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北代遺跡は縄文中期後葉(約4,000年前)を中心に営まれた大集落跡で、旧石器時代に始まり縄文早期・中期・後期・晩期・弥生中期・奈良・平安時代へと長い間断続を繰返した複合遺跡。
本遺跡は呉羽山丘陵北側に広がる標高17mほどの台地上に位置し、遺跡の南北には谷があり今でも湧水が見られる。 昭和59年に国の史跡に指定された当遺跡からは、“串田新式”土器をはじめヒスイ大珠・石棒・岩版・土偶・三角とう形土製品・タカラ貝形土製品・ミニチュア土製品などの様々な祭祀用特殊遺物や石錘・石鏃・石匙などの石器類等々が検出されている。 |
平成11年に「北代縄文館」と共に完成した遺跡公園及び今尚継続している発掘調査現場。 この発掘調査現場には2棟の竪穴住居址が見える。
今までの発掘調査により、東西約280m・南北約200mの範囲に縄文中期の竪穴住居70棟以上・高床建物4棟以上が確認されていると云う。 集落の中心には倉庫と見られる高床建物があり、それを取り囲むように竪穴住居が配置されていたと見られる。 竪穴住居のプランは復元されているように円形が多く、直径10〜20cmの柱5〜7本で支えられ、穴の深さは地面から50cmほどで、黄色の粘土を堅く叩きしめた床面を持ち、中央には丸い穴を掘った複数の炉や石囲い炉などが配置されている。 |
”串田新式”土器の特徴として、アカガイ・サルボウなどの貝殻の縁を押し付けたギザギザ文様が見られる。 有孔鍔付土器は口縁の下に小さな孔を巡らしたモノで、その利用方法としては土器口に皮を張った”太鼓説”と、果実を発酵させた”酒造り説”がある。 この有孔鍔付土器は双方胴体面に大きな渦巻き装飾され、又他面の双方には把手のような注口が取り付けられていることから酒造り説が該当するように思われる。 |
石鏃・石錘・石匙などの薄い小型石器は、チャート・鉄石英・黒曜石などの石材で作られている。 本遺跡からは原石や未製品が数多く見つかっていることから石器工房があったと見られる。
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三角淘土製品は二等辺三角形を呈し、底面は無文で他の四面には細い沈線や刺突文様が描かれている。 長さ・高さとも約5.0cm前後で、壁際にテラス状の施設を持つ特殊な住居跡から見つかっており、両側に孔が空いたモノもあり、紐を通して吊るしたか、或いは置物として祭ったか、特殊な用途があったと考えられる。
本遺跡からは呪術性の強い祭祀用と考えられる遺物が数多く検出され、北代縄文人の精神文化の高さが窺える。 タカラ貝形土製品は、写真で対比しているようにタカラ貝を模して作られ、別名“子安貝”と呼ばれることからも、当時から安産のお守りとして使われていたと考えられる。 |
縄文中期には首飾り用アクセサリーが大流行したと見られ、蛇紋岩・滑石などの小石に孔を空けた玉に紐を通し連ねたもので、大小様々な小石が使われた。 又ヒスイを加工して作られたペンダントは、呪力を持つ装身具として装着したと見られる。 本遺跡からは原石・加工途中の未製品などが多数見つかっていることから、玉造工房があったと考えられる。
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