●あと10000冊の読書(毒読日記)  ※再は再読の意 毒毒度(10が最高)

2001-02

2001/02/28-9608
スパンキイ
クリストファー・ファウラー
田中一江 訳
創元推理文庫 2000年12月22日初版
   毒毒度:3
“スパンキイが道に落ちていた小石を蹴飛ばすと、それが落ちたところに紫色の蘭が芽を出し、微速度撮影の写真のようにぐんぐん下草をかきわけて伸びていった。気がつくと、スパンキイの足が一歩一歩移動するたびに、その足跡に小さなサファイア色の花がひらいていく”

君を選んだ理由は、健康で知性があって、意志が弱いからだ。ダイモーンが取り引きするのはケチな魂なぞではない。もともと魂なんてそうそう持ち合わせている人間はいないのだよ。
金にも女性にも無縁な家具やの店員マーティンが出会った不思議な人物。ゴルティエやヴェルサーチを着こなし、非の打ちどころのない容貌。悪魔でも天使でもない、男でも女でもないそいつは、さえない人生をより良い方向へ転換させてくれるという。スパンキイのおかげで昇進もしたし、服の趣味も会話も洗練され、美女との交際も思いのまま、安アパートから高級マンションへ引っ越して…結果、スパンキイの突き付けた請求書は途方もないものだった…それは魂を売るより酷いことだった。支払いを拒否したマーティンとスパンキイの全面抗争は期限付1週間!
パンクなホラーとのふれこみだが、まあ現代版ドリアン・グレイとでもいおうか。大のアメリカ嫌いという作者だが、こういうエンディングはなるほど、イキリスっぽいのかも。

2001/02/25-9609
真夜中のサヴァナ
--楽園に棲む妖しい人びと--
ジョン・ベレント
真野明裕 訳
ハヤカワ文庫NF 1998年5月31日発行
   毒毒度:4
“音楽家は神のご加護を受けていると書いてた人がいるけど、それはほんとだと思うわ。音楽で人を楽しませることができるだけじゃなく、自分も楽しめるのよ。わたしは音楽をやってるおかげで、淋しい思いをしたことはないし、落ちこんだこともないわ”(六千曲のレディ)
“これで今やわれわれは大邸宅での殺人事件を抱えこんだわけだ。なんとねえ! さて、われわれの現状を見てみるとしよう。へんちくりんな虫の専門家が恐ろしい毒薬の入った瓶を持ってこそこそ歩きまわってるわな。ほかに黒んぼの女装したオカマと、いもしない犬を散歩させてる爺さんがいて、今度はホモの殺人事件ときた。きみねえ、この分じゃわたしとマンディはとんでもない映画に登場することになるじゃないか”(小切手と未払い額)
“サヴァナはよそ者に対していつも親切だが、かれらの持つ魅力には不感症だ。そっとしておいてもらうことをなによりも望んでいる” (その後)

「北米一美しい街」と評判のサヴァナ。二十年間ニューヨークで編集や寄稿という稼業についてきた「わたし」が、「しおれたエンダイヴの葉を敷いた上に載せて出された子牛肉のパイヤールを食べた結果」ニューヨークを去ってサヴァナに飛んだ(いや、正確にはチャールストンからレンタカーでのドライブでサヴァナに立ち寄ったわけだ)のが、ことのはじまりである。週末南部に飛ぶ方が、ニューヨークでの食事代より安かったのだ。ベレントにとってサヴァナはフリント船長の死に場所であり、作曲家ジョニー・マーサーの生地。しかしいざ暮らしてみると、回りは不思議な人びとばかり、そして大邸宅で同性愛がらみの殺人事件が発生する…。これがノンフィクション…ありふれた言い方だと事実は小説よりも奇なりというやつで、キャラの凄さ、裁判物の醍醐味、おまけにヴードゥー教までが登場するエンタテインメントぶり。訳者あとがきによれば、かのトルーマン・カポーティ『冷血』以来のノンフィクション・ノベルと絶賛され、1994年初頭の発売以来ノンフィクション部門のベストセラーリストにのり続けたとのこと。日本で発売された単行本の表紙を飾っていたボナヴェンチュア墓地のあの像(両手に皿を持った少女像)は、あまりに見物客が多いので遺族が撤去してしまったとか。確かこの像とベレントのサイン入りクッキーなどが出回ったはず。クリント・イーストウッドによる映画化の評判は聞き逃したまま。妖しい人びとの代表格、サヴァナの女帝シャブリねーさん本人が出演しているらしい、興味しんしん。

2001/02/24-9610
旅の短編集 春夏
原田宗典 角川文庫 2000年12月25日初版発行
   毒毒度:0
“そいつは愛の大きさを計る道具だよ。黒い方を男が、赤い方を女が持つんだ。相手に対する愛情がどれくらいの大きさなのか、目盛りを読めばすぐに分かるってわけさ”

どこかで、なにかで、読んだり聞いたりしたことがキャスティングされているような感じ。その国の言葉を話せるようになるビールや、どんな料理でもおいしくなる食器や、100杯飲むと小説家になれるバルザック・コーヒー…乱暴に一言で言ってしまうと、「惚れ薬」のようなものである。ニヤニヤしている店主の顔が浮かぶ。残念ながら、物語を知り過ぎてしまった者には、特に幻想的でも不思議でもない。新しい毒も新しい薬もここにはない。

2001/02/21-9611
陽水の快楽
井上陽水論
竹田青嗣 ちくま文庫 1999年3月24日第1刷
   毒毒度:1
“ひとつの審級のメタモルフォーゼが生じると、その響きの中で彼は、どのような形で、自分自身の最も深い「めまい」を鳴り渡らせるか、という方向に自らを導いてゆくように見える。そしてその響きを探りあてたときに、あざやかな裂開が浮かんでくるのである”
“陽水が唄うとき、たしかに、ある不幸な音調が響き出すのを「彼自身がいぶかしげにのぞき込んでいる」、という感触を与えられるのだが、ここでは、彼は決して不幸を演じているのではない。ただ、自分の心象の水面に浮かんでくるなにかを、心を澄ませて聴いているといった感じをうける”

つねにサングラスをかける理由について「たとえば、いかがわしい場所で人間の道を極めるため」と陽水はいう。自分の中で一度死んだ音楽である陽水を著者はなぜとりあげたかという部分を知りたかったのだが、青春時代に運命的出会いをしたという他の表現者(フッサール、チェーホフなど)についても述べて、しかも後半はハイデガー、キュルケゴール、サルトルら実存と実存主義をひきあいに論じてしまう点は、少々うっとうしい。その声に「おののき」と「めくるめき」を響かせ、わたしに「わたし自身」という謎を告げ知らせる音楽…これで十分ではないか。

2001/02/19-9612
言葉の箱
小説を書くということ
辻 邦生 メタローグ 2000年4月25日第1刷
2000年6月20日第2刷
   毒毒度:-3
“小説の魅力は、そうした作家の一人ひとりが、自分の心のなかで、これぞ生命のシンボルなんだ、これに触れて初めて人間が単調な世界から抜け出ることができるんだという、そういうものに満ちた別世界を描くことだと言っていいかと思います”
“文体とは、その人の持っている固有の詩の色です。小説を書いても、詩がなければ一流のものにはなりません。次には、この世に対する基本的な考えです。feelingだけではダメで、考えがなければいけない。そして、最後にそれを言葉でつくっていく。”

電車の中で目の前にいるこの人は何を欲求し、しかしそれを果たせないでいるのはなぜなのかを見抜いていきなさい。ある欲望があるときは、必ず反対物がある。その葛藤こそが出来事。そして短編小説が生まれる。講演をもとに没後まとめられ、「小説とは何か」という問いに対する回答といえる。装幀は菊地信義。言葉も箱も端正。

2001/02/18-9613
時さえ忘れて 虫明亜呂無
玉木正之 編
ちくま文庫 1996年6月24日第1刷発行
   毒毒度:5
“松井栄造は大学生であったが、そのプレーはすでに、完成を思わせるゆとりと落ちつきを身につけていた。しかも、完成したうえに、さらに、内から外に溢れでてくる動きがあった。それはプレーだけが持つ生命の躍動感といってよい。虹消えて音楽は尚続きおり、という余韻を、彼のプレーのあらゆるすみずみにまでこだまさせていた。淡々として水の流れにのってゆくあそびのたのしさが、精悍さをひめながら、どこか、天空をはるかに舞う逸楽を思わす、くったくのない資質がゆきわたっていた。野球選手としてはめずらしい日に焼けない、しかし申し分なく男性的な容貌にふさわしい明るさが彼の周囲に感じられた。てらいもなければ、気負いもなく、それでいて、彼のプレーには常に彫琢がほどこされ、人びとに多くのものを未来にむかって約束しているようであった”
“名人はいたのか。名人はいない。スポーツだけがあったのである。走る人、跳躍する人、投げる人、打つ人、漕ぐ人、格闘する人だけがいたのである。彼らは私たちの眼の前で、はてしない空間にむかって運動の軌跡をえがいた。軌跡はすぐ空間に消滅し、私たちはたったひとりのこされて、彼らが残していった軌跡の残像をたよりに、もういちど、脳裡に彼らの運動を再現してみようとした。その時から、この作業は、実は私たち自身の創造にほかならなくなった”(名選手の系譜)

先日、民放でスポーツ・ライターの玉木正之、二宮清純(よくよく見ると凄い名前だ)が同席していて進行役が「激論になりそうですよね」みたいなことを言っていた。二宮清純はすでに自分の世界を語りはじめるべくその瞳を輝かせ、いつもの微笑みを口の端に漂わせていた。一方玉木正之は期待通り怒ったように司会者と二宮清純を見つめていた。ちなみにテリー伊藤も同席していたが、影が薄かった。玉木正之は、山際淳司の活躍する10年も前から「スポーツを人間ドラマとしてとらえるわが国のスポーツ・ノンフィクションの流れ」に懐疑的であり続ける人物である。そして今新聞の切り抜き(1991年9月2日付朝日新聞)が私の手元にあるのだが、その中で玉木氏は虫明亜呂無の描いたスポーツを紹介し、虫明氏こそほとんど唯一「スポーツそのものの魅力」をそのまま文字に換えていると絶賛している。切り抜きを10年何にも貼らずに持ち続けていた私もどうかと思うが、それほどこの本には逢いたかった。念願かない、ひいきのK造社本店にて発掘。古本ではないのに「発掘」と呼びたくなるのは、発行されてから5年近く誰も触れていなかった1冊に到達したという思いがあるからだ。同じ題名の他の1冊は誰かの手元にあるのだろうし、もはや古本屋の店先に百円均一で並べられているかもしれない。だが、この1冊はたしかに私に出逢うためにあった本なのである。
そうなのだ。ミスターが今年もあのMTBに乗ったなどという間のヌケたキャンプ情報には別れを告げたいものである。プレーが持つ生命の躍動感、芸は肉体であり、個性であり、倫理であるというスポーツ本来の魅力を一体どこで知ればいいのかを、この本は教えてくれる。幼少のころから著者はグラウンドで生のスポーツを見た。たとえば霙にふられながら躯を震わせて見つづけるラグビー、その肉体と運動を見る視覚を通して、感情が生まれる、感性が育まれる。遠景と自分の距離を思い知る。その距離を埋めるべく、想像力が発揮されるのだ。心がはずむ。そのときラグビーは音楽となり、絵画となり、忘れられた写真集となる。スポーツの愉しみ、それは肉体で自分自身を表現すること、スポーツを見る愉しみは、他人が躯で表現した他人自身を読みとる愉しさ。こんなところでパソコンに向かっている場合ではないのだ、スタジアムへと足を運ぶべきなのだ。

2001/02/15-9614
血のささやき、水のつぶやき パトリック・マグラア
上岡信雄 訳
河出書房新社 1989年11月30日初版発行
   毒毒度:3
“粘液を思わせる熱気が夢魔のように都市の裸体にへばりつき、人間の活動が肉体と食物の怠惰な交易にまでおとしめられ、その一方がもう一方を貪り、かつ排泄して、どうにか正気を保っている器官のすべてが夏眠を貪るマンハッタンの夏の盛り。そう、私はたぶん夏の眠りにおちていたのだ”(天使)

毒のある生活は毒をもって制す。音色のある文章とうってかわって、臭いのある文章。しかも腐敗臭が漂う。10年以上も前に出版され、書店では一度しかお目にかかっていない。その一瞬を逸して今に至る。思いがけず初版本が手に入った。流れはポーであり、視線の向こうにはコンゴがあり、背景にあるのは、うっそうとした樹木におおわれるニューオリンズの農園屋敷か、あるいはマンハッタンの逢魔が時か。女性ジャーナリストが異常殺人の死刑囚に会いに行く「アーノルド・クロンベックの話」はまるで『羊たちの沈黙』のワンシーンを見るようだ。死刑囚は監獄での暮らしについて、「とくにつらくはないが、たった1本の植物も身のまわりにないことが不満だ」という。ルピナスの1束でもあれば明るくなるのに…この感覚はまさしくレクター博士のエレガンスではないか。腐りながらも死ぬことのできない天使、行方不明の探険家に自室のベッドで死なれる少女、インドで死病におかされるイギリス人、飲んだくれの画家が描く「屠殺されなかった牛肉」、神への冒涜の末沼地に隠された少年の死体、アメリカ女性を毒殺したかった死刑囚、コンゴで熱病におかされた男の家族が吸血鬼集団に襲われる話、孤独な老人の生死の謎、廃虚のマーミリオン屋敷に隠された事件、夜の住人たちと呪われた手の怪、核戦争のさなかシェルター内に暮らす醜悪な家族の肖像、生まれてはじめて人間の屍体に入り込む蠅の冒険、落ちぶれた地主を襲う午後の狂気…エレガントで無気味な物語を書きたいとは著者の言葉。なにげに店の名が「レ・ファニュ」だったりして狙いどころはわかる気がする。

2001/02/14-9615
絵本を抱えて部屋のすみへ 江國香織 新潮文庫 2000年12月1日発行
2000年12月15日2刷
   毒毒度:-5
“愛しているものや美しいもの、ずっととっておきたいくらい大切なもののいちばんいい保存方法は物語にすることだ”(日常生活はかくあれかし がまくんとかえるくんの絵本によせて)
“だれかを好きになること、失いたくないと思うこと、は、すでにそれだけで痛々しいようなかなしみを伴ってくる”(失えないもの ガブリエル・バンサンの絵本によせて)
“たとえば港に傾いた日ざし。たとえばぱきっと折れた木のなまなましさ。たとえば一つとしておなじ色の頁のない空、天候だけではなく時間によっても全然ちがう表情をみせるそのたくさんの微妙な青や灰色。たとえば嵐の夜の、部屋のなかのスタンドのあかり、それによってできる陰影。たとえばごくちっぽけに描かれた人間と、そのまわりに存在する世界というものの大きさ”(本を閉じることさえせつなくなってしまうではないか 『すばらしいとき』によせて)

絵本の紹介である。いいすぎない。適確なのにふわっと優しい文章。色が見えて音が聞こえる文章。どうしたらこんなふうに書けるのだろう。角を曲がり過ぎた大人にはちょっと滲みるセント・ヴァレンタインのよるである。

2001/02/14-9616
つめたいよるに 江國香織 新潮文庫 1996年6月1日発行
2000年5月10日11刷
   毒毒度:-4
“孤独がおしよせるのは、街灯がまるくあかりをおとす夜のホームに降りた瞬間だったりする。0.1秒だか、0.01秒だか、ともかくホームに片足がついたそのせつな、何かの気配がよぎり、私は、あっ、と思う。あっ、と思った時にはすでに遅く、私は孤独の手のひらにすっぽりと包まれているのだ。孤独の手のひらは大きくてつめたくて薄い”(ねぎを刻む)

2月11日分の『デューク』はこの中の一篇である。その『デューク』を書店で立ち読みしてしまったうしろめたさがあって、この短編集を改めて購入した。明るい乾いた色合いでいながら、幽霊がでてきたりする不思議な世界へ連れられて。

20010/02/13-9617
今夜、すべてのバーで 中島らも 講談社文庫 1994年3月15日第1刷発行
1999年10月29日第15刷発行
   毒毒度:1
“本人は何を書き残すでもなかったが、その立居振舞、ケンカの売り買い、飲んで倒れての寝言まで、在り方自体が詩作品のようにそげた美しさを孕んでいた。これを一言で説明するのはむずかしい。天童寺は、彼の生そのものが、いっさいの感傷やレトリックを剥落させた、硬質の「詩」であるような男なのだった”
“アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。この世からどこか別の所へ運ばれていくためのツール、薬理としてのアルコールを選んだ人間がアル中になる”

幼稚園を2日酔いで早退してからこのかた二日酔とは無縁なのは、酒飲みの血筋なのか、反動なのか。父親は昔アル中だった。戦後、妖し気なバーで「バクダン」と称する酒を飲んでいたらしい。アルコールをしこたま摂取して描く芸術とやらをよく試していたが、しこたま飲んで鑑賞しない限り大傑作には見えないということに気づいて、酒は辞めずに芸術を辞めた。ほとんど食わずに飲んでいた。主治医(実の弟)に「あと5年もてば御の字だ」と言われたときにはさすがに慌てたのだろう、5年間禁酒した。5年経ってからは適当に飲んではいたが、もともとが出不精、定年退職してからというものわざわざ外へ飲みに行くということがなくなり、おかげで酒量は落ちた。泊まりがけで飲みに誘ってくれる同級生も亡くなり、最近は家事におわれて飲んでいる場合ではない様子で、一升瓶もとんと減らないでいる。そういう父親を見るのはちょっと寂しい。子供の時分には父親の酒で多少は苦労したように思うが、酒飲みを憎んではいない。そんなことが言えるのも私が、酒で何かを、誰かを失ったことがないからだろう。

20010/02/12-9618
疑惑の月蝕
グイン・サーガ第77巻
栗本 薫 ハヤカワ文庫JA 2001年2月15日初版発行
   毒毒度:1
“そのように心をゆさぶられて泣きわめいたりしていれば、どうにかなるとでもおっしゃるのですか。これはいくさなのですよ--そして、陛下は、おのれの死をもって、さいごの勝利をかちとられたのです。さあ、どいて下さい、リギア聖騎士伯。私たちはこれから準備をしなくてはならないのです”

アルド・ナリス陛下御生害!…の知らせに動揺する敵味方。ヨナは冷徹に葬儀の準備をおしすすめていく。あの陰謀家ナリスは本当に亡くなったのか。スカールをはじめ、イシュトヴァーン、グイン、マリウス…久々のオールスターキャストでおくるグイン・サーガ最新刊。
昨晩のこと。夕食の材料を買いに出て、うっかりユニクロと本屋へ寄ってしまった。24時間インターネットで本が買える時代ではあるが、本に呼ばれる瞬間の感覚や、棚から美本を手に取るときの官能を思うと、いくら俗な品揃えの本屋とはいえ、立ち寄りたくなろうというもの。夕飯は結局コンビニで調達できるものになってしまったが。さてティーンズものとアダルトものという棚をはさんで平積みの文庫新刊コーナーにあった最後の1冊である。普段なら質量ともにリハビリには最適だが、ナリス自害のまま待たねばならぬとはストレスが残る。3月は恒例「月刊グイン」となるそうで、楽しみ。さらには『グイン・サーガ クロニクル』という豪華ボックスセットが5月発売とのことだ。

2001/02/11-9619
ダンス・ミー・アウトサイド W・ P・キンセラ
上岡信雄 訳
集英社文庫 1997年3月15日第1刷
   毒毒度:2
“おれたちが話してきた話はほんとの意味で真実ではない。だけど何十年ものあいだ、たくさんの子どもたちを喜ばせてきた。だけどおれが発見したことを話したら、おれ以外にいったい誰が喜ぶだろう。それはまるで…そう、歌をうたう鳥を撃つようなもんだ。何の害もない鳥を撃つ人なんていないじゃないか”(コンロに隠れた子ども)

『シューレス・ジョー』の作者キンセラは野球小説で有名だが、これは珍しくインディアンの少年サイラスを主人公とした物語。インディアンの少年少女たちが泣いたり笑ったり、白人と喧嘩したり、傷ついたり、人が死んだり殺されたり。ハチャメチャな部分は痛々しくもあり、哀しみに胸を突かれもする。登場人物の中には少数民族としての静かな怒りも垣間見える。かなりブロークンな英語で書かれているらしい、翻訳者の苦労がしのばれる。

2001/02/11-9620
デューク 江國香織・文 山本容子・絵 講談社 2000年11月1日第1刷
   毒毒度:-5
愛犬デュークが死んだ。「わたし」は泣きながらバイト先へ向かう。電車でも涙が止まらない。みんなじろじろ見ていたけれど、ハンサムな少年が席を譲ってくれた。かれは何も言わず、電車から降りてもわたしのことを見守ってくれて、だからわたしはかれにお茶をおごることにした。「朝ごはんまだなんだ、オムレツも頼んでいい?」バイト先には電話をかけてお休みをもらった。それから思いもよらず真冬のプールに誘われ、銀座で小さな美術館へ寄り、演芸場で落語を聞いた。少年は時折くすくす笑っていたけれど、わたしは笑うことができなかった。そういえばデュークは落語が好きだった。もうすぐクリスマス。新しい年がくる。わたしと少年の一日は終わろうとしていた。わたしが驚いたのは少年がキスをしたからではない、少年のキスがあまりにデュークのキスに似ていたからだ。「ぼくはきみのことをずっと好きだったよ。ずっと愛していたよ。それだけ言いにきたんだ。じゃあね元気で」

2001/02/11-9621
言葉の風景 野呂希一・荒木和生 青菁社 2000年4月25日第1刷
2000年9月30日第3刷
   毒毒度:-2
“千武陵の漢詩『勧酒詩』の一節、「花発多風雨、人生足別離」を井伏鱒二はこう訳しています。
「ハナニアラシノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生ダ」”
“三月はライオンのようにやってきて羊のように去る”(春の章)

春の萌しを感じたい今日この頃。『言葉の風景』の姉妹篇。お姉さんの方にはフルコースを前にしたような堅苦しさを感じたが、さすが次女ともなれば伸びやかに育っているようだ。理科的なデータも最小限となっている。「のんき」「のどか」「ほのぼの」…こういう春のイメージについ惹かれてしまう。もちろん「まどろむ」ことや「うたたね」も大好きだ。

2001/02/10-9622
文字の風景 野呂希一・荒木和生 青菁社 1999年5月12日第1刷
2000年9月30日第4刷
   毒毒度:-1
若人が旅の空にあるという。羨ましいことだ、旅についても、若さについても。創造性にも想像力にもへたりが感じられたときには、自然に包まれてみる、すると表現したいという気持ちが必ずやわいてくるはずだ。電車はしかし私を、旅ではなく仕事場へと運んでいく。せめてもの寄り道が本である。「絵にも描けない美しさ」は写真でなら、とらえられるであろうか? 天、地、水、季節、植物、動物と大きく分けた6つの章で自然の光景を綴り、文字の成り立ちや意味を重ねる。理科的なデータも載っているのだが、少々詰め込みすぎの感。おそらくほとんどが日本国内の風景と思われるが、撮影場所について記述はない。姉妹篇として『言葉の風景』がある。2冊揃えるか、幻冬舎の『自然のことのは』1冊で済ませるか、店頭で迷うことになるかもしれない。

2001/02/09-9623
樹の花にて 装幀家の余白 菊地信義 白水uブックス 2000年7月10日発行
   毒毒度:5
“心が屈していて、何にも彼にも倦きてしまうことがある。そんなときはただぼんやりと酒場のカウンターに座って酒に躰を任せていたい”(キスの味)
“人が書物に出会う瞬時でいい、書名も装幀も、まして著者名も消えて、ただいい本だなというようにある姿を生みたい。真の読書が人を導く先は、一片の知識や一時の感情ではなく深く鎮まった心へなのだから、外なる物の、礼として。”(外の礼)
“読書は、考え、夢みる心を鍛えてはくれるが、心を創ってくれるわけではない。”
“本の装幀とは、作品を書くという溢れを生きる作家と、読むということで溢れ出ようとする読者、二つの溢れる心の受け皿なのだと思っている”(溢れとしての自分)

スリリングである。掌編小説ともいえる無駄のなさ、潔さ。そして単にエッセイと呼ぶには妖しすぎる色気が見え隠れ。どこか久世光彦を思わせる子供の時分の思い出は哀しく、おそろしい。庭で地蜘蛛を蟻地獄に落とす「ホントノバクチ」はホラー以外のなにものでもない。著者の仕事場は歌舞伎座近く。樹の花という喫茶店で午後のひとときを過ごすことがある。銀座で食べて銀座で飲んで銀座で暮らす。余白があることが実に羨ましい。

2001/02/07-9624
風の記憶 五木寛之 角川文庫 2001年1月25日初版発行
   毒毒度:1
“書いていて自分がわくわくするものがあったことは事実である。これだけでも物書きとしては大収穫ではないか。なんといっても、書いてるほうが胸を弾ませるところがなくては、読む側がわくわくしてくれるわけがない”(小説と戯曲のあいだ)
“本というのはなんか、言葉に言霊があるように、本霊というのがあって、むこうから呼びかけてくるようなところがある”(語りながら見えてくること)

然り。ずいぶん前に、一番左の部屋で公開しているTUNE UP PRESSの休刊宣言の際、自分が面白がって作っていないものを世の中に出してもしょうがないというようなことを書いた記憶がある。わくわく感をもって創作するという行為を作家の言葉で聞くと、自分は間違ってはいないのだと安心したりする。疲れている。弱気である。本を読むのは、誰か他人にものを考えてもらうことだ。似たようなことをショーペンハウアーが言っていたかもしれない。

2001/02/06-9625
魔法の時間(とき) W. P. キンセラ
十束知佐 訳
東京学参 2000年12月8日第1版第1刷発行
   毒毒度:-5
“彼は正しかった。目の前の景色を伝えられる言葉はない。突然大きくターンして町に向かった。ハイウェーの脇で花火のように輝いていたのが野球場だった。さらに近づくと、繊細な濃い藍色の夜空に咲く大きなマリーゴールドの花のように見えた”
“何もかも距離に関わることばかりだった。人と人との距離、信じることと愛することの距離、真実と弁実との距離”

泣ける野球小説の名作『シューレス・ジョー』はご存知《フィールド・オブ・ドリームス》の原作である。同じ作者ということで当然癒し系野球ファンタジーの予定で読みはじめた。主人公マイクは経営学の学位を持つ青年。「ドラフトに指名されなかった最もハンサムな二塁手」と書き立てられた。IBMからのオファーもあったが、メジャーリーグへの夢を棄て切れない。エージェントからの電話にYESという。アイオワのコーンベルト・リーグにセミ・プロのクラブがある、そことコンタクトをとれ…。ホームステイで食費はタダ、午前中は仕事に従事、午後は練習で夜は試合だ。グランドマウンドという町全体が熱狂的な野球ファン、紅白戦にですら夢中である。活躍は毎日地元紙に書き立てられ悪い気はしない。マイクの父親は長い間、男やもめだったが、マイクの試合を見に来て未亡人と知り合い3週間後には結婚を決意してしまう。なんだかうまくいきすぎている…マイクが疑念を抱いたとき、彼はすでにグランドマウンドでの生活を愛しはじめていた。
『シューレス・ジョー』よりスケールは小さいのだが、町の人たちの隠し事がミステリーっぽくて、どんどん続きを読んでしまう。それぞれの人にはそれぞれにぴったりの幸福のカタチがあるというオチなのだけれど、これが果してハッピーエンドなのかは、今の私には断言できない。

2001/02/04-9626
文房具56話 串田孫一 ちくま文庫 2001年1月10日第1刷発行
   毒毒度:-3
“もともと、明治の頃にドイツのマーヤ商会から輸入したものだというから、ノーテン・ブックなどといわないまでも、ノートはノートでいいわけだが、私は帳面という言葉が好きで、スケッチ・ブックも画帳と書く習慣がついている。単に気分のことではあるが、それが案外大事である”(帳面)
“用途が広くて便利だというものは、文房具類に限らず、ほんとうの用途が忘れられていることが多い”(セロハンテープ)
“人間が機械に任せると、無駄の減るものもあり、逆に増えるものもある。”(鉛筆削器)

著者はご存じ串田孫一。東大哲学科を出て随筆家、詩人として知られる。絵を描き、ハープを演奏する。封書は丁寧に鋏で封を切る。縦罫の帳面とよく切れる小刀を愛用する。綺麗な包み紙は丁寧に残しておきたい性分で、包装紙にセロハンテープを貼られることが実は嫌である。
私自身はデジタリアンではなく、アナロギストである。ここにある文房具たちははひたすらホっとできるようなアナログの世界の産物である。デジタルの前面へ立たされていると、謄写版、いわゆるガリきりなぞがつい懐かしくなってしまうが、5年後、10年後、この文房具たちの一体いくつを私たちは覚えているだろうか。

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