「古代くんっ、ここ、行きましょうよ!」ソファに座って、昨日借りてきた映画のDVDを観ている僕に、ベッドルームにいるユキから声が
掛かった。この映画は、ガミラスから遊星爆弾が落とされるずっとずっと昔の20世紀末に全世界で公開され、
大好評だったという作品で、以前観ていたユキのオススメもあり、昨日、防衛軍からの帰りにショップに寄って借りてきた物だった。「ん〜……?」
後半の1番盛り上がっているシーンで声を掛けられた僕に、ユキの声は聞こえても、何を言っているのかまでは頭に入っているわけがない。
僕の反応の薄さが不満だったのか、今度は僕の隣に腰掛けて、持っていた雑誌を僕の膝の上に乗せてきた。
「古代くんっ、これ見てっ!いいと思わない?!」
おいおい、俺は今、DVDを観てるんだぜぇ…。
しかも君が“おもしろいから絶対観て!”って言ったんだろう……?。
一体何がいいって言うんだ?
気に入った服でも見つけたのか?
…そういえば、ここから1時間ぐらいのところに、新しいショッピングモールがオープンしたとか言ってたな。
もしかして、そこに連れて行けなんて言うんじゃ……。
ここ3ヶ月、航海と航海の合間の休暇は、3日間しか取れないというかなり多忙な日々が続いていた
僕に、藤堂長官が10日間という何年振りかの長い休暇を許可してくれた。
一足先に僕の休暇の話を聞き付けたユキも、早速1週間の休暇を取っていた。
ただ、彼女の場合、長官の第1秘書という仕事柄、本当ならあまりに長い休暇は難しい。
なので、藤堂長官の孫娘で、同じく長官秘書に就いている晶子さんに、自分の仕事を押し付けたらしい。
なんて事を言うと、
「押し付けたんじゃないわっ!晶子さんから申し出てくれたのよ。『古代さんがこんなに長い休暇を
お取りになるんだったら、ユキさんも取ったらいかがです?後の事は私が頑張りますから』って……」はいはい、わかってますよ。
「古代くんてばっ!聞いてるのっ?!」
真横で大きな声を出されたんじゃ、いくら僕でも映画に集中できない。
DVDのリモコンを手に取り、『一時停止』のボタンを押した。
鑑賞の邪魔をされ、文句の一つでも言ってやろうと思って、ユキの顔を見た僕だったが、彼女の
嬉しそうな顔を見ると、喉まで出かかった言葉が、つい胸の奥に引っ込んでしまう。この笑顔に弱いんだよなぁ……。
でも、憎まれ口の一つぐらいは……。
「俺は今、映画を見てるんだよ。頼むから邪魔しないでくれよなぁ」
この程度の文句なら、ケンカにはならないだろう。
ところがユキの奴ときたら、
「映画なんていつでも観られるじゃない。どうせ1週間レンタルなんでしょ?帰ってきたらいくらでも
観られるわよ。」と、きたもんだ。
そりゃ、1週間レンタルだよ。
僕の休みは10日もあるんだ。
ああ、帰ってきたら観られるだろうよ。
……って、帰ってきたら…?
「…帰ってきたらって、どこから?」
「やっぱり何にも聞いてなかったのね?!」
ユキは少しムッとした顔で、僕の膝の上に乗せていた雑誌を、僕の顔に押し付けた。
うっぷ………。
「………京都?」
僕の目に“京都・貴船で川床料理を満喫!”という文字が飛び込んできた。
ユキが僕の顔に押し付けたその雑誌は、京都のガイドブックで、以前、島がこの部屋に来た時、
忘れて行った物だった。
「そうよっ、京都よ。ねえ、行きましょうよ」
「京都って……何でまたそんな暑いところに行くんだよ。海に行く方がよっぽど気持ちいいじゃないか」
僕は雑誌をユキに返し、両手を広げて伸びをした。
「あら?古代くん、知らないの?この貴船っていうところはね、京都の街中より5℃近く涼しいのよ。
それに、夜になるとホタルも見られるんですって」ホタル?
「宇宙ホタルじゃないだろうな……」
「ふふっ、そんなわけないでしょ。本物のホタルよ」
「そりゃ、そうか…。」
僕は、さっき返した雑誌をもう一度受け取り、貴船という街が載っているページを開いた。
京都市左京区鞍馬貴船町。
街中から北へ、人里離れたところにある静かな山間の集落。
街というより村みたいだな。
…で、川床料理っていうのは…と……。
なになに、鮎の塩焼きに鯉の洗い?
川魚がメインの会席料理か……。
だけど、どの店も13000円や20000円からって………結構高いんだなぁ…。
「ねえ、このお店、他の店よりも少し安いのよ。手作りの佃煮やお味噌なんかも売ってるんですって」
乗り気になってきている僕を見て、ユキが嬉しそうに一つのお店の写真を指さした。
ミニ会席が4500円。
「これはちょっと安すぎるだろ。せっかくなんだから、奮発しようよ。20000円でもいいじゃないか」
「だめだめ!10000円までって決めてるの!休暇は長いのよ。一度に贅沢しちゃったら、他の日に
買い物も行けなくなっちゃう。このお店、予算に合わせるって書いてあるんだから、ここで10000円のお料理を戴きましょうよ。もちろん1泊するのよ」
ユキはそう言うと、スッと立ち上がり、早速電話をかけ始めた。
何だよ、自分の服の時は、高くても平気で買うくせに……。
それにユキって、こうと決めたらすぐ動くよなぁ。
ユキらしいというか、何というか………。
「……じゃあ明日、お世話になります」
明日かぁ…。明日なら平日だし、道も空いているだろうな。
……って、明日?!
おいおい、早速かよ……。
「予約、取れたわ。明日よ。食事は2時からだからね。それと京都駅のホテルにも予約したから」
「…明日の夜、島たちと約束してたんだけどなぁ……」
「飲み会?残念だけど、お断りしないとね。大丈夫、島くんたちならわかってくれるわよ。」
いつものユキなら、“ごめんなさい…、お断りできる?” なんて申し訳なさそうな顔をするんだが、
今日のユキは少しばかり強引気味だ。
まあ、いいか。
二人で旅行なんて、久し振りの事だからな。
普段から寂しい想いをさせてるんだし、今回の休暇はサービスに徹するとしますか。
『京都?えらく急な話だなぁ』
「急も急だよ。さっき決まったんだからな」
『まあ、しっかりお姫様孝行して来い。こっちは気にするな』
飲み会に出られなくなった事を伝えるために電話をした僕に、島は半分呆れ気味だったが、それでも、一応の理解は示してくれた。
「悪いな。土産、買ってくるよ」
『ああ、当然だ。俺が忘れた雑誌のおかげで、旅行ができるんだからな』
ははは、おかげかどうか……。
「島くん、いいって言ってくれた?」あんな事を言っていたけど、やはり気になるのだろう。
ユキは、電話を切った僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ああ、お姫様孝行して来いってさ」
「よかったぁ!」
ユキの顔がパッと明るくなる。
「これで旅行の事だけ考えられるわねっ。準備しなくっちゃ!!」
ユキはそう言うと、さっさとベッドルームへ消えて行った。
さてと……準備はユキに任せておいて、こっちは映画の続きでも観ようかな。
何たって、1番おもしろいところでSTOPかけられたんだからなぁ。
「古代くーんっ、スーツケース持ってきてぇ!!」
おいおい、たった1泊なのに、スーツケースで行くのかよぉ。
荷物持ちはこっちなんだぜぇ……。
何だか今日は、驚かされてばっかりだ……。
「古代くーん!」
はいはい………。
午後1時過ぎ。
もう9月だというのに、ここは真夏かと思うほど暑かった。
太陽が、僕たちの来訪を歓迎してくれているかのように、眩しく照っている。
―――そう、僕たちは今、京都にいる。
東京発10時半の新幹線に乗り、2時間半の列車の旅というものを楽しんだ。
最初、僕は飛行機で来ようとユキに言った。
東京から大阪までは約1時間。
それから電車を乗り継げばいいだろうと思っていたのだ。
しかしユキの、
「休暇の時ぐらい、空から離れてもいいんじゃない?それに富士山が見えるかもしれないから、
新幹線にしましょうよ」という言葉に、納得してしまった。
そうだな、休暇が終わればまた空へ行くんだ。
地に足を着けていられる間は、無理に空を選ぶ事もないか…。
ユキのご希望通り、富士山も綺麗に見えた。
新幹線の車内で聞いた話だが、度々乗っている人でも、富士山があんなに綺麗に見える事は
そうそうないらしい。「幸先がいいわね」
ユキが嬉しそうにそう言った。
京都駅を出た僕たちは、駅の近くでレンタカーを借りた。
ユキはもちろん、僕も京都を訪れるのは今回が初めてだ。
持って来たあの雑誌に載っている地図を見ながら、ユキがナビゲーターとなり、目的地へ向けて走り始める。
京都の主要道路は碁盤の目になっていて、運転する人間にしてみれば随分走りやすい。
この調子なら、迷う事もないだろう。
僕たちは、堀川通を真っ直ぐ北へ向かっていた。
「古代くん、あれって京都タワーじゃない?」
「そうだね、明日の帰りに寄ってみようか。」
「古代くん、ここって西本願寺だわっ」
「そうだね、確か、世界文化遺産に登録されているはずだよ。」
「古代くん、ここは二条城よっ」
「そうだね、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城なんだよ。」
「古代くんて物知りなのね。じゃあ金閣寺や銀閣寺はどこなの?それと…そうそう、清水寺も!」
そこまでは知らないよ…。
夕べ君が寝た後、こっそり起きて、貴船までの通り道にある名所を簡単にチェックしただけなんだから…。
なんて事、口が裂けても言いたくはないけどね……。
それにしても、今日のユキは随分張り切ってるな。
まあ、僕も人の事は言えないか。
眠い目を擦りながら、貴船の歴史や貴船神社の事をインターネットで調べていたんだから……。
それに、ここでいろいろと詳しい説明をしてしまうと、この後、貴船の説明をするスペースがなくなってしまうよ。
…おっと、これは作者の都合だな…。
いつの間にか街中からはすっかり離れ、青々した緑が目立つ山間部へと近付きつつあった。
片側4車線だった道路も、今は1車線になっている。
道路標識にも、「鞍馬」・「貴船」といった表示が出始めた。
「もう近いわねっ」
ユキは、雑誌片手にワクワクしているようだ。
僕も同じく……かな?
そのうち、26℃に設定してあるエアコンから吹き出される風が、だんだん生暖かくなってきた。
「これって、外の方が涼しいって事よね?」
僕はエアコンを切り、運転席と助手席の窓を開けた。
心地よい風が、車内に入り込んでくる。
「気持ちいい〜!ねっ、古代くん!」
ユキは楽しそうに笑顔で僕を見た。
僕も笑顔で頷く。
ユキのこんなイキイキした顔を見るのは、久し振りだ。
来てよかったな……。
目の前に赤い橋が見えてきた。
そこから道が二手に分かれている。
「古代くん、ここを左に行くみたいよ」
「OK」
ユキのナビ通り、左に軽くハンドルを切る。
すると小さな駅が見えてきた。
ここが『貴船口駅』らしい。
電車で来た場合、ここで降りてバスに乗るってあの雑誌に書いてあったっけ。
電車だと森の中を走るんだろう。
それはそれで良かったかもしれないなぁ。
車のエンジン音に混じって、川の流れる音が聞こえてくる。
視線を右にやると、綺麗な川が見えてきた。
「これが貴船川かぁ」
「この川の上でお食事ができるのねっ」
この川の音だけでも、随分気持ちが癒される。
「ところで、店はどの辺りにあるんだ?1軒見えてきたけど…」
「確か、そんな上流じゃなかったはずよ…」
ユキが雑誌をペラペラめくり始めた。
どうやら風景に気を取られて、店の位置を確認していなかったらしい。
「…河鹿茶屋よっ。下流から3軒目だわ」
「3軒目っていうと…次じゃないのか。もう2軒通り過ぎたんだから……」
すると、緩い左カーブを過ぎたところで、1軒のお店が見えてきた。
この時代には珍しい、黒光りしている屋根の瓦。
木で彫られている『河鹿茶屋』という看板が目に入る。
「ここよっ!」
午後1時45分、僕たちは無事、目的地に到着した。
「いらっしゃいませぇ!」
店内に入った僕たちを、お店の人たちは暖かく出迎えてくれた。
「2時にご予約の古代様ですね?お待ちしていました」
「少し早いんだけど、いいですか?」
「お席はご用意できていますので、どうぞ」
真っ白なTシャツにジーンズ姿というラフな服装の上に、若草色のエプロンをつけた若い女性が
僕たちを川へ案内してくれた。店の前の道路を横切り、川へ続く階段を降りると、そこはまるで別世界のようだった。
木の板で床が作られていて、その上に茣蓙が敷かれ、赤い毛氈が掛けられていた。
20近くのテーブルが並べられ、頭上にはビール会社の提灯がかけてあった。
夜にはこれに灯りが燈されるのだろう
屋根は、ワイヤーが組まれていて、その上に大きなすだれが乗せられている。
その隙間から太陽の木漏れ日が差し込んできて、とても綺麗だ。
「わぁ!すごいっ!」
ユキは年甲斐もなく、キャッキャとはしゃいでいる。
そんなユキを、店の女性も微笑ましく見ていた。
お客は今のところ僕たちだけのようだ。
僕たちは、川上の1番奥のテーブルに案内された。
「お飲み物はどうされますか?生ビール、ビンビール、冷酒もご用意していますが…」
女性は、オシボリを手渡しながら聞いてきた。
「そうだなぁ、じゃあ、取り敢えずビンビールでももらおうか。ユキは飲むんだろ?」
「もちろん。だけどあなたはダメよ。食事の後、また運転してもらわなきゃならないんだから」
「はいはい、わかってますよ。じゃあ、ビンビールを1本。グラスは1つで構いませんから」
「わかりました」
女性は笑顔でそう言って、店へと戻って行った。
女性の姿が見えなくなったのを確認したユキは、早速バッグから小さなタオルを取り出し、
床の端の方へと移動した。「?」
僕が不思議そうな顔をしているのを横目に、ユキは川の中へ足をそっと入れている。
おいおい、そのためにわざわざタオルまで用意してきたのかよ……。
「きゃっ、冷たい!!」
「おいおい、落ちるなよ」
「大丈夫、浅いんだから。それに見て、こんなに透き通ってるの。底まで綺麗に見えるわ!」
僕も川を覗き込んだ。
「本当だ…。全然濁ってないな」
こんなに綺麗な川が、まだ日本にも残っていたんだな…。
僕は何だかホッとした。
そのうち、さっきの女性がビールと料理を持って、僕たちのテーブルに近付いてきた。
ユキは慌てて足を拭き始めた。
「いいんですよ。そのままで」
女性は笑いながらそう言ってくれる。
ユキもちょっと恥ずかしそうに笑った。
「ここは、ガミラスからの遊星爆弾の影響はなかったのですか?」
僕は女性に聞いてみた。
女性は少し驚いた顔を見せたが、すぐに
「ええ、いくつか落ちたんですけど、ここは大丈夫だったんです。でも……」
「……でも?」
「…ガミラスの冥王星基地が潰されてなかったら…どうなっていたかわかりませんけどねぇ…」
「……そうですか…」
やはりあの時、あの基地を破壊しておいて正解だったな…。
きっとユキも同じ事を感じているだろう…。
「あのぉ…」
「はい?」
「…古代様って、宇宙戦艦ヤマトに乗艦されてた方ですよね…?」
女性の言葉に、思わず僕たちは顔を見合わせた。
やっぱり気づかれてしまったか……。
「ごめんなさいっ。言わない方がいいって思ってたんですけど……お客様のお名前、ちょっと珍しいですし、お顔もテレビで拝見してたので、きっとそうなんだろうなって……」
女性は申し訳なさそうにそう言った。
「ハハハ、気にしないでください。そう言われるのは慣れてますから」
「そうですよ。却って気を使わせてしまったんですね。ごめんなさい」
ユキもそう言って、彼女に軽く頭を下げた。
「いえっ、とんでもないですっ。こちらこそ失礼しました…。それとこの後、3組のご予約が入って
いるんですけど、できるだけお席を離しますので、ご安心してお食事して頂けると思います」「それはありがとう。いろいろご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
僕の言葉に、彼女はホッとした顔で、持って来た料理をテーブルに並べ始めた。
「こちらはごま豆腐です。」
そう言って、小鉢を僕たちの前に置いた。
「こちらは山菜の盛り合わせです」
小さな器に3種類の山菜が盛られている。
「この山菜は何ですか?」
「いたどりと筍とこごみです。いたどりやこごみは、ここの主人が山へ採りに行ってるんですよ」
「へえ…」
「じゃあ、本当に自然の物なんですね」
ユキは山菜を眺めながら、感心している。
女性がテーブルを離れた後、僕たちは早速料理に箸をつけた。
「自然の中で自然の物を戴くのって、ホント幸せね」
ユキは、嬉しそうに山菜やごま豆腐を口に運んでいる。
時間が経つのと同時に、僕たちのテーブルにはどんどん料理が運ばれてくる。
鮎の塩焼きに鯉の洗い、アマゴと野菜の天ぷらにハモの落とし、そして冷やし素麺。
鮎の塩焼きは、笹の葉が敷かれた皿に、まるで泳いでいるかのような姿で僕たちの前に現れた。
一品一品の量は決して多いとは言えないが、それでもかなりの満腹感が得られた。
ユキのお酒の量も、料理と一緒に増えていっている。
途中で冷酒に切り換えたユキだが、一向に酔いが回っている気配がない。
「あんまり飲み過ぎるなよ。これからまだ貴船神社に行くんだからな」
「大丈夫よ。何だか全然酔わないのよ。この川の雰囲気のせいかしらねぇ」
「涼しいからなぁ。ああ、俺も飲みたかったなぁ……。何でホテルを別に取ったんだ?ここで泊まればよかったのに…」
「だって駅のホテルなら、明日の朝、ゆっくり寝られるって思ったから……。」
「……しょうがないな。じゃあ今晩思いっきり飲ませてもらうとするかぁ」
…それにしてもユキの奴、ホント酔ってないよなぁ。
まあ確かにこの雰囲気と涼しさじゃ、酔うのがもったいないって感じだけど……。
そうしているうちに、ご飯と香のものが出て、最後にはフルーツが出された。
ユキの方はさすがにご飯は食べ切れないようで、僕のところへ移し、フルーツのメロンを食べ始めた。
僕のほうは、ご飯と一緒に熱いお茶を持って来てくれたので、それをかけてお茶漬けにしてみた。
「こんなの東京じゃ暑くて食べれないけど、ここじゃ汗一つかかないなぁ」
僕は思わず感心してしまった。
そんな僕に気づいているのかいないのか、ユキはメロンを食べ終えると、また床の隅で川へ足を下ろしている。
ハハハ…、今日のユキはまるで子供だな……。
食事を始めて2時間。
満腹感も随分ラクになってきた僕たちは、川から上がり、店のほうで精算をお願いした。
「ありがとうございます。川床はいかがでしたか?」
この店のおかみさんらしい女性が、僕たちに声をかけてきた。
「ご馳走様でした。大満足ですよ」
「ホント、ありがとうございました!」
僕たちの満足気な顔に、おかみさんも嬉しそうに笑ってくれた。
「ここは空気やお水もおいしいですね。最初に出されたお茶、普段私たちが飲んでいるお茶と全然
違いましたわ」ユキがおかみさんにそう言った。
「お水は水道水じゃなくて、地下水なんですよ。空気もよろしいでしょう?貴船の人たちはこのおかげで元気で長生きなんです」
ユキは目をキラキラさせながら、おかみさんの話を聞き入っていた。
「平日はお客さんも少ないんですか?」
僕は周囲を見渡してそう聞いた。
「ええ、時々予約の団体さんがお越しになるくらいですね」
「やっぱり8月は忙しいのかしら?」
「そうなんですよ。お盆の時期がピークですね。20席近くご用意していても、すぐ満席になるんですよ。
お店の前の道路が狭いので渋滞しますしね」
おかみさんは少し苦笑いをしながらそう言った。
「商売繁盛じゃないですかぁ」
「ええ、おかげさまで…。だけどうちなんて仲居もいない、家族でやっている小さな店ですからねぇ」
「家族でされてるんですか?」
僕は少し驚いた。
確かに僕たちに食事を運んでくれた人たちは、仲居さんという感じではなかったけど、こういう商売を家族だけでやっていけるものなのだろうか…?
「ええ、主人と私、私の妹に、息子たちとそのお嫁さんでやってるんです。
さすがに忙しい時は専属の板場さんに来てもらいますし、アルバイトも数人雇いますけど、他の季節は家族だけで何とかやってるんですよ」
この店に入った時、なんとなくアットホームな雰囲気を感じたのは、そのせいか……。
そうそう、僕は店の人に聞いておきたい事があったんだ。
「この貴船ではホタルが見られるって聞いたんですけど、本当なんですか?」
僕の問いかけに、おかみさんは少し残念そうな顔をした。
「5年ほど前までは見られたんですけどねぇ…。最近は少しずつ川の水が汚れてるせいか、殆ど
見なくなったんですよ…」「えっ、あれで川が汚れてるんですか?」
僕もユキもかなり驚いた。
「ええ、昔はもっと綺麗だったんですよ」
今でもあんなに透き通って綺麗な川なのに……。
じゃあ、昔はもっと綺麗だったって事か。想像つかないな。
「ところで、貴船神社ってこの近くなんですか?」
精算を済ませた僕は、おかみさんに神社の場所を訊ねた。
「今から神社に行かれるんですか?」
「ええ、ここまで来たら行っておかないと…」
「ここから歩いて5分ほどのところですから、うちに車を置いて行ってくださってかまいませんよ。
今日は平日でお客さんも少ないですから」
確かに、僕たちが川にいた2時間の間、他のお客は予約だという3組しかいなかった。
僕たちはおかみさんの厚意に甘え、車を置いたまま貴船神社に向かって歩き始めた。
貴船神社とは、和泉式部や宇治の橋姫、源義経も祈願に訪れたという名高い古社で、神武天皇の母、玉依姫が浪花の津から船でこの地へ辿り着き、水の神を祀ったのだと、あの雑誌に書かれていた。
現在は、全国に2000社を数える水神の総本社らしい。
しかも、縁結びの神様として信仰があるそうだし、絵馬発祥の地でもあるらしい。
ちなみに僕たちが食事をしたあの店の人たちは、この貴船神社の末裔だとか………。
歩き始めてすぐ、神社の大きな鳥居が僕たちの目に飛び込んできた。
その向こうには石の階段が見え、並べられている朱の灯篭がとても美しい。
階段を昇り始めると、ユキがそっと僕の腕に自分の腕を絡ませた。
こんなに密着していても全く汗をかかない。
こういうところで老後を暮らすのも、悪くないな。
そんな事を思いながら、ゆっくり階段を昇っていた。
階段を昇りきったところに、樹齢400年だという桂の大木が目に入った。
見上げれば、大地から緑の御神気が、龍の如く立ち昇っているかのようだ。
境内には有名な作庭家が古代の祭場、天津磐境(あまついわさか)をイメージして作られた石庭があるらしい。
緑や紫の貴船石が使われ、庭全体が船の形になっていて、中央の椿がマストで神が降臨される
ひもろぎでもあるそうだ。ユキは、そんな僕の説明を感心しながら聞いていたが、急に
「ねえ、馬よっ!」
「へっ?」
ユキが指差した方向を見ると、そこには躍動感溢れる白、黒の2頭の神馬像が飾られていた。
確かこれは………。
そうだっ、思い出した!
「これは、駆けている姿から『願かけ馬』って言って、親しまれているそうだよ」
ちょっと説明が足りないかも……。
「じゃあ、お願い事していきましょうよっ!」
ユキはそう言うと、僕の腕を引っ張り『願かけ馬』の前まで走り出した。
二人で『願かけ馬』の前に立ち、手を合わせて目を瞑る。
急にお願い事って言われてもなぁ……
僕はこっそり目を開けて、横目でユキを見た。
ユキは真剣な顔で、何やらお願いしているようだ。
一体何を願かけしているのやら……。
…さて、こっちは何をお願いしようか……。
これからも宇宙が平和でありますように……。
いや、これじゃあ堅過ぎるなぁ。
確かに宇宙が平和だと、僕たちも幸せでいられるんだけど、今はちょっと……だな。
…やっぱり、あれかなぁ……。
……あれだろうなぁ……。
境内に入った僕たちは、早速「水占みくじ」というおみくじを買った。
これを境内の霊泉に浮かべると、水の霊力によって文字が浮かぶとか……。
水につけるまでは文字は見えず、乾くと再び文字が消える。
僕は中吉、ユキは大吉だった。
まるで今日のユキの心境を表したような結果だな。
大喜びのユキは、おみくじを持って帰ると言う。
そんなユキのはしゃぎ声が、境内の中で目立っていたのだろう。
数少ない観光客の数人が、僕たちを見てヒソヒソと言い始めた。
「…気づかれたのかしら……?」
「わからないけど、そろそろ退散した方が良さそうだな」
参拝もそこそこに、僕たちは神社を後にした。
あまりに早く店に戻った僕たちを見て、おかみさんたちは少し驚いた顔をしていたが、なんとなく
わけを察してくれたらしく、僕たちを店内のテーブルに通してくれた。急いでホテルに入る必要もないし、もうしばらくここでゆっくりさせてもらう事にしようか。
ユキは早速店に並べてある土産物を物色し始める。
その横で、おかみさんがいろいろ説明してくれているようだ。
そうだ、島たちの土産を買わないと……。
確か、ここって手作りの味噌や佃煮があるって言ってたな。
アイツ、こういうの好きだったっけ?
土産物に近付いた僕に、
「古代くん、このお味噌、すごくおいしいのよ。味見してみて!」
ユキは『蕗のとうみそ』と書かれている味噌を差し出した。
「この蕗のとうも、ご主人が山で採ってきたんですって」
「へえ……」
僕も早速味見してみた。
…うん、なかなかいけるじゃないかっ。
「でしょう?これ、島くんたちのお土産にしましょうよ。」
「このお味噌は、お味噌汁用じゃなくて、温かいご飯にのせて食べたり、お茄子をちょっと厚めの輪切りに切って、じっくり焼いた後にのせて食べるとおいしいですよ」
おかみさんが説明してくれる。
「俺たちの分も買って帰るか」
他にも、『山椒みそ』や『くるみみそ』なんていうのもあったが、僕の1番は『蕗のとうみそ』だった。
これなら島たちも喜んでくれるだろう。
その後もユキはいろいろ見ていたようだが、味噌と佃煮を数種類手に持ち、おかみさんに渡している。
ショッピングモールでの買い物…とまではいかないが、ユキはそこそこ満足しているようだ。
そのうち時間はもう午後6時になろうとしている。
僕たちは、おかみさんやご主人、従業員の方にお礼を言って、後ろ髪を惹かれる想いで貴船を後にした。
「今日はホントに楽しかったわぁ」
行きの時とは全く違う、落ち着いた様子でユキは言った。
「そうだな。でもちょっと残念だったな。もう少しゆっくり神社を周ってみたかったんだけど…」
「…ごめんなさい。私がはしゃぎすぎちゃったから……」
ユキが申し訳なさそうに運転中の僕の顔を覗き込んだ。
「まあいいさ。ここならまた来ようと思えばいつでも来られるんだから」
「……そうね…。ありがとう、古代くん」
ユキは笑顔でそう言い、アームレストに乗せている僕の手を握り締めた。
そうさ、また来よう。
その時は……家族として………ね。
僕は心の中でそう声をかけ、ユキの手を握り返した。
END
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