愛 知 小 坂 井 町 の 平 井 稲 荷 山 貝 塚
小坂井町では縄文早期から生活の痕跡が見つかっており、縄文貝塚と人骨、弥生の環濠集落、そして古墳など数々の歴史の足跡が残されている。 中でも平井稲荷山貝塚、菟足神社貝塚、樫王貝塚など縄文晩期の貝塚が豊川右岸段丘地に所在し、数多くの人骨が確認されたことで注目された。ここでは平井稲荷山貝塚を取上げる。 本貝塚は明治33年に個人により発見され、大正11年には京都帝国大学、その後も明治大学により発掘調査が断続的に行なわれ、これまでに90体以上の人骨が検出されたと云う。 全国でも屈指の縄文人骨出土遺跡として知られているが、人骨をはじめ出土遺物のほとんどは大学側で保存され、残念ながら一般公開されていない。
|
稲荷社入口脇に貝塚を示す石碑が見える。 長径25mほどの稲荷山頂上部は平均20cmほどの貝層で覆われている。 現在本貝塚から三河湾岸までは2km弱の内陸に位置するが、縄文晩期当時は貝塚直下まで海岸線が進入し、叉豊川の河口が控えていたと見られる。 |
![]() ![]() |
他にも貝輪や鹿角製腰飾を身につけた被葬者人骨が発見され、彼等からは抜歯や叉状研歯の風習が見られたと云う。![]() |
出土した土器のほとんどは、縄文晩期の標識として認知された“稲荷山式”の粗製土器。 縄文から弥生土器への変化過程を予知している資料として注目されている。 叉土錘は現在でも使われている形状に酷似しているが、従来の石錘からの脱皮・飛躍を象徴していると云える。
|