〜埼玉県富士見市水子貝塚の事例〜

 士見市は、西半分が武蔵野台地に、東半分が荒川低地上に広がっており、この低地に縄文時代には海が迫っていたとのこと。水子貝塚は、縄文当時の「進海」による地形変遷の証と云える。

 水子貝塚には、小貝塚が約60ヶ所、竪穴住居址が100軒近く残っていた。
当時貝塚から北へ約100m行くと崖となり、その真下は海、又南へ100mぐらい行くと、こんこんと水が涌き出る泉があったとのこと。

 生活環境としては絶好な場所を見逃すことなく、森を切り拓いて直径約200mの生活空間を自ら造り出した、水子縄文人の英知が窺える。

(富士見市水子貝塚公園の全景)

 子貝塚は、縄文時代早期から平安時代迄各時代にわたる複合遺跡。
今から約5,500年前縄文時代前期中葉に栄え、東関東に展開する貝塚群のネットワークと、西関東の山々の遺跡群ネットワークを繋ぐ位置にあり、海の幸と山の資源が交易される中継交易地として繁栄したものと見られる。


以下当遺跡のユニークな特徴をハイライトする。

 成3〜5年にかけての発掘調査では竪穴住居跡3軒を発見、その中には女性人骨が「屈葬」と呼ばれる手足を折り曲げた姿で貝塚の中に埋葬されていたとのこと。

(水子貝塚から出土した、20〜40才代の女性人骨)

 貝塚のお陰で、酸性土壌が5,500年もの歳月に堪えて保存を助けたといわれる。

 の女性人骨を分析した結果、前歯が極端に摩滅しおり、恐らく道具として酷使した為と見られ、又関節にもいつもしゃがんでいた痕跡が残されていたとのこと。

 このような当時の生活様式・習慣が明らかになったのも、貝塚という酸性土壌に守られ、ほぼ完璧な人骨のまま保存されていたからに他ならない。

(ほぼ完璧な形で出土した、成人女性の頭蓋骨)

 子貝塚から出土した土器は「黒浜式」と呼ばれ、文様には網目や篠竹を割った道具が多用された土器で、土器素材の粘土には植物繊維がたっぷり混ぜられていたと言う。

(煮炊きの痕跡が顕わな黒浜式土器類)

 指定の史跡公園面積が約40,000uに及ぶ水子貝塚は、過去6回の発掘調査を重ねたとは云え、総面積の1%にしか過ぎず、集落の全貌を明らかにするには余りにも微小な発掘調査実績でしかない。

 残念ながら現行規制によると、国指定史跡のラベルを貼られると、そのままの状態で保存する義務があり、更なる発掘調査は現状では不可能とのこと。

 未知の世界が余りにも大きく残されたままの実態を見据えた時、現行規制が見直されても良いのではないかと考える。

 国指定文化財としての価値を明らかにした上で保存することが、本来の文化財保護精神の基本であり、この基本に立ち返って考え直す時期にあると考える。

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