ウェスカの孫



このページは『ウェスカの結婚式』の読者のための付録です。ウェスカで結婚式を挙げたわが長男とエレーナは、一年間、ブリュッセルで暮らしていたのですが、長男が無事に音楽院を卒業したので、結局、エレーナの実家のあるウェスカを本拠とすることになりました。そして、今年の1月末に、赤ちゃんが誕生しました。わたしにとっては初孫です。以下は2002年3月から4月にかけての、孫の顔を見るためのスペイン旅行の記録です。

03/27
深夜の最終便で出発するつもりが、航空会社のつごうで急遽、昼の便になった。荷物を作るのに明け方近くまでかかった。そのまま寝ずにタクシーで箱崎へ。わたしは夜型の生活をしているので、そのままヨーロッパの昼型に移行すれば、時差ボケはまったくないはずだったのだが、予定が狂った。飛行機の中では、機内で出されるワインと持参のウイスキーを飲み続けていたが、わずかに仮眠しただけ。パリのシャルル・ドゴール空港で乗り換え。スペインには直行便がない。結婚式の時は、ブリュッセルで二泊して調整をしたのだが、息子もブリュッセルを引き払ってしまったし、いつも乗っていたベルギーサベナ航空はつぶれてしまった。で、今回はエールフランス。ついでなので、帰りはパリで下りることにした。
このページは、「ウェスカの結婚式」(河出書房新社)の読者のためのサービス情報である。まだ読んでない人は本を買って読むこと。といってももう書店には出ていないと思うので、取り寄せてもらうか、インターネットの本屋さんでよろしく。
結婚した後も、息子はまだブリュッセルの音楽院に在籍していたので、あと一年間、ブリュッセルにいた。卒業後の進路についてはいろいろ考えたようだが、エレーナが妊娠したこともあって、エレーナの故郷のウェスカに戻ることになった。というよりも、ウェスカに戻ることを先に決意して、子供を作ったのだろうと思う。確信犯である。わたしの妻は、息子をスペインにとられてしまったと怒ったけれども、これも運命というしかない。
バルセロナの空港に着いたのは、夜の十時近く。時差はまだ八時間(冬時間)なので日本時間だと朝の六時だ。三〇分ほど待っていると息子が到着した。息子はサラゴサの音楽アカデミーでピアノを教えている。仕事を終えてから車で出発した。サラゴサからバルセロナまでは、高速道路でも四時間近くかかる。息子の車でウェスカに向かう。ウェスカ行きのバスだと、レイダというところで高速を下りて国道を行くのだが、夜道は危険なので、少し遠回りだが、サラゴサ回りでウェスカへ。これだとすべて高速道路で行ける。高速道路といっても、有料区間はわずか。息子が仕事で利用しているサラゴサ、ウェスカ間も無料だ。
途中のパーキングで缶ビールを一つ飲む。飛行機は混んでいて疲れたが、息子の車に乗ると、少し癒された。深夜の高速道路はすいているので、息子の運転でも怖くない。去年、ブリュッセルの周回道路で恐怖を体験した。都心のホテルまで送ってくれたのだが、左車線に寄ることができず、そのまま郊外に向かう道路に押し出されてしまった。永遠に都心には行けないという気がした。
明け方の四時。ウェスカ到着。息子たちはアパートの四階に住んでいる。貧窮所帯なので、スペインの基準からすると最低レベルの居住スペースだが、それでも東京のアパートのレベルからすれば、「豪邸」といってもいい。何しろ夫婦でグランドピアノを二台も所有しているのだ。
部屋はピアノを置いてもゆとりのある広いリビングと、夫婦の寝室、孫の部屋、もう一台のピアノの部屋に、物置。われわれが逗留するので、孫のベッドは夫婦の部屋に移されている。そこにソファーベッドを拡げてある。このベッドは去年、ブリュッセルを訪れた時にも何泊かしたので、覚悟はできている。わたしたち夫婦は、もうダブルベッドに寝るような年齢ではないのだが、仕方がない。
寝る前に、とにかく息子たちの部屋に入って、孫と対面。寝ている。写真では見ているが、実物を見るのはもちろう初めて。まあ、写真とそっくりの赤ん坊である。長い一日が終わった。ヨーロッパに移動すると、最初の一日が長い。だが、孫を顔を見れば、疲れも消えた。

03/28
昼近くまで寝ていた。息子もイースター休暇に入ったので、仕事はない。エレーナの両親のところに表敬訪問しなくていいのかと話していると、向こうから電話がかかってきて、近くのバールで会うことになった。息子たちのアパートは、結婚式を挙げたサン・ロレンソ教会の裏手にある。両親のマンションの裏の窓から、こちらが見える。昼間で寝ていると、お母さんから電話がかかってきて、いつまで寝てるんだと怒られるのだそうだ。
バールで会って、アペリティフにビールを二杯飲む。エレーナの両親とは結婚式以来だから、一年半ぶり。旧交をあたためる、といっても、スペイン語はまったくわからない。わからないけれども、気持ちは伝わる。向こうは孫を見た感想を聞きたいのだが、可愛い、すごい、という以外の感想はないから、言葉は不要なのだ。
その後、エレーナの上のお姉さんのところに行く。三人いる子供のうちの誰かの誕生日。親族の全員が集まっている。エレーナには兄二人、姉二人がいて、それぞれに子供がいるから大変な人数になる。もちろんホアン夫妻(両親)もいる。ここで会えるならさっき会う必要はなかったのではと思うのは日本人の発想だろう。とにかく人と会うのが好きなのだ。
長女は看護婦で旦那は医者。サラゴサに住んでいるのだが、ウェスカに別宅がある。その後、われわれは息子の運転で、サラゴサに向かった。イースターのお祭りがあるらしい。長女一家がウェスカにいるので駐車場を貸してもらう。サラゴサまでは無料の高速道路で一時間ほど。タイコを叩いて山車を引くパレードであるが、タイコがすごい。耳が痛くなるほどだ。こういううるさいところに生後二ヶ月の赤ん坊をつれていくところもすごい。
深夜、ウェスカに戻る。本日も長い一日だった。

03/29
ここで『ウェスカの結婚式』の読者に、訂正を一つ。作品の中では、ウェスカの街の周囲は砂漠だ、と書いたが、それは八月、九月がすでにこの地方の乾期に入っていたからであった。今回は三月末の訪問で、この地方は冬には雪が降るし、春にはけっこう雨が降る。わたしが滞在していた間にも、けっこうしとしと雨が降った。そして、街の周囲には、雑草が生えていた。といったも、日本の雑草とは違う。あくまでも、砂漠にまばらに緑があるといった感じで、中央アジアのステップとか、アフリカの草原とか、褐色の地肌が少し見える程度に草が少し生えるといった感じだ。ともかく、まったくの砂漠ではなかった。でも、街の周囲が荒れ地であることは確かだ。それは日本では考えられない。日本で荒れ地といえば、埋め立て地で整備が遅れているところとか、地上げで家がなくなったところとか、限られた地域でしかないが、ウェスカの周囲は、ほぼ無限に広がる荒れ地である。
さて、本日は、ウェスカのお祭り。昨日見たサラゴサのお祭りとまったく同じ、タイコと山車のパレードだが、街が小さいので、密集度がすごく迫力があった。カーブで山車が大回りしてきたので、われわれの乳母車がつぶされそうになった。赤ん坊はひたすら寝ていた。
今回わかったこと。エレーナはお祭ずきである。祭を見ると血が騒ぐ、といった感じである。われわれ(わたしと妻)は、とりあえず見知らぬ街の祭であるから、珍しくはあるが、べつに血は騒がない。冷静である。タイコの音があまり近くで鳴るので、うるさいと思うし、赤ん坊の耳に悪影響があるのではと心配する。山車が迫ってくるのも、事故が起こるのではないかと不安である。そういう心配が、エレーナにはまったくない。祭で、コーフンしている。そこに、距離感がある。
赤ん坊は、夜中はよく泣く。笑っている時は可愛いが、泣くとうるさい。まあ、こちらは一週間だけの滞在なので、何とか耐えているが、こんなものと長い年月、いっしょに暮らす気にはなれない。長男が生まれたばかりの頃のことを思い出した。わたしは大学を出て一年目のサラリーマンだった。仕事で疲れて帰ってくると、夜中に赤ん坊が泣く。長男はよく泣く赤ん坊だった。おいおい、こんなことがずっと続くのか、と絶望的な気分になった。長男も、いま同じ気分でいるだろう。歴史は繰り返す。自分が味わったことを、息子が味わっている。これで親の苦労がわかるだろう。

03/30
エレーナは実家でレッスンがあるとのこと。二人ともピアノの先生である。長男はサラゴサのアカデミーで教え、エレーナは実家で生徒をとっている。共稼ぎである。それでもとても貧乏だが、まあ、楽しくやっているようだ。息子とわたしたちだけになったので、ようやく日本語が使える。エレーナがいると、日本語だけで話すのがためらわれるので、妻はカタコトのスペイン語、わたしはカタコトのフランス語で話す。息子はエレーナは、ほぼフランス語で話しているようだが、息子はかなりスペイン語もしゃべれるようになっている。
乳母車を押して公園に行く。結婚式の時、ウェスカに着いて最初に行った、ホテルの近くの大きな公園である。あの時は、西も東もわからなかった。とりあえず公園に入り、休憩所のテラスで昼御飯を食べた。その時は、再びウェスカに刳ることがあるとは、考えていなかった。息子たちはブリュッセルに居を構えたばかりだった。それがいまはウェスカの住人になっている。そして、懐かしい公園の中のテラスで、再びビールを飲むはめになった。今回は息子がいるので、安心である。スペイン人は基本的にスペイン語しか解しないから、レストランやバールに入ると緊張するのだが、息子がいれば何の心配もない。
午後、ホアンさん夫妻と、ウェスカの郊外のレストランで食事。北の方向に車で二十分くらい行ったところ。山の中に、すてきなホテルがあった。目の前に湖がある。貯水池だろう。乾ききった砂漠の中のオアシスといった湖だ。食事は、第一と第二の皿を、用意されたいくつかの選択肢から選ぶもので、息子が説明してくれるので問題はない。これがわれわれだけだったら、難解なパズルを解くような感じになるのだが。わたしはアラゴンふうのサラダと羊を注文した。アラゴンふうのサラダというのは、要するに生ハムがメインになっている。サラダの量が多かったのでやや苦労した。他の人が注文した料理はそれほどの量はなかったので、これは運みたいなものだ。ヨーロッパに行って苦労するのは、料理の量が多いということだ。それは恐怖に近い。とくにホアンさんの招待だから、料理を残すのは失礼だ。食べきれるか、という恐怖にかられながら、試練に挑むことになる。生ハムは、やや硬い、という点を除いては、わたしは好きだ。味わい深く、ワインが進む。ただ硬くてかみきれないので、一枚あれば十分だという気がする。羊も、驚くほどの量ではなかったので、何とか食べきれた。
深夜、イースターのミサに参列。これが今回の旅のメイン・イベントである。このミサの中で、わが孫が洗礼を受けるのだ。といっても、これは日本のお宮参りのようなもので、形式的なものである。本気でカトリック教徒になるわけではない。結婚式をやったサン・ロレンソ教会で、ミサ。歌詞カードが配布されたので、いっしょに歌うことができた。スペイン語は発音は簡単だ。意味は、フランス語に似ているので、何となくわかる。しゃべれと言われると困るのだが。
ミサのあと、神父がわたしのところに来て、「おめでとう」と日本語で言ったので、驚いた。結婚式の時、息子はスペイン語と日本語をまじえて式を進行するという構成を自分で考えて、神父と共同で式次第を作ったので、神父も印象に残っていたのだろう。この神父にとって、日本人が参列する結婚式というのも初めてだし、もちろん洗礼式も初めてに違いない。で、「おめでとう」という言葉を練習してきたみたいだ。わたしは、「ありがとう、ムーチョ、グラシャス」と答えた。もっといろいろ感謝の言葉を言いたかったのだが。
いつも思うことだが、スペインの子供たちは夜更かしが平気だ。この深夜のミサにも、もちろん親族が全員参加している。わが孫のイトコは8人いる。夜中の3時くらいまで平気で起きている。というわけで、わが孫は頭に水をぶっかけられて、洗礼を受けた。といっても、洗礼名はつかないらしい。そもそもスペイン人には、洗礼名をミドルネームに用いない。個人名・父の姓・母の姓というセットを生涯用いることになる。女性が結婚しても、姓が変わることはない。エレーナも、ミタさんになったわけではない。ともあれ、名字が2個あるので、洗礼名は不要なのだ。

03/31
本日は、洗礼式のあとの祝いの宴会。街はずれのテニスクラブのレストランで、親族一同が集まる。ホアン夫妻に、エレーナの兄二人、姉二人、それぞれの配偶者と子供たち。それにわたしたち、というメンバーである。スペインでは、昼御飯がディナーであるから、フルコースの食事が出る。これはミサに参列してくれた親族への御礼という意味合いがあるので、支払いは息子がやる。が、息子は貧乏なので、妻が払ったようだ。ちなみに、フルコースにワインがついて、一人前、八百円ほどである。日本のレストランでスペイン料理のフルコースを食べることを考えれば、嘘みたいだ。が、ヨーロッパではどこでもこんなものだ。日本のレストランが異様なのだ。
食事のあとは、テラスで延々とおしゃべり。ここはテニスクラブなので、広々としている。わが孫のイトコに、エレーナという名前の可愛い女の子がいる。われわれは「ちっちゃいエレーナ」と呼んでいる。この子は本当に、天使のように可愛い。目がものすごく大きいのだ。そのエレーナは一人でバスケットボールをしていたので、しばらくいっしょに遊んでやった。バスケットのゴールにボールを入れたのは、大学の体育実技以来だから、三十年ぶりではないか。ワインをかなり飲んでいたので、えらく疲れた。

04/01
洗礼式と翌日の会食が終わったので、公式行事は通過した。本日はフリーのはずだが、息子たちがサラゴサに買い物に行くというので、車で出かける。息子が運転する車に乗るのは、とても疲れる。サラゴサには、エレーナの上のお姉さんが住んでいる。路上駐車をするのだが、お姉さんが道でとうせんぼをしてスペースを確保しておいてくれた。スペインの兄弟愛は深い。お姉さんの家でしばらく談笑してから(言葉がわからないので適当に話を合わせただけ)、街へ出た。お祭の時に一度、訪れただけだが、あの時は夜だった。今回は昼なので店も開いている。デパートや商店街で買い物。
サラゴサは大きな街だ。スペイン全体で、五番目くらいの街で、アラゴン州の州都だ。アラゴンは昔は独立した国だった。アラゴンとカステージャが合併して、スペイン王国ができたのだ。日本で五番目の街というとどこだろう。東京、大阪、名古屋、横浜、その次、というと、福岡か、仙台か、広島か、札幌か、神戸か。いやいや京都を忘れていた。まあ、京都みたいなところだ。アラゴンが独立国だった時は首都だったわけだから、旧い由緒のある建物や寺院がいっぱいある。街の規模も大きい。でも、こじんまりしている。上野から浅草まで、くらいの面的な広がりだ。
道路のわきのテラスでビールを飲んでいると、息子の教え子と親が通りかかった。何やらスペイン語で話している。孫を抱いたりしている。こうやって息子はスペイン社会にとけこんでいるのだな、と思いながら、茫然と眺めていた。

04/02
どうやらわたしたちには、自由というものはないようだ。本日も息子の指令に従って、息子が数ヶ月後に引っ越すという住宅地を見に行く。ウェスカから車で十分くらいのところ。アパートではピアノが弾けないということで、一戸建ての家に引っ越すらしい。ウェスカには、一戸建ての家といったものはない。ヨーロッパの都市はどこでもそうだ。エレーナが日本に来て、どうして日本の住宅はつながってないのかと不思議がっていた。ヨーロッパの街は、一つのブロックが完全にくっついている。が、郊外に行けば、一戸建ての住宅もある。その新興住宅地を見に行った。砂漠の真ん中に、忽然として街がある、そんな感じの場所だった。電車もバスもない。何もないところだ。今度、ウェスカを訪問すると、われわれもこんなところに泊めてもらうことになるのか。われわれは今度はホテルに泊まろう、と妻と話した。
帰りにスーパーに寄る。結婚式の時は、ウェスカの街しか歩かなかった。街の中には、古い商店と、せいぜいコンビニみたいな店があるだけだが、郊外に行くと、すごいスーパーがある。息子夫婦と妻が買い物をしている間、わたしはスーパーに併設されている商店街を歩いた。バールがあったのでビールを飲もうかとも思ったのだが、少し飲みすぎであるので反省して、お菓子屋でアイスキャンデーを買った。百三十円くらいした。チョコレートバーだ。あとでスーパーに入ったら、そのキャンデーより安いワインが売られていた。フルボトルだが、まったくの無印。ウェスカの周囲は、荒れ地の中に、オリーブか、アーモンドか、ブドウが植えられている。だから葡萄酒の産地である。安いのも当然だ。さすがにこの百円ちょっとのワインはやめて、「レゼルブ」というラベルのついた九百円のワインを買った。日本にもって帰ってきたのだが、まだ飲んでいない。
ウェスカ最後の夜である。わたしは妻と二人で、のんびりする時間がほしかったのだが、そういう自由はついに与えられなかった。夜は、ホアンさんのところで、ホアン夫人の手料理という予定が入っていた。その前に少し休みたかったのだが、そうはいかない。エレーナの兄弟たちがわたしたちに別れを告げたいといっているとのことで、近所のバールでビールを飲む。延々とスペイン語だけの会話が続く。ホアンさんの長男は四十代の半ばだから、わたしたちと同世代といってもいい。末っ子のエレーナだけ年が離れているのだ。何の因果か、こういう人々と知り合いになった。不思議だが、現実である。全員が、エレーナとわが息子を愛してくれているのがわかるし、わたしたちにも親愛の情をもっている。そのことが嬉しくもあるが、スペイン語の洪水の中にいると、だんだん疲れてくる。
疲れ果てたところで、ホアンさんのところへ。ホアン夫妻、わが息子夫婦、わたしたち、という六人だけの食事。ホアン夫人の手料理だから、おいしいと言わねばならないが、あんまり、おいしい、おいしいと言うと、お代わりはどうかということになるので、そのあたりが難しい。日本人の胃袋は小さい。世界の人々とつきあうには、哀しいくらいに胃袋が小さく、酒に弱い。わたしは日本人としては酒はけっこう飲める方であるが、ヨーロッパの人々には負けてしまう。
これで一週間の滞在が終わる。別れ際に、ホアンさんが、われわれはファミリアだ、と言って、抱き合った。とても奇妙なことだが、ホアン夫妻と、わたしと、わたしの妻。この四人の遺伝子がシャッフルされて、わが孫が存在しているのだ。息子夫婦は遺伝子の通過点にすぎない。確かに、ホアン夫妻とわれわれは、まさに家族というしかない縁で結ばれているのだ。

04/03
本日は、ウェスカを去る日である。それ以外には、何の予定もない。早朝に起きる。息子は今日からアカデミーの仕事が始まる。ふだんは午後からの仕事だが、子供たちはまだ学校が休みなので、午前中にレッスンを受けたいという要望があるらしく、早朝に家を出る。で、息子の車で、ウェスカの駅まで送ってもらった。
結婚式の時は、この駅は工事中だった。バスセンターは街の中心にあったのだが、駅が完成したので駅のいっかくに移された。鉄道の方は、サラゴサ行きが一日に数本あるだけで、バスの方が中心である。席を予約してあったので、バスの最前列に座る。バルセロナまで四時間。たいへんな旅だ。おまけにバルセロナに着いた時は豪雨。タクシーに乗り換えて空港へ。そして一日が終わった。
スペインには、日本からの直行便がない。どこかで必ず乗り継がないといけない。結婚式の時は息子がブリュッセルにいたので、乗り慣れたベルギーサベナにしたが、今回はエールフランスである。で、パリにも数日、滞在した。空港まで、知人が迎えに来てくれた。パリは素晴らしい街だが、やたらと人が多く、車が多い。何だか疲れてしまって、ウェスカの街が懐かしかった。

以上で、今回のウェスカ滞在記はおしまいである。東京に帰ると、仕事が待っている。「ヤマトタケル」の一章を書いたところで旅に出た。帰りの飛行機でそのプリントを読み返して、自分の頭を仕事モードにきりかえた。仕事はスケジュールは緊迫しているので、時差ボケなどしているひまはない。いまこの最後の文章を書いている時は、帰国してから一カ月くらいが経過している。旅に出ていた時間が、遙か昔のことのように感じられる。生後二カ月だった孫は、三カ月になっているはずだ。まだ立って歩くわけではない。相変わらず夜中によく泣いていることだろう。
わが孫は、まだ言葉をしゃべるわけではないので、個性といったものはわからないが、顔立ちを見ると、わたしに似ているようだ、と自分では思っている。目がつぶらなのはエレーナに似たのだろうが、顔の輪郭は明らかにわたしに似ている。赤ん坊はみんな丸顔だから当然なのだが。生後二カ月だが、首がすわっていた。連日、入れ替わり立ち替わり、オジサン、オバサン、イトコたちがやってくるので、首もすぐにすわるはずだ。人の顔をしっかり見るし、何やら言葉みたいな声を発して、何かを訴えようとしている。よく笑う。スペインで育てば、スペイン人になるだろう。お祭りタイコを聞けば血が騒ぐようになるだろう。まあ、それでいい。たまに会って、カタコトのスペイン語で、会話を交わしたいと思う。地球の反対側に、自分の血をわけた孫がいて、自分をファミリアだと言ってくれる人々がいるというのは、何だかすごいことだと思う。

旅行から帰って一ヶ月ほどすると、長男から連絡があった。バレンシアの国際コンクールで3位になったのだという。赤ん坊の世話で忙しく、ピアノを練習するヒマなどなさそうだったし、わたしたちが滞在した1週間は、ピアノの音など、まったくしなかった。が、子供が生まれたことで、それなりにがんばろうという気になったのかもしれない。長男はすでに、バルセロナで2位、ウェスカで1位と、スペインの国際コンクールで入賞した実績があるので、これで3回目の入賞である。スペインで生きていくためには、こういう実績は何かの役に立つだろう。まあ、赤ん坊の誕生と同時に、もう一つ、喜ばしい出来事に接して、わたしもハッピーである。

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