吉胡(よしご)貝塚

は、蔵王山山麓が東に延び、渥美湾岸の低地に接する緩傾斜地付近に位置し、大正11・12年及び昭和26年の発掘調査の結果、多数の人骨・多量の遺物が出土し一躍著名になった。

 その後昭和55年にも発掘調査が行なわれたが、これまでの調査では貝塚の広がりや明確な生活跡は確認できていない。
これまでの調査面積は約4,100uに及び、三河湾に注ぐ汐川河口近くに広がる縄文後・晩期の遺跡であることが判明し、骨角製装身具・漁労具と共に約340体の人骨が検出され、昭和26年に国史跡に指定された。

 人骨の埋葬方法には屈葬・伸展葬・甕棺葬などが見られ、抜歯の風習が一般的であったことが分かったと云う。
又家犬の骨が多数出土したことも注目を集めた。

吉胡貝塚現場 同そのU 同そのV

 掘調査再開が待たれる貝塚現場風景。
渥美半島の貝塚遺跡は古くから注目され、多くの考古学者が訪れていると云う。

 又発掘調査以前から地元では道路の改修・畑の開墾などに際し、人骨が出土する不思議な場所として認識されていたと云う。

次に6段の層序から成る貝層断面及びそれぞれの層における貝種の違いなどにより、時代の推移・変化が読み取れる事例を紹介する。

層断面から最初に捨てられた貝の上に砂が被り、又貝を捨てその上に砂が被り、何度も堆積が繰り返されていたことが分かる。
写真の通りここには6段の層序が見られ、貝の種類の違いや土器も下の層には文様の丁寧なモノが見られるが、上の層になると無文のモノばかりというように時代の推移・変化が読み取れると云う。

 又一番下の黄色な小礫の層が続いているが、この層から人骨が埋葬された墓穴が多く見つかったと云う。

 貝類はアサリ・ハマグリ・マガキを中心に、オオノガイ・イタボガキ・オキシジミ・サルボウ・スガイ・ダンベイキサゴ・ツメタガイ・アカニシ・イボニシなどが見られる。
泥底・砂底の干潟に生息する貝類が豊富で、干潟が広がっていたことが想像出来る。
今日では見ることができないハマグリをはじめ吉胡人の豊かな食生活が垣間見える。

 又三河湾奥の豊橋市水神貝塚ではほとんどハマグリばかりで本貝塚の貝構成と大きく異なり、貝塚の立地により優勢貝種が違っていたことが分かる。

以下文字列にポインタをおくと、食糧確保用具と貝塚に残された多量の食べ滓との関係が分かってきますよ!

 アジ・サバ・カレイ・ヒラメなど網漁猟に使われた石錘やサメ・エイなど釣針漁に頼ったもの

 シカ・イノシシなど陸獣類狩猟に使われた石鏃

 狩猟用具として、更に工夫が凝らされた”根挟み”を使った石鏃

 クロダイ・フグなど大量に出土した魚類の漁猟に活躍したと見られる刺突具

の季節は春から夏場が中心であり、秋は木の実採集、冬場は狩猟というように季節間の食糧不足分を保存することにより補っていたと見られる。

 出土遺物にはこれら以外に腰飾・垂飾・耳飾・髪飾など骨角装身具が異彩を放っている。

史跡の整備計画が、史跡指定から半世紀を経て具体化に向け動き出した。

 貝塚を残した吉胡縄文人の居住域・墓域など集落の全体像を明らかにする目的で、史跡指定地に隣接する土地約10,000u余りが取得されており、発掘調査を経て、最終的には約20,000u余りを史跡公園として当時の集落を復元する計画であると云う。

 地域の特性を生かした史跡整備計画の速やかな実行・実現に期待したい。

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