愛 | 知 | 県 | 渥 | 美 | 町 | の | 縄 | 文 | 貝 | 塚 |
渥美町は黒潮躍る太平洋と波静かな三河湾に囲まれ、温暖な気候に恵まれた豊かな自然の中で、原始より深い歴史を刻み続けた。 先人たちはこの美しい土地に親しみ住み着いて、自然との戦いの中で知恵を出し合い幾度かの苦難を乗り越えてきたと思われる。 考古学上知名度の高い伊川津及び保美の両縄文貝塚からは、抜歯や叉状研歯の人骨・石鏃を射られた人骨・磨製石斧で一撃された頭蓋骨などの出土、再葬の風習や有髯土偶などをはじめ珍しい骨角器等々から、地域固有の生活様式・他集団との抗争を思わせる集落状況など当時の渥美縄文社会の様子が垣間見える。
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伊川津貝塚遺跡は太平洋に西向きに突出した渥美半島のほぼ中央にあって、三河湾の穏やかな海に面して北向きに開けた、縄文後期から晩期にかけての貝塚と墓地を伴う集落遺跡。 本遺跡は東西約480m・南北約240mに及ぶ礫堆の上、標高約2.5mの沖積台地に形成されており、大正11年以降再三にわたる発掘調査の結果、183体の人骨が発見されたことで一躍注目された。 |
本貝塚そのものは伊川津神明社の境内を中心に、東西約180m・南北約60mの半円形を呈する約1.1haにわたって所在すると云う。 境内の広場や隅々に自然礫堆の砂利が広がり、写真の通り現在でも表面に貝殻片が散乱している。 貝殻の分布は伊川津集落全体の1/3に及び、今日でも県の史跡指定された森の中に貝層の上面が露出していると云う。 |
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貝塚は6層より成り、最下層は広い範囲にわたって焼けて破砕された貝の層があり、黒色腐蝕土から成る縄文後・晩期の地表面であったと見られている。 貝類はアサリを中心にウチムラサキ・カキ・アカニシなどが多く見られる。 当地は今日でも大粒アサリの漁場として広く知られている |
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有文土器の占める割合は僅か3%余りに過ぎず、器形は深鉢形土器が大部分を占める。 写真の吉胡式深鉢土器は平行沈線・横線を持つ、縄文晩期初頭のモノで、それ以降は近畿地方からの土器の影響が顕著になって行ったと云う。 |
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石器類では石鏃の出土量が6割を超えるほど圧倒的に多く、次いで石斧・石錘と続く。 石棒・石剣は当地では大変珍しい発見と云う。 石器の石材はほとんどが他地方産の安山岩で、物資の交易を媒介して、他集落と交流していたものと見られる。 |
骨角器は鹿角製以外に、オオカミ・キツネ・イノシシなどの犬歯・臼歯製のモノもあり、種類も多様に及ぶ。 日常用途ばかりでなく、儀式用・戦闘用などと見られる用具もあり、当時の生活・精神文化の多様性が偲ばれる。 日常用具として特に棒状刺突具・釣針は石錘と合わせ、各々漁法に見合った漁労活動に大活躍したと見られ、マダイ・スズキなどの大形魚やサバ・イワシ・アジ・キス・イワシ・ハゼなどの小形魚を含め、伊川津縄文人の主たるタンパク源は魚類に安定して依存していたと見られる。 又貝輪はベンケイガイ製やオオツタノハ製腕輪の中には人骨着装状態で出土した例も存在したと云う。 |
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人骨はこれまでの発掘で183体を数え、出土数は全国第三位と云われる。 埋葬方法は屈葬・伸展葬のほか合葬・再葬など多様にわたり、洗骨も普及していたと見られている。 宗教的・呪術的意味合いがあったのかも知れない。 |
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再葬の頻度が高かったのは、骨肉一体の死者の復活を恐れて、再葬による解体措置をとったのかも知れない。
抜歯はほとんどの成人に認められ、特に下顎の左右犬歯を抜歯する例が多く、 これまでの発掘調査では未だに住居址群が突き止められていない状況下にあり、伊川津集落の解明は緒についたばかりであり、今後住宅建築・改築などの機会を通じ真相解明に向け、更に前進あらんことを祈念している。 |
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保美貝塚は福江湾内部の沖積平地に面した崖上に、南から北へ緩傾斜を呈して広がっている洪積台地上に立地する。
大正11年以降5回以上にわたる発掘調査の結果、縄文前期から晩期・弥生・古墳時代まで続く複合遺跡であることが判明した。
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かつては起伏に富んだ地形であったが、現在は畑地・宅地などに整地され、旧状を知ることが出来ない。 住居跡は一部調査区から出土した柱穴と見られる土壙から、そこには10棟以上の住居址が存在していたと考えられるが、炉跡らしい痕跡が見られないため確証が持てないと云う。 |
三層の貝層からはアサリ・ハマグリ・マガキを中心に、写真の通りアカニシ・イタボガキ・タンペイキサゴ・ウチムラサキガイ・ワスレガイなどが見つかっている。 貝層を取り除いた最下底には、住居址の一部と見られる柱穴ピット・溝などが認められたと云う。 貝塚の西端には幼児を埋納したと見られる甕棺や墓穴が見つかっていることから墓地的性格を持ち、又イヌが人骨の側に埋葬されていたことと合わせ、保美集落全体の構図の中で、墓域の位置付けは明らかであると云える。 |