレクション第2作。オブジェ…プリニウスからボルヘスまで120の断章。順番にではなく、目を惹いたオブジェの名前と、気になる作家から好きなところを読み散らかすのがいいかもしれない。通勤電車で読むには、ちょっときわどいか。

2000/10/18-9700
少年は大リーグをめざす 赤瀬川隼 集英社文庫 1998年7月25日第1刷
  毒毒度:4あるいは-4
“人は物語を求める。僕も求める。人は物語が好きだ。僕も好きだ。しかし、スポーツマン、とりわけ勇気と才能に満ちたスポーツマンの物語は、フィールドにおける彼の一つ一つの物言わぬプレーの外にはない。その一つ一つのプレーの成功と失敗の集積が、おのずから、それを受け止める人それぞれに、各人各様の物語を紡がせるのである。” (NOMOという生き方「私的野茂英雄物語」)
“希望は現場の若者にあると僕は思っている。その一人は、この混濁した日本を脱し、最高のベースボール共和国たる大リーグに素手で身を投じて活躍する野茂英雄であり、もう一人は、日本にいながら脱日本的なイメージに僕が打たれずにはいられないイチローだ。二人に共通するのは、自分を貫くクールさである。彼らのプレーを見ていると、僕は再び言いたくなる。僕は野球が好きだ。野球そのものが好きだ。そして、野球をやっている選手が好きだ”

金網は要らない。外野席を占拠し、のべつまくなしの楽器、画一的な怒号で、野球を見る楽しみを放棄している応援団も要らない。不気味なラッキーセブンの演出も、メガフォンもビニール傘も要らない。なぜ、素手で野球を楽しめないのか? 著者はベースボール共和国の住人である。気骨のある野球話はもちろん、野球と名のつくものなら、それこそキューバの街角の二角ベイスボルからメジャーリーグまで、愉しい野球話満載の本。センセーショナルにデビューしたメジャー初の日本人野手(!)という設定と、ある大金持ちの個人的な趣味で集められたプロアマ混成チームが、キューバで熱戦を繰り広げるという設定の2つの空想野球小説が収録されている。素晴らしいノンフィクション『来年があるさ』が生まれるきっかけとなったテレビ番組のことも、広島にできた和製「フィールド・オブ・ドリームス」コーン球場のことも。書店で手にとるまで、こんな本が出ているとは知らなかった。目があった瞬間に買うことを決めたわけだが、2年間こうして待っていてくれて嬉しい。先日の海老沢泰久、月はじめのランス・アームストロング、そしてこの赤瀬川隼。今はスポーツを読むにはぴったりの季節のようだ。しかも、購入した数日後に、イチロー、メジャーへのニュース、あまりにもタイムリーというか、この符合には不思議以上のものを感じてしまう。著者がNOMOとイチローに惚れ込んでいるだけに、これからどんな新しい物語が生まれることになるのかとわくわくする。著者流に言えば、一人のファンは、ICHIROから、「イチロー」という、しかしそのファン自身の物語を貰うことになるのだ。

2000/10/16-9701
大導師アグリッパ
グイン・サーガ第75巻
栗本 薫 ハヤカワ文庫JA 2000年10月15日発行
  毒毒度:1
“まこと、よう参ったな、若き魔道師よ。そしてよう、われのこの魂のおくつきにまで達してわれを呼び覚ましてくれたな。礼をいおう。われはひさびさにわれもまた《ひと》であった感覚をよみがえらせた。--こなたの持込んだその血潮の熱さや思いのゆらめき、そして情念の激しさが、われにはこの上なく新鮮に感じられる”

老師イェライシャの助けを得て、ヴァレリウスはついに大導師アグリッパの結界へ達する。当初はひややかであったアグリッパだが、やがてノスフェラスの秘密を語り始める。星船に乗ってきた者たち。星船の鍵を持つグイン。その無尽蔵のパワー、古代機械のマスターともいうべきアルド・ナリス、そうしてもうひとり、かぎとパスワードを持つ男スカールが加わったとき、世界の運命は変わるやも知れぬ…。一方ジェニュアのアルド・ナリス陣営ではナリスの母であるラーナ大公妃のたくらみが察知された。ナリスのジェニュア脱出を企てるヨナ…その方法は非情にも適切というべきものだった…。

2000/10/16-9702
オフ・シーズン ジャック・ケッチャム
金子 浩 訳
扶桑社ミステリー文庫 2000年9月30日第1刷
  毒毒度:3
“二十四時間まえには知らなかった事柄をふたつ知っていた。ひとつのせいで胸が悪くなり、もうひとつのせいで怖くなった。ひとつめは、犠牲者を殺し、食らう集団がいることで、もうひとつは、その集団に成人男性が含まれていることだった”

書店にて、解き放たれた獣と化した勢いで、ついつい買ってしまった怪作。1981年に書かれたが、残酷描写ゆえにオリジナルのまま出版されることがかなわず、訂正させられて出版にこぎつけたものの、結局苦情が殺到し、びびった出版社により初版で闇に葬られたという、いわくつきの「幻の傑作」だそうだ。同臭のリチャード・レイモン『殺戮の〈野獣館〉』に陽が当たったのに、運のないことである。さて今回の日本語訳は、1981年版によるのではなく、1999年の限定ハードカヴァー版をもとにしており、オリジナルの残虐度を取り戻しているとか超えているとか…。休暇中の男女を襲う、謎の〈食人族〉、まさにまんまです。少しでも向いてないと思われる方は絶対読まない方がよいでしょう。レクター博士の優雅さはみじんもないのであしからず。

2000/10/15-9703
暗黙のルール 海老沢泰久 新潮社 2000年9月30日発行
 毒毒度:3
“苦しむことが楽しいのである。この二つの相反する言葉が、何の矛盾もなく溶け合っている世界は、スポーツの世界をおいてほかにない”(なぜ人間はスポーツをするのか?)
“たぶんわれわれは、精神と肉体の完全なる一致の困難さと、それが一致したときに感じるよろこびを本能的に知っていて、スポーツでそれを実現しようとしているのである”(肉体の裏切り)
“熱を入れて見るには感情移入のできるアイドルが必要だというじつに分かりきった事実であった。その間、F1にはアイルトン・セナがいたし、サッカーにはジーコがいた。野球には広岡さんがライオンズの監督をやめてからはそれがなかったのである”(マリーンズ熱)
“われわれは、実生活の中ではさまざまなルール違反やごまかしをして生きている。しかも、違反やごまかしに気がついても、サッカーで手を使ってしまったときほども恥じない。それなのに、どうしてスポーツをするときだけ頑固にルールを守ろうとするのだろう”(ルールがあるから面白い)
“ぼくが哲学者を尊敬するのは、彼らは小説家とちがって、世界の真実をこのようにたった一言で鷲づかみにしてしまうのである”(世界の真実--H・D・ソロー)

人はなぜスポーツをするのかにはじまるエッセイ集。われわれがスポーツを楽しめるのは、実はルールがあるからなのだ。ゴルフの楽しみ、野球の味わい、サッカーの醍醐味、F1への誘い。今の今まで海老沢泰久を身近に感じたことは、なかった。広岡達朗、モータースポーツ、井上陽水という具合に、なぜかいつも私の好きなものを題材に冷徹な文章を書き記す作家としか思っていなかったのだ。こうして読んでみると、広岡達朗のことが好きでたまらないということがよくわかって嬉しい。F1に関する3つの文章はいずれもアイルトン・セナに関するものだ。1989年日本グランプリ予選の観戦記では、セナの尋常ならざる走りの凄味が、キレのいいスタイルによって鮮やかに伝えられている。10年経った今でも褪せた感じがない。著者と同じく私が現在のF1に魅力を感じていないせいでもあるのか。ここまで読んでも著者を見直すには十分だったのだが、出会った人、出会った言葉についての章も、なかなか。故・山口瞳の『行きつけの店』を訪ねる旅はしっとりおだやか。一方、「暗黙のルールの国」イギリスお買い物旅行記はうってかわってドタバタと展開するが、飽きることなく一気に読めたことを付記しておく。

2000/10/14-9704
言葉の標本函
夢のかたち
澁澤龍彦 編 河出文庫 2000年8月4日初版発行
 毒毒度:1
“夢はまったく見ないか、あるいは面白い夢を見るのがいい。目をさましている場合も、それと同じことだと私たちは悟らなければならぬ。--まったく目をさまさずにいるか、あるいは面白く目をさましていることだ”(ニーチェ『華やぐ知慧』)
“実生活と一貫した夢とは、同じ一冊の本のページなのである。脈路をたどって本を読むことが、現実生活と呼ばれるものにあたる”(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
“世界は、時間を惜しまない者には、測定することができる。すぐれた秤り手がいれば、秤ることができる。強力な翼があれば、飛んでいって、これを究めることができる”(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語った』)

河出文庫20周年とのこと。ここのところ毎月、澁澤龍彦コレクションが刊行されている。蒐集家なら単行本なのだろうが、私のような者にとってはこうして文庫で出てくれるのは歓迎だ。ホメーロスからマンディアルグまで、語られた夢のコレクション、126の断章。引用はどういうわけか哲学者の言葉ばかりになってしまったが、もちろん東西の文学からも選ばれている。嘘っぽくてもよい、むしろリアリズムなんぞ犬にでも喰われろという勢いで編集されている。おちおち夢も見ていられなくなった現代人へ手厚く遺された標本たちといったところだ。余談。G座に行きつけの書店数々あれど、一目おいているのは、東G座近くのK造社書店(G座にはK書店もあればK文館もあってややこしい)。K造社が凄いのはそれほど広くはないのにぎっしり本が詰まっているからだ。なぜか掘り出し物(新刊なんだが)に会える。河出文庫の在庫もかなり。なんたってYブックセンターで入手できなかったマンディアルグの『ボマルツォの怪物』も、菊池秀行『蒼き影のリリス』もちゃんとあるのだから。しかもマンディアルグについては私が購入した後、しっかり補充されていた…。

2000/10/13-9705
帰って来た紋次郎
悪女を斬るとき
笹沢左保 新潮文庫 2000年9月1日発行
  毒毒度:2
“いまでは気配と書いて、『けはい』と読む。古くは、『けわい』だった。しかし、けはいもけわいも、『け』は気を意味している。気とは、何であろうか。有るがごとくにして定かならざることを、気という-- 。これである。感覚によって漠然と捉えられる物事の様子が、気配なのであった”(やってくんねえ)
“目深にかぶった三度笠は薄黒く変色して、割れ目や亀裂が生じていた。長身にまとった道中合羽は色褪せて、不器用に鈎裂きを繕った跡が多く残っている。手甲脚絆も、雑巾と変わらない。濡らさないようにしている草鞋だけが、新しいものに見える。錆朱色の鞘を鉄鐺こじりで固めた長脇差には、重量感があった。彫りの深い顔立ちだが、いかにも眼差しが暗かった。左の頬に古い刀傷の跡が、小さな引き攣れを作っていた。口には唇の端に寄せて、長さ五寸(15センチ)の楊枝をくわえている。”(振られて帰る果報者)

ひたすら道を歩く。伸びた月代と、感情が死んでいるような虚無的な目。過去の生きざまを物語る鬱り…そうそうこれでなくちゃね。リハビリにはこれでしょう。平成の紋次郎は、一応かかわりにはならないようにはしているものの、以前に比べ口数は増えた。もちろん一旦請け負ったらどんなことをしても最後までやり通す。たとえ自らの命を狙う者の元へ用向きを頼まれるようなことがあっても、やり通してしまうのだ。一瞬でも目的を持つ旅をしているという意識が、あてのない旅を続けてきた者にとっては鮮烈なのだろうか。

2000/10/12-9706
真夜中の檻 平井呈一 創元推理文庫 2000年9月14日初版
  毒毒度:4
“夜なか日本橋浜町の家をそっと抜けだして、大川端を歩いてみたがまだ興奮がおさまらず、足の向くまま新大橋を渡って真夜の深川・本所をむちゃくちゃに歩き、なんどか交番で咎められながら、どこをどう歩いたか上野の森をぬけて、たしか不忍池で夜が明けたと憶えている。いつもの伝で、下谷の兄の家「うさぎや」で朝飯をたべながら、亡くなった兄貴に長々と小説の筋を話したことであったが、なんでまたそうえらく興奮したのか”(海外怪談散歩「アーサー・マッケン」)
“幽霊の正体なるものは人間のなかにある”(西洋ひゅーどろ三夜噺)
“人智の及ばない不可解なものが、科学万能で解明されつくしたのであろうか。わたしには疑問である。人間が生きていくかぎり、新しい怪異は形をかえていくらでも出てくるのではないか。今までの怪異という観念では片づけられない、得体の知れぬ恐怖や戦慄が、この弱小な人間の五官から払拭されてしまうとは、わたしにはどうしても考えられない”(私の履歴書)

マッケンをはじめて読んだときの興奮が素直に伝わってきて微笑ましいと言ったのでは、大翻訳家に失礼であろうか。最近まで平井呈一(1902〜1976)という人を、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』の他、英米の恐怖小説、怪奇小説の翻訳者、紹介者としてのみ考えていた。実は2作のみであるが上質の恐怖小説を世に送りだしている。本名、程一。二卵生双生児の弟。マッケンに惚れていると言い切れる。器用に文体を真似ることができた。ポリドリの『吸血鬼』も佐藤春夫に師事していた平井が翻訳、師の名義で発表したものだという。戦前の一時期永井荷風の高弟として知られたが、「創作」をめぐっておきた贋作事件をきっかけに、およそ10年文壇から干された。饒舌な荷風とは対照的に平井はこの経緯については弁明していない。戦後を精力的な翻訳活動で疾りつつ、満を持して上梓されたのが、『真夜中の檻』と『エイプリル・フール』という2作であった。筋書きを書き連ねることはするまい。こうしてみると、人の生き方こそミステリイだと思えてならないのだが。

2000/10/09-9707
百万ドルの幻聴(メロディ) 斉藤 純 新潮文庫 2000年9月1日発行
  毒毒度:0
“ときに労るように、ときには鞭を当てるような運転--それは彼女を抱くときの態度と同じだった。静かに愛したかと思うと、まるで獣のような荒々しさでいたぶる”
“F1の本質は頽廃美にあると思っているんだ。あの天文学的な浪費、本能と理性の入り交じった闘争、閉鎖的だと言われているシステムもいかにもヨーロッパらしいこういうのを全部ひっくるめて頽廃的だと思う。そして何よりも、あのスピードの向こうにあるのは死だ。”

オープニングは、モーガンに乗って。この作家は未読だったが、この人の書いた解説は、大好きなデヴィッド・ハンドラーのホーギーシリーズでお目にかかっている。どうもハンドラーとは魂の兄弟らしい。さらに、ストーリーの中心が音楽業界とF1とくれば、無視もできないだろう。ニュース番組に偶然収録されていた少年の歌声。その奇跡の声を求めて音楽ディレクターである主人公は動き始める。デジタル技術によって雑踏の中からとりだした声にカラオケをのせ売り込みが始まった。少年の行方に手がかりはないままに、その曲はアイルトン・セナをキャラクターにしたCFに採用され爆発的なヒットを生むのだが…アレンジャーの焼死、曲の出所に疑問を抱いた宣伝部社員の事故死。実はこのプロモーションは巧妙に仕組まれていたのではないか? モナコ、F1グランプリ会場ですべては明らかになる。
彼女の仕事に対する考え方、姿勢は好感が持てる。F1を闘牛になぞらえ、ヘミングウェイを持ち出す点など、感性もなかなか。ハンドラーと違うのは、手の内すべてを見せてしまって少々ゆとりを感じられないところか。似ているのは実名、仮名の団体・個人名と、巧みに実際のエピソードが盛り込まれて物語が進展していくこと。築地の博通なんてキワドいけど大丈夫かいな。しかも会社ぐるみでやっていることを社員ひとりの暴走としてしまうところなど、業界で最近起こった事件(架空のCFでクライアントを騙し続けた社員の解雇)と照らし合わせて、ううむ。

2000/10/08-9708
CROSSROADS 1 Little Red Toy 西風 集英社 1991年6月25日第1刷発行
1991年8月26日第2刷発行
  毒毒度:1
“モーリス・マイナー・トラベラーの木枠にキノコが生えていた…もちろんそのままにしておいた 発見した親父はどんな顔をして喜ぶだろう……!”(Daddy's Toy)

本の整理というのは、危険だ。ついつい読みふけってしまうことしばし。ということで、このコミックの前に実は同じ作者のDEAD END STREETも読んでしまった。しかしそっちは雑誌扱い、1冊には数えません、残念でしたね。アルファロメオ、MG-B、2CV、ロータス・エラン、バンデン・プラ…。1話4 ページにクルマへの想いとストーリーが凝縮されている。クルマ好きには堪らないわけです。嗚呼、なんだか攻撃的になりたいなあ。

2000/10/07-9709
囁く血
エロティックホラー
グレアム・マスタートン、マイクル・ギャレット 他
ジェフ・ゲルブ他編
加藤洋子・本間有・夏木健次・尾之上浩司 訳
祥伝社文庫 2000年9月20日初版第1刷発行
  毒毒度:3
“人間の性的探究心を突きつめはじめたら--やがてサドマゾ行為や、乳首ピアスに大陰唇ピアス、さらには刺青からほかの重度の性的倒錯行為にまで発展し--妄執がつのり、二度と満足できなくなってしまうものだそうです。あなたは、究極の快楽という蜃気楼を追いもとめはじめている。そんなものは存在しないのです。心地好いセックスとは、ふつうの行為で味わえる興奮のことなのですよ”(おもちゃ…グレアム・マスタートン)

乱交好きの夫を喜ばすべく自分の体に別のヴァギナを造り続ける人妻(おもちゃ…グレアム・マスタートン)、ヴァギナに歯を持つ妖女たち(妖女の深情け…グレアム・ワトキンス)等などふつうではない行為の数々が満載された〈HOT BLOOD〉シリーズ最新刊。いわゆるスプラッタ・パンクは好まないのだが、物語性が濃厚であれば受容できる、毎日リチャード・レイモンは辛いかもしれないが。ラストを飾るグラント・モリソン作「情欲空間の闇」には意外にもラブクラフト的宇宙が…。

2000/10/06-9710
喘ぐ血
エロティックホラー
リチャード・レイモン、ナンシー・A・コリンズ 他
ジェフ・ゲルブ他編
大森望・田中一江・夏木健次・尾之上浩司 訳
祥伝社文庫 2000年5月20日初版第1刷発行
  毒毒度:2
“なにかするってのは、あなたのような、この世のなかで主人公を演じているひとのやることです。その他の人間--たとえばわたしのような--は、見物人になるしかない。あなたは演じ、わたしは見る。それだけですよ、単純なことです”(最上のもてなし…グレアム・マスタートン)

朝の通勤電車では読みにくい内容ではある。これだけエグいと売れるかもしれない。この〈HOT BLOOD〉シリーズは、すでに最新刊で3巻目がでているのだ。予想のつくものから途方もないものまで、エロスとバイオレンスに満ちた物語たち。気になるのは、原書から、日本の読者には向かないと判断されて省かれた物語たちのことだ。

2000/10/04-9711
ウンベルト・エーコの文体練習 ウンベルト・エーコ
和田忠彦 訳
新潮文庫 1993年9月1日発行
  毒毒度:2
“栽園での鋼鉄採集、金属形鋼の栽培、可塑性素材のなめし、屋内化学肥料の売買、トランジスターの種蒔き、スクーターの放牧、アルファロメオの飼育などである。しかしながら原住民は自分の仕事を愛してはおらず、できるかぎり働きはじめるときを遅らせようとする。”(ポー川流域社会における工業と性的抑圧)
“テクストは怠惰な機械だ。いわば白紙のまま、すでに語られた、あるいは語られていない空間を満たすために、読者に過酷な労働を求める”

ミラノの原住民の一日という魅力的な腰巻きに誘われて手にとったが、甘くはなかった。『薔薇の名前』を読んだことがあるくらいでは、この偉大でお茶目な「お話をつくる人」を理解することはできない。出直します。さて訳者あとがきの最新版の最後の一行には、またまた知り合いの名が…。新潮文庫編集部にいるとは知ってたけれど、なるほど富沢さん、じわっといい仕事してるんですね。

2000/10/03-9712
パーティーに招んで 森瑤子 角川文庫 1993年12月25日初版発行
  毒毒度:0
何故だろう? たくさんの貴女とたくさんの私がいる…といつもは感じられるはずなのだが。この作品集に関しては、少々作られすぎの感アリ。犯罪がからむせいではないと思うのだが…。要するに今は小説向きの気分じゃないんだな。

2000/10/02-9713
ただマイヨー・ジョーヌのためでなく ランス・アームストロング
サリー・ジェンキンス
安次嶺佳子 訳
講談社 2000年8月25日第1刷
2000年9月20日第2刷発行
  毒毒度:5あるいは-5
“人は生きる、鮮やかに。病気だったとき、僕はそれまでの一回の自転車レースの中で見たより、もっと多くの美しいもの、勝利、真実を、たった一日の間に見た。そのうえこうしたことは奇跡ではなく、人間によってもたらされたものなのだ”
“「あなたがここを出るときには、這って出ることになるでしょう」
 僕は驚きのあまり、口がきけずにいた。彼は続けた。「私はあなたを殺します。私は毎日あなたを殺し、それから生に連れ戻します。あなたを化学療法で叩いて叩いて叩きのめします。歩くことすらできなくなるでしょう。治療が終わったとき、私たちはあなたに、歩き方を教えなければならなくなると思います」”
“問題は、化学療法がどちらを先に殺すかだ。癌か、僕か”
“上りは僕の内部の何かの引き金をひいた。ホイールを激しく回転させて上っていく中、僕はこれまでの人生のあらゆることを思い出していた。子供時代、初めのことのレース、病気、そしてそれがどんなに僕の人生を変えたか。おそらく上るという原始的行為が、僕がここ数週間避けてきた問題に、僕を立ち向かわせたのだろう。もう時間稼ぎはやめるべきだと思った。動くんだ。僕は自分に言った。もし動けるなら、もう病気じゃない”

自転車競技はヨーロッパのスポーツである。日本では自転車競技の選手は一般に知られていない。実はアメリカでも自転車競技はマイナーな部類に属する。ランス・アームストロングがオスロでの世界選手権に勝ったときも、最年少でツールの区間優勝を遂げたときも、彼は今ほどの有名選手ではなかった。トライアスロンから転向したせいか、一流を目指す多くの自転車選手から憧れの目で見られることはなかったと記憶している。体つきは優雅さに欠け、戦い方も洗練とはほど遠かった。順調にいけば、平均的あるいは平均以上に傲慢なスポーツ選手としての人生を生きたかもしれない。
1996年25歳で睾丸ガンを発病、脳と肺への転移が発見される。助かる確率は実は3%ほどでしかなかった。しかし想像を絶するほど過酷な化学療法を闘い抜いた彼は、癌からの生還を果たしただけでなく、再びサドルにまたがり、世界で一番有名なステージレース、ツール・ド・フランス連覇をも成し遂げた。今や自分自身を超えた人間として、世界中から称賛され続けている。この本には、ランスの人生ほとんどすべてがある。ツールでの勝利に触れられてはいるが、ランスが言う通り、自転車は彼の人生のほんの一部にすぎない。原題名“It's not about the bike”。ここに書かれていることを、できるだけ多くの人にぜひ自分の目で読んでもらいたいと思っている。
さて重箱の隅をひとつつき。国際自転車競技連合に、ICUとルビが打たれているが、UCIとしてほしかった。もちろんランスに責任はない。 

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