西

大西貝塚は豊川左岸の牟呂台地先端が三河湾に達する、標高2mほどの旧海浜部に立地する。
縄文貝塚は市内で13ヶ所が確認されているが、特に晩期には本牟呂地域に大小の貝塚が集中する中で、本貝塚は飛び抜けて規模が大きい上に住居跡が発見されていないことと合わせ、貝殻ばかりの貝塚で且つ貝のほとんどがハマグリで占めるという東海地方最大の干し貝加工工房と考えられる。

更に豊川河口部左岸の当地周辺には他にも水神貝塚など貝殻ばかりの貝塚が6ヶ所も発見されており、干し貝を作る作業場に適していたと見られる。

昭和62年以降に4回の発掘調査が行なわれた結果、石組炉址・敷石遺構のほか、土器・石器・骨角器・貝輪などが出土したが、石器の出土点数が極端に少ない点及び日常品も少ない点は注目に値する。

以下大西貝塚の生々しい現在の貝塚現場をを紹介する。

宅地側から牟呂用水路を挟んでこちら側の墓地周辺には、写真で見るようにハマグリを中心に当時の貝殻がリアルに散乱している。

 本貝塚の広がりは縄文晩期のモノで、長さ約185m・幅約40mもあり、貝の堆積は厚いところで約2.5mにも達していたと云う。

貝層断面 貝類

 層はハマグリが90%以上も占める純貝層で、貝殻の上に“地床炉”と呼ばれる火を焚いた跡が109ヶ所も見つかり、この地床炉に火をかけて茹で、開いた貝の身を天日に干していたと考えられる。

 貝のほとんどは砕けており、捨てた貝の上で作業をして為と見られ、ハマグリ一種類を選んだのは、他の地域への交易品としての需要が高かったと考えられる。
前述の川原石の敷石遺構は、貝剥きが行なわれた作業場と見られる

貝輪・耳栓・玉 垂飾・腰飾

 地一帯は居住地ではなく、貝の採集・干し貝加工の作業場であっただけに、純貝層の形成以外に日常生活の痕跡が見当たらない。

 しかし写真の通り、貝輪・耳栓・玉・垂飾・腰飾などのアクセサリーが干し貝加工工房跡で見つかったということは、大西縄文人はオシャレに敏感で、作業中にも装身具を着けてオシャレを競い合っていたと考えられる。

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